■キリスト教のやめ方■ [転載禁止]©2ch.net
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>>376
(^。^)個人的にはこれが一番。(笑) 例えば貴方がゲームで世界を一から創造出来るとしよう。
文字どおりビッグバンからのスタートで。
そしてゲーム内時間で約45億年(笑)して一つの銀河の端っこの恒星系の第三惑星に知的生命体が発生した。
こんなもん、余程の偏執狂じやなきゃ気が付かんだろ。(笑)
さらに、その知的生命体の一個体になってしたことは、新興宗教の教祖。(笑)
頭がオカシイ。(笑)
しかも処刑されて(笑)「あぁ、神様は何故私を見捨てるのか?」とか絶対に言わないだろ?(笑)
キチガイかと。(笑)
そして復活。(笑)
お前は何がしたいんだと。(笑)
(^。^)他にも「私は妬み深い」とかゲームのNPC に言ってたらしいが、一度医者に見てもらえってレベル。(笑) 今日の御言葉
「神はゲイ」
かの故カート コバーン氏の言葉です。アーメン。(笑)
スラングだと思ってたんですが、ふとネットで検索してみましたら、カートの言葉だとありました。
確かに聖人とか男性がほとんどですしね。(笑)
まぁ、十代の人妻をレイプした変態だから、正確には両刀使いですけど。(笑)
(^。^)oh my god ! stay away!! lol >>1
やめないといけない、ということ自体、まともなキリスト教をやめる
ということではないもんな。
すなわち、まともなキリスト教が心に宿っていたのではない、ということ。
おそらくプロテスタントでしょうな。
カトリックではそういうことはありまっせん。 そういうふうに身勝手な想像を膨らませては暴言を吐き
いろんな人を傷つけた自覚はないのかね? 大川隆法著 「伝道の法」
第3章 人類幸福化の原点
1 「宗教心」「信仰心」は、なぜだいじなのか
「大悟三十五周年」「立宗三十周年」を迎えた幸福の科学
幸福の科学にとって、二〇一六年は「大悟三十五周年」「立宗三十周年」であり、一つの区切りの年でした。
立宗して三十年がたったので、宗教団体としては、ある程度、日本のなかにおいての地位は確立してきたと考えていますし、世界においても知られつつあると思います。
海外で当会を知っている人の数を合計すれば、日本よりは、はるかに多いと思いますが、海外でも、まだまだ現在進行形で活動しているところです。 私の生誕地である徳島県が、どのくらい海外で知られているかは知りませんが、いずれ徳島県は世界の聖地になると考えています。
また、二〇一六年には、映画「天使に゛アイム・ファイン”」でも多少キャンペーンをしましたが、立宗三十周年を記念して、吉野川市の川島町に、「聖地エル・カンターレ生誕館」を建立させていただきました。
内心では、多少、恥ずかしい気持ちがないわけではないのですが、記念になるものが何か一つぐらいはあったほうがよいのではないかと思っています。きっと、世界のみなさんが参拝に来て下さるようになるのではないかと信じています。
未来の徳島県には、阿波踊りのときだけではなく、私の生誕日である七月七日あたりを中心にして、さまざまな機会に、全世界からいろいろな方が訪れるようになるのではないかと考えているので、徳島県の未来はとても明るいのです。
以上を前置きとして、本章では、主として宗教的な話をしようと思っています。 徳島県出身の「三木武夫・元総理の霊」を困らせた質問
ーー17行割愛ーー
やはり、「四国の地は、弘法大師空海が八十八箇所の霊場を定めて以来、千年以上もの間、霊的な地として護られていた」ということが大きいのではないかと考えています。
生まれ育った環境から、やはり、文化的なものの影響をそうとう受けるので、「そうした霊的な環境のなかに生まれた」ということが大きかったのではないかと考えているのです。 「霊的なこと」を受け付けない、現代の学問や科学
ただ、そういう信仰深い所に生まれたからといって、すべての問題が解決したわけではないことも事実であり、私の人生の大半は、「田舎的な部分と都会的な部分との葛藤を経ながら、成長してくる」という過程でした。
世界の情勢や日本全体を見渡す意味において、四国は、そう有利な地だとは思いません。
しかしながら、郷土の「純粋な信仰心」と、「日本全体は、今、どこを向いているのか。
世界は、どのような方向に向いているのか」ということを比べてみて、そのギャップを知ることは、「今、何をなさねばならないのか」ということを考える意味で、たいへん役に立ちました。「勉強になった」といってもよいかもしれません。
四国の徳島に育ち、やがて東京に出ると、「常識」というものがかなり変わっている印象を私は受けました。
簡単に言えば、「信仰心やあの世など、『霊的なこと』について表立って話をしても、あまり受けつけない」という感じでしょうか。コーティングされていて水を弾くような感じで、ツルンとしていて、まったく受け付けないような感じでした。
学問においても、科学においても、あるいは都市文明においても、だいたい、そういうところがあったように思います。
また、日本以外の国においても、先進国では、そういう点が非常に強いのではないかという印象を受けました。
もっと話を大きくすれば、次のようなことが言えます。
現代において、例えば、「霊界」「あの世」とか、「神様」「仏様」、あるいは、「高級霊」「菩薩」「如来」という言葉は、学問的には完全に死滅しかかっており、そういうものは「ないもの」とされています。
そして、「目に見えるこの世だけを、どうにかよくして快適にし、幸福に暮らすのが、人間の目標、人類の目標だ」と考えるのが主流になっています。
いろいろな学問があり、いろいろな専門がありますけれども、どれもこれも、「地球の表面上で起きていることがすべて」のように見えていて、
宇宙を見ても、「天体望遠鏡で見える世界がすべて」という感じで見ていて、これが「開かれた世界」がと思っている人が多数なのです。 戦後の日本人の信仰心は「縁起を担ぐ」というレベル
二〇一六年四月に出した、福田赳夫・元総理の霊言の「まえがき」にも書いておいたのですが、アメリカでアンケートを取り、「あなたは神を信じていますか」という質問をストレートにしたら、
九十八パーセントぐらいの人が「信じています」と答えることが多かったようです。
調査によって少し違うこともありますが、だいたい九十八パーセントぐらいの人が「神を信じています」と答え、「信じていない」と答える人は二パーセントしかいないのです。
一方、日本では、「あなたは神を信じていますか」とズバッと訊いた場合、「信じています」と答える人は十数パーセントです。そういう答えは、十五パーセント前後、十五パーセントか十六パーセントぐらいしか返ってきません。
まともに「神を信じていますか」と訊いたら、一、二割の人しか、「信じています」と言えないのです。
ところが、「あなたは正月に初詣に行きますか」「お盆にはお墓参りをしますか」「お守りなどを信じますか」「お祓いを受けたりしたくなることがありますか」などというかたちで訊いたら、
半数以上の人は、「そういうことはあります」と答えます。
「神様を信じていない。仏様を信じていない」と言っても、「合格祈願」や「交通安全祈願」などのお守りを持っていたりするのです。
神も仏もなかったら、そういうものを持っていても意味がないと思うのですが、「『縁起を担ぐ』というレベルぐらいの薄い信仰心がったら、この世の今の進化についていくことができ、共存できるぐらいの範囲でいられる」という感じでしょうか。
それが今の日本の常識なのではないかと思います。
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