2005年(主日A/B年) 11月20日 王であるキリスト
エゼ 34:11〜17  Iコリ 15:20〜28  マタ 25:31〜46

人の子の日について福音書が伝えている一連の教えは、地上のイエスの短い生涯の間の出来事を超えた、終末的未来に関する預言を取り上げています。
主イエスは復活して 「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(使 10:42,17:31)という証言は、まさに使徒たちの宣教の核心部分でありますが、かつて主の復活以前には弟子たちの全く知らなかったことでありました。
使徒たちの宣教したキリスト教は、イエスによる神の贖いついての宗教であつて、イエスの宗教(と推論されるもの)の再現ではなかったと言われるのは、その意味です。

最後の審判の日はノアの洪水のようであって、思いがけない時にやって来る。
それは通常の歴史的出来事のように 「見よ、ここに」 「見よ、あそこだ」 と言ってはならない。
なぜなら、人の子は稲妻が東から西にひらめき渡るように来るから。
このような人の子の日を、キリストが主の主、王の王として(黙 17:14,19:16)栄光の座に着く審判の日として描いているのが、今朝のテキストです。
「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかる」(マタ v.46)という主題は、伝えられたイエスの多くの教えを解釈する鍵となりました。
教会の信条の中で最後の審判は決して付録のようなものではなくて、使徒たちの伝えた福音の本質そのものであります。
ですから代々の教会は典礼暦の最後の主日のミサの朗読配分で、王であるキリストを覚えて来ました。

マタ v.40 と v.45 の 「小さい者」 とは、マタ 10:40-42 から分かるように、福音の宣教のために働く協力者を、また教会を共に造り上げてゆく信者たちのことを、先ず第一に意味していることを指摘しておきましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
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