伊藤久男
>>158
今は、大きい都立・区立・県立などの図書館ならHPがあって
キーワードを入れれば即座に自宅で検索できますよ
いろいろな楽譜集も置いてありましたが、さすがに貸し出し不可でした
伊藤久男に関する書籍は,自叙伝や人物伝の類はでていないと思います。
彼の出身地である本宮町史に数ページ記載があります。また,以前刊行
された淡谷のり子の人物伝の中で,彼がコロムビア歌手クラブの発足させ
他の歌手の経済的支援をしたいとして苦労した状況が数ページにわたって
記されているくらいでしょうか。
古関の記念館のホームページに伊藤久男の人物伝のリンクがあります。
また東京・九段にある昭和館では伊藤の吹きこんだ曲は珍しいものもふくめ
数十曲聴くことが出来ます。 暁に祈る、熱砂の誓い、あざみの歌、イヨマンテの夜 の陰に隠れていまいち評価がされていない
ブラジルの太鼓 も名曲と言える。 ブラジルの太鼓は作曲家 上原げんとがコロムビアに移籍してすぐにつくられ
た曲。のどじまんではよく歌われた。後にステレオ録音されており,テレビ東京
のなつかしの歌声でも,1回歌っている。同じく上原の作曲になるオロチョンの
火祭りは難しい曲で,これは上原の追悼音楽会で歌っているライブ盤が発売され
ているが,ステレオでの再吹きこみはされていない。 ブラジルの太鼓、TVでも歌われていたんですね。
シベリヤエレジーは古賀政男氏の追悼番組で1回だけ歌われたのを
見ました。サビタの花は紫綬褒章を受けられた時、テレビ東京ではない
局で歌われていました。テレビ東京(当時は東京12チャンネル)の
1時間の追悼番組ではブラジルの太鼓は入っていませんでした。
熱砂の誓い(建設の歌)は、ご自分でもお好きなようでしたが
どういうわけか、この歌に限っては歌詞を忘れがちで、
見事に間違えたり、昭和53年の7月放送の時などは、ポケットから
紙を取り出して読みながら歌うというシーンまでありました。
ですから、「昭和歌謡大全集」では、昭和44年〜45年頃の
古いVTRばかりが流されましたね。 サビタの花はご自身が好きな曲で,なつかしの歌声でも1回,また昼のテレビでも
啄木歌集より「東海の」を歌った際,サビタを歌っている。シベリアエレジーはヒット
した割に,日常的に歌われることは少なく,帰ってきた歌謡曲となつかしの歌声で1回
歌ったことがある。特に帰ってきた歌謡曲では楽譜をみながらの歌唱だった。
歌詞の間違いは昭和56年10月にNHKラジオ「昼の散歩道』に出演したした際,
歌詞はしょっちゅう間違うが、知らん顔をして歌っていれば気付かれないなど
失敗談を披露していた。
この頃を最後に病気のため歌うことから遠ざかった。 「、」を「,」と書く方。
すごく詳しいんですね。
関係者の方ですか?
いろいろな話が読めてうれしいです。 伊藤さんは、本当に微笑ましい方だった。
あれも、紫綬褒章を受けた時だったかなあ。
司会者が、「ある方が、福島県人には伊藤久男さんという名歌手が
おられると話されていたのを聞きました。」みたいな事をいって
ヨイショと持ち上げようとしたところ、
伊藤さんは「そりゃ、親戚かなんかだろう。他人はいわないよそんな事」
と言って、会場を爆笑の渦にした。ラジオでの語りも聞いたけど、
嫌味の無い毒舌っていう感じで、好きだったなあ。 伊藤さんは生前、東海林や藤山のことを歌謡曲の祖として先人としての
業績を高く評価し、そのことを後輩はどれだけわかっているかという思い
を強く持っていた。自身は人のことに尽力しながら、紫綬褒章受賞の際も
何も貢献してこなかったから、受賞の資格があるのか悩んだとし、締め切り
数時間前に文化庁に受賞の了解を伝えるなど、常に自身は謙虚であり続けた
人でもあった。 隠れた名曲
戦前 ハルピンの夜は更けて 祭 雲のふるさと
戦後 草山に さらば草原よ 恋の火の鳥 マリモ祭りの夜は更けて 摩周の湖
キャラバンの太鼓 メコンの舟歌 イヨマンテの夜は,鐘の鳴る丘の木こりか何かの場面を古関が即興で演奏し,
それをたまたま家で放送を聞いていた伊藤が採譜し,古関にみせてところ
「いい曲だね。誰の曲?」と言ったとか。亡くなる4ヶ月前のレコード大賞
特別賞受賞の際も,古関から記念の楯を受け取った時も同様の話をしていた。 >>158
「草山に」は「懐かしの歌声名曲集」にはいっていましたね。 菊田一夫+古関裕而=伊藤久男
夜更けの街 イヨマンテの夜 恋を呼ぶ歌 忘れ得ぬ人 君いとしき人よ
数寄屋橋エレジー 緑のワルツ 春の嵐に 薔薇に雨降る 花のいのちを
ゴビの砂漠 チャンドラムの夜(以上すべて戦後発売曲) >>168
戦前 浅草の灯、歌で暮せば
戦後 岬の雨、ああ若草は萌ゆれども、宵待草の唄
「浅草の灯」はいいなあ。つくばエクスプレスの浅草駅は、「浅草六区」の駅名にしてほしかった。 イヨマンテの夜は、もとはラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の登場人物の山男が
くちずさむ1シーンのためだけに、菊田一夫に頼まれて古関裕而が即興で作曲したもの。
ただアーアーアーと言葉のないものを誰に歌ってもらえるか…。
この時に古関の頭に浮かんだのが、同郷で仲の良い伊藤久男。
たった一瞬の出番にも関わらず、伊藤久男は二つ返事で駆けつけてくれたという。
当時は放送は録音ではなく生放送だった。伊藤のおかげで無事に放送ができたという。
その短い曲を菊田一夫と古関裕而が気に入り、このメロディは捨てがたいと
菊田一夫があとから歌詞をつけて発表。当然吹きこみには伊藤久男が選ばれた。
しかし当時のコロムビアは「こんな難しい歌は売れっこないから」と宣伝を拒否。
あやうく発売中止になるところであった。
しかしNHK素人のど自慢にて人気に火がつき、出場者の8割がイヨマンテを
歌うほどの大ヒットとなる。
しかしコロムビアは最後まで、ポスター一枚すら刷ってくれなかったという。 伊藤久男が東京農大進学で上京した頃、同じ福島県出身の古関裕而が
弱冠21歳でコロムビア専属作曲家に迎え入れられていた。
音楽に関する仕事をしたかった伊藤久男は、古関の家を訪ねた。
古関裕而は早婚で、声楽志望の妻・きん子(旧姓内山きん子、愛知出身?)がいた。
きん子が帝国音楽学校へ通っていたため、伊藤久男も受験→合格。
親に内緒で、東京農大を退学する。
古関裕而とはその頃から、何度も家に遊びに行くほど仲が良くなった。
(妻のきん子も古関作曲でレコードを出したことがあるようだ) 伊藤と古関は遠い親戚関係にある。子どもの頃から知っていたようである。 知らない・聞いた事のないエピソードがいっぱいですね!
ありがとうございます!
伊藤久男は、もっと評価されるべきですよね。
不世出の歌手だと思います。
シベリヤエレジーやサビタの花、テレビで流して欲しいなあ。 NHK紅白歌合戦は第2回より12回まで(第6回は民放に出演)10回、
15回記念に藤山・淡谷・渡辺とともに出演 合計11回で戦前の歌手
の中では最高回数で,12回まででていたのは他に林・淡谷のみである。
歌った曲目
3回 オロチョンの火祭り 4回 君いとしき人よ 5回 数寄屋橋エレジー
7回 キャラバンの太鼓 8回 宵待草の歌 9回 イヨマンテの夜
10回 サロマ湖の歌 11回 山のけむり 12回 メコンの舟歌
15回記念 イヨマンテの夜 >>178
不思議なんですよね。
かなり新しい時代まで出てたのがその三人なのが不思議。
あ、否定的な意味ではないですよ?
淡谷先生は分かるとしても、伊藤・林の両先生は、長く人気を保ったんですね。
どうしても、人気の面で伊藤先生は地味な印象しかなくて。 >>178
しかし、藤山さんはほとんど出てますね・・・・
「蛍の光」の指揮で。 参考までに灰田は10回まで、岡本・霧島・ミネは9回まで、藤山は8回まで
(ただしその後は指揮者として亡くなる前年まで出場)東海林は7回まで
松島・奈良・二葉・織井は11回まで、渡辺は9回まで、菊池は8回まで
出場している。 >181
その当時の紅白は、出場できようができまいがあまり関係ないみたい。岡晴夫は正月公演を理由に紅白には1度も出ていない。紅白がスターダムのようになったのは昭和30年代中期あたりからじゃないのかな。 確かにひとつの見方だと思う。ただ人気がなかったり実績がなかったり
した歌手は15回以前の紅白でも出場回数は少ない。と言うことは、
岡などの例外はあるものの、出場は歌手としての目標になりつつある時
期でもあったといえる。 昭和50年代、まだ高校生だった頃、NHKのラジオ番組で何回かに
わけて藤山一郎と伊藤久男の特集コーナーがあって、藤山と伊藤、
泉ピン子とNHKのアナウンサーの司会によるコーナーを3回にわたって
録音しておいたのは幸運だった。CDに移し変えて保存したいと思う。
藤山と伊藤のやりとりなんて、この番組でしか聴けなかったから。
伊藤はそのコーナーで、これから蔵を発掘して全集を造りたいと
意気込みを語っている。一度に何曲もレコーディングして、実際に
売り出されるのは1曲。ゆえにお蔵には何十倍の録音が眠っていると。
タイトルは?と尋ねられ、伊藤は『売れなかった歌』。ピン子も、
あの藤山も爆笑している。 >>186
それ、昭和歌謡大全集かもしれませんね。大貴重品だあ!ラジオ局もテレビ局も、そーゆー放送をもっとしてほしいですねぇ。
藤山さんは、伊藤久男を高く評価してましたね。 187さん、レスありがとうございます。
いい番組でしたね。高校生の自分がよく聴いていました。
伊藤久男と藤山一郎の出演の回は偶然録音しておいたのですが、
今から思えば録っておいて本当によかったです。
(藤山)伊藤さん、よう。
(伊藤)ほい。
(藤山)あなた、本名はなんていうの?
(伊藤)本名はね、シサオなんですよ。
(藤山)明治よんじゅう・・・
(伊藤)明治43年生まれで、将来年をさば読まないようにってんで
オヤジがつけたんですよ。ところがヨミオ(黄泉男)と呼ばれる。
縁起が悪い。で、コロンビアが勝手にキュウダン
(久男)ってしちゃってね。
(ピン子)勝手にですか?
(伊藤)レコード初めて見てびっくらした。
(藤山)おお、それでシサオ。ほお。
こんな感じで番組が進んでいきます。
>>188
いい感じですねぇ。
お時間がある時にでも、また少し書いていただけると
とても嬉しいです。 189さん
その先を少し。
(藤山)で、デビュー曲は何でしたか?
(伊藤)高橋掬太郎作詞、江口夜詩作曲の『今宵の雨』。
(藤山)『今宵の雨』。ん〜。
(伊藤)で、このデビュー曲が全然売れないんだよ。
(一同小声で笑う)普通ならここで辞めるんだけどさ、
好きだったから。こういう歌が。
(司会のアナウンサー)誰にでも愛される歌い方だったんでございましょう。
>188 訂正です。
(藤山)おお、それでシサオ。→おお、それで久男。 年表の上では、最後に発売されたのは昭和46年11月の憂国(古賀作曲)
ということになっているが、47年に出身地の本宮町のロータリークラブ
が出した「心の山脈」の主題歌「心の山脈」が吹きこまれている。一般
販売はなかったものの事実上の最後のレコードかもしれない。 雨か狭霧か 岬の磯に 降るは別れの 降るは 降るは別れの 涙雨 伊藤久男(コロムビア)=宮本一夫(リーガル)=内海四郎(タイヘイ) 泣いて降るのか
泣かせにふるか
今宵しみじみ
身に染む雨よ 伊藤さんは、戦前と戦後で顔が全く違うけど、どうしたんだろう? ステージ101のヤング101にいた伊藤三礼子と伊藤悟のお父さんだよね?
なにかエビソードあったらキボンヌ
伊藤久男はデビュー当時の昭和8年から数年間
は当時の服装としても大変モダンな感じで、以前
淡谷のり子が思い出のメロディーに共演した際、
女性にすごく人気があったことを言っていた。
伊藤三礼子は宝塚音楽学校の出身だが、合格した
時、入学に際してコロムビアから借金したことを
生前楽しそうに語っていた。因みにアサノ夫人も
宝塚の出身である。 >>201
なんだか戦前はハンサムな感じだけど、戦後はごっついってゆう感じがする
以前テレビ番組で若い時の写真を見て、「かまきりだよ
これは。やせていましたね」といっており「芸能界の
厳しい風にさらされると風化作用を起こしてこういう
顔になるんだよ」と茶目っ気たっぷりに語っていた。 いっぱい戦意高揚の歌を歌っていたので、
戦争に負けたときに、戦犯確定と吹き込まれ、
信じこんで、ヤケになって GHQのタイーホを待ちながら
横流しの燃料用エチルアルコールドラム缶一本分を毎日くらって
フテ寝してたら結局来なかったそうで、
飲み過ぎであんな顔になったのではと。 鐘が鳴る鳴る 空の果て 沈む夕陽 仰げば うかぶおもかげ
紅きくちびる さらばミナレよ 夢の街よ われは悲し人の子
ゆけども はてなき旅路 めざすは 遥かな 星のかげ ああ、あああ、ああ、鳴るよ
また涙誘う 鐘の音
「ミナレの哀愁」は、まねして歌ってみると2番の終わりで息が続かない。
やっぱりプロはすごいなと思ったです。
ディック・ミネが、すごい胃袋とノミの心臓と言って笑ってたけど、
エレベーターに絶対のらないとことか、ほほ笑ましくて好きです。
エレベーターに乗らないのは、戦後すぐにNHKの放送で局に行ったとき、
占領軍の軍人にエレベーターを待っていたところあっちで乗れのいわれ
頭にきて「ヨウし。俺は一生乗らない」と啖呵をきったが相手には通じず
それ以来乗らないといっていた。真相は高所恐怖・閉所恐怖もあった
ようで歌手協会のビルも階段を使ったり、飛行機にものらなかったとい
う逸話が残っている。 アーホイヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ シベリアエレジーは数少ない古賀作曲のヒット曲だが
当初、近江ちゃんか霧さんの曲だよとして辞退し
たが古賀からチャーさんのために書いた曲だから
といわれ吹きこんだと語っていた。伊藤は現役時代
新曲をもらう時自分にあわないと判断するとヒット
しなかったら関係者に申し訳無いからと辞退するこ
とも多かったという。 イィィヨォォォォォムァンテエェェェェェェェェェェェェェェェェェェ 古賀政男とか、伊藤久男用に作った曲って、歌いにくい曲が多い気がする。
チャーさんじゃなきゃ歌えないって感じの。
流行を意識せずにあくまで作りたくて作ったって言う感じ。
クセの強いスポーツカーみたいな曲
そこにしびれるわけだが 古賀の作曲といえば伊藤久男戦前の曲に、熱砂の誓い以外に
馬、海の豪族、雲のふるさとなどの中ヒットもあるが、中で
も祖国の祈りは戦後のイヨマンテを彷彿させるカデンツァで
始まる曲で、このあたり伊藤の独壇場の感がする。 218 :〜伊藤は現役時代新曲をもらう時自分に
あわないと判断するとヒットしなかったら
関係者に申し訳無いからと辞退することも
多かったという。
↑・・・曲名など、具体的に御存知な方がいらしたらば、教えて頂ければ幸いです!
↑例えば、”喜びも悲しみも幾年月”、何てのは、最初、伊藤さんに話が持ってかれたのかなぁ〜・・・
何て、勝手に思ってるんですが・・・ 福島の古関裕而記念館で、伊藤久男展をやっているそうですね
福島の親戚から聞きました
私は遠くて行けませんが・・・ 福島の新聞に載っていたそうです
8月いっぱいはやっているようですよ 素晴らしい歌声ですね。
迫力があって伸びがあって。
自分が生まれる前に活躍されていた方です。
歌っている映像を見てみたかったです。
特に、地声(トーク等の声)も聞いてみたかったです。 >231>232>233
古関裕而記念館の伊藤久男展は8月7日〜9月3日までです。 お盆帰りついでに古関記念館、見てきましたよ。
伊藤久男展は小規模(というかそもそも記念館が小さい)だったけど
本物の古いサイン色紙や、若い頃のまるで別人な写真が見れた。
イヨマンテの映像が流れていた。
伊藤久男のCDでも売ってくれればもっと良かったんだが。 伊藤は現役時代よく背広などでなく、開襟シャツ風の衣装を着ていましたね。
理由をご存知の方があれば教えてください。 8月27日に古関裕而記念館に「伊藤久男展」を見に行きます 私も古関裕而記念館行ってきました。
伊藤久男展は、239さんのおっしゃる通り小規模ですが、
楽譜や写真など資料は豊富で、けっこう楽しめましたよ。
それにしても記念館では代表的な古関メロディーが
流されてますが、いつ聞いてもいい曲ばかりです。 昭和歌謡大全集では、伊藤久男の映像は流されるのだろうか。 昭和50年代前半のNHK思い出のメロディーで歌われた伊藤久男「高原の旅愁」。病のせいか頬はこけ、マイクを持つ手を震わせながらの熱唱は、胸を打つものがあった。号泣する観客の姿も見えた。 >>234です。
伊藤久男の映像が流れるかもしれないんですか!?
しかし、うちは地方なので、テレビ東京系の局がありません。
残念です・・・。 >>253
伊藤久男は以前の「昭和歌謡大全集」では常連でしたが、最近はポツリポツリです。
私も期待しているのですが・・・テレ東さんには激しくお願いしたいです(笑) 昭和歌謡大全集でね。その時は藤山、二葉、川田と共に1番切りをされました。