二葉あき子について語ろう
戦前の大歌手で唯一元気な二葉さんについて語ろう。
淡谷のり子は洋楽志向が強く
渡辺はま子は中国風で
二葉あき子は演歌じゃないけど古きよき日本の
歌を歌ってます。今もコンサートを開いたりしてるそうで。 >>24-25
その同じ列車に乗り合わせていたという人の話を読んだよ。
オートバイの本で「別冊モーターサイクリスト」ってのだった。
運命だね。 神様が二葉先生の声を世の中に響き渡らせようとしたとしか思えない。 二葉先生は、戦後ずっと働きどおしだったとかで、
疲労からか高音がちょっとかすれるというような
違和感を持っていたらしいんだけど、
どこかで「水色のワルツ」を歌っていたときに、
高音部のところで喉に激痛が走ったらしい。
で、それから高音が急にでなくなり、歌えないと失望し、
実家に帰り、短刀で喉を切って自殺しようとされました。
でも、その時に「私はあの原爆のときになぜ助かったんだろう」
「多くの方々が亡くなって私が助かって、
なのに今自分は自ら命を絶とうとしている」
という思いがよぎり、自殺を思いとどまり、
低い声でも歌えるように、自分でアルトの音域を作ったそうです。
音域を変えたころは「パダムパダム」などのシャンソンを
ステージで歌っていたそうです。
それからは、1曲1曲歌うときに、命をかけて歌おうと
決心されたといいます。 >>28
服部先生が「二葉ちゃん、その声でいいんだよ。高い声だけが
いい声じゃないんだから。キーはいくらでも低くしてあげるし
低い音域でも人の心を打つ歌は歌えるんだよ」と言われ、
古賀先生は「二葉ちゃんは心で歌う歌手なんだから、キーが
下がったことぐらいは何の問題も無い。これまで通り心を
こめて歌えばいいんだよ」と励まされたとのことです。 >>28、>>29 良いお話ですね。恐らく同じ方が書かれてると思うけど、色々エピソード聞かせて下さい。 >>30
同じ人ではないですよ。
>>29
服部先生のエピソード、二葉さんが服部先生が亡くなられた時の追悼番組で
「私の命の恩人です」って、お話になってました。
高木東六先生は「もういちど二葉君が高い声で歌う『水色のワルツ』が聞きたい」
と仰っていたようですが、私は高い声のときの歌も低くなってからの歌も
好きです。
特に声が低くなってからの方が、歌に厚みが出て、
説得力というか聞き手の心にグッと入り込むものがあったような気がします。
特に「パダム・パダム」は素晴らしいです。 二葉亭四迷は
「くたばって死ね」が由来
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
関係ないのでsage あぁ風よ 心あらば伝えてよ
愛し子待ちて怒涛来る 岸壁に立つ母の姿を こんなネタ ツッコミ入れてくれて『ありがとう』
浜村淳 ありがと〜 ありがと〜 ララランラン ララ〜ラ〜・・・かぁ? 昔、都内で「これから札幌ラーメン食べに行こうか?」といわれて
二葉あき子だけが、いま羽田空港から札幌に食べに行くと勘違いして
「ええ行きましょう」といったそうな。
ちなみに「あき」は広島の意。 12月29日(水)NHKラジオ第一「年末アーカイブス」22:05〜22:55
『あの時この音〜ラジオの紅白歌合戦』が放送されます。
昭和29年第5回大会を中心に…って事なんですけど、二葉先生の歌唱を是非聴いてみたいです!!
ちなみに曲目は「パダム・パダム」で、連続5回出場されてますね。 二年くらい前に九段会館の軍歌演奏会に出演されてました。汽車に乗って
トンネルの中で原爆を免れた話をしてました。今の世の中を戦争で死んだ
人たちに見せたくないとも。米寿になったら耳が聞こえなくなっちゃった。
今日も腰が痛くてコルセットをして立っているのがやっとなの。と言って
ました。めんこい子馬とフランチェスカを歌いました。 >>45
戦後60周年特集でなんか載ってるみたいですね 東京音楽学校出の声美人
Futaba Akiko_SPban_Furuki Hanazono.mp3
が思い出の曲 広島に帰っちゃって、コロムビアの社員のみんな、きっと寂しがってるね。 二葉あき子は昭和11年デビュー。14年の「古き花園」でスターダムに。戦中戦後もヒット曲を量産。昭和30年代頃のどを痛め自慢の高音が出なくなり、それ以降はアルトで歌うことに。最近はもう高齢ですから歌番組でお目にかかるのは難しいのでは? せめて昔の映像を流してほしいのう
深夜・早朝帯でいいから 二葉あき子は霧島昇よりもレコードデビューは先輩らしい。 つい2・3日前に、「昼の歌謡曲」でやってたよ。
カーラジオで聞いた。 今日、「古き花園」と中野忠晴氏とデュエットした「若き日の夢」を聴いた。
巧いね、声も瑞々しいし。「巧さ」では淡谷のり子さんより上じゃないかな。
それに、戦前の一番充実してた頃のコロムビアオーケストラの音も良いし、
仁木氏のアレンジや中野氏も良い味出していて、かなり気に入ってる。 NHK-FM「わたしの名盤コレクション」で落語家の立川志らく師匠が
紹介していた。曲はありふれたものだったが志らく師匠と二葉先生
の交流(一面識もないのに真打昇進パーティーの際に手紙を書いて
来て貰った話)などを話され、楽しいひとときだった。
再放送が8月1日午前9:20〜にあります。
ttp://www.nhk.or.jp/hensei/fm/20050801/frame_05-12.html 二葉さんって松原操さんとの掛け合いが似合ってますよね。
同じような声質ですし。松原操さんとの掛け合いでご健在の方はこの方と桜井健二さんぐらいでしょうか? 昨日初めて映像見た>テレビ
ふっくらした方なんですね
歌は『フランチェスカ』だったけど自分としては『アマリリス』が聴きたかったなぁ >>49
私も昔コロムビアのロビーで二葉先生を見かけたことある。
10年ぐらい前の話。受付で担当の人を呼び出してもらってたみたい。
受付のおねーちゃんと楽しそうに話してたよ。 引退されてたってほんと?
日本歌手協会にはまだ名前あるけど。 耳が難聴になって音程が取れなくなったんです。
ここ数年間突然二葉さんは音程を全て外して歌っていて正直聴きにくかったです。
1、2年くらい前にテレビに出た時にレポーターが大きな声で2回位同じ質問をしていてわかりました。
今は故郷の広島で暮らしているそうです。
耳をやられてしまったら、インタビューの受け答えも出来ないし、歌もまともには歌えません。
本当に残念です。 二葉さんの最後のテレビ出演は平成16年5月2日にテレビ山口で放送された『ムーブ
2004・22歳の青春』という番組でした。この番組はその後、九州、沖縄、大阪と放
送されました。老人ホームを懐メロ慰問している22歳の青年の活動を紹介したドキュ
メント番組で、その青年が藤山一郎と共に憧れる大歌手二葉あき子を訪問し、ご自宅
で「フランチェスカの鐘」を共に歌うという設定でした。二葉さんはこの時「さよな
らルンバ」もメロディーに合わせて踊られました。
なお、ラジオでは、つい最近の平成17年8月26日、FM札幌が「なつかしの流行歌を
訪ねて」という番組で終戦60周年記念の一環として二葉あき子を特集し、その中で二
葉さんはリスナーへのメッセージを伝え、また、昭和20年8月6日のご自身の被爆体験
に基づいて創作された短歌を朗読されました。 最後に年忘れにっぽんの歌に出たとき「さよならルンバ」を歌ったが、
一番ではリズムもキーもはずしたけど、間奏でダンサーのステップを見て
リズムをつかみ、二番ではキーははずしたままだったものの、
リズムだけ何とか取り戻して最後まで歌いぬいたのを見て、
私は感動してしまった。
フィナーレでは恥ずかしがってセンターに立つのを拒んでたのを
大津美子さんが手をつないでセンターに連れてきて一緒に歌ってた。 これからも細々と活動するのかなー…?
でももう年忘れ日本の歌には出ないだろうね… まぁ昔のXがストックされてるしね。
大量にあるテレ東なんかは画像も鮮明だし 祖母は90になりました。2年前に広島に帰りました。まだ元気です。全集はコロンビアに残っていると思います。広島三次市の道の駅(R54)布野に於いても二葉直筆の色紙とともに販売しております。もう描きませんからお求めになられてはいかがでしょうか? 親族一同 詳しくはわかりません02暮れ頃のヤクルトホールではないでしょうか?細かい仕事ならば03初頭関東周辺の老人ホーム慰問等で唄っていたかも知れません。 日本コロンビアの専従者と行動を共にしていたので詳細はわからない事が多く正確な返答はできかねますので悪しからず。 >>加藤雅也さん
そうですか。
僕は今19ですけど99年の「年忘れ日本の歌」で「さよならルンバ」を聴いた以来ファンです。
二葉さんは祖母と同い年で、祖母も二葉さんのファンです。
不思議な事に二葉さんは年を重ねた後の方が歌が上手くなっている気がします。
生で聴ける機会がなさそうなのが非常に残念です。
これからも元気でいて欲しいです。 祖母はやはりスターだと思います。もう一度舞台に立てればよいのですが長寿を祈る他ありません 「フランチェスカの鐘」のオリジナル音源にはあばずれ女の台詞が入ってるんだよな。 高杉妙子という女優の吹き替えです。 ほくも意味はわかりません。 昔、お孫さんのピアノで「水色のワルツ」を歌ってたのをテレビで見ました。
「ガラスの指輪」と「白いライオン」はお孫さんの作品ですね。
すごく素敵な作品だと思います。
息子さんの作品も歌ってらっしゃいますし、二葉さんはお幸せだと思います。
「水色のワルツ」を作曲した高木東六はまだ生きてるんだよな。
流行歌嫌いだったらしいけど。
これほどの名作を残せるぐらい実力があるのだからもっと作曲すればよかったのに。 >84作品は結構ありますが、あまりにもクラシカルで世に出ないだけ。 「情婦マノンの唄」古関裕而作曲。隠れたる名曲です。 「アデュー巴里」もいいね。
和製シャンソンで、ちゃんと本場のシャンソンみたいに
クプレとルフランから成り立ってる。
「巴里の夜」よりいいかも。 「パリの夜」「情婦マノンの唄」「アデュー巴里」は和製シャンソンの傑作だと思
います。日本の和製シャンソンでは「パリの夜」が一番ヒットしたのでは?二葉あ
き子は和製シャンソンの大御所である一方、典型的な日本調の流行歌や軍歌も大ヒ
ットさせています。シャンソンとは対照的な日本調の曲(「新妻鏡」「お島千太郎
旅唄」や「父よあなたは強かった」「海の進軍」など)を戦前に大ヒット曲させ、
戦後、和製シャンソンをもヒットさせた歌手は二葉さん以外いないでしょう。 まったくその通り!!よく美空ひばりのジャンルの広さがテレビで(昨日の17回忌で
も)取り沙汰されますが、カバー曲でなく、和製オリジナル曲で二葉あき子ほど
ジャンルを越えてヒットを放った歌手はまず見当たりません。「ビロードの月」
(和製ジャズ)「古き花園」(和製ブルース)、「めんこい仔馬」(童謡)、「高
原の月」(和製クラシック)「黒いパイプ」(和製タンゴ)、「パリの夜」(和製
シャンソン)など、洋楽調の和製オリジナル曲を大ヒットさせているところは、
歌謡史上、二葉さんしかいません。音楽教育の頂点である上野でクラシックを学んだ
後に、日本調の流行歌や軍歌で大ヒットを飛ばし、洋楽調でもジャンルを越えて、
数々のヒットを放ったそのキャリアに優る歌手は皆無といってもいいでしょう。
発売されて55年〜70年後にも通信カラオケに残り、歌い継がれる曲があるというの
は、まさに大歌手としての証左以外の何ものでもありません。 「村の一本橋」とか「祇園の坊さん」とか和ものでジャズィでカッコいいですね。 戦後二葉さんが歌ったジャズィな米山作品について、発売当時に聴いた世代の中に
は「二葉さんには似合わない!!」と酷評する人がいます。戦後、クラシック嗜好の
音楽ファンが唯一許せた流行歌歌手が二葉さんであったとされ、戦後「別れても」
から「恋のアマリリス」までの品のある流行歌を歌ってきた二葉さんがそれまでの
イメージを覆すジャズィな日本調の曲を歌うことが許せなかったのでしょう。確か
に純粋な二葉ファンにとっては抵抗があったかもしれませんが、ブギ全盛の戦後の
時代にあって、米山作品は二葉さんの新しい魅力を引き出すことに一役買っていま
す。 霧島昇のとデュエット曲
「新妻鏡」「高原の月」「旅の舞姫」もいい!
ヒット曲たくさんあるよな。
ナツメロ番組では淡谷さんや渡辺さんは同じ曲歌わされてたけど、二葉さんはいろんな曲歌ってたようなイメージがある。
もっと評価されるべき方です。 スローワルツの「新妻鏡」は歌いだしのG音が松原操ではでず、急遽音域の広い二
葉さんが歌うことになり、大ヒット、「高原の月」も霧島に合わせて一音低く、B♭
長調で吹き込みしています。逆に後年、二葉さんがコントラアルトになって以降テ
レビの舞台で「新妻鏡」を歌った時、霧島の後、間奏で一音下げて歌っていました。
以後、通信カラオケの音源やステージの演奏も低く設定され、世界的でも稀な低音
女性歌手として語られることがあります。楽譜に忠実な二葉さんの歌唱は業界でも
大変評価が高く、全盛時を知る同窓の森一也氏も絶賛していました。 二葉は昭和30年代に入り高音が出なくなり、それ以降アルトで歌うことに。低音も素晴らしいが、高音が聞けなくなったのは惜しまれた。 >93二葉はヒット曲が多すぎる分、自身の代表曲がない。例えば淡谷なら「別れのブルース」、渡辺はま子なら「桑港のチャイナ街」。二葉には突出したヒット曲がない。 そういえば森一也氏は二葉さんと同い年で東京音楽学校を浪人して入学して
いますね。で、本人いわく、昭和7年当時でも、一回で(現役で)入学でき
る生徒はほとんどいなかったそうです。ですから、100日の受験勉強で、す
んなり現役合格した二葉さんを宇宙人だといっています。特に師範科は一般
科目の傾斜配置も高く、学力的にも難関だったことはいうまでもありません。
代表曲か、強いて言うなら「水色のワルツ」か「フランチェスカの鐘」だと思う。
「古き花園」も好きだけど代表曲とは言い難いな。 >98二葉あき子のこの1曲ってなるとなかなかしぼられない。確かに「水色のワルツ」は高木東六作曲の曲が素晴らしい。「フランチェスカの鐘」も古関裕而の傑作。…だけど、やはりしぼれない。 >97
東京音楽学校は戦後の昭和24年に新制東京芸大となり、入試日程も国立一期
校となりました。その後、一期校、二期校制が廃止となり、さらに昭和50年
代前半、共通一次という全国の国公立大学が一律に5教科7科目の同一日受
験となるや、各大学の合格点平均点から大学の序列化が始まりました。
同大学は当時、一次試験のボーダーラインに関し、受験者平均のやや上位
といったところでしたが、二次試験の難易度を考慮すると、国公立受験者の
平均を上回った上で、芸能に特別秀でた能力が要求されたということで、宝
塚が女子の東大といわれたように、もう一つの東大とされたのも納得できます。
二葉さんは女子の東大(宝塚や東京女子高等師範学校)ではなく、学力と芸
能における最高学府であった官立東京音楽学校師範科に広島の県立女学校か
ら現役合格されたのですから、まさに宇宙人といっても過言ではないでしょ
う。 付け加えるなら、その官立の最高学府を卒業して高等女学校の教壇に立ち、
(これは師範科の義務過程ですが)その後、流行歌歌手に転じ、戦前、戦
中、戦後にヒット曲を連発しているところも正に宇宙人。例えば、東京芸大
を卒業して、高校の教員をし、その後、歌手デビューしてヒット曲を連発、
紅白に10回も連続出場した歌手が戦後にいるでしょうか?コロンビアでは
ひばりに次ぐ売り上げがあったとされますが、県下一の女学校の卒業者、上
野卒、教員経験者、映画出演、海外公演(戦後初の日本人歌謡使節)、紅白
出場、レコード会社での売り上げトップ、叙勲を総合すれば、経歴と実力、
売り上げ、名声すべてが揃った歌手という意味で、ひばりと対峙する存在で
はありません。さらに、付け加えるなら、その対照的な経歴で楽譜が読めな
かった子供時代のひばりの才能を真っ先に認め、可愛がったところも、宇宙
人といえます。ひばりじゃ後年、大スターとなった後々も、二葉さんを唯一
先生と慕い、楽屋が一緒(同じ舞台)となった場合、豪華な弁当を持参し、
「先生食べてください」と挨拶を忘れなかったと言われます。一方淡谷のり
子のひばりに対する態度はまさにいじめであり、「こまっしゃくれた子供が
ゲテモノのような声を上げる」といってこけおろしていたそうです。二葉さ
んはほんとうに偉大な方であります。 >>101・102
読みにくい。もっと分かりやすく簡潔に! 101・102
二葉さんってすごい方なんですね。
ひばりさんが慕うのも解るなってか女性の先輩歌手でひばりさんに好意的だったの二葉さんぐらいなのかな?と勝手に思ったりする。
歌手活動から引かれたのは残念だけどいつまでもお元気でいてほしいね。 >103
簡潔にいうと、「二葉さんの傑出した経歴と音楽的広がりは、まさに不世出の大歌手
と呼ぶに相応しい存在である」といったところでしょう。晩年、二葉さんはNHKのBS
放送で氷川きよしと共演、ソロで氷川の「箱根八里の半次郎」を堂々と歌われました。
昭和9年に東京音楽学校在校時、同校生徒名義で「四葉のクローバー」を初吹き込ま
れていますが、同曲は旧制女学校の教材に用いられました。その65年後にクラシッ
クとは対極にある演歌をNHKで歌いきったというのも、芸大史上最初で最後でしょう。
番組で司会を務めた氷川と神野は二葉さんのことを『二葉ばあちゃん』と愛着を込
めて呼んでいましたが、少しは彼女の経歴や音楽的属性、また、人物的側面と内面
的属性に焦点を当て、好々爺ならぬ好々婆的イメージとのギャップにおける意外性
を掘り下げて発言していただきたかった。逆に、知れば知るほど、同業歌手と
して足が震えてしまう(最近、人を前に畏怖で足が震えるという体験などする戦後
生まれはいないでしょうが)のではないでしょうか。
103の人が理解できるまで、表現は簡潔に分かりやすくしていきましょう。
全ての階層に認められる大歌手ですから。
二葉さんはデビュー間もない頃、近代史に名を残した西條八十や山田耕筰と交流を
持たれていました。当時、世界のプリマドンナと称された母校の大先輩の三浦環も
現役、与謝野晶子も現役、(二葉さんは晩年(60代)の与謝野晶子が作詞した「新
鉄道唱歌(近畿篇)」を伊藤久男らと共に歌っています)、また、北白川宮殿下の
戦死に際し、「ああ北白川宮殿下」を御前演奏で皇族を前に歌われています。そう
いう経歴を持った歌手が平成14年に氷川きよしと演歌の共演をしたという事実は非
常に大きな意味合いを持つものだと考えます。 二葉さんがデュエットで歌った日本調の「涙の三人旅」「新妻鏡」「お島千太郎旅
唄」「春之助の唄」「旅の舞姫」などは現在の演歌に通じる曲想ですね。いずれも
楽譜に忠実で、それでいて非常に味のある歌声で心が惹かれます。これらの曲は西
條八十、古賀政男、奥山貞吉、服部良一ら欧米文化に通じたインテリ作詞家やジャ
ズ・クラシックをこよなく愛する作曲家によって書かれたものであり、二葉さんの
歌唱によってさらに大きく開花した日本調の傑作であります。 「フランチェスカの鐘」の台詞は高杉妙子だけど、「青い牧場」や「荒鷲
慕ひて」の台詞は二葉さん自身が言っている。とても味があっていい。 二葉さんの舞台演技も味があって素晴らしい。65周年の時、二葉さんは85
歳、20分ぐらいの一人演技はユーモアたっぷり。歌の歌詞も完璧に暗記。
加齢に伴う記憶力の減退なんてどこ吹く風。恐れ多いばかり。 昭和11年の「あの夢この夢」から昭和29年の「南蛮おどり」(新東宝『神州
天馬侠』主題歌)までおよそ60曲以上が映画主題歌、副主題歌、挿入歌とし
て使われています。戦後の特徴としては歌のヒットに合わせて映画が製作さ
れたケースが多いですね。「夜のプラットホーム」「あの夢この歌」「フラ
ンチェスカの鐘」「夢よもう一度」「水色のワルツ」など。
映画には二葉さん自身が出演しているものもある。「そよかぜ」「三百六十
五夜」など。映画『三百六十五夜』では「恋の曼珠沙華」と「さよならルン
バ」を歌っていて、とてもきれい。美人。 映画『三百六十五夜』での二葉さんはほんとうにすらっとして、きれいです。東宝
のレーザーカラオケで「恋の曼珠沙華」をかけるとその映像が出ます。「さよなら
ルンバ」を歌って踊るシーンなんかは今でいうビジュアル系のアイドルとしても
通用するかも。 ぽっちゃり顔というイメージですね。戦後の一時期は本当にすらっとして114のと
おりです。映画では昭和14年24歳当時『純情二重奏』に出演して歌っていますが、
ビデオではカットされています。かろうじてオーラスで「歌で暮らせば」を合唱
するシーンで一瞬映る程度です。はやりぽっちゃりしていました。「そよかぜ」
では演技もされています。映画の舞台では「宵待草」をソロで、霧島とデュエット
で「別れ路の歌」を歌われていますが、ふっくらしたイメージでした。 映画『純情二重奏』は前編・後編があり、それぞれに二葉さんは誕生日の
歌手役で出演されています。歌った歌は、不明ですが、同映画の挿入歌で
志村道夫と奥村彩子がデュエットで歌った「青空の夢」というのがあり、
そのB面が二葉さんの「伊豆はなつかし」でした。よって、一つは「伊豆
はなつかし」だと思いますが、もう一曲がわかりません。だれかご存知で
すか? >116 「誕生日の歌手役」ではなく「新曲発表会の歌手役」でした。
当時レコード会社と映画会社がタイアップして、新曲を映画の公開後
に発売することがよくありました。まず、映画のタイトル・バック
でレコードを紹介(レコード会社、曲名、作詞者、作曲者、歌手、
レコード番号)し、映画の一場面で流すか、歌手が歌い、映画公開後
にレコードの発売という段取りでした。 二葉さんは映画『フランチェスカの鐘』に出演して「フランチェスカの鐘」を歌
っていますね。スチール写真では見たこありますが、ダンスホールで歌っている
ような写真でした。相当厚いメーキャップ(長い付け睫をして)で手を広げてい
ます。フィルムは残っていないのですか? 文芸春秋で二葉さんは昭和二十年の紅白歌試合の思い出を語られていますが、当時
歌った曲は「純情の丘」とあります。一方インターネットや紅白の歴史を紐解いた
本では「「古き花園」になっていて、一体どちらが本当なのでしょうか?紅白歌試
合と紅白歌合戦初回〜10回まで連続11回出場した歌手は二葉さんしかいませんね。
すごい!!紅白歌試合に出た歌手で現在現役(存命)は川田正子、第一回紅白に出場
した歌手は菅原都々子のみです。もし紅白が戦前からあったとしたら、二葉さんは
昭和14年の「古き花園」や「純情の丘」のヒットから出場し、昭和34年まで20年間
連続出場していたでしょう。紅白歌試合と紅白歌合戦の初回からの連続出場について
二葉さんの記録をもっと伝えるべきだと思います。 黒柳徹子は昭和33年当時、最年少で紅白の司会をしたそうです。以前、『徹子の部
屋』に二葉さんが出た時言っていました。当時、二葉さんはコントラアルトとなっ
て初めて「夜のプラットホーム」を歌われたそうです。そのことを徹子がいうと
覚えていないようでした。また、その時、二葉さんが音楽学校の生徒名義で吹き
込んだ二枚目のSP「ブラームスの子守唄」が流れ、自分の声を二葉さんは「きれ
ない声ね」と笑みを浮かべて言っていました。黒柳徹子は若き日、二葉さんのス
テージの司会をずっとやってきた人です。後にザ・ベストテンの司会を引き受け
ていますが、当時既に40歳、その後、50代後半まで歌謡曲の司会でアイドルや演
歌歌手を相手にしていますが、司会者としてのキャリアの長さには驚かされます。
昭和50年代初めに始まった『徹子の部屋』は週5日、いまだに放送されており、
昭和20年代後半に二葉さんの舞台の司会をしていた徹子が平成14年、88歳の二
葉さんと対談するという、お互い50年間現役でなければありえないめぐり合わ
せが実現しています。平成14年の『徹子の部屋』出演時、二葉さんは徹子が昭
和33年、初めて紅白の司会をした時歌った「夜のプラットホーム」を歌われて
いるのも感慨深いものがあります。
>>121
せっかく一生懸命に書いてくださったのにごめんなさいね。
あのとき流れたのは「ビロードの月」よ。
アタシあの日ビデオ撮ってるし、
↓ここ↓ではテキストおこしされてるわよ。
http://www.h2.dion.ne.jp/~kinki-bc/z14-6-24.htm 「ビロードの月」でした。あいまいな記憶で失礼。ビデオは撮っているけど、
一回見ただけで、記憶が「ブラームスの子守唄」とすりかわっていました。
ご指摘に感謝します。
>122
謝る必要ありませんよ。「一生懸命に書く」いう表現とおどけ言葉
さえなければOKですよ。 85歳の森光子も現役ばりばり。その昔、二葉さんの前座をしていたそうな。