〉単体の私が位相が下ることで、分裂し客観視することができるようになります。

瞑想等で用いられる『私は在る』というアファメーションは、なじみのあるいわゆるパーソナリティーの主体を観じるものではなくて、
客体の存在しない全体としての分離のない主体を思い起こすための練習のようなものですから、
目的にかなわないのならば必要のないものだと言っても差し支えないでしょう。
位相が下るとは、いわゆる一般的な私たちの日常を指します。
愚劣でありながら愛おしい、『私たち』の世界のことです。