ときは4代将軍家綱の時代です。
下総国(今の千葉県)印旛郡公津村(佐倉藩)の領民たちは、藩の苛政に苦しんでいました。
折からの飢饉に加え容赦ない年貢の増徴でその日の食べ物にもこと欠く状況が続きましたが、取り立ては厳しくなる一方です。
先祖伝来の田畑を手放す者が続出し、一家離散や餓死は日常のこととなりました。

塗炭の苦しみに耐えかねた村人たちは、もはやこれまでと一揆をはかります。
村の名主であった惣五郎は村人たちを押しとどめ、代わって窮状を藩に訴えましたが聞き入れられず、ついに単身での将軍直訴に走ります。
直訴は天下のご法度。死罪は免れません。それを承知で江戸に出た惣五郎は、
上野寛永寺での参詣を終えて帰る途中の将軍家綱に走り寄り、訴状を差し出します。

幸い訴えは取り上げられ、領民の年貢は減免されました。
とはいえ罪は罪、惣五郎は磔刑と決しました。もとより覚悟の上であり、
さればこそ妻子と縁を切って連座を避けようとしてあったのですが、それは空しく、
1男3女の子供たちも打ち首という残酷な沙汰が下され、公津ケ原刑場の露と消えたのです。

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