敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
普段から聖書に親しんでいる人は、この区別が救済史を理解するための当然の前提であることを知っています。
キリスト教の諸信条も同様であります。
洗礼は肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることだと教えるこの(Iペトの)テキストは、恐らく古代教会の洗礼式の儀式書からの引用で、そこで “正しい良心” と表現されているのはキリストの福音への正しい信仰のことです。
人は洗礼を受けているか否か、その信じている福音が正しくキリストの福音であるか否かによって、区別されるのです。
それは永遠の区別、この世においてだけでなくて神の国に至るまで有効な区別であることを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
イエス・キリストの恵みによって教会に委ねられている “洗礼への招き” の計り知れない富を、財産を地の中に隠していた僕(マタ 25:14-30)のように、現代の教会は退蔵していてはならないのです。 (つづき)
区別や差別に対して異常なほどの敵意と警戒心を示す近年の風潮は、キリストによる救いを与える “洗礼への招き” という計り知れない富に対して、私たち教会が盲目になってしまったことの裏返しであるかも知れません。
教会を巻き込む歴史上の各種の分裂や闘争の中で、どれほど多くのキリスト者が 「私は洗礼を受けている!」 というたった一つの事実を心の支えとして生き抜いて行ったか、計り知れないのです。
第二バチカン公会議が “エキュメニズムに関する教令”(3)によって明らかにした原理に、信者一人一人が良い理解を持つことが期待されます。
「 ・ ・ ・ それにもかかわらず、信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、
カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。」(別れた兄弟とカトリック教会の関係/3)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています