すり替えが、故意でも思い込み・決めつけに由来するものでも、
そういうタイプの人も含めて、説明を尽くてきたことに意味(価値)は
あった。

検証にも多少意味はあるだろうが、繰り返すだけではそれに値しない。

そして、アンチテーゼとして示してきたこちらの見解に対する曲解を
続けられるのは迷惑だし、(客観的に見て)読者のためにもならない。

(芸術や文学を挙げたのも、歌詞の内容ではなく、解釈のあり方に
関する整合性の見地を示したものであり、それも思い込みと決めつけで
曲解のままになっている。)

すり替えが天然であったとしても、スルーして非難を続けるのは故意で
悪質。

具体例の内容に関しても、調整の問題に過ぎないのに、
そういう方向に逃げて続けようとしている。

「が」の可能性を自分が理解出来ないから続いた話を、ー「が」説の
擁護へと変わっていることに気づかなかったー(0458)などとして、
話を逸らし続けている。


「駅」の解釈に関する、中森さんサイドに対する批判についての認識が
欠落している。


「リスペクト」を他者に対する非難として使っていて、道徳的な
リスペクトの押し付けは迷惑なだけだが、リスペクトと言うなら、
「駅」は詩で発表されたわけでも、歌詞だけで発表されたわけでも
なく、楽曲として出されたわけで、(そのオリジナルの存在を知って
いたのか知らなかったのか分からないが)オリジナルの楽曲に対する
リスペクトを欠いたまま語っていた人が、上から目線を続けている。

当て書きにあたるオリジナルの楽曲を度外視していたリスペクト
果たして、そのリスペクト度は?