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敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2010/09/26(日) 03:40:09ID:aFgRDPWp
と思ってました
2ちゃんねるを見るまでわ
0412老クリスチャン
垢版 |
2017/11/10(金) 09:42:05.69ID:O3rRjQcx
2011年(主日A/B年) 11月6日 年間第32主日
知 6:12〜16  Iテサ 4:13〜18  マタ 25:1〜13

「真夜中に “花婿だ。 迎えに出なさい” と叫ぶ声がした。」(マタ v.6)

新約聖書で “到来” を意味するパルーシア(παρουσία)という言葉は、キリストが見える姿で世の終わりに来られる日を指して用いられています(Iテサ 2:19,3:13,4:15,5:23 参照)。
それは “イエス・キリストが現れるとき”(啓示=αποκάλυψις)のことで、その日には最終的にすべてが明らかになるでしょう(ロマ 2:16、Iコリ 13:12 参照)。

イエスはこの花婿の到来の譬え話で、御自分の再臨の日のことを教えておられます。
その日が来るまでは、十人のおとめたちは皆 “ともにミサをささげる信者たち” でありました。
教会で行われる行事にも参加して一緒に食事し、一緒に神父様の教えを受けたのです(ルカ 13:26)。
しかし、だれでも人は疲れれば “皆眠気がさして眠り込む”(マタ v.5)のです。
「目を覚ましていなさい」(マタ 24:42)とは信仰の事柄であって、肉体のことではありません。
極度の不眠の行を守り、極端な断食を重ねることで、天国への道を開く功績を獲得出来るというような修道院的修徳を、この譬え話から導き出すのは間違っています。

「そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。」(マタ v.7)
0413老クリスチャン
垢版 |
2017/11/10(金) 09:43:22.18ID:O3rRjQcx
(つづき)
そのとき、愚かな五人のおとめたちに明らかになったことは、彼女たちのともし火が消えそうになっているということでした。
まさか、キリストが世の終わりに来られるというパルーシア(παρουσία)を、彼女たちは全く予想していなかったのです。
それまではずっと、だれもかれもが皆同じように、善良なカトリック信者だったことを思うと、これはあまりにも悲惨な 「泣きわめいて歯ぎしりする」(ルカ 13:28)結末であるに違いありません。
しかし神は何も弁解なさらないのです。
「はっきり言っておく。 わたしはお前たちを知らない。」

私たちは今年も、教会が終末の日に心を向ける典礼暦の最後の三主日に至りました。
教会が公に言い表している信仰をしっかり保つ(ヘブ 4:14)ことの大切さを思い起こすことは、この期節の恵みです。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって(終わりの日の)神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ 5:8-9)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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