敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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2005年(主日B年) 11月27日 待降節第1主日
イザ 63:16〜64:7 Iコリ 1:3〜9 マコ 13:33〜37
私たちが知っている教会の実状は、人々はみな “自分は神の恵みを受けている” とは思っているけれども、だれも “自分はキリストに結ばれて、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされている” とは全然言えないというものです。
しかしコリントの町では、まだ最近信者になったばかりの異邦人キリスト者たちが、「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(Iコリ v.7)と述べられています。
明らかに、そこには現代のキリスト者である私たちとの決定的な違いがありました。
初代教会の人々が聞いた使徒的宣教が、聖伝と聖書という形でそのまま現代の教会にも伝えられているのに、私たちが知っている教会ではそれが語られることも聞かれることも僅かなのです。
まさに 「目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることがない」(イザ 6:10)というのがありのままの姿です。
物質的、経済的には豊かになったが、キリストの体である教会の 「破滅に心を痛めることがない」(アモ 6:6)という叫びが、読まれざる聖書の中に閉じ込められています。 (つづき)
私たちはこれまで、論ずることには雄弁でありましたが、聞くことには無能であることが多かったと気づくべきです。
教科書は読まずに参考書を頼りにし、学校の授業には本気で取り組まずに学習塾を当てにするように、キリスト教の各種出版物や雑誌から雑多な情報を入手はするが、聖書そのものは殆ど読まないというのが、現代のキリスト者のごく普通の姿となって久しいのです。
この世の論客(Iコリ 1:20)の発言には無批判に耳を傾けるが、使徒たちの伝えた福音には殆ど全く関心がなかったという大きな誤りに、私たちは大いなる決断を以て対処しなければなりません。
その要求こそが、待降節第一主日のミサの朗読配分から私たちが聞かされている使信であります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています