マルコによる福音書 12:41〜
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン
堂か二枚、すなわち1クァドラスを言えれた。イエスは、弟子たちを呼び集めて言われ
た。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれ
よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の
持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

あまりアガペー、フィーリアにとらわれ過ぎると、現実はきちんと振り分けられるほど
単純ではないよ、多分。このやもめの愛はアガぺーか?多分、アガぺーだろう。
信仰は理性の観点では疑うことができる。だから、神の存在は疑いうる。
彼女にとって神は信仰の対象である。だとして、理性からはいないかも知れない神に
生活費の全てを捧げた、それはアガぺー。だが、彼女にとって疑いようのない実在な
ら、どうだろう。彼女はどういう動機でそこまでしたのか?彼女がどうぞ、使ってく
ださいと差し出したお金ならフィーリアだろう。彼女がどう思ってるのか、それは
想像するしかない。信仰が確信に近ければ、フィーリアに近づき、信仰によれば、
アガぺーに近づく。