敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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人 2003年(主日B年) 1月5日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
ユダヤ人の王としてお生まれになった方のところに、東の方の国から占星術の学者たちが訪れて来て、無事に礼拝と奉献をささげて帰って行きました。
神の秘められた計画(ミュステーリオン)が御子の受肉によって動き始めたことの最も象徴的な出来事として、教会は早くから主の公現の祭日を降誕節の中に位置づけて祝って来ました。
ですから教会は、異邦人の救いが主の受肉から始まって、新しいイスラエルとしての教会を造り上げて行く時代が到来したことを、この公現の祭りによって宣言して来たのだと言うことが出来ます。
こうして主の公現の祭日は主の降誕の単なる後祭りではなくて、教会の時代の開始を告げる祭りなのです。
そのような訳で、東の国の学者たちの来訪の出来事は、クリスマスの祝いの中の一つのエピソードのように扱われてしまってはなりません。
またこの物語りが語られると、それで主の降誕の祝いが幕を下ろすように考えて、さっさとクリスマスの飾り付けを片づけてしまうことは、適切ではないのです。
典礼暦は降誕節を “主の洗礼の祝日まで” と定めています。 (つづき)
捕囚から帰還した人々によるエルサレムの神殿再建が始まった頃に語られた第三イザヤの言葉が、古くから主の公現の祭日の第一朗読のために選ばれていたようです。
それはこの調子高い希望に満ちた預言が、教会を通しての神の秘められた計画の展開に見事に当てはまると、そう理解されたからでありましょう。
実に、キリストの祭壇を囲んでミサをささげる地上の教会の上に 「主が輝き出で、主の栄光が現れる」(イザ v.2)こと、そして全世界の民がこのキリストの光に向かって集まって来て、共にミサをささげる民に加えられることを、代々の教会は信じて来ました。
私たちも今朝再び主の光に向かって目を上げ、主の公現の祭日を祝って、代々の教会と共にこの預言の朗読に耳を傾けます。
この預言は決して今日の祭日一日間だけしか有効期間がないものではなくて、再臨のキリストが実現してくださる神の国までをその射程に納めています。
ヨハネ黙示録の21:22以下には、既にこのイザヤ書60章の預言の完成する姿が描かれているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 1月8日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタ v.2)
私たちの救い主イエス・キリストは、ユダヤ人の王として生まれ、ユダヤ人の王として処刑された方であることを、今日のキリスト者は殆ど全く忘れているのではないでしょうか。
そして自らユダヤ人と自称する民族と彼らの宗教については無関心であって、特にキリスト教や教会にとって何か関係があるなどとは考えたこともないというのが、実状であろうと思われます。
しかし、福音書を生み出した初代教会の信仰にとっては、状況は全く逆でありました。
当時のキリスト者たちにとっては、星に導かれて東方から旅して来た占星術の学者たちが、遂にユダヤ人の王としてお生まれになった幼子をベツレヘムで拝むことが出来た物語りは、
この方の救いを受けた彼ら自身の喜びの姿の反映として理解されたものと思われます(エフェ 2:11-13 参照)。 (つづき)
東方でもローマでも、またエジプトでも、当時の天文学は既に数十年先の星の動きを正確に計算して予測していました。
紀元前7年の春、木星は星空で金星と出会いました。
その年の夏と秋には、魚座の中で木星と土星との出会いが繰り返されました。
これは極めて稀な大接近で、このようなことは約800年に一度起こるだけです。
当時木星は世界の支配者の星とみられ、魚座は終末時代の徴と考えられていました。
土星は東方ではパレスチナの星とされていましたから、学者たちは占星術的な予測に基づいて旅に出たと考えられます。
初代教会のキリスト者が、イエス・キリストの誕生と生涯と、その死と復活を通して与えられた大いなる救いへの感謝と驚きを、この伝承に重ね合わせたことは自然なことでした。
彼らが伝えた 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(マタ v.9)という表現に、私たちが今も得も言われぬ喜びを感じるのはそのためです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2009年(主日B年) 1月4日 主の公現
イザ 60:1〜6 エフェ 3:2〜6 マタ 2:1〜12
「あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や、“霊” によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」(エフェ vv.4-5)
キリスト教は、多くの偉大な人々による新しい宗教的真理の発見によって築き上げられ、支えられて来たという判断があります。
何よりもイエスが、これまでの一民族に限定されていたユダヤ教を、すべての民に救いをもたらすキリスト教に発展させたいう主張があります。
しかし聖書は、キリスト教の内実は “キリストによって実現される秘められた計画” であって、以前には知られていなかったこの計画を 「今や」(エフェ v.5)神が使徒たちに啓示された、と宣言しています。
・・・・・ あなたは、そのどちらを信じているでしょうか。
つまり聖書は、救済史が、神による歴史の外側からの介入によって、その完成に至るものであることを証言しているのです。
かつてアブラハムを通して、またダビデを通して神がイスラエルに与えられた約束が、
「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(エフェ 2:13)、すべての民のものになったというこの “秘められた計画” こそが、キリスト教の中心的なメッセージなのです。
主の公現の祭日の主題は、救済史をその完成へと至らせる神の御業、すなわち “秘められた計画” です。
私たち教会に 「天に蓄えられている希望」(コロ 1:5)を与えてくださった神を、賛美しましょう。
「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロ 1:23)
・・・・・ 以下、本文参照。
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(_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 (_/彡 2000年(主日B年) 1月16日 年間第2主日
サム上 3:1〜10,19 Iコリ 6:12〜20 ヨハ 1:35〜42
私たちはみな、普通の人です。 しかし聖書の中には、そのような私たちの奉献と奉仕の手本となり、またその深い意味の理解を助けてくれる、使徒や預言者たちの召しの物語りが満ちています。
それらの中から、今日私たちは二つの物語りに目を向けるようにと招かれています。
@ ヨハネ
vv.35〜39 ヨハネの証しによって、ヨハネの二人の弟子がイエスについて行って、イエスの弟子になりました。
“ちょっと立ち話し ・・・・・ ” ではなくて、このかたから神の国の福音のすべてを聞くために、二人はイエスのもとに泊まったのです。
これは推測ですが、この二人のうちの一人は、ヨハネだった可能性があります。
ヨハネ福音書はこの使徒ヨハネの証言に基づいています(ヨハ 21:24)。
そして今朝のテキストの部分は、そのヨハネの目撃証言に拠っているように思われるのです。
アンデレは自分の兄弟シモンに、「わたしたちはメシアに出会った」 と言って、彼をイエスのところに連れて行きました。
イエスは彼を見つめて、「あなたをケファ(アラム語で “岩” ・・・ ギリシア語に直すとペトロになる)と呼ぶことにする」 と言われました。 (つづき)
ヨハネ福音書が出来上がった一世紀末近くの頃の教会で、“ペトロを土台として教会が建てられている” という理解は、既に広く受け入れられていました。
そしてそのような理解は、決して後から徐々に作られたのではなくて、彼の最初の召しにおいてイエスがそう定めてくださったことだったと、このテキストは証言しているのです。
ここに、一人一人への主の召しの特殊性があります。
そして事実、ペトロへのこの召しは、十分に教会の形成の中に役立てられたのでした。
A サム上
v.10 「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。 “サムエルよ。” サムエルは答えた。 “どうぞお話しください。 僕は聞いております。”」
サムエルは神の言葉を聞き、預言者として召されました。 神が彼に特別な召しを与えられたのです。 そして彼は、神の救済史の中で十分に役立てられるのです(v.19)。
「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった ・・・・・ 」 と言われているそんな時代のただ中で、神は預言者サムエルを召し出されました。
ミサをささげる信徒一人一人にも、それぞれ神から奉献と奉仕が求められています。
ミサに参加する人は、また群のための奉仕にも参加するようにと招かれているのです。
ミサをささげることは、御子イエスキリストのいけにえの奉献に、私たちが一つに結ばれることだからです。
信仰深いよい備えをもって奉献と奉仕に参加しましょう(Iコリ 6:20)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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Iサム 3:3〜10,19 Iコリ 6:13〜20 ヨハ 1:35〜42
下働きとして主の御前に仕えていた少年サムエルにとって、祭司エリは唯一の大きな存在であったと思われます。
彼は神の箱が安置された主の神殿(臨在の幕屋)の一隅に寝ていましたが、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく(殆ど皆無)、幻が示されることも稀であった」(サム上 3:1)ので、少年は祭司エリに服従すること以外何も知りませんでした。
彼はまだ神が語られることを知らなかったのです。
いかにも現代のカトリック信者の姿をそこに見るようではありませんか。
「エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。 “戻って寝なさい。 もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いております』 と言いなさい。” サムエルは戻って元の場所に寝た。」(サム上 vv.8-9)
エリについて彼の家の罪が断罪されているとはいえ、彼はここで間違いなく祭司の務めを果たしたのでした。
主の神殿の一隅に寝ていながら、そこに臨在される神の言葉を聞くことを知らなかったサムエルに適切な指示を与えたエリの存在の重さを、聖書は伝えています。
洗礼者が指さした 「神の小羊」 は、その尊い血によって(Iペト 1:19)教会を贖い、これを天に蓄えられている朽ちず汚れずしぼまない財産を受け継ぐ(Iペト 1:4)群としてくださったキリストです。
私たち信者は指導者や奉仕者を過剰に崇めて、彼らが証しし指し示しているキリストとその福音に無関心にならないようにと、今朝、聖書を通して呼びかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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サム上 3:3〜10,19 Iコリ 6:13c〜20 ヨハ 1:35〜42
この教会は、主における聖なる神殿であり、霊の働きによる神の住まいであると(エフェ 2:21-22)、初代教会の指導者は信徒に熱心に教えたようです。
「知らないのですか。 あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、 ・・・・・ 」(Iコリ v.19)
この 「知らないのですか」 とは、信者がわきまえているべき最も基本的な事柄を提示する句で(ロマ 6:3 参照)、昔のカトリック教会で洗礼志願者が当然理解し、暗記しなければならなかった公教要理の条項のようなものを指しています。
現代流に言えば、それはもっとも基本的な信仰の常識であって、こんなことも分かっていない人は “キリスト者の資格なし” ということになります。
Iコリ 3:16 でも、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」 となっているように、この神殿は 「あなたがた」 という “共にミサをささげる共同体” を指していて、切り離された個人一人一人のことではありません。
この共同体性を理解することは、現代人にとっては特に大切であるように思われます。
なぜなら今日の世間の常識では、まず個人一人一人の信仰があって、同じ信仰の仲間が集まって教会という宗教団体が成立すると考えられているからです。
それで、 “伝道” とか “教会造り” ということが、世間の起業の場合と同じように “教会経営” という発想で進められ、それに “成功したとかしなかったとか” という形で評価されるのです。
多くのプロテスタント教会がすでにそうであり、多かれ少なかれカトリック教会でも似た傾向が見られます。 (つづき)
しかし、教会は主における聖なる神殿であり、信者はその部分(Iコリ 12:27)であって、いわば一人一人は聖霊が宿っておられる教会の縮図(microcosm)、幹に対する枝(ヨハ 15:1-6)のようなものなのです。
教会につながっていなければ、「外に投げ捨てられて枯れる」(ヨハ 15:6)ことになります。
枯れ枝をいくらたくさん集めても、それで教会が出来る訳ではありません。
私たちが教会を、“経営し運営される組織” として考えるか、それとも “聖霊が宿ってくださる神殿” と理解するかによって、主の言葉が示されず(サム上 v.7)、神のことばが聞こえないことにもなり(サム上 3:1)、
あるいは主がお呼びになる声をミサを通し、聖書を通して聞くことにもなります。
「どうぞお話しください。 僕は聞いております。」(サム上 v.10)
「サムエルは成長していった。 主は彼と共におられ、 ・・・・・ 」(サム上 v.19)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 老クリスチャンって、誰も読まないのに長い文章書いてる。
誰も読まないのに。
無駄な努力なのに。
カ・ワ・イ・ソ でも、老クリさんは別人になりすまして
ヘビAAの人を「糖質」「ストーカー」とか罵らないよ
ただ、逆ギレして乱れる所は見てみたい気がする 2000年(主日B年) 1月23日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
マコ vv.14-15
私たちの福音は、神の国の福音です。 救い主イエス・キリストによって、神の国の福音が教会に委ねられました。
今や 「時は満ち、神の国は近づい」 ています。 ですから今の時代は 「悔い改めて福音を信じ」 る時なのです。
これは神の国の福音ですから、代々の教会は諸世紀を通して、イエス・キリストの再臨と私たち救われた人々の復活に期待して、感謝の祭儀を守って来たのです。
今朝もミサの中で聖書が朗読され、こうしてその解き明かしである説教が語られるのは、この聖書に語られている神の国の福音への信仰を、教会が今日に至るまで受け継いで来ているからです。
多くの人々は、歴史を経て時代は変わり、人間の思想や価値観も時代とともに変わって来た ・・・・・ と考えています。
しかし教会はいつの時代にも、この神の国の福音によって教会であり続けて来たのであって、その福音と信仰が新約聖書の時代といささかも変化しないように、使徒継承というものを大切にして来ました。
ですから今朝のマルコ福音書の言葉は、今朝ここに集まっている私たちにももう一度新たに語りかけているのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 1月26日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
ヨナの説教を聞いて悔い改めたニネベの人々には、迫り来る神の怒りを免れるための切迫感がありました。
そのように、現代の教会が福音を聞くということは、今や時が満ち、神の国が近づいているという切迫感を理解することと不可分の関係にあります。
私たちがイエス・キリストを信じて、その血による贖い、罪の赦しを受けたのは、キリストの再臨の日に備えてのことであります。
そしてその日は近いのです。
使徒パウロはコリントの教会の人々に助言を書き送るに際して、その根拠として 「この世の有り様は過ぎ去るからです」(Iコリ v.31)と述べました。
神の国は近づいたという福音が、キリスト者の日常生活を、外見よりもむしろその質において変化させました。
ガリラヤ湖のあの漁師たちが、その家業をこれまで通りに続けながら、既にイエスが呼び出される日には、直ちにその仕事を残して従う者に変わっていたというマルコ福音書の物語りに、初代教会のキリスト者が共感を覚えた様子が目に浮かぶようです。
この同じ福音、神の子イエス・キリストの福音(マコ 1:1)、御国の福音(マタ 4:23)を、現代の教会は今朝再び聞いています。
主の忍耐によって(IIペト 3:9)、現代の教会は今なお 「時は満ち、神の国は近づいた」 という 「時」 の中に置かれているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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日本国と大和民族の敵 カトリック・キリスト教会
現在のカトリック教会の堕落腐敗と聖性の喪失は看過できないところまで来た。もはや、それらは彼らに取って当たり前のことである。
典礼破壊及び聖域愚弄は当然のことながら、正平協(日本カトリック正義と平和協議会)をして明白に政治左翼活動を活発に行っている。
カトリック教会当局聖職者はこれら組織と活動を許容しているばかりか、自ら積極的に影響力を行使しながら活動に参加しているのである。
宗教法人であることを隠れ蓑にして、日本国と大和民族の伝統的精神文化の破壊を目論む反日左翼イデオロギーの牙城・要塞となっている。
かつての高潔な公教会カトリックは過去のものとなった。今や反日左翼運動家・在日コリア・その他反日プロ市民の巣窟となっているのである。
そして外国人参政権の獲得・人権擁護法案(人権侵害救済法案)の成立・夫婦別姓制度の導入・自虐史観の徹底・防衛力の否定などを目指している。
これらは、いずれも日本国の主体性と国柄、大和民族の文化と価値観を徹底的に破壊消滅することを目標とした国家侵略破壊行為に他ならない。
日本国と大和民族の未来を守るために、今、カトリック・キリスト教会を敵性組織と明白に認識して彼らと闘わなければならない。 2006年(主日B年) 1月22日 年間第3主日
ヨナ 3:1〜10 Iコリ 7:29〜31 マコ 1:14〜20
預言者ヨナは大いなる都ニネベに行って、40日後に迫った神の審判を予告しました。
ヘブライ人のヨナにとって、都ニネベに住む異邦人のような罪人(ロマ 2:15)などは取るに足りない存在に思えました。
しかし予想に反してニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけて 「おのおの悪の道を離れ」(ヨナ v.8)たのです。
そして 「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(ヨナ v.10)のでした。
この物語りが、“神の国の福音” を聞かされている私たちの教会のことであるという理解で、今朝の朗読配分は用意されました。
全世界の教会の今朝のミサで、その朗読を通して使徒たちの宣教、更にその中で確かに語っておられる天上のキリストの御声に触れることの出来る信者は幸いです。
生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた終末のキリストは、今はまだ “この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる”(使 10:43)キリストであることを感謝しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2000年(主日B年) 1月30日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「人々はその教えに非常に驚いた。 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マコ vv.21-22)
このような主イエスに、私たちもお会いしたいと思います。
私たちは漠然と信じているのではなくて、権威ある者としてお教えになる主イエスに出会って、私たちが受けている救いについてもっとしっかりした確信を持ちたいものだと思います。
「人々は皆驚いて、論じ合った。 “これはいったいどういうことなのだ。 権威ある新しい教えだ。 この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。”」(マコ v.27)
現代の教会が、この驚き ・・・ 神の子イエス・キリストの力ある救いに与かる驚き ・・・ を体験する教会となるために、第二バチカン公会議は典礼憲章を定めて、典礼刷新の基礎をおきました。
全世界の教会は今、その典礼刷新の中を歩んでいるのです。 (つづき)
ミサで聖書が朗読されることについては、「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない」(典礼憲章 51)と規定され、そのおかげで私たちは今朝も、定められた三つの朗読を聞くことが出来たのです。
さらに会衆がそこから神の呼びかけ、神の語りかけを聞くことが出来るように、典礼憲章は 「典礼の暦に従って、聖書に基づいて、信仰の秘義とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する」
「特に、主日と守るべき祝日に、・・・・・ ミサ聖祭において、説教を重大な理由なしに省略してはならない」 と定めました(典礼憲章 52)。
私たちが今朝、マルコ福音書からの朗読を通して聞いたガリラヤ湖畔カファルナウムの会堂での人々の体験は、説教を通して今日の私たち自身の体験となります。
なぜならこの福音書で物語られている主イエスは、私たちが今朝このミサでお会いし、その御聖体に与かるイエス・キリストと同じ方だからです。
私たちも今朝、この同じ神の子イエス・キリストにお会いして、その権威ある教え、権威ある救いに驚くのです。
それが私たちのミサなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Iコリ v.35)
主イエスが、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マコ 10:45)主の僕として十字架に死に、信じる者を義とするために復活させられたとき(ロマ 4:25)、
かつては “秘密”(マコ 4:11)であった神の国は、今や教会の信徒たちにとって、「力にあふれて現れる」(マコ 9:1)将来の完成を待つ神の国となりました。
復活の勝利、聖霊の降臨、使徒たちの教会の誕生という出来事によって、神の国の業が完結してしまったのではありませんでした。
「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)という信仰こそが、キリスト者のミサと、その生活上の倫理の土台となったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>657
> 「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)
脅迫罪とは、被害者の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し
害を加えることを告知して人を脅迫することによって成立する犯罪をいいます。
刑法222条1項は、「生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して
人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」と定めています。
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申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
ミサ典礼書の総則 95 には次のように書かれています。
「司祭は朗読台で福音書を開き、“主は皆さんとともに” と唱える。 それから “(マルコ)による福音” と唱え、親指で福音書と自分の額、口、胸に十字架のしるしをする。」
ただし、“これは司祭の動作であって会衆の動作ではない” と、ユンクマンが解説しているものです(ミサ p.215)。
そして更に続けて括弧書きで、「日本では、福音書に十字架の印をしながら “(マルコ)による福音” と唱える」 となっています(日本の教会における適応)。
2002年に出版された新しいラテン語規範版の総則では、司祭だけでなく会衆も “自分の額、口、胸に十字架のしるしをする” と修正されましたが、これに従う日本語版典礼書の改訂は、未だ教皇庁典礼秘跡省の認可を得るに至っていません。
ですから今は、日本語版現行典礼書(1978年)掲載の総則に従ってミサが行われることが正しいのです(暫定版 総則 p.8 日本における適応 参照)。
福音が語られ聞かれることへの熱心ではなくて、不正確な知識による自己流の誤った動作への執着が、なぜか10年ほど前からカトリック浜松教会の会衆の間には伝染してしまいました。
しかし、キリストの福音に掛かっている覆いは取り除かれねばなりません。
神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が、ミサをささげる一同に見えるようになるために(IIコリ 4:3-4)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
主イエスも宣教されました。 しかし聖書が語る “宣教” とは決してイエスの “単なる教え” ではありません。
神の国の福音は、イエス・キリストの福音です。 それは神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した “救いの福音” です。
使徒たちから始まって代々の教会は、福音を宣べ伝えて来ました。
人々が福音を聞いて救い主イエス・キリストを信じるようになり、洗礼の秘跡を受けて実際にこのキリストの福音に与かる者となるように、教会は宣教を続けて来たのです。
ミサは、主イエス・キリストの死と復活を記念し、十字架のいけにえをささげ、一同がこれに与かる “感謝の祭儀” です。
すべて洗礼の秘跡を受けたキリスト者は、ミサに与かり、神の国の福音に与かる権利と義務を持っています(ミサ典礼書の総則 3)。
罪と死のもとにあって、“滅び行く命” でしかなかった者 ・・・・・ 、それが私たちすべての人間の姿です。
イエス・キリストの福音なしには人間はどんなに悲惨であるかを、私たちは思いましょう。
私たちの聞かされている福音は神の国の福音です。
私たちはイエス・キリストの救いに与かって、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じて歩んでいるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「忘れないでください。 わたしの命は風に過ぎないことを。 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」(ヨブ v.7)
このヨブの嘆きの言葉を厭世主義と理解するなら、それは聖書の正しい読み方ではありません。
ヨブは絶望と厭世の中で独り言を語ったのではありませんでした。
そうではなくて、彼は神に訴えて、神が彼の言い分を否定し、神が自らの答えをもって彼に報いてくださることを期待していました。
ヨブの語る自らの人生は、私たち自身の人生の現実そのままです。
もし私たちがキリストの福音を聞かず、福音に与かって生きることをしていなかったら、ヨブの語る絶望と厭世は実に私たち自身のものであったことでしょう。
しかし、キリストの福音によって私たちに神の国の希望が約束されたので、私たちはヨブの嘆きの言葉を神への希望の光の中で改めて聞くことが出来るのです。
すべての信者会衆がキリストの福音に与かって生きるために、現代の教会は使徒たちから受け継いだ宣教を継続しなければなりません。
それはキリストの福音の宣教ですから、使徒継承に基づく宣教でなければなりません。
同時に信者会衆も、ミサを通して神のことばの食卓の豊かな富を受け取るために、自らの充実した、意識的な、行動的な参加を大切に考える必要があります。
今朝のヨブの嘆きの言葉を通して、神は私たち現代の教会にそのあるべき姿、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィリ 1:5)という姿へのひたすらな渇望を、呼び覚まそうとしておられます。
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http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より しなければならない
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人 2006年(主日B年) 2月5日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
病気や悪霊による苦しみからいやされたシモンの姑も町の人々も、そのことによってイエスから始まった神の国の福音の宣教に参加する者となったのでした。
ヨブの叫びは、イエスのいやしによって解決されはしませんでした。
「忘れないでください。 わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ v.7)
イエスによるいやしは、彼らが共に福音にあずかるようになるためでありました。
福音から切り離されたただの癒しは、人を救うことがありません。
「そこで神は、(福音の)宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリ 1:21)とある通りです。
ヨブの叫びは、主の再び来られる日まで続く福音の宣教へと招かれているすべての人の、ありのままの姿を暴露します。
神だけが、キリストの福音だけが、神の国の福音だけが人を救うことに目覚めるキリスト者は幸いです。
その福音は “十字架の言葉の福音”(Iコリ 1:18)であり、“神の秘められた計画を宣べ伝える福音”(Iコリ 2:1)であって、
復活された主が 「私は世の終わりまで、いつもあなたがた(の宣教)と共にいる」(マタ 28:20)と約束してくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 福音のために、掲示板で自演や責任転嫁もしますかね? 2000年(主日B年) 2月13日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
現代の私たちの教会を通しても、この神の救いの御業は進められています。
教会は、いつの時代にも神の国の到来を待っている群なのです。
その教会の中で、いろいろな活動いろいろな働きがあって、一般にはそのような各種の活動を見て、人々は “これがキリスト教なのだ” と理解しています。
確かに、いつの時代にもキリスト教会は、いろいろな活動いろいろな働きによって世の中に貢献して来ましたし、そのようにしてイエス・キリストの恵みや愛を多くの人々にもたらして来たと言えます。
しかし、主イエス・キリストによる終末的な救いの業に目が開かれていない人は、教会についてもキリスト教についても、まだ本当には分っていない人です。
神の国の王であり、終末の審判者であるイエス・キリストがかつて地上に来られたとき、今朝のテキストの中の “一人の重い皮膚病を患っている人” もいやされたのでした。
彼は再び、社会復帰をすることが出来ました。 しかしそれがすべてではありませんでした。
「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(マコ v.45)。
そして今なおこの人は、彼をいやしてくださった方は神の子・救い主であることを、聖書を通して現代の私たちに向かっても語っているのです。
私たちは神の国の福音を信じ、主の再び来られるのを待ち望みつつ、主日ごとにミサをささげている群です。
各自はそれぞれいろんな形で教会の活動にも参加しています。
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ 10:31)
神は御子イエス・キリストによって、すべての人を罪から救い出して神の国に復活させてくださる終末的な救いの業を、教会を通して進めてくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>683
イエス! タカスくりにっく
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人 それがどうした 文句があるか
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