【'50s〜'60s】カバーポップスを語ろう2【日本語詞】 [無断転載禁止]©2ch.net
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ジャズ、ラテン、ハワイアン、カントリー&ウエスタン、ロカビリー、ティーンポップ、イタリアンポップス(カンツォーネ)、
フレンチポップス、リバプールサウンドなど1950年代から1960年代に日本の音楽シーンを席巻したカバーポップス
(日本語に訳詞されたポップス)について語りませんか?
前スレ
【'60初期】カバーポップスを語ろう【日本語詞】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/natsumeloj/1283948376/ プレスリーカバーは清野太郎の「冷たい女」が一番好き
訳詞もいいと思う
和製プレスリーといえば佐々木功やほりまさゆきもいいけれど、
60年代デビューだからちょっと出遅れ感があるね
清野はその後アメリカに渡ってプレスリーの前で歌も披露したこと
ある人だよね
初期の音源はCD化されたけれど、サヨナラ・エルヴィスもCD化してほしい 日本で初めてプレスリーをカヴァーしたのは小坂一也だろ 昔のソノシート付きブックで洋楽がよくカヴァーされてたが、大抵ダークダックスみたいな
グループがビートルズをやったりしてて原曲のイメージぶち壊しだった。
唯一ケーシー浅沼という人のプレスリーのカヴァーが雰囲気出てて上手かった。 手頃な価格なんで買ったら写真だけは本物を使い中身は別の楽団、歌手だった
ソノシートが流行った時代が懐かしい ケーシー浅沼さん、チキチキマシン猛レースの人だね
小坂さん自身がプレスリーとかのロックンロール系の曲は
自分の声質に合わないからあまり歌いたくないと言っていたような
やはりカントリーの人だからね >>275
パット・ブーンやコニー・フランシスは、評判よかったね
小坂一也といえば、ライフルマンの主題歌 仕事欲しさに愛人を殺した克美しげる
カヴァー歌手の末路は惨めでブザマだったな 青山ミチはヤクで何度もパクられた出来損ないのアイノコだった ポール・アンカは16、17で自作の曲がヒットして調子こいてしまったのも無理はない
歳をとってから若い頃のことを反省している発言もしている
フランキー・ライモンみたいな一発屋で破滅した短い生涯のような
悲惨なことにならず長く活動できているのは良かったね
ジーン・ヴィンセントの来日も好評だったんじゃない?
東京以外でもツアーやったみたいだよね
兵役の時にけがをして日本の病院に入院していたこともあるという噂もあるけれど
あれは本当なのだろうか?
ジーンの日本語カバーは、雪村いづみの「ビー・バップ・ア・ルーラ」と
スリー・ファンキーズの「ミスター・ロンリネス」くらいだろうか
平尾「ジザベル」ゆかり「月あかりの下で」あたりはジーンのオリジナルではなかったし
英語で歌っているのなら他にも存在しているね ニール・セダカも来日しているんだよ
ポール・アンカとはダンチのお行儀の良さだった ボビー・ヴィーも来日している
そのとき同行したのがドンとボブ二人だけのベンチャーズ ジーンよりも先にワンダ・ジャクソンが来日しているんだよね
本格的なロカビリー歌手が来日した最初だと思う
ジーンとワンダは同じレコード会社に所属していたし、ワンダの
フジヤマ・ママのヒットがなかったらジーンの来日もなかったのかもしれない
今なら大炎上するような歌詞の楽曲が若いロカビリアンにも歌い継がれる
スタンダードナンバーになっているんだから皮肉なもの ボビー・ライデルも来日しているぞ
当時のアメリカで人気のあった青春歌手だった ボビー・ライデルはヒナヒナした感じのヤサ男だったな
でも声量があった
フォー・ゲット・ヒムは全米5位にランクインされた彼最大のヒット曲 言うまでもなく日本での代表作は「ファンキールックのお嬢さん」
競作だったけれど、中島潤まで歌ってたとは!
マイウェイの訳詞でお馴染み
「青春スインギン・スクール」「星空の花売り娘」・・・懐かしい カントリー&ウェスタンから転向して流行歌手になったのが北原謙二と城卓也
それぞれ一発屋で終わったが 北原謙二のカヴァー曲では「北風」がいいね
オリジナルはモノラルだけど、北原のはステレオだし カバーでも歌謡曲でも1発も飛ばせない人が
いっぱいいるんだからどっちか当たれば大成功 パパはニュースキャスターではじめて見た藤木
コメディ路線の人だと思っていた ジェリー藤尾なんていう歌手もいたっけ
坂本九とよくテレビ、映画などで共演していた
二人とも故人になってしまった >>307
亡くなったのはジェリー伊藤でしょ。伊藤さんと英語であそぼで共演してた
ミクも若くして亡くなったけど。 とん平のヘイ・ユウ・ブルースはミッキーさんのプロデュースだったのか 紅白出場歴のある
島崎雪子、河野ヨシユキの誕生日
鹿内孝の77歳の誕生日でもある >>314
'50s〜'60sでもなければカバーポップスでもない 平尾さん=作曲家、音楽スクール、審査員など
ミッキーさん=プロデューサー、俳優、落語家など
二人は業界で生き残るためにいろいろやっていたけど
敬ちゃんは自身が歌う以外に何か副業とかやっていたのだろうか
歌だけでは食っていけなかったと思うんだけど カヴァー歌手から演歌歌手、俳優、タレントに転向して食って行けた人はマシ
そのまんまで消えた人、人殺しに落ちぶれた奴もいた そんな克美しげるの命日がやってくる
聖者になんかなれなかったけれど行進しよう 紀本ヨシオなんていう歌手を知ってる人は相当な年配だぞ 紀本ヨシオって
♬海に行こうよ サマーホリデー の人か? 「サンキューダーリン」をカヴァーしたカヴァー歌手だよ 「シェリー」のフォーシーズンズの映画、今やってるよ
当時のポップスファン必見ですね 尾藤イサオもプレスリーのカヴァーで売り出した歌手
TVのスパークショーでワンナイトを歌っていた 健康そのものの尾藤さん、目の病気だったんだね
今は元気だからいいけれど、衰えてヨボヨボになった尾藤さんは見たくないなぁ 和製プレスリーの佐々木功はまだ生きてるのだろうか? 大脱走マーチがCMで使われているから紀本さんを思い出すね 乾杯トークそんぐで北風歌っている映像あった
倒れる少し前だよね
胸が熱くなった >>326
ジャージー・ボーイズはもう何年も前の映画だよ
ブロードウェイでその前にミュージカル化されていたし
日本で舞台化もされている
今年も再演があるよ
当時の日本には和製フランキー・ヴァリのような人は
いなかったね
シェリーのカバーも九重、ピーナッツ、伊藤アイコなど
女性歌手だけだった サザンオールスターズ「いなせなロコローション」に
フランキー・ヴァリが出てくる
オールディーズ讃歌 アストロノウツの「太陽の彼方に」に歌詞をつけて歌った藤本好一というヘンな歌手がいたな 田川譲二の「太陽の彼方に」はアストロノウツの演奏にそのままヴォーカルを
のせるという暴挙だったっけ。 藤本好一はお行儀の良い青春歌謡歌手っぽかった
田川譲二はかなりのワルだったようだね 伊藤素道とリリオリズムエアーズというコミカルなコーラスグループがいた
リトル・ダーリンをカヴァーして面白おかしく聞かせてくれた
忘れられないのがローハイドにおける鞭の効果音にスリッパを使って笑わせた >>340
Tボーンズの「真っ赤な太陽」にも、歌詞がついていた
この手の曲は、英語の元歌詞があったのかどうかも、よくわからない >>344
「夢見るシャンソン人形」の「た」を「ら」で唄ったのもその人たちだったかな
わらしのうらは、誰でも聴けるわー
みんなわらしの すがらも見えるわー ザ・ヒットパレードの映像、残ってるのもあるんだね
後期のミコちゃんの人形の家、画質悪かったけれど
貴重なものが見られた
当時の映像がきちんと残ってたらなぁ
さすがに生まれてないからリアルタイムでは見ていない ワンマン社長だったくせにいい人扱いして持ち上げ過ぎだった うちの地方にフジ系のテレビ局ができたのが69年の終わり頃で、その時は
まだザ・ヒットパレードやってたんだね。見た記憶がないから、ネットされて
なかったのかもしれないが。 系列局で遅れて放送されるときはダビングしたビデオを送っていたらしい
地方局に捨てられず残ってないもんかねえ 中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりの三人娘のなかでは
やはり園まりがいちばん可愛かった 鈴木やすしは愛嬌あるキャラで役者としてもうまくこなせた 勝ち抜きエレキ合戦の司会をしていたのが鈴木やすしだった
外人バンドに対しても英語で対応していた 鈴木やすしが単身で訪米したときのエピソード
ヘンな場所に迷い込んしまったとき、数人の不良アメ公に囲まれてしまった
とっさに「俺は空手を教えにアメリカに来たんだ、なんならお前らにも教えてあげようか?」と身構えたら慌ててアメ公たちが逃げて行った
その当時から空手は知れ渡っていた 救いようのない青山ミチを、いつもかばっていたのが
後輩ハーフの泉アキだったな
ヒロシーーーーー オンリーと呼ばれていた女性たちだね
シナトラの「オンリー・イズ・ロンリー」も、この頃の曲だったかな 白人や黒人の混血児はすぐ分かるが、朝鮮人との混血は分かりづらかった
でも、ブサイクな顔と言動ですぐ分かった ノーキー・エドワーズ、死去
上の方でボビー・ヴィー来日の話が出てたね
ノーキーも含めたベンチャーズが来日したのは1965年か
wikiより
初来日は1962年のことで、ドンとボブの2人が東芝音楽工業(のちに東芝EMI)のイベントに参加し、
ベースとドラムは日本人が担当した。ボブの回想によると、ベースはなんとウッドベースで、
「とにかく何もかも滅茶苦茶だった」とのことである(ほとんど演奏できなかったために結局ドンと
ボブ二人だけの演奏にすぐ切り替えたという)。ちなみに同時に来日したのはボビー・ヴィー
(後に共作のアルバムをリリースする)、ジョー・アン・キャンベルであったが、観客のほとんどは
日本側の出演者であったスリーファンキーズのファンだったという。
当時のアーティストの来日なんてこんなものだったんだろうね
そして、ジョー・アン・キャンベルが来日してたとは、びっくり! 追記
当時四人ではなくドンとボブ二人だけの来日となった原因は、日本側が用意したギャラが
二人分しか用意できなかったためである。
そういえば、ジョニー・アリディが昨年末に亡くなっていたことをつい先日知った
日本で当時カバーされたのは「甘い暴力」平尾昌章くらいかな
フランス語や日本語はロックとは合いづらいものだったのを、先人たちが苦労したことが
今に受け継がれているんだよねぇ プレスリーから影響を受けたリーゼントヘア
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