ギリシャ語の聖書を持ってないので、>>110で語られる愛がフィーリアかアガぺー
なのかはわかりません。ネットで調べればでるのかも。文脈から言って多分フィー
リアだと思ってます。 犬連れてさんぽしながら考えてみたのですが、キリスト教徒
の共同体において、フィーリアだけがあるというのも、おかしくて、現実には、困っ
てる仲間に対してそっと例えば生活費を置いておいてあげるとかもありだと思います。
フィーリアはあくまで本質的にというとらえ方をするべきですね。
そういえば、県立の図書館で本を借りた時、本を開いたら千円札が何枚か入った封筒
が挟んで合って手紙に「お礼はいいです」と書いてありました。そのお金、何に使っ
たかは覚えてませんが、ラッキーぐらいにしか思ってませんでした。すみません。
ところで、不等式ですが、現実の生活では、それぞれ与えられた役割があってそれで
秩序がなりたっている以上、妻を養うべき者として夫がいるわけですから、妻が生活
に窮するようなまねはその役を全うしてることになりません。たとえお金に困っている人がいたとして、妻や子の生活をほったらかして自分の稼ぎを募金につぎ込むこと
はよくありません。ですから、そういう意味で妻・子>それ以外の人 となるのは
仕方のないことです。ですが、愛の大きさは 妻・子=それ以外の人 なのではないでしょうか。できるだけのことはする、ではないですか?
どのクリスチャンと世間に呼ばれてるもそんなもんで、そういう人すら少ないのが
現状なのでは。