敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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【信仰の話 -7-】
私たちがそれぞれの能力や時間の制約の中にあっても、自分なりに 「キリストの福音」 を学ぼうとするなら、いくらでも日本語で良い助けを見出すことが出来ます。
先ず、日本語の聖書を、その翻訳への十分な敬意を払って読むことです。
現行の日本語聖書として主なものは 「新共同訳」 と 「フランシスコ会訳」 の二つですが、そんなに大きな訳文の違いはありません。 ただ後者には、聖書各巻の初めに簡単な解説がついているので、これから新しく購入する人にはオススメです。
聖書の注解書は、もちろん大切なのですが、自分の能力に見合う良書に出会うのは簡単ではありません。
これは、いちばん当たり外れの多い、学習者泣かせの分野だと思います。
第三に、歴史的な(プロテスタントの)信仰問答や信仰告白と呼ばれる多くの書物が、ほとんどすべて日本語になっています。
是非、(一冊だけでなく) 何種類かを読んで、出来るだけ柔軟な思考を養うようにしましょう。
カトリックの場合は、やはり 「カトリック教会のカテキズム」 をお勧めしたいと思います。 【信仰の話 -8-】
聖書の証言である 「キリストの福音」 を宣教するために、歴史の教会は様々な仕方で努力して来ました。
そしてそれらは常に、その時代、教会の置かれた状況に応じての、一つの 「試み」 でありました。
「キリストの福音」 は、それ自身に於いて無限であり、無尽蔵であって、神学のどのような試みによっても完全に説明し尽くすことが出来ないからです。
教会は、そのような過去の先人たちによる、多くの 「試み」 の果実という遺産を持っています。
しかし私たちがそのような果実のどれか一つに、時代を超えて不変不動に固執することはふさわしくありません。
私たちはそれらの遺産を、十分な敬意を抱いて学びつつ、しかも常に新しく現代における 「試み」 に向かいます。
その場合にもその 「試み」 は、旧・新約聖書の厳密な釈義に由来しなければならないことは当然です。
なぜなら、もし聖書の釈義を軽んじるような 「現代の新しい福音解釈」 などというものが語られるなら、それはただの人間的な思弁に過ぎず、教会の 「宣教の奉仕」 にはふさわしくないからです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています