《平成芸能回顧録》中森明菜のトラウマ “金屏風事件” の代償

平成元年の7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で衝撃の自殺未遂を起こしたことだった。

 仕事を終え六本木の自宅マンションに帰った近藤は、浴室に血まみれで横たわる明菜を発見。
明菜の自傷状態は左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチの深いもので、神経に達するほどの重傷だった。
すぐさま慈恵医大病院に運ばれ、6時間にも及ぶ手術の結果、一命を取り留める。

 当時、現場を取材したベテラン記者が振り返る。

「すぐに結婚したかった明菜と、結婚は30歳を過ぎてからという近藤の考えには温度差があったわけですが、
すでに6年間も交際をしていた明菜にとっては、近藤に全てを捧げる覚悟を持っていたに違いない状況でした。

 当時、明菜が結婚後の新居のために蓄えていた数千万円の資金を、近藤が自身のカーレースに使い込んだなど、
明菜が騙されているという報道が多くありました。

 その中でも一番、明菜の心を砕いたのが最大のライバルであった松田聖子と近藤の、ニューヨークでの密会キス写真を写真週刊誌に掲載されたことだった。
これが自殺未遂の最終的な引き金となったと言われています」

無念な表情の明菜

 その後、約半年間も表舞台から姿を隠していた明菜は、
12月31日の大晦日、夜10時過ぎという時間に緊急復帰会見を行なうことになる。
テレビ朝日は大晦日の特番を急きょ変更して生中継にするなどの気合の入れようだった。

 会見場には明菜だけではなく近藤の姿もあり、バックが金屏風というものだった。
これは婚約発表会見ではないかと、現場の新聞記者たちが、元旦のトップ記事の差し替えや、見出しのやり取りでちょっとしたパニック状態になっていたという。

 長かったロングヘアをショートにし、グレーのスーツ姿の明菜が姿を表すと、途切れることなくカメラのフラッシュが光り、シャッター音が鳴り響く。
彼女は200人を超える報道陣を前に、深々と頭を下げていた。

 自殺未遂に及んだ理由を仕事上の人間関係が原因としながらも、「一番最初に見つけてほしかった」と近藤への思いを静かに切々と話す。

 会見に同席した近藤は、

「(復帰会見の)お手伝いが少しでもできたことに、すごく喜びを感じています」と他人事のように話し、
リポーターからの「結婚は?」の質問に対しては「そういうことはまったくありません」と、明菜との6年間におよぶ恋愛すら否定してみせたのだ。

 隣でうつむきながら近藤の話を聞いていた明菜は、最後に近藤に促されるように“友人として”握手をするという形で会見を終えた。

 この時の明菜の表情は何ともいえない無念さをにじませていたのはいうまでもない。これがいわゆる“金屏風事件”だ。

 その後、近藤はカーレースを続行していくが、本業の芸能活動は避けるように表舞台から遠のいていき、94年6月には一般女性と結婚