【歌唱力】水原 弘【最強】 [無断転載禁止]©2ch.net
昭和53年7月5日西日本新聞朝刊
http://i.imgur.com/djqO5Tk.jpg
3時のあなた「悲運水原弘が危篤に」など https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-562371
2人は池袋に音楽喫茶「パラダイス」を開く。
京子によれば、店名はハワイアンの歌手で、一家と付き合いのあった灰田勝彦の歌のタイトルから取った。
店にはハナ肇が通いつめ、ミッキー・カーチスや水原弘など、昭和の名歌手たちもアルバイトで歌いにきた。 http://www.happon.com/fujimoto/novel18.html
いつだったか、どっかのテレビ局の喫茶店で、彼と僕がコーヒーを呑んでいると、水原弘さんが同じテーブルに座った。
例の如くスマイリさんは、「この人はいいんだよ」と彼にいったら、水原さんはブスッとした顔で「しってらーい」といった。 国立国会図書館サーチ
http://iss.ndl.go.jp/books?ar=4e1f&any=%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98
明日に吠える
水原弘 著
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001305233-00
出版社 都の森出版社
出版年 1973
大きさ、容量等 222p ; 19cm
価格 750円 (税込)
JP番号 75077984 おミズが存命なら、どんな歌手になっていたか気になる http://pahko.jp/mash1/pahkocity/jiden/j_works/j34.htm
このアパート福寿荘は木造モルタル2階建てというやつで、玄関で靴を脱ぐ形式のものである。
このアパートの私が寝起きしていた部屋には、 流し時代の水原弘が住んでいたという。 http://torasnack.seesaa.net/article/402226131.html
特にサンボアは中村八大カルテットが専属で、その意味でも有名なお店でした。
其の縁で勝新太郎や水原ひろしもよく顔をだしていました。 http://d.hatena.ne.jp/taka_fan/20070209#1171018849
好きなお酒が祟り42才という若さで亡くなりましたけど、
当時(昭和53年)葬儀の模様がワイドショー『3時に会いましょう』(野村泰治さんが司会を務められていましたね)で放送 さよなら映画、また近いうちに 単行本 -- 1997/10/1
田山 力哉 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4873762065
映画界の害虫よ去れ!死を賭して闘った評論家田山力哉の魂魄の著作集。映画界を震撼させたキネマ旬報の辛口コラム、映画祭の華・カンヌレポート、
傑作実名小説『水原弘』『渥美清』、蔵原惟繕、深作欣二、黒木和雄、篠田正浩、降旗康男、ジェームス三木、菅原文太、原田芳雄、岩下志麻らが無頼派評論家・田山力哉を偲ぶ。
『レコード大賞 水原弘の死』 http://www.littlejohn.jp/hidaka_goro_show/kotobano_vitamin05.05.07.htm
「新吾おまえオレの事思い出しただろ?」ってから、
「私は仕事するたんびに、これは勝新太郎恩師に、喜んでもらえるだろうか?少なくとも恥かいてないだろうか?と、思ってました」と
「そうだろ?思い出したろ?オレもサインのたんびに思い出した」
座頭市のサインは私が考えたんですよ。
「だから、オレは何万枚サインしてるかわかんないから、何万回もおまえを思い出した。
新吾な!裕次郎も死んだ。水原弘も死んだけど、オレはよく思い出す。思い出したときにそいつは生きてるんだよ!
で、傍に居るんだよ!おまえはオレを思い出したろ?だからオレはおまえの傍にいつも居たよ!オレはおまえを思い出したよ!
だからおまえはオレの傍に居たよ!だから30年こうやってったって、なぁんにも久しぶりじゃないじゃないか!」こうおっしゃった。 http://1000ya.isis.ne.jp/1111.html
やがてNET(現テレビ朝日)でADのアルバイトをするようになる村松は、
そのころ一斉にデビューしてきたジェリー藤尾、渡辺とも子、森山加代子とともに、廊下を歩いてきた水原弘を見た。
思ったより背が高くて、思ったより足が短く、思ったより腰と尻がぽっちゃりしていた。
http://www.books-ruhe.co.jp/kako/2001/01/kuroihanabira.htm
http://moon.ap.teacup.com/chijin/1187.html
たしか、水原の債鬼は、芸能界専門の高利貸しだったが、その背後に芸能プロダクションや興行師も噛んでいて、
彼らの手の内で馬車馬のように働かせられ、命金を絞りとられていたという内容でした。
後に、亡くなる前、重病の水原はもう声が出ず、舞台袖で影武者が歌い、口パクをしていたという噂も流れました。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) http://www.geocities.jp/smjx1969/a.htm
植松孝夫(うえまつ たかお)ts 1947年4月16日東京生まれ
水原弘ブルーソックス
http://www.geocities.jp/smjx1969/ta.htm
ダン池田(だん いけだ)leader 1935年4月11日中国京城生まれ
水原弘とブルーソックス http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/bf085052267f3e72ccb0db287c4afd6a
あるとき僕は、親戚の人たちに連れられて「水原弘ショー」を見に行った。
その舞台で水原弘から「間もなくデビューする可愛い女の子をご紹介しましょう」と紹介されてステージに現れたのが森山加代子であった。 https://allabout.co.jp/gm/gc/447387/all/
それでも、石川氏は誇りをもって仕事をこなし、口癖は、「おれは、レコ大3回とった」でした。(日本レコード大賞。
石川氏はバックのドラマーとして、第1回の水原弘「黒い花びら」第10回黛ジュン「天使の誘惑」第13回尾崎紀世彦「また逢う日まで」を務めていた) http://kei561208.hatenablog.jp/entry/2016/08/04/111710
1959年には「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。しかし第1回とあり、今の華やかなものではなく、
永 「局の前の喫茶店の2階で授賞式があった。コーヒーが出てるだけ」
外山「レコード大賞の1回目は」
吾郎「授賞式がステージじゃなくてカフェ。なんかゴルフのコンペみたな感じだね」
永 「今だからレコード大賞って分かるけど、1回目は誰も何だかわからない」
外山「1回目は永さんが、作詞なさった“黒い花びら”、水原弘さんの。が、受賞したんですよね」
永 「そう」
外山「1回目はそうですよね」 http://www.geocities.jp/fujiskre/kca7.html
1959(昭和34)12月15日、当時赤坂にあった日本コロムビアで日本作曲家協会制定の
第1回日本レコード大賞の最終審査が行なわれ、水原弘の歌う「黒い花びら」が受賞作品に決まった。
当時の日本作曲家協会の会長は古賀政男。この賞は、レコード歌曲の向上と発展を目的として
制定されたものだったが、当時は一般の関心がうすく、12月27日(日)の午後に文京公会堂で
開催された受賞発表会には観客もまばらだったため、止む無く会場の外を通りがかる人に頼んで
観客になってもらったというエピソードも伝えられている。
受賞した「黒い花びら」は、永六輔作詞、中村八大作曲によるもので、同年7月に公開の東宝映画
「青春を賭けろ」の主題歌として製作されたもの。当初はこの映画の主演だった俳優の夏木陽介に
歌わせる予定だったが、楽曲がむずかしいことから歌手が歌うことになり、当時まだ新人だった
水原弘に白羽の矢がたった。
作詞の永六輔、作曲の中村八大、共に歌謡界ではまだ名前の知られていない時代、新人歌手の水原弘、
そして、レコード業界では新興だった東芝レコードから発売された「黒い花びら」が、レコード大賞の
最初の受賞曲だった。
東芝レコードは現・東芝EMI、旧・東芝音楽工業。1955(昭和30)年9月から電機メーカー
東京芝浦電気(東芝)の中の音楽ソフト部門としてレコードを発売しており、このヒットが出た翌年の
1960(昭和35)年10月から東芝音楽工業として独立した。 水原弘さんに関する多くの貴重なエピソードありがとございます。 https://blogs.yahoo.co.jp/maruru39/24235805.html
2005年の12月12日に「きよしとこの夜」(NHK)にゲスト出演してくださったときに、
藤田さんが水原弘さんと親友だったことを、私は初めて知りました。
そして、その時、水原弘さんが大好きで、よく一緒に歌った歌として「愛の渚」を歌ってくださり、とても感動した記憶があります。 http://www.freeml.com/bl/5447934/21035/
上岡龍太郎さんの話によると水原弘さんにこの問題を確認したことがあるそうです。
「ウパウパ チンチン」なのか?「ウパウパ ティンティン」なのか?どっちなんでしょうか?と聞いたところ、
水原弘さんは「チンチン」だと言った。
http://www.hisakawa.net/papepo/89_d_133.html
http://www.hisakawa.net/papepo/90_d_186.html
水原弘さんの晩年もまるで美空ひばり。 健和総合病院
http://www.kenwakai.gr.jp/grp/history.html
1972(昭和47) 新中原病院開設(以下財団法人健和会による)
1975(昭和50) 新中原病院 総合病院化、健和総合病院に改称
2003(平成15) 戸畑けんわ病院開設(旧健和会中原病院新築・移転) これってありうることなんですか?どういうことだろう
https://plaza.rakuten.co.jp/s201945/diary/201607140000/
1971年 もんたよしのりソロ歌手としてデビュー
1978年7月5日水原弘死去
1979年 東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず作曲活動を続ける
1980年 自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラザーズ」として再デビューし、「ダンシング・オールナイト」をリリース
http://www.uta-net.com/user/sakushika/101_200/132.html
Q:プロ、初作品について
A:そんな中、当時、デビュー曲を模索していたもんた&ブラザースのために書いた「ダンシング・オールナイト」「ジャーニー」が作詞家としてのデビューです。 https://www.nishinippon.co.jp/feature/kayouibun/article/16628/
俊二はキャバレー「月世界」のビッグバンドのバンマスであり、プロダクションの代表であり、渡辺プロの九州支社長でもあった。
歌謡ショーだけでなくプロレス興行も引き受けていた。一俊は小学校時代に自宅へ多彩な来客があったことを覚えている。
歌手の水原弘、フランク永井…。 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/08jasrac/kouki/06/kougi06.htm
第1回にレコード大賞を取った水原弘が泣きながらステージで歌った映像を、僕は子ども心に覚えています。
テレビ中継は3、4年後からだったそうですので数年後に映したのでしょうけれど、その『黒い花びら』という曲は子どもでも歌っていました。
そのほうの女の方が捨てられたみたいな話ですが、それを子どもが歌っているんです。
「♪あの人は帰らない」と歌っていた時代でした。
だからその頃はアメリカに追いつけというような感じで発足したのでしょうか。 勝新秘録 わが師、わがオヤジ勝新太郎
アンディ松本
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4781615473
水原弘に手形の裏書を頼まれて、サインをしたのは良いのですが、さらに自分の手形まで押し、
これまた経済音痴の水原を驚かせた、というようなお話もあります。 http://tvmania.futoka.jp/?p=5428
1972年12月10日 第33回衆院選
00:10-03:30
FNN開票速報 歌でつづる戦後選挙史
水原弘ほか http://www.abegeorge.net/essay/131128.html
あれは借金だらけになった水原弘が、横浜のハコで唄っていた頃だから、昭和44年の暮だ。
水原弘は、俺が青山でやっていた「ロブロイ」のお客でもあった。
低音の魅力で一世を風靡した大歌手に恥を掻かせたくなかった俺は、
子分も連れず自分で運転して横浜のキャバレーまで行ったのだが、楽屋で見た光景に胸が詰まった。
俺より先に楽屋に来ていた金貸しに、口から出任せの言い逃れやカラ約束を言いたてる様子が哀れで、
俺は無利子で用立てた集金をする気も失せてしまった。
その当時の俺はマスコミの言う暴力団で、正確に身分を名乗れば、
二卒会(ニビキカイ)小金井一家新宿東貸し元、矢島武信舎弟、安部直也ということになる。 http://www.1242.com/kuro/index.cgi?line=12
まずは、水原弘さんの「黒い花びら」。僕は水原さんとは二回ほどお茶を飲んだことがありますが、とっても男らしい素敵な方です。 https://plaza.rakuten.co.jp/92153/diary/200801130000/
ベラミは京都にあった高級ナイトクラブの一つです。
あの頃の水原弘は芸能界の寵児で、"おミズ"と呼ばれるままに豪遊を重ねていました。
ベラミには歌手としてお客としてよく来ていました。
黒い服装が良く似合い、あの低音の魅力が忘れられない歌手の一人でした。 http://miyako-creative.com/discograpy/liner-notes/tasogare-no-bigin
私と水原弘さんとの出会いは大変古いのです。
父が水原弘さんと親友だったこともあり、幼い頃から大変可愛がっていただきました。
いつも「これお嬢ちゃんに」と、たくさんのお菓子やお人形を持たせてくださり、TVでみる少し強面の影のある姿とは違う、やさしいおじさまでした。 http://www.kitahara-mirei.com/profile.html
美空ひばりに憧れ、16歳の頃より浜松市の佐伯一郎に師事する。
高校卒業後上京し、浜口庫之輔・大本恭敬・ヘンリー倉田等に師事しながら銀座のクラブで歌っているところを水原弘に認められ、
昭和45年東芝レコードより『ざんげの値打もない』の大ヒットで数々の賞を獲得し衝撃のデビューを飾る。 http://www2062uh.さくら.ne.jp/sp/relay/81-2.html
−−日野さんがミュージシャンとして活動し始めたのは中学を出てすぐだったんですか?
日野:そうですね。
僕は花村菊江、野村雪子、曽根史朗、そういう人たちの歌謡曲の伴奏を町内会のコンサートで吹いていましたから、
中学のときには新宿の「リド」っていうキャバレーに毎日行っていたんです。
上手くは吹けないけど一応お金はもらっていました。
そして卒業と同時に厚木の米軍キャンプで水原弘の伴奏をやっていたバンドに入りました。 http://to-ryo.com/menu01/2010/08/741.html
宿舎でパンツ一枚の水原と世間話、客席がらがらのキャバレーで歌う姿を見たあと、
「帰るよ」
と楽屋に声をかけたら、
「うん、東京へ戻ったら一杯やろう。悪いけど俺んちでいいだろ?」
返事の声が本音っぽかった。 「白い花が咲く頃」など水原弘がカバーした曲は、本家より上手ですね。
まるで、違いますね。 懐メロのように感動的にお金持ちになれるのはなぜ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
THL6L https://textream.yahoo.co.jp/message/1835049/i9c0na4ada4ha47a4ka4da4a4a4fa1aaa1aaa1aa/1/39201
長良会長は水原弘さんの連帯保証人として多額の借金を負ってらしてて、
印刷会社の廣済堂(の社長)が手を差し伸べてくれて、グループ傘下の廣済堂プロダクションになり、
きよしくんがデビューする前年にやっと長良プロダクションとして独立したという経緯がありました。 東海林修先生とシャボン玉ホリデー
http://peanuts2.さくら.ne.jp/omotya/shoji036.html おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。 おミズが「ダニー飯田とパラダイスキング」に在籍していた当時をメンバーだった佐野修さんが「ヤクザっぽくて、きっぷもよかったから、メンバーは次郎長と呼んでいた」と語っています。
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age subject:601 dat:597 rebuild OK! ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。☆
そのためには、公的年金と生活保護を段階的に廃止して、
満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば
財源的に可能です。頒布も含め、よろしくお願い致します。
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age subject:605 dat:598 rebuild OK! >>文字から受ける雰囲気だと29は激怒して叱りつける、>>31は毅然と注意してる雰囲気
年齢的に丸くなったのか、相手がアマチュアバンド出身っぽい赤い鳥だったからなのか? 昨日の第60回レコード大賞で「黒い花びら」の映像が流れていませんでした
40回記念の頃は流れていたんだけど・・・
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)0.85, 0.62, 0.59
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板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 607 -> 600:Get subject.txt OK:Check subject.txt 607 -> 607:Overwrite OK)1.06, 1.12, 1.00
age subject:607 dat:600 rebuild OK! デビュー曲の「黒い花びら」がちゃんとステレオ録音されてた
当時としては珍しいことだ >>112
時系列が変ですね
歌手か曲かどれかが記憶違いなのか?
板復帰(OK!:Gather .dat file OK:moving DAT 609 -> 603:Get subject.txt OK:Check subject.txt 609 -> 609:Overwrite OK)1.36, 1.48, 1.48
age subject:609 dat:603 rebuild OK! >>128
いや、それはない。
オミズはうまいが、本家にはかなわない なにこの神スレ。
水原のエピでいっぱい。
やばすwww 真ん中に産まれちゃ困るじゃない〜か〜
今ならトランスジェンダーの団体からクレームがついてNG 星野陽平『芸能人はなぜ干されるのか』 78ページ
水原弘がマナセ→ナベに移籍したのは引き抜きだって書いてある
『水原は会社設立までという口実でマネジメントを渡辺プロに委託したが、半年も経たないうちに渡辺プロに所属することになった。
身内からタレントを引き抜いた晋に対し、曲直瀬正雄は「あの泥棒野郎!」と激怒した』 僕が小さかった頃に亡くなられたのでリアルでは見ていません。
お袋がこの方のファンでよく話を聞いてましたが。
話で聞いてたよりもかなり気の毒な死に方をされたようなので。
今でもお水の曲を聴くとしんみりします。 体の悪いお水さんを食い物にして無理やり働かせていた人達が憎いです。
いつの世も反社集団は許せません。 オリコン創設前 昭和42年3月の某チャート
1.君こそわが命(水原弘)
2.今夜は踊ろう(荒木一郎)
3.こぼれ花(石原裕次郎)
4.女の波止場(森進一)
5.夜霧よ今夜も有難う(石原裕次郎)
6.帰りたくないの(園まり)
7.信じていたい(西田佐知子)
8.バラバラ(レインボーズ)
9.夢は夜ひらく(園まり)
10.なんとなくなんとなく(スパイダース) 青春を賭けろ、若々しくいい曲だね
アイアイアイアイ