そもそも仏教は無神論だよね? [無断転載禁止]©2ch.net
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ここの板では当たり前のことだと思うけど、それを主張する専用のスレないぽいので。
反ヒンドゥー、反カーストがその起源であり輪廻は縁起や因果、業であると説く。
脱洗脳も一つの目的。
心理学と自己啓発、コミュニケーション術を他の宗教者に対し方便を混じえて説いてきた。
自然崇拝に近いものはある。 神を崇める対象ではなくて
眷属にしたのが仏教だったのでは?
天界にも教えを説いたというし そもそも涅槃;解脱というのがバラモンの概念
それに到達したのがブッダという、バラモンを踏襲したのが仏教 宗教なんてもんはバカで弱いヤツが信じるフィクションだよ
なんでそんな下らねえことで世界中喧嘩してんだよって
宗教なんかどれも同じなんだから何でもいいんだよ >>39
成る程。誠に似非の知識階層に多い意見ですね。
貴方がそう主張したいのであれば
「イースターの朝のできごと」フランク・モリソン
「神は死んだのか」ライス・ブルークス
「それでも神は実在するのか」「キリストの復活は事実か」リー・ストロベル
差し詰めこれらの書物を完璧に論破し粉砕する必要があります。 「実を結ぶ命」ゴットホルド・ベック
二十歳そこそこの少女が、自分の死をかくも冷静に受け入れることができ、
喜びつつ召されていったというこの事実は現代の奇蹟だと思います。 なぜそこで宗教屋関連の書物を読めとか言い出すのか
これがわからない >>39
でもこれ大多数の日本人の感覚なんじゃないの 不動明王(オーム教のシヴァやイルミナティも同じ)はおまいりすべきじゃありません。何万年と裏でだましやってきた悪事がばれて上の神仏界で毒殺抹消対象にな
っています。ちゃんと過去生から精進,徳を積んできた人が不正に障害者にされたり変な因縁をつけられたりしています。一見その場が助けられたように見えても
もともとそうなる運命じゃなかった人があらかじめ不正に罪を背負わされ、苦境にたたされるようにされ、表からはそれを少しぬいてもらって、大難を小難にして
もらった
と錯覚させれてるだけです。アフリカの難民みたくみんな引きずり落としあって永久にダメになっていかされます。「バックトゥザフューチャー2」のビフがもっと悪化し
たような奴です。釈迦、空海、キリストなどもこれに便乗していたので今後おまいりしてはいけません。大日如来、アカシックレコードもこれらに騙されやすいか
ら我々からも定期的に見てなきゃいけません。 >>39
むかしB・ラッセルとF・コープルトンのそんなディベートがあったなあ。
世の中は破壊的な矛盾と不条理に満ちている。
地上での短い人生を唯一の現実とみなし、僅か数十年の時の中だけに存在の意味や幸福を見い出そうとするなら、
もしこの物質的な世界で幸福を得なければ他にチャンスは無いと信じるなら、
この世界が自分にそれなりの富や幸福を与えてくれなければ失望は避けられない。
そして実際、大半の人が失望しているのだ。お前さんとて例外ではあるまい。 そういえば仏教に創世神話も創造神もないね
釈迦が宇宙作ったわけでは無いし?
それを語らないのが仏教だってのはわかるが 日本人て祖先崇拝と輪廻転生を同時に信じてるのおかしくない?
先祖の祟りが〜と脅されて何か買わされるんだけど先祖は既に輪廻転生してるだろ
もう滅茶苦茶だな ダンマパダ
第18章 汚れ
二三五 汝はいまや枯葉のようなものである。
閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。
しかし汝には旅の資糧さえも存在しない。
この閻魔王とはインド冥界・地獄を主支配する神ヤマラージャのことである (第三章 種々なる異学) サンユッタ・ニカーヤ I
1.わたしは、このように聞いた。あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。
そのとき、〈神の子〉シヴァは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、尊師のおられるところにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。
傍らに立った〈神の子〉シヴァは、尊師のもとで、次の詩をとなえた。−−−
〜略〜
善き人々とともに坐せ。善き人々と交われ。
善き人々の説く正しい教えを学び知って、
人々は、永遠の福楽に住する」と。
3.そこで尊師は、〈神の子〉シヴァに詩を以て返答した。−−−
「善き人々とともに坐せ。善き人々と交われ。
善き人々の説く正しい教えを学び知って、
すべての苦しみから脱れる」と。 >>52
バラモン教カルチャーに向けた方便品の典型だね 「ブッタの教え図解D」三界に対応する神々(仏教における天の神々)
http://boaoi.net/buddhas-teachings/a-5/
仏教では、瞑想の境地を三界(欲界・色界・無色界)に分けて表現されて、
バラモン教の影響を受けて、その三界に対応した神様が配置されました。
バラモン教での最高神ブラフマー(梵天)は、仏教では色界の一番下と位置づけが低めの設定です。
四天王「持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)」は東南西北を守護する神々とされています。
その上位に三十三天の代表、帝釈天(インドラ神またはサッカとも)が欲界の地上を意味する「地居天じごてん」に位置づけられています。
原始仏典(長部15 大縁方便経、長部18 闍尼沙経、長部27 起源経)などで書かれています。 (VI.1.4)【バカ梵天】 (第一章) サンユッタ・ニカーヤII
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52238942.html
【梵天バカへの説法】
お釈迦さまは、神霊に対しても説法しました。
神々の師と言われる所以です。
お釈迦さまの説く法は、創造神をも凌ぐスケールであったのです。
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/?m&no=680
【梵天請経】
『梵天請経』[1](ぼんてんしょうきょう、巴: Brahmanimantanika-sutta, ブラフマニマンタニカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第49経。『梵天招待経』(ぼんてんしょうたいきょう)[2]とも。
類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第78経「梵天請仏経」がある。
釈迦が、梵天や悪魔パーピマンを相手に、仏法を説いていく。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%A4%A9%E8%AB%8B%E7%B5%8C >反ヒンドゥー →何も語ってない
>反カースト →何も語ってない
>脱洗脳 →教えを説いて弟子たちを洗脳してますが
>コミュニケーション術 →そんなもの説いてない
>自然崇拝 →別にしていない >>57
>>脱洗脳 →教えを説いて弟子たちを洗脳してますが
『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。
という教義によって内心の平安を得よう、というのが釈迦の教え。 >>57
>>反ヒンドゥー →何も語ってない
反バラモンね
>>反カースト →何も語ってない
反バラモン含めて「解脱」の一言に集約されてると言って良い
>>脱洗脳 →教えを説いて弟子たちを洗脳してますが
無明、智慧は脱洗脳を促す
>>コミュニケーション術 →そんなもの説いてない
残される沢山の具体例
>>自然崇拝 →別にしていない
近いもの
因果応報など 流行りのアドラー心理学は菩薩道とほぼ同様のことを説いていて面白いな 解脱、涅槃、輪廻はそれ以前のバラモン教の教義
それを下敷きに仏教があるのだからインドラ神などの価値観もその上にあるとかんがえねばならない ノンノン
バラモンの解脱は者のみに許された概念だが
シッダールタは「誰でも気付けばいけるよ」と説いた
バラモンの教義を真っ向から否定するからだし
社会的文化として根付いた思想から脱洗脳させる為に
方便品が用いられた
だから口伝には、シッダールタが神について語った実績が残されている
「神はそんな大したことなかったよ。中唐の論理に感銘を受けてたぜ」 世界や時流、生死、縁起、無我、無常、空を知り受け入れることで
悟りを開き、最大限苦しみから逃れられるとした
ある時代、ある国では、社会思想から離れ修練を積み
悟りを開くことでしか幸せの実感から程遠かった
現代日本でも一切皆苦は変わらないが、
やり方によってはある程度の幸せにたどり着くことができる
中唐的に言うならそれを菩薩道と呼べる
確かに菩薩道とアドラー心理学は近いものがあるね
現代日本人に受け入れられ易いのはある意味納得ができる 帝釈所問経
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E6%89%80%E5%95%8F%E7%B5%8C
帝釈所問経』[1](たいしゃくしょもんきょう、巴: Sakkapañha-sutta, サッカパンハ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵長部の第21経。
『帝釈天問経』[2](たいしゃくてんもんきょう)とも。
類似の伝統漢訳経典としては、『長阿含経』(大正蔵1)の第14経「釈提桓因問経」や、
『帝釈所問経』(大正蔵15)、『中阿含経』(大正蔵26)の第134経「釈問経」等がある。
経名の通り、帝釈天が釈迦に仏法を問う内容となっている。
[場面設定]
釈迦がラージャグリハ(王舎城)のヴェーディヤカ山の洞窟で瞑想していた時、
眷属であるパンチャシカを先立たせた帝釈天が現れた。
帝釈天に煩悩について問われた釈迦は、三毒、欲、無明、三業(身口意)、六根などを述べる。
帝釈天は法悦し、釈迦への帰依を誓う。 >>62
実際誰も解脱して涅槃にたどり着けないわけだろ?
はじめ仏教では何人も悟りを開きアラカンとなりその僧のいうとおりにすれば天国へ行けるという考えだった
しだいに悟りを開く人がいなくなって(権力者が厳密に調べたら誰も解脱など理解してなかった?)
悟りの代替となる偶像に祈るのが主流になった
僧と大衆を2分し僧は未婚で修行にはげみ大衆はそれに寄付し尊敬を与え、その言いつけどおりに偶像に祈ることで天国へ行けるということになった >>66
バラモン教の土着が強過ぎて、結局飲まれていった
インドではバラモンと仏教が融合してヒンドゥー教になったし
神と共に大陸を渡りつつ、土地土地の神を取り入れていくことになった
それはそれ
そもそもは無神論ってことに変わりはないでしょ
小乗仏教側で祭られるのは釈迦のみだしね >>66
ああ、最初はって言うけど
仏教は天国すら否定してるからね >>67
>小乗仏教側で祭られるのは釈迦のみだしね
日本の密教系の寺院と同様にヒンドゥー教の神々も合祀されてるよ >>70
小乗仏教側にもヒンドゥー教の土着が影響してるんだな
ちなみに、土着的宗教の影響を受けたから〜の反論の人って
「そもそもは無神論」に対する反論として成立してるつもりなのかな? >>71
インドラ神 ブラフマーもヒンドゥーだからな
ブラフマンという言葉が使われる以上それの上にあると考えるべきだろう >>72-73
それらは釈迦本人の記述ではないし
文脈から総合的に判断すれば、無神論として展開しているのが読み取れる
弟子達は土着宗教文化に執着のある状態で
方便によって学びを進めたから
「この様に言われた」という記述には神について描かれることになる
つまり、
書いてある=神を崇めている
とはならないよ 思想的にも神を崇めちゃうと成り立たないし矛盾が生まれちゃうよね だからバラモンの神を崇める為にヒンドゥー教が生まれた >>74
本人の記述なんてそもそもないだろ
だったら基本的な教義すら存在しないことになる 涅槃解脱とかじゃなくニルヴァーナ、ヴィモクティで教える仏教元本が必要だな
中身インドラとかばっかになるで >>77-78
元は口伝だったからしょうがないよね
ゴータマというブッダの教えという仏教を
弟子達が話した記憶で残して伝えた結果、神の記述が残ったってだけ
だから残されたモノは神を信じるべきってのは偏ったものの見方となり
仏教のそもそもの教えを曲げて解釈し続けることになる >>79
>仏教のそもそもの教えを曲げて解釈し続けることになる
その「仏教のそもそもの教え」とやらは、どこからお知りになったのですか??
まさか「弟子達が話した記憶で残して伝えた」仏典からじゃないだろうけどな。 >>74
逆だろう。
帝釈天も梵天もシヴァも四天王と言われた毘沙門天以下も、神々はみんな仏陀を崇めているのが仏典。
バラモン教の神々よりも仏陀の方が格上。
バラモン教の神の最高神の一人帝釈天は欲界の上部の神だし、もう一人の梵天は色界の最下部の神である。 パーリ中部経典 梵天招待経
第一章
あるとき、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、ウッカッタの町の、
スバガ林にある、サーラ樹に止まられていた。
そのとき、梵天のバカに、邪なる見解が生じた。
“この世界は、常住であり、無常ではない。
生じず、老いず、死なず、滅せず、変らない。
不壊にして不滅であり、唯一にして絶対である”
この様子を、神通により見とめた、仏陀は、
あたかも、力の強い者が、腕を曲げるように、
梵天界に現れて、大梵天に対して、こう言った。
「この世界は、無常であり、常住ではない。
大梵天よ、邪なる見解を、抱いてはならない。
バカよ、悪しき無明の闇に、陥ってはならない。」
そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。
「比丘よ、大梵天に、逆らってはならない。
大梵天に従うなら、善趣に生まれ変るだろう。
創造主に逆らうなら、悪趣に生まれ変るだろう。」
すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。
「私が見抜けないとでも、思っているのか。
悪魔よ、私は、汝のことを、良く知っている。
第六天よ、汝は、私のことを、何も見とめない。」 第四章
すると、梵天は、仏陀に向かって、こう言った。
「それでは、汝が、見とめられないように、
いまから、汝の目の前から、消えてみせよう。
もし、見とめられるなら、見とめてみるがいい。」
そう言って、梵天は、姿を消そうとしたが、
仏陀に対して、消して見せようとしたために、
幾ら足掻いても、姿を消すことが出来なかった。
すると、仏陀は、梵天に向かって、こう言った。
「見せまいとして、見せているではないか。
こうして、欲に縛られると、欲に治められる。
いまや、完全に、私は、汝を越えた境地に居る。」
そのとき、仏陀は、梵天の目の前から消え、
梵天は、仏陀を見とめることが出来なかった。
これを見て、梵天は、歓喜の声を上げて叫んだ。
「実に、妙なることです、稀なることです。
このような比丘は、今までに居ませんでした。
見とめられない、無明の闇を見せてくれました。」
そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。
「比丘よ、大梵天を、従がえてはならない。
彼を従えようとすれば、欲界に落ちるだろう。
彼を捨てようとするなら、欲界を離れるだろう。」
すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。
「私が見抜けないとでも、思っているのか。
人を導こうとする欲は、欲を越える欲となり、
人を捨てようとする欲は、欲を捨てる欲となる。」
「パーピマンよ、わたしは、正覚者である。
正しく見る者であり、正しく認める(認識する)者である。
汝を、見とめない訳ではない、良く認めている。」 大梵天(だいぼんてん、Skt:Mahaa-Brahman-d.)は、色界十八天の中の第3天である。
初禅三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)の中では最高位となる。
梵天(バラモン・ヒンドゥー教のブラフマー神)の住所である。
『雑阿毘曇心論』『彰所知論』は、この天での天部の身長が1.5由旬、寿命が1.5劫とする。
また『仏説立世阿毘曇論』は、寿命を60小劫とする。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A2%B5%E5%A4%A9 >>82
反論になってないし、逆を付いてる様にも感じない
論点がズレてる様に感じるよ 梵我一致の始祖ヤージュニャヴァルキヤでさえバラモンの神を信仰していた >>82
バラモン以外のミトラス神も弥勒としてブッダの下においた
つまりバラモンの信仰の一部を認めたということ >>87-88
それらは土着宗教文化が根付いた土地で、人々が事実に近づくために、
例え話として受け入れられやすい形で用いた方便だというのがこちらの立場
いくら「こんなことが書いてあった」と言われようと
その形で関わった弟子達が書いたんだからそうなるでしょうよ
としか言ってあげることができない >>89
例え話なら例え話、方便なら方便として書くべきであり、そう書いてない以上はその弟子達は不妄語戒を犯していることになる。 >>89
つまり輪廻とか涅槃とかバラモン由来のものも全部ないと? >>90
戒律なんかも、昔の、頭が凝り固まった人達が物事を
柔らかく捉えられる様に便宜上設置されたもの
それを大層に破ったら罪だという様に大切にしてるだけ >>91
ゴータマさんは無いと考えてるんだと理解してる
輪廻転生は無いけど、縁起として関わりが流れていくことが
魂だと捉えるなら、それを輪廻と呼んでも良いかなとは思う >>81
>論理的に積み上げて解釈すれば済むこと
何を論理的に積み上げるのですか??
まさか「弟子達が話した記憶で残して伝えた」仏典からじゃないだろうけどな。 他宗教の同じルーツの神を認めるかって一番むずかしい問題だな
帝釈天や弥勒と同じルーツの神のインドの偶像もってきて拝みなさいってむずかしい
それ自体を崇拝する習慣は現在ないだろうけど 仏典は中村元のアホな翻訳しかないのが全ての元凶
正確に物事を伝えようとする人間がいない
現代に仏教徒はいないのだ 明治になって西洋の学問に接するまで、日本の仏教徒は根本仏教という言葉も原始仏教という言葉も知らなかった。
仏教が合理的宗教か非合理的宗教かという問題のたて方がなされたこともなかった。
しかもすぐれた仏教者は自主的に仏教者として行動していたのである。
最澄、空海、法然、明恵、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍はパーリ語を知らなかった。
しかも彼等はパーリ語文献に通じた現代の学者よりも、はるかに立派な仏教徒だったのである。 >>94
そうですよ
仏教では方便を使うという事実と、弟子達の記述は事実として矛盾しない 21世紀仏典結集誰かやらんかな
聖書の旧約新約の薄い紙のでかい一冊みたいなので
主要仏典網羅した最先端の翻訳全集 >>95
反論の糸口も見当たらない
というレスだね 仏教の諸法無我は自分という個は空の様なものだと理解し
諸行無常の縁と一体と考え全体に布施貢献することによって
生を意味あるものにし、死の苦しみを納得しようという理屈で
輪廻転生というバラモンの土着的洗脳から解脱しようという考え方
それが何百年経っても受け入れられない民衆の為に、釈迦の論理自体も空だとし、
厳密に考えなくて良いから呪文を唱えて徳を積もうという考え方で大乗の新興宗教が流行し
それによって輪廻転生を仏教の教義に入り込ませる余地を与えた 創価学会の神様は池田大作
創価学会の聖典は人間革命 仏典の翻訳読んでみたら無神論なんて思えないはずだが
日本で何個も梵天の偶像作られてたろ >>106
日本に来たのは神秘性を強調しバラモン教の影響も受けた大乗仏教が
さらに中国の土着宗教を取り入れながら大陸を渡って来たものだからそうなるのは当たり前 定義そのものに間違いがあるようですね。
論理以前の問題です。 ブッダは梵天の奨めでダンマを説き始めた
つまりダンマの影に梵天ありだよ つまりブッダは無神論ではありません111
支持 ♡ 113.
神の定義によってして無神論ではない、か。 >>111
バラモンの神を信じる人々に教えを広める方便を思いついたに過ぎないよ
教義は完全に無神論 人間が考えた都合のいい神、嫉妬の神、裁きの神
神じゃなくて違うものだろう 元人間ならありえるだろ?w
神の性質を考えた場合に、神はエネルギーに近いものだということがわかる
よって法則を理解するに関心が移る
縁起の法とは神のエネルギーの法則である >神の性質を考えた場合に、神はエネルギーに近いものだということがわかる
仏は神(力)を行使する立場ですね 119.
神はエネルギーか。
それでは物理学になってしまう。
宗教問題とならないよ。 神を霊的に捉える事は間違いです。なぜなら霊は神のごく一部分に過ぎないから。
神をエネルギーのようなものと捉えるのも間違いです。なぜならそれらも神のほんのごく一部分に過ぎないから。
と、教えられています。♡ お釈迦さまについての具体的な事象に関する一般的な定説は凡てあやまりです。
一切なんの根拠もありません。
スレ主の理論は、残念ながらその誤った定説を前提にしています。
彼の議論は、定義そのものを正しくすることから始まるのですわ。♡ 自分の見解と、偉大なる教えにズレがある場合には、先ず、どうしてそうなるのか自ら検証と探求をして行く
ことになります。
彼の場合はそれがありませんので、ただの唯物論者だと判断します。 121.
神の一部分か。
正解は、それらは神と関係がない、である。 釈迦の教義そのものはただの自己啓発的な実践哲学なんだけど
時代がそれを許さなかった
人々は宗教的な解釈無しでは受け入れることができなかった
釈迦の教義そのものを受け入れることができるのか
神秘の力を秘めていないと言われると絶望してしまうタイプなのか
それは受け入れる側の問題でしかない
個人的には般若経が神秘性を取り入れたことを支持するよ
行動によって慈悲を実践することは智慧を得るための近道であり
その行動力を人の心理的な法則に合わせ、神秘性を利用して引き出している >>126
それも相手の思想に配慮した方便
方便によって仏教に取り組む活動にこじ付けて無神論の教義を実践する >>127
>それも相手の思想に配慮した方便
そう断定する根拠は何? >>128
教義が無神論
自分を助けられるのは自分しか居ない 相手の思想を否定しなくても悟りに近付かせることはできる
それが方便というもの >>129
>教義が無神論
「教義が無神論だからこの教えは方便にすぎない」⇔「この教えは方便に過ぎないから教義は無神論だ」
という循環論法になってるぞ。
>自分を助けられるのは自分しか居ない
菩薩乗を知らないの?
与楽抜苦の菩薩様が助けてくれるよ。 >>131
菩薩乗は大乗仏教系が使う思想
釈迦の仏教とはまた違う方便 神を何と捉えるかなわけだけども
でっかい人型のヤツが天上でノシノシという意味においては
いないだろうけども
絶対的な真理としてとらえるならば存在するといえる
マンダラで表現されるような天然自然の法
全部を回している真理が神なんだろう? 仏教のある国においては神って言う語で表現されるのはむしろ
自我があって「ああしよう」とか思ってwしたり
お布施をもらって現世利益を呉れたりするものと認識されてるけどもね あと、無神論というのは無神論という宗教みたいなもんで
現世以外は無であるという確信なわけだから
仮に仏教が現世をどう生きるべきかという哲学に過ぎないものであっても
(輪廻とかをとっぱらったとしても)
無神論にはならないと思う >>135
無神論にもいろんな定義があるからね
人知を超えたものは神か?
仏教は諸法無我だとこたえる 天と神とヤマは肯定してるでしょ
これは原始仏典でも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています