そもそも仏教は無神論だよね? [無断転載禁止]©2ch.net
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ここの板では当たり前のことだと思うけど、それを主張する専用のスレないぽいので。
反ヒンドゥー、反カーストがその起源であり輪廻は縁起や因果、業であると説く。
脱洗脳も一つの目的。
心理学と自己啓発、コミュニケーション術を他の宗教者に対し方便を混じえて説いてきた。
自然崇拝に近いものはある。 >>72-73
それらは釈迦本人の記述ではないし
文脈から総合的に判断すれば、無神論として展開しているのが読み取れる
弟子達は土着宗教文化に執着のある状態で
方便によって学びを進めたから
「この様に言われた」という記述には神について描かれることになる
つまり、
書いてある=神を崇めている
とはならないよ 思想的にも神を崇めちゃうと成り立たないし矛盾が生まれちゃうよね だからバラモンの神を崇める為にヒンドゥー教が生まれた >>74
本人の記述なんてそもそもないだろ
だったら基本的な教義すら存在しないことになる 涅槃解脱とかじゃなくニルヴァーナ、ヴィモクティで教える仏教元本が必要だな
中身インドラとかばっかになるで >>77-78
元は口伝だったからしょうがないよね
ゴータマというブッダの教えという仏教を
弟子達が話した記憶で残して伝えた結果、神の記述が残ったってだけ
だから残されたモノは神を信じるべきってのは偏ったものの見方となり
仏教のそもそもの教えを曲げて解釈し続けることになる >>79
>仏教のそもそもの教えを曲げて解釈し続けることになる
その「仏教のそもそもの教え」とやらは、どこからお知りになったのですか??
まさか「弟子達が話した記憶で残して伝えた」仏典からじゃないだろうけどな。 >>74
逆だろう。
帝釈天も梵天もシヴァも四天王と言われた毘沙門天以下も、神々はみんな仏陀を崇めているのが仏典。
バラモン教の神々よりも仏陀の方が格上。
バラモン教の神の最高神の一人帝釈天は欲界の上部の神だし、もう一人の梵天は色界の最下部の神である。 パーリ中部経典 梵天招待経
第一章
あるとき、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、ウッカッタの町の、
スバガ林にある、サーラ樹に止まられていた。
そのとき、梵天のバカに、邪なる見解が生じた。
“この世界は、常住であり、無常ではない。
生じず、老いず、死なず、滅せず、変らない。
不壊にして不滅であり、唯一にして絶対である”
この様子を、神通により見とめた、仏陀は、
あたかも、力の強い者が、腕を曲げるように、
梵天界に現れて、大梵天に対して、こう言った。
「この世界は、無常であり、常住ではない。
大梵天よ、邪なる見解を、抱いてはならない。
バカよ、悪しき無明の闇に、陥ってはならない。」
そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。
「比丘よ、大梵天に、逆らってはならない。
大梵天に従うなら、善趣に生まれ変るだろう。
創造主に逆らうなら、悪趣に生まれ変るだろう。」
すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。
「私が見抜けないとでも、思っているのか。
悪魔よ、私は、汝のことを、良く知っている。
第六天よ、汝は、私のことを、何も見とめない。」 第四章
すると、梵天は、仏陀に向かって、こう言った。
「それでは、汝が、見とめられないように、
いまから、汝の目の前から、消えてみせよう。
もし、見とめられるなら、見とめてみるがいい。」
そう言って、梵天は、姿を消そうとしたが、
仏陀に対して、消して見せようとしたために、
幾ら足掻いても、姿を消すことが出来なかった。
すると、仏陀は、梵天に向かって、こう言った。
「見せまいとして、見せているではないか。
こうして、欲に縛られると、欲に治められる。
いまや、完全に、私は、汝を越えた境地に居る。」
そのとき、仏陀は、梵天の目の前から消え、
梵天は、仏陀を見とめることが出来なかった。
これを見て、梵天は、歓喜の声を上げて叫んだ。
「実に、妙なることです、稀なることです。
このような比丘は、今までに居ませんでした。
見とめられない、無明の闇を見せてくれました。」
そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。
「比丘よ、大梵天を、従がえてはならない。
彼を従えようとすれば、欲界に落ちるだろう。
彼を捨てようとするなら、欲界を離れるだろう。」
すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。
「私が見抜けないとでも、思っているのか。
人を導こうとする欲は、欲を越える欲となり、
人を捨てようとする欲は、欲を捨てる欲となる。」
「パーピマンよ、わたしは、正覚者である。
正しく見る者であり、正しく認める(認識する)者である。
汝を、見とめない訳ではない、良く認めている。」 大梵天(だいぼんてん、Skt:Mahaa-Brahman-d.)は、色界十八天の中の第3天である。
初禅三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)の中では最高位となる。
梵天(バラモン・ヒンドゥー教のブラフマー神)の住所である。
『雑阿毘曇心論』『彰所知論』は、この天での天部の身長が1.5由旬、寿命が1.5劫とする。
また『仏説立世阿毘曇論』は、寿命を60小劫とする。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A2%B5%E5%A4%A9 >>82
反論になってないし、逆を付いてる様にも感じない
論点がズレてる様に感じるよ 梵我一致の始祖ヤージュニャヴァルキヤでさえバラモンの神を信仰していた >>82
バラモン以外のミトラス神も弥勒としてブッダの下においた
つまりバラモンの信仰の一部を認めたということ >>87-88
それらは土着宗教文化が根付いた土地で、人々が事実に近づくために、
例え話として受け入れられやすい形で用いた方便だというのがこちらの立場
いくら「こんなことが書いてあった」と言われようと
その形で関わった弟子達が書いたんだからそうなるでしょうよ
としか言ってあげることができない >>89
例え話なら例え話、方便なら方便として書くべきであり、そう書いてない以上はその弟子達は不妄語戒を犯していることになる。 >>89
つまり輪廻とか涅槃とかバラモン由来のものも全部ないと? >>90
戒律なんかも、昔の、頭が凝り固まった人達が物事を
柔らかく捉えられる様に便宜上設置されたもの
それを大層に破ったら罪だという様に大切にしてるだけ >>91
ゴータマさんは無いと考えてるんだと理解してる
輪廻転生は無いけど、縁起として関わりが流れていくことが
魂だと捉えるなら、それを輪廻と呼んでも良いかなとは思う >>81
>論理的に積み上げて解釈すれば済むこと
何を論理的に積み上げるのですか??
まさか「弟子達が話した記憶で残して伝えた」仏典からじゃないだろうけどな。 他宗教の同じルーツの神を認めるかって一番むずかしい問題だな
帝釈天や弥勒と同じルーツの神のインドの偶像もってきて拝みなさいってむずかしい
それ自体を崇拝する習慣は現在ないだろうけど 仏典は中村元のアホな翻訳しかないのが全ての元凶
正確に物事を伝えようとする人間がいない
現代に仏教徒はいないのだ 明治になって西洋の学問に接するまで、日本の仏教徒は根本仏教という言葉も原始仏教という言葉も知らなかった。
仏教が合理的宗教か非合理的宗教かという問題のたて方がなされたこともなかった。
しかもすぐれた仏教者は自主的に仏教者として行動していたのである。
最澄、空海、法然、明恵、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍はパーリ語を知らなかった。
しかも彼等はパーリ語文献に通じた現代の学者よりも、はるかに立派な仏教徒だったのである。 >>94
そうですよ
仏教では方便を使うという事実と、弟子達の記述は事実として矛盾しない 21世紀仏典結集誰かやらんかな
聖書の旧約新約の薄い紙のでかい一冊みたいなので
主要仏典網羅した最先端の翻訳全集 >>95
反論の糸口も見当たらない
というレスだね 仏教の諸法無我は自分という個は空の様なものだと理解し
諸行無常の縁と一体と考え全体に布施貢献することによって
生を意味あるものにし、死の苦しみを納得しようという理屈で
輪廻転生というバラモンの土着的洗脳から解脱しようという考え方
それが何百年経っても受け入れられない民衆の為に、釈迦の論理自体も空だとし、
厳密に考えなくて良いから呪文を唱えて徳を積もうという考え方で大乗の新興宗教が流行し
それによって輪廻転生を仏教の教義に入り込ませる余地を与えた 創価学会の神様は池田大作
創価学会の聖典は人間革命 仏典の翻訳読んでみたら無神論なんて思えないはずだが
日本で何個も梵天の偶像作られてたろ >>106
日本に来たのは神秘性を強調しバラモン教の影響も受けた大乗仏教が
さらに中国の土着宗教を取り入れながら大陸を渡って来たものだからそうなるのは当たり前 定義そのものに間違いがあるようですね。
論理以前の問題です。 ブッダは梵天の奨めでダンマを説き始めた
つまりダンマの影に梵天ありだよ つまりブッダは無神論ではありません111
支持 ♡ 113.
神の定義によってして無神論ではない、か。 >>111
バラモンの神を信じる人々に教えを広める方便を思いついたに過ぎないよ
教義は完全に無神論 人間が考えた都合のいい神、嫉妬の神、裁きの神
神じゃなくて違うものだろう 元人間ならありえるだろ?w
神の性質を考えた場合に、神はエネルギーに近いものだということがわかる
よって法則を理解するに関心が移る
縁起の法とは神のエネルギーの法則である >神の性質を考えた場合に、神はエネルギーに近いものだということがわかる
仏は神(力)を行使する立場ですね 119.
神はエネルギーか。
それでは物理学になってしまう。
宗教問題とならないよ。 神を霊的に捉える事は間違いです。なぜなら霊は神のごく一部分に過ぎないから。
神をエネルギーのようなものと捉えるのも間違いです。なぜならそれらも神のほんのごく一部分に過ぎないから。
と、教えられています。♡ お釈迦さまについての具体的な事象に関する一般的な定説は凡てあやまりです。
一切なんの根拠もありません。
スレ主の理論は、残念ながらその誤った定説を前提にしています。
彼の議論は、定義そのものを正しくすることから始まるのですわ。♡ 自分の見解と、偉大なる教えにズレがある場合には、先ず、どうしてそうなるのか自ら検証と探求をして行く
ことになります。
彼の場合はそれがありませんので、ただの唯物論者だと判断します。 121.
神の一部分か。
正解は、それらは神と関係がない、である。 釈迦の教義そのものはただの自己啓発的な実践哲学なんだけど
時代がそれを許さなかった
人々は宗教的な解釈無しでは受け入れることができなかった
釈迦の教義そのものを受け入れることができるのか
神秘の力を秘めていないと言われると絶望してしまうタイプなのか
それは受け入れる側の問題でしかない
個人的には般若経が神秘性を取り入れたことを支持するよ
行動によって慈悲を実践することは智慧を得るための近道であり
その行動力を人の心理的な法則に合わせ、神秘性を利用して引き出している >>126
それも相手の思想に配慮した方便
方便によって仏教に取り組む活動にこじ付けて無神論の教義を実践する >>127
>それも相手の思想に配慮した方便
そう断定する根拠は何? >>128
教義が無神論
自分を助けられるのは自分しか居ない 相手の思想を否定しなくても悟りに近付かせることはできる
それが方便というもの >>129
>教義が無神論
「教義が無神論だからこの教えは方便にすぎない」⇔「この教えは方便に過ぎないから教義は無神論だ」
という循環論法になってるぞ。
>自分を助けられるのは自分しか居ない
菩薩乗を知らないの?
与楽抜苦の菩薩様が助けてくれるよ。 >>131
菩薩乗は大乗仏教系が使う思想
釈迦の仏教とはまた違う方便 神を何と捉えるかなわけだけども
でっかい人型のヤツが天上でノシノシという意味においては
いないだろうけども
絶対的な真理としてとらえるならば存在するといえる
マンダラで表現されるような天然自然の法
全部を回している真理が神なんだろう? 仏教のある国においては神って言う語で表現されるのはむしろ
自我があって「ああしよう」とか思ってwしたり
お布施をもらって現世利益を呉れたりするものと認識されてるけどもね あと、無神論というのは無神論という宗教みたいなもんで
現世以外は無であるという確信なわけだから
仮に仏教が現世をどう生きるべきかという哲学に過ぎないものであっても
(輪廻とかをとっぱらったとしても)
無神論にはならないと思う >>135
無神論にもいろんな定義があるからね
人知を超えたものは神か?
仏教は諸法無我だとこたえる 天と神とヤマは肯定してるでしょ
これは原始仏典でも >>137
仏教で「天」と「神」はどちらも deva で同一語だよ? >>137-138
方便について想いを巡らせてみよう 仏教の天は神?違うだろ
恵みだろ。何考えてんだよ勝手に解釈してるだけじゃねぇか
常に個の視点から悟ってるのに他者が関わる
事態矛盾してるだろ。そもそもだ仏教における神なんて存在しない 仏教が無神論だ、なんていうのは結局>>1の脳内妄想だったんだねwww そもそもニルヴァーナという語もヤジューニャヴァルキヤなどの先人から受け継いだ概念なので
あらゆるものを方便とか否定するとそれも否定されかねない >>145
ニルヴァーナと神を信仰することとの因果関係はないですよ だからなんでも方便にすると全部否定しかねないってことだ >>147
結論に諸行無常、諸法無我、涅槃があり、
自分を救うのは自分しかいないという明言がある
四諦があり八正道がある
人は無明であるから方便も必要となる 宗教などというものは警察が捕まえられない民事の詐欺行為で大金稼いでるし寄付は取られるし関わらないのが一番 >>151
宗教団体は歴史の中でしばしば営利団体や政治の餌として利用されてきた
日本もその例外じゃないね 豊かだったり迫害もなんもなければ宗教は必要ないのかもしれないが
日本がこれから困窮していけば確実に蔓延するよ 仏教は無神論なのに
なぜか変な新興宗教が
仏教理論を都合よく解釈して
神仏にお金を捧げないと地獄に落ちるみたいな教えにしている
神様が仏教やカルマの法則理論を作った
とか 神なんて実在しないよねスレにそれ系の信者が湧いてきてたぞ 仏教に限らず、中学の時に習った宗教戦争の話で無神論者になった
だいたいイスラエルとかインドとか宗教発祥の国はろくでもないところばかり まぁここでいう無神論とはちょっとスレチな感想だけど、仏を仏として敬う気持ちは持ってる 仏典にでてくる神を文字通り「有神」とすると仏典にでてくる「悪魔」も「有悪魔」ということになるけど、
それらは(人間の心理描写の)譬えであるとブッダが言っているので仏教は無神論。 >>161
>それらは(人間の心理描写の)譬えであるとブッダが言っている
何という経典のどこの箇所でそんなことを言っているのですか? 仏教なんてイチゴが乗ってないショートケーキさ。
生理のない女性さ。
チャーシューの入ってないラーメンさ。
まあ俺は仏教好きだけどね。 >>162
阿含経典1 増谷文雄 の88pから読んでみてください。
そこに詳しい解説が載っています。
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51ghimcIc9L._SX358_BO1,204,203,200_.jpg
又、阿含経典 増谷文雄2、3もできれば読んでみてください。そこではブッダが、
悪魔を譬えとして使用している記述が随所に見られます。
普通に考えれば例えば現代「実体としての悪魔」などいないじゃないですか。
ブッダの時代には悪魔が実体としていて、現在現代社会にはいない、
これは変です。増谷氏も、「悪魔なんているわけないのに仏典にはしばしばでてくる」、
という点で躓いていて、経典を翻訳しているうちに気づかれたようです。
そんなことは面倒くさい、ここにその本文を模写してカキコんでくださいという程度の「知りたい」熱意なら、読まなくてもいいですよ。
私がここで書いても人の話です。実際に図書館に行くか、アマゾンなどで購入し、
自分で読んでみてください。きっと「なるほど」とおもうことでしょう。 >>164
神を例えとしてる例は?
あとヤマ(地獄)を例えとしてる例 >>165
最低限の情報は提供しました。
阿含経典@〜Bを図書館で読むか、アマゾンで購入してください。
載っています。また増谷文雄先生が、悪魔、神々.....等の意味も解説しておられます。
が、そしてもしも君が「そこまでしてまで知りたいとは思わない」程度の熱意の所有者なら、
前にも言った通り、僕は何も教えません。知りたいと思う者が、無努力・無苦労、で、
教えようとする側が全て教える、という構図は無いからです。
又、そのくらいの「知りたい」なら知る必要も無い、と僕は判断します。
僕はgoogle、wiki仏教屋は大嫌いだからです。
相手の真剣さに応じて、僕もそれを返します。 >>164
ご推薦の本、当該箇所を読んでみました。
はっきり言って、増谷氏が仏典にことよせて自分の仏教観を全開で記述しており、辟易しました(笑
あんなものを読んでいるから、あなたは「仏教は無神論」なんていう結論が出るんですね。
増谷なんていう曲学阿世の徒に私淑するよりも、仏典そのものを曇りのない目で読むことをお勧めします。 キリスト教=誰かの為に戦う正義、福祉、人権、愛 仏教=個人的な悩み解決
私が仏典よりも聖書において、何かしら心に響くものがあるとすれば、そのひとつは、社会正義の問題があるように思う。
アモス、ホセア、イザヤ、ミカといった預言者たちは、当時の社会を真っ向から批判し、社会正義を求め、
貧富の格差と闘い、民族全体の悔い改めと救いを求めた。
それと比べて、仏教は、個人の救いばかり求めて、非常に社会性や社会正義が希薄と思う。
もちろん、七不退法や、長部経典や増支部経典の中の社会が繁栄するための方法などをピックアップすれば、仏典にも社会性がないわけでもないと思うが、基本的にあまり社会正義は仏教においてはそもそもテーマにもなっていないとは
言えるだろう。
べつに、だから悪いとは一概には言えないのかもしれない。
そもそも、社会正義などどうでも良いという立場もありえるだろうし、社会正義など言うから争いが起きるという意見も
ありえるのかもしれない。
しかし、私自身のことを言うならば、社会正義に無関心で、個人の救いだけを求めるのは、
どうもあまり心に響かない気がするし、勇気とならない気がする。
むろん、社会正義などに拘泥するのはまだレベルが低い段階で、本当にすぐれた境地の人は社会を捨てて
解脱の道に励むという考えも成り立ちうるのかもしれない。
べつにそういう考えの人はそれでいいのかもしれない。
しかし、私自身に限って言えば、アモスやホセアやミカやイザヤの言葉を聞く時に、はじめて心が燃え、
生きていく勇気をもらえる気がするのである。
したがって、私は、聖書を愛読する。 日本のキリスト教の多くは、旧約をろくに読まない人も多いらしいし、
社会正義には無関心なクリスチャンも案外多くいて、その点では別に
仏教とさほど変わらない場合も多いのかもしれない。
私が仏典よりも聖書を日頃愛読するとすれば、その理由の大きな一つは、
旧約、特に十二小預言書なのだと思う。
したがって、ろくに旧約や十二小預言書を読まない一般的なキリスト教は、
やはり同様にさほど心惹かれないし興味が持てないものではある。 あまり欲のない者がお布施を受けて葬式とかお祓いとかする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています