キリスト教=誰かの為に戦う正義、福祉、人権、愛   仏教=個人的な悩み解決

私が仏典よりも聖書において、何かしら心に響くものがあるとすれば、そのひとつは、社会正義の問題があるように思う。
アモス、ホセア、イザヤ、ミカといった預言者たちは、当時の社会を真っ向から批判し、社会正義を求め、
貧富の格差と闘い、民族全体の悔い改めと救いを求めた。

それと比べて、仏教は、個人の救いばかり求めて、非常に社会性や社会正義が希薄と思う。
もちろん、七不退法や、長部経典や増支部経典の中の社会が繁栄するための方法などをピックアップすれば、
仏典にも社会性がないわけでもないと思うが、基本的にあまり社会正義は仏教においてはそもそもテーマにもなっていないとは
言えるだろう。
べつに、だから悪いとは一概には言えないのかもしれない。
そもそも、社会正義などどうでも良いという立場もありえるだろうし、社会正義など言うから争いが起きるという意見も
ありえるのかもしれない。

しかし、私自身のことを言うならば、社会正義に無関心で、個人の救いだけを求めるのは、
どうもあまり心に響かない気がするし、勇気とならない気がする。
むろん、社会正義などに拘泥するのはまだレベルが低い段階で、本当にすぐれた境地の人は社会を捨てて
解脱の道に励むという考えも成り立ちうるのかもしれない。
べつにそういう考えの人はそれでいいのかもしれない。
しかし、私自身に限って言えば、アモスやホセアやミカやイザヤの言葉を聞く時に、はじめて心が燃え、
生きていく勇気をもらえる気がするのである。

したがって、私は、聖書を愛読する。