253 :ノスタルジア :2013/11/01(金) 19:32:50.70 ID:6JRTRSD7
【この世の女心ではないぼくの知らないどこかの女心でもない女心を得た男について】
さっきの続きですが、しかし、男と女は接触はしてはいけません。それは男心は
すべて、ぼくという人の事柄と一瞬はなり、この世は一瞬であります阿弥陀の国土から見れば。
故に、女心はぼくに帰される。故に人々は仮(け)となり、仮の身は、無と帰す。
その点において、心を失わなかった、男は無から新たな、有へと輪廻し、円環し、
またぼくの一瞬に救われることをもし必死で逆らい、ぼくとの対人関係を得るために
努力を惜しまず、それが実った場合、今日(2013年11月1日)得た女心が、男心に
生き、女心が働きかけることにより、男女の意義が分かり、その男は、
人身を持つ中において、救われていくのであります。それを凡人の究竟と言います。
つまり賢人の入門に入れる存在になったことの、証(あかし)であります。
つまり、女心というのは、この場合、ぼくがどうみても、綺麗な女人だと
確信できるレベルの人々の心が、一心となり、その男に与えられている
ことを言います。そういう、男こそが、ぼくと対等に立てるために、
ぼくが知らない女心は、なかなか至り難い悟りではないとあり得ないのです。
みなさん人々は、まず、無に帰すということで十分でしょう? それ以上の
ことを求めて、例えば、有に舞い戻りたいと思うまではいいのですが、
有を超えたいと思ったらば、ぼくが今指し示した、難行道を通らないと
一生と言わずに永遠に、このどうしようもない世界に留まることになると
言っているのです。どのような世界がこれからぼくの前に開かれてくるのだろう。
しかし、みなさんの心を救ってくれる、阿弥陀仏は、親鸞による浄土往生説
により可能なだけであり、ぼくは、南無阿弥陀仏と称える、みなさんと
おなじ浄土にいるようでいて、いないことになる、そのような不可思議な境地に
いることになるでしょう。よくよく案じてみたいところですね、お互いに。