二葉あき子について語ろう
戦前の大歌手で唯一元気な二葉さんについて語ろう。
淡谷のり子は洋楽志向が強く
渡辺はま子は中国風で
二葉あき子は演歌じゃないけど古きよき日本の
歌を歌ってます。今もコンサートを開いたりしてるそうで。 美空ひばりは森昌子に対して「私の後を継ぐのは昌子しかいない。」と言うほど、
その才能を買っていましたからね。 「バラのルムバ」は、レコードでは、香り高き…の部分をA,清らかな…の部分を
Bとすると、ABAとなっていますよね。ところが、以前、ずいぶん古い歌の本には、
一番がAB,二番がA'B'という風にかかれていました。
A'は、今宵限りのルムバ…で始まり、B'の部分もBとは異なる歌詞でした。
新録音かなにかで、このように吹き込まれたことがあるのでしょうか。
どなたかご存知でしたらおしえていただきとうございます。
「バラのルムバ」について、40周年のライブ盤はありますが、スタジオで
の新録音はないようです。歌謡曲の楽譜集か何かでご覧になったのでしょ
うか?編集の段階でアレンジし直されたにしても、ご指摘のようにB'の
部分で異なる歌詞があったというのは腑に落ちませんね。 「一億人の昭和史」という本の中の一冊の、二葉さんのページでみたのです。
まだ、ABA,A'B'A'と書かれているなら、レコードには時間の都合でABAしか
収録されていないのだろうということで納得がいくのですが、その本には、
AB、A'B'というふうにのっています。あの歌は、最後に「ルンバー」と高音で
のばすところが一番もりあがると思うのに、B'でおわってしまったら中途
半端ではないかと思います。
以前、別の本でバラのルムバの当時の歌詞カードをみたことがあるのですが、
A'やB'の歌詞はのっていませんでした。きっと草稿にはあったのだと思います
が、それが「一億人の…」にのっているということは、もしかしたら二葉さん
がその部分をおしんで、後で吹き込みなおしたときに、先に申しましたような
かたちで吹き込んだのかなと思ったりしていましたが、スタジオでの再録はな
いのですね。ご教示ありがとうございました。
雪村いづみさんのアルバム「スーパー・ジェネレーション」に「バラのルムバ」が収録されてますが、
彼女はAB、A'B'で歌っています。 「バラのルムバ」はSP音源ではABAの最後「心おどる薔薇のルンバ」の部分を高音
に上げて締めています。作詞者の村雨まさをは作曲者の服部良一のことですが、
宝塚に在籍していた妹・服部富子の先輩であった村雨まき子のコミックな演技や歌
に感銘を受け「村雨まきを」としたところ、レーベルの印刷段階で「まさを」と
なったそうです。確か歌謡曲の歌詞集ではB'の部分がAで繰り返しとなっているの
もあったような気がします。服部オリジナルのB'の歌詞もご指摘のとおり、草稿
の段階ではあったものの、録音時間の関係で割愛されたものと推察されます。
二葉・霧島のデュエットによる「新妻鏡」も4番の歌詞があり、割愛されています
のでその類例かと思われます。 「買い物ブギ」の楽譜を見るとやはり2曲分の長さで、たいへんテンポが速く、
舌をかんでしまいそうですね。「バラのルムバ」の歌詞は白バラは若き乙女
の夢、赤いバラは恋に生きる今現在の情熱を表現しているようです。当時、
二葉さんはすでに30代に突入しています。一説によると、この曲は高峰三枝
子のために書き下ろられたものの、難曲のため、二葉さんが歌ったとされます。
また、その高峰もこの曲の発売当時乙女というには塔が立っていますので、戦
前に純な白バラの乙女が、戦争という荒波を越えて、戦後、血潮に燃え盛る真
っ赤なバラとなって恋に生きるイメージを描いたのかもしれません。 二葉さんが上野の音校時代、範唱レコードとして「四葉のクローバー」や「ブラ
ームスの子守唄」を吹き込んだ頃、既に中国・満州では戦火があがっていました。
二葉さんは1年間の教員義務年限を終えた後、純真無垢な清純派歌手として「愛
の揺籠」という曲でデビュー、その翌年が2.26事件、翌々年に日華事変勃発。
以後終戦までの激動の時代を歌に映しながら第一線で活躍されました。以前話題
となった「荒鷲慕いて」などは緊迫する時局を反映させた流行歌として非常に象
徴であり、一方、今話題となっている「バラのルムバ」は戦後の開放感に溢れた
自由な雰囲気を彷彿とさせます。戦死の夫を追って入水するうら若き妻を歌った曲
から戦後ダンスホールで踊り、恋と歌に生きる女性(後家?)の曲まで正に時代
の空気を描いた作品を数多く吹き込まれています。実際、二葉さんが初吹き込みさ
れて以来終戦までの間、官民合わせて何百万という人間が国に殉じて戦没したとい
うことを考えると、戦後、占領下にあっても、文化面での開放感・充足感はただな
らぬものであったに違いありまえん。「バラのルムバ」を聴くとその当時の流行
歌が持つ時代に対する心理的影響力の大きさを感じずにはいられません。
ほんとうにおっしゃる通りだと思います。
戦後は、戦争中おさえつけられていたものが一気にはじけるかのように、「バラのルムバ」
を初めとして、「心月の如く」「懐かしのブエノスアイレス」「雨の日ぐれ」などなど、
覚えて歌って楽しむというよりは、二葉さんの歌声を聴いて楽しむようなハイブローな歌も
ずいぶん増えたと思います。
戦前からいろいろな歌をうたってきて二葉さんですが、戦後の二葉さんは七色に輝いていた
ような感じがします。あまり有名ではないかもしれないけれど、戦前の「乙女十九」とか、
「波の行進曲」なども、大好きです。二葉さんの歌声もとても可愛らしい感じです。 七色に輝く二葉さんということですが、歌の種類(歌詞、曲調)もさること
ながら、歌唱方法も曲によって七色に変わります。これは戦前の吹き込み曲
から明らかです。157の方がご指摘のように曲に合わせてうぶで可愛らしい女
性をイメージして歌っている曲もあれば、洗練された都会の女性を思わせる
ものもあります。特に「東京セレナーデ」では曲の前半ではうぶで可愛らし
い女性を思わせる発声ですが、途中、「青い灯赤い灯〜」の部分から一転し
て、急に大人びた女性の声に変わります。これも意図的にそうしているので
しょうが、戦前の東京・銀座で展開される恋人との出会いの情景が目に浮か
びます。昭和12年の発売曲ですが、前年発売の田舎娘を描いた「広島娘」
とは打って変わり、モダンな雰囲気が漂ってきます。同年に「荒鷲慕いて」
も発売されているのですから、まさに七色の女性像を戦前から歌で表現して
いたわけですね。
二葉さんは戦前から曲のイメージによって変幻自在に歌唱法を変えるというのは周
知のことですが、特に、純真可憐な乙女のごとく愛らしい声色を使って自然体で甘
く発声するテクニックにかけては戦前からの女性歌手の中では右にでる者はいない
でしょう。現代風な言い方ではいわゆる元祖ぶりっ子的歌唱法というと語弊がある
でしょうが、歌唱テクニックの点で突出しているのは間違いありません。うら若き
乙女のイメージで描かれた歌は戦前にも山ほどありますが、果たして二葉さんほど
魅力に溢れた声色を駆使して可憐さを歌に表現した歌手が他にいるでしょうか?
特に、クラシック畑出身の歌手(佐藤、四谷、淡谷、関、渡辺、松原など)で彼女
ほど、巧みに歌いこなせる歌手は皆無といってもよいのではないでしょうか。 確かに松原は劣っていない。「荒野の夜風」の共唱でも明らかなように、二葉と
聞きまがうほど声質が似ている。ただ、二葉ほど甘く歌ってはいない。これは先
天的な声の質の違いで、力量の差ではないが、いわゆるぶりっ子的な歌唱法合わせ
もつと、異性に対する引き付け効果は倍加する。松原の独身時代の吹き込みと比べ
ても大きな違いがある。 そういえば、松原操は二葉さんの先輩にあたり、上野(東京音楽学校)の本科卒業
の後、研究科に進学している。彼女こそ、音楽教育における最高学府を終了して流
行歌歌手に転じた変り種である。四谷も4年過程の本科卒業だが、研究科には進学し
ていない。ただ四谷の場合は一旦流行歌歌手に転じるも、後に声学家となり、さら
に母校(新制東京芸大)の教授、国立音大の学長となった大やり手である。何れも
官立でクラシックを学び、流行歌を吹き込んだ面々である。流行歌の歌唱法におけ
る魅力度を論うこと自体、ナンセンスかもしれない。 >160松原操は二葉あき子に比べると音域が狭い。顔は松原に軍配かな。だから、霧島昇が松原に惚れた。ちなみに、意外にもデビューは霧島より二葉の方がちょい先輩だとか。松原はもっと古い。 伊藤久男がデビュー間もない二葉あき子とコロムビアの前でバッタリ会ったとき、
「よ、二葉さん、コーヒーでも飲まない?」って誘ったら、
二葉さんはカンカンに怒って会社に
「会社に不良がいます!!」って訴えたんだって。
カワイイね。 伊藤久男は女ったらしで有名。妻がいながら女優と浮気をし、後に協議離婚している。松原操と最期まで連れ添うた同郷でライバルの霧島昇とは違う。 四谷は生前テレビのトーク番組に出演し、「歌手になる前は英語学者に
なりたかった」と漏らしており、大正期に官立の音楽学校に進学した女
子の向学心の高さに驚かされたことがあります。現実問題として大正
〜終戦期まで女子が学者(大学教員)として採用されたケースは皆無に
等しく、また、学者になるためには帝国大学(東京大学、京都大学)卒
業というのが大前提で、その二帝大には終戦まで女子の入学門戸は閉ざ
されていたのです。ですから女子で大学に研究者として奉職したケース
は、当時女子の最高学府とされた東京高等女子師範(現御茶ノ水女子大)
の研究科に進学後、旧7帝大の内、女子にも門戸が開かれていた東北帝
大に進学、さらに大学院終了、東京帝大の研究室に助手として採用、以
後、論文提出により学位記を授与され、晴れて女性の研究者(学者)と
なるといった、非常に長い道のりを覚悟しなければなりませんでした。
現実問題、理科系の女子の学位取得は戦前にも数例ほど前例があるもの
の文化系分野(語学系)では前例がありません。かなりの現実乖離が
ありましたが、 これに対し、二葉さんは別のテレビのトーク番組で
「医者になりたかった」といっていました。こちらは、戦前既に女子専
門の医師養成学校(東京女子医科専門学校)があり、現実的進路といえ
ます。いずれも、芸は身を救うといわれた時代に典型的職業婦人として
の選択肢を得た上で、歌手の道に進んだ者はそうでない一般の流行歌歌
手に比べ、メンタリティーにおいて大きな相違があり、官立出の彼女ら
の出現は、明治〜大正期の流行歌歌手(演歌師)のイメージに比べ大き
く変化していく、端緒となったであろうことは容易に想像されます。そ
の意味でも大変な功績があったといえます。 官立出ということで、付け加えるなら、もう一人、由利あけみという存在がありま
す。彼女は旧制日本女子大学校(現日本女子大)へ進学の後、進路を変更し、官立
東京音楽学校に入学しています。そういうわけで彼女は二葉さんより、2歳年上で
すが、同期入学で、机を並べた間柄です。しかも二人とも同郷(広島出身)で、
さらに本名の姓も同じ加藤姓。おまけに寮の部屋まで同じであったといいます。
年上の由利は二葉さんを「よっちゃん」と呼び、一方二葉さんは由利を「加藤さん」
と呼んでいたそうです。官立出という話の延長となりますが、由利は昭和14年「長
崎物語」「熱海ブルース」のヒットを最後に、大蔵省の課長と見合結婚をします。
ビクターの文芸部長は由利の引退を引き止めるべく母親に説得工作に出ますが、結
局叶わず由利はそのまま流行歌界から身を引きます。当時も今も大蔵省のキャリア
はエリート中のエリートであり、特に当時高等文官試験に合格し、大蔵省に採用さ
れた帝大出身官僚との見合いは女性にとり、容姿もさることながら、門地、出自な
ど相応の条件が揃わなければ果せないことでした。それゆえ、流行歌の吹き込み歌
手が大蔵官僚の夫人になることはまず考えられないことであったのでしょうが、官
立の音楽学校出というブランドはその両者が引き合わせられるほど、知的情操面で
共通性があったといえるのではないでしょうか。官立出身とはそれだけ高いブラン
ド性を発揮していたという証左であるような気がいたします。 昭和14年、由利は「長崎物語」「熱海ブルース」をヒットさせた後、大蔵官僚と
結婚、惜しまれつつも引退した。方や二葉さんは「古き花園」が大ヒットし、ス
ター歌手の仲間入りを果す。家庭に入った由利は、職業歌手としての地盤を固め
以後米寿の年まで歌い続けた二葉さんとは非常に対照的な道を歩んだ。続くヒット
となった「純情の丘」は松竹映画『新女性問答』の主題歌となり、スクリーンで
頻繁に歌われた。昭和14年に公開されたこの映画は女性弁護士の物語である。丁
度前年の昭和13年、女性が初めて司法試験に合格し、修習を終える2年後(昭和15
年)に女性弁護士が誕生するという盛り上がりの中で、女性弁護士をモデルにした
この映画が脚光を浴び、その主題歌を官立出の職業歌手である二葉さんが歌った
という。戦前の封建的社会において、女性の社会進出は専門職では医師、教員、
看護婦が最たるものであった中、いよいよ法曹の世界にも進出かと注目が向けら
れた年でもある。同年、二葉さんは原節子が主演した東宝映画『東京の女性』で
同名主題歌「東京の女性(節子の唄)」も歌っている。この映画も女性の社会進出
がテーマで原節子が自動車販売会社のタイピストから営業職(映画ではセールス
マン)に転じ職業婦人として悪戦苦闘する姿が描かれている。男女機会均等法が
施行される50年も前に、しかも戦前(といっても14年戦争という意味では戦時
中であるが)に女性の弁護士や営業職をテーマに描いた映画が注目を浴び、いず
れも主題歌を二葉さんが歌っていたというところが官立出身の職業歌手二葉あき
子らしいところではないか。
>男女機会均等法が 施行される50年も前に、しかも戦前(といっても14年戦争という意味では戦時
中であるが)に女性の弁護士や営業職をテーマに描いた映画が注目を浴び、いず
れも主題歌を二葉さんが歌っていたというところが官立出身の職業歌手二葉あき
子らしいところではないか。
男女機会均等法を成立させたフェミズムと二葉あき子の官立出身とは論理的につながらないし関係ない。もっと勉強してから書いてくださいね。
あと文、長すぎ。こういうとこには不向きだね。
>男女機会均等法を成立させたフェミズムと二葉あき子の官立出身とは論理的に
つながらないし関係ない。もっと勉強してから書いてくださいね。
フェミズムと官立出身の関係を論理的に繋げようという意図で書いていると
仮定すれば、「関係ない」「もっと勉強してから書いてくださいね」と書かれ
るのは当然でしょう。が実際、それを意図して述べているのではありません。
実際、両者の関係を論理的に立証することは不可能であり、実際関係ないから
です。ただ、そのような曲解を招く表現であったのは書き手の落ち度でありま
しょう。ようするに二葉さんの経歴と戦前の女性社会進出を扱った映画の主
題歌の吹き込みとの接点を好意的に捉え、結びつけているだけですね。批評す
るにも、書き手の心理を読みとって好意的にコメントしていただくとこのページ
が盛り上がります。「長すぎ」は確かにそう思います。好意を持っていないと
すればなおさらです。あと、「不向きだね」→「不向ですね」と文体を上品に
すれば批評してもきちんと受け止められるでしょう。長文これにて終わりとし
ます。 二葉さんが音楽コンクールで独唱し、NHKラジオで放送された「君よ知るや南の国」
という曲は誰のどんな曲ですか? 「君よ知るや南の国」はシューベルト作曲のオペラかアリア♪詳しくは俺も知りません。 歌劇「ミニヨン」の中の一曲です。
多分、三浦環さんのCDに収録されてあると思います。
他にも色々な方が吹き込んでいます。 早急なるご回答、ありがとうございます。今後三浦環のCDを聴いてみようかと
思います。二葉さんは広島高女時代に音楽教師に才能を見出され、音楽コンク
ールに出場、見事優勝したそうですが、さぞかし発声も素晴らしかったので
しょう。 森昌子が「水色のワルツ」「夜のプラットホーム」を歌ったと言う書き込みがあったが、
逆に二葉の歌声で「せんせい」「越冬つばめ」「哀しみ本線日本海」などを聴いてみたい。 >169
男女機会均等法という言葉から端を発し、戦前の女性の社会進出と二葉さんの吹
き込み曲を関連づけたためにフェミズムと官立出身者との関係性を論証している
と、解釈されたわけですね。無理もありませんが、一方的な曲解というのは指摘
の通りです。ただ、フェミズム(男女同権論(主義)または婦人解放(女権拡大)
運動)からの視点でいうなら、二葉さんとその周辺から戦前の女性の社会進出に
目を向ける切欠となったのであれば有意な発想といえましょう。また、人に「勉
強せよ」というのは例え貴君がフェミズムの研究者であっても全く値打ちのない言
葉ですよ。 引退されたそうですが、昭和歌謡大全のスタジオでのトークなどでまた拝見したいものです。 >>177
普通のスレに戻ったんで、そこんところ宜しくお願いしますね(・∀・)ノシ スタジオトークで思い出すのは、霧島と二葉さんが出演した時のことです。
デビューについて司会者が「お二人はコロンビアではデビューが同期だそうですね」
と訊ねられ二葉さんは「そうですね。まあ半年私が早いんですが」というと霧島が
「まあ、半年だからほとんどかわらないよ」と返すと「半年でも先は先よ!」と言い
返していたのが面白く笑っていましました。生涯のライバルだったのでしょうね。 二葉さんと霧島は昭和12年4月発売の「北海博行進曲」から昭和22年のご存知「旅
の舞姫」まで、デュエット、共唱合わせて10年間で45曲も吹き込んでいます。最
後の吹き込みの翌年に連れ合いの松原操が引退しているというもの妙な話。また、
その松原と二葉さんは、「婦人愛国の歌」(抱いた坊やの)、「同左」(皇御国の)
「憧れの荒鷲」「荒野の夜風」「白衣の白百合」「荒鷲慕いて」(古関篇)、
「勇士に捧ぐ」「なんだ空襲」と8曲も共唱しているのです。最後の「なんだ空襲」
などは霧島・松原夫婦と共に二葉さんは3人で共唱させられているのですから、ライ
バルを通り越して仇敵とでもいうべき間柄ではなかったのではと感じてしまいます。
貴重なお話ありがとうございます。
文章が長くなるときには、行間を空けていただくと
かなり読みやすくなりますので
ぜひ よろしくお願い申し上げます。
長文読解が苦痛な方は長文の書き込みは読まないという手もあります。
チャット的短文だと、読みやすいが、読む気がしない。これもそう。 先日、少し早い忘年会の二次会でショーパブに行ってきました。カラオケタイムと
なり、曲を選ぶ際、ホステスの若い女の子(23歳)に二葉さんのことを聞くと、
「「水色のワルツ」なら知っている。お客さんで歌う人がいる」といっていまし
た。とても驚きました。 二葉さんと豆千代さんと歌った歌で、
「さくら草」というのがあるそうなのですが、
どんな歌なのかどなたかご存知ですか?
舞踊小唄かなと思ったりもしたのですが… なつめろ番組で唄われた自身の曲を調べてみたら
いちばん多く唄ってるのが「夜のプラットホーム」でした。
その次が「フランチェスカ」「水色」「花園」の順です。国内のすべてを
調べたわけではなく、手元にあるのだけで集計したのですが。 「雨の日ぐれ」とか「霧の港の…」は、ヒット曲ですが
懐メロ番組ではあまり歌われていませんよね 「雨の日暮れ」なんて、ずいぶん後にステレオでレコーディングしたね。 あの花この花・あの夢この夢・荒野の夜風・バラのルンバ・花言葉の唄
これらはヒットしたんでしょうか? 「雨の日暮れ」はサトウハチロー邸に降る雨かと思いきや浅草の雨だそうで。 基本的にステレオで再録されてるものは、ヒット曲と考えていいの?
二葉さんだと
↓↓↓
フランチェスカの鐘 夜のプラットホーム 恋の曼珠沙華 純情の丘 古き花園
恋のアマリリス バラと蜜蜂 水色のワルツ 別れても 村の一本橋 オリーブの歌
あの花この花 さよならルンバ 霧の港のノスタルシア 巴里の夜 雨の日ぐれ
↑↑↑
ステレオで再録されたのってこんなもんだと思うんだけど >>193
花言葉の唄は二葉さんの唄ではありませんがヒットしました。
バラのルンバ、荒野の夜風はヒットしたと思いますが、
たしかあの花この花は残念ながらあまりヒットしなかったと思います。
あの夢この夢は小ヒットくらいにはなったと思いますよ。
>>195
それらの唄はみんなヒットしました。
他にもたくさんのヒット曲があります。お島千太郎旅唄、新妻鏡、
懐かしの歌声、バラのルンバ、荒野の夜風、高原の月、白蘭の歌、
航空日本の歌、空の勇士、黒いパイプ、めんこい子馬、婦人愛国、
海の進軍、紀元二千六百年、愛国行進曲、春よいづこ、など。
上に挙げた曲ほどのヒットにはならなかったがそこそこ売れたものは、
乙女十九、あの夢この夢、あの夢この花、若き日の夢、歌えば天国、
夢よもう一度など。
上にあげた曲を再録音していない場合が多いのは、1、デュエット曲である。
2、戦時歌謡で、あまり好きな歌ではない。 などの理由が考えられます。
二葉さんの売り上げは美空ひばりが出現するまでコロンビアでトップだった
そうですね。一人の歌手が生涯に出したSP盤の売り上げでいうと、日本では
何番目くらいなのでしょうか? >>198
さあ何番目かというと難しいですね…
まあ、上意に入るとしたら、二葉さん、渡辺さん、藤山さん、霧島さん、
勝太郎さん、美ち奴さん、東海林さん、美空さん、島倉さん、菅原さん、
田端さんなどが考えられると思いますが…
島倉千代子さんや美空さんはSP盤で出した曲はほかの人にくらべて
少ないけれど、時代がさがっているのでやっぱり枚数が多いと思います。
(例:この世の花…200万枚)
ですから、佐藤千夜子さんなどもヒットは多いんですけどあの方の時代は
十万枚で大ヒットの時代ですから、多分全体的にはそうでもないのでは
ないかと思います。
様々なことを考慮してある年代を基準に換算してくらべるのではなく、
単純に売り上げの多さを較べると、やっぱり時代が後の方の歌手が
有利ではないかと思います。
ただ、たとえば「起源二千六百年」のような人気歌手総出で吹き込んだ
ような歌を、それぞれの歌手一人ひとりの売り上げに加えるなら、
その限りではないかもしれません。 因みに196も「めんこい仔馬」と「愛国婦人の歌」ですね。 投稿する前に見直しをした方がよりよくなるでしょう。 二葉さんはデビュー60周年記念番組のロケでフランスに行き、シャンソンの作曲家
からフランス語である曲を作曲してもらっていました。なんという曲でしょうか? >>203
「めんこい子馬」でいいんです。
よく本に「めんこい仔馬」と書かれてありますがあれは本の間違い。
レコードには「子馬」と書かれてあります。
それから、「婦人愛国の歌」を「婦人愛国」と言っても
別にいいんじゃないですか、わかれば。私も、正確には
「婦人愛国の歌(皇御国の)」「婦人愛国の歌(抱いた坊やの)」
であることくらい知ってますよ。
ちょっと短く打っただけで、いちいち揚げ足をとるように
指摘しなくてもよいと思いますよ。
昨年、広島のアステールプラザに菅原都々子さんが個展と公演(ミニコンサー
ト)のために来られました。その時菅原さんは広島にいらっしゃる二葉さんに
是非お会いしたいと切望され、二葉さんが会場に足を運ばれたと伺いました。
その時二葉さんは「都々ちゃん!!」といって二人は抱き合われたたそうです。
現役最古参の女性歌手の一人となった菅原さんに二葉さんは「これからはあな
たの時代よ。がんばってね」とエールを送られたそうです。確かに菅原さんは
現在もNHKで歌われている現役の歌手で、戦前デビューの流行歌歌手が平成17年
に及んで未だにブラウン管で歌っているという意味では彼女の時代といえるのか
も知れません。二葉さんのエールをしっかりと受け止めて、戦前デビューの女性
歌手を代表してこれからも益々頑張っていただきたいものです。
菅原先生は絵手紙の個展をされていました。テイチクレコードの関係者が二葉先生と菅原先生を撮影していました。元ボクシングオリンピック日本代表選手であり明治大同部監督の御主人と弟さんを同時になくされ習われたそうです。 二葉先生の曲で菊池章子のお気に入りは「シャボン玉の幻想」だそうです。いつか
ラジオで二人が出演した時いっていました。あらためて聴いてみるととても戦前
発売とは思えないモダンで軽快ないい曲です。聴いてみてください。 「シャボン玉の幻想」、ほんとうにいい歌ですよね。大好きです。
菊池章子さんも亡くなってしまって、二葉さんは引退されたし、
本当に菅原さんには頑張ってほしいですね
二葉さんもいつまでもお元気でいてほしいです。 先週の金曜日、札幌西FM放送『懐かしの流行歌を訪ねて』という番組では年始恒例
の流行歌の世界旅行と題して、様々な国をテーマにした曲が特集され、二葉さんの
「アメリカだより」(昭和25年)が流れました。とても軽快な曲でアメリカの地名
のオンパレードでした。昭和25年というと丁度古賀楽団が二葉さんをはじめ、市丸、
霧島らを引き連れ戦後初の日本人歌謡使節団として渡米した年でした。その帰朝土
産に書かれた曲なのかもしれません。おそらく復刻されていないでしょう。 先週の金曜日、札幌西FM放送『懐かしの流行歌を訪ねて』という番組では年始恒例
の流行歌の世界旅行と題して、様々な国をテーマにした曲が特集され、二葉さんの
「アメリカだより」(昭和25年)が流れました。とても軽快な曲でアメリカの地名
のオンパレードでした。昭和25年というと丁度古賀楽団が二葉さんをはじめ、市丸、
霧島らを引き連れ戦後初の日本人歌謡使節団として渡米した年でした。その帰朝土
産に書かれた曲なのかもしれません。おそらく復刻されていないでしょう。 >>214ぜひ聴いてみたいです。
二葉さんは、絵もそうですが書道も大変な腕前であったそうです。 本当に達筆ですね。東海林太郎に「二葉さんの声楽と書道は天性のもの」と言わせ
たとおり、88歳の時に筆で書かれた文字も、非常に味のあるすばらしいものでした。
まさに天賦の才能でしょう。二葉さんは三次高女教員時代に書道も担当されていま
すし、書での出展もできる書家でもあります。一般に考えても、フリーハンドで書
いた文字で目が留まるほどの字を書く人は戦前生まれですら数十人に1人ぐらいで
しょう。時代が下るにしたがい、率が悪くなるような気がします。 今ではもう歌わない祖母と行動を供にしなのが95平成7年ですからもう10年昔の話になります。リサイタルには並木路子さんや菅原先生が応援に来られたのを覚えています 銀座が好きな人でした。東京に用があり去る時車窓から見えるマリオンや銀座のネオンや雑踏は懐かしいです 声楽、絵画、書と三拍子揃った方は芸能界でも二葉さんぐらいではないでしょうか。
芸能科目として学校教育の中で認められた分野を極められた二葉さんは芸能界でも
貴重な存在です。 祖母は猫が好きでした。管理人からよく注意されてました。近くの赤坂パークビルや五丁目交番前のampmで餌の缶詰を買わされたものです 正式に引退してしまったんですか。
残念ですね、なんか。。。
でも元気でいてほしい 日本歌手協会には在籍していますのでまだ現役歌手になります。もうすぐ91になります。 「女豹の地図」とかけっこぅ好きかも☆☆
♪シャボン玉〜 川田正子さんがお亡くなりになりました。とても残念でなりません。二葉先生
は昨年文藝春秋二月号に「紅白音楽試合に出場したのは私と川田正子ちゃん
だけとなりました」と言っていましたが、ついにご本人だけということに。
でも第一回紅白歌合戦の出場者は菅原都々子さんがまだご健在です。二葉先生
の分までがんばってほしいものです。 もうすぐ91歳をお迎えですね。少し早いですが、お誕生日おめでとう
ございます。これからも、お元気で長生きしてくださいね。多くの
ファンを代表して心よりお祝辞を申し上げます。 私は、戦後生まれですが、小学生時分に家に在ったSP盤レコードの軍歌を良く聞いていたものです。(今はそのレコードたちは失われました。)
私自身は、内閣総理大臣の靖国神社参りに反対で、街頭宣伝車で軍歌をがんがん鳴らす右翼は撲滅されるべき、の考えです。軍歌や戦時歌謡は軍国主義・侵略戦争を煽ったものなので、理性的には批判し否定する立場です。
それでも、偶々この「二葉あき子について語ろう」掲示板を目にして、子供の頃のある種の懐かしさ≠想い出したのは、否めません。
♪荒鷲慕ひて♪のメロディは、脳裏の中で、うろ覚えですが演奏されます。
彼女は、「愛国行進曲」や「紀元二千六百年」、「父よあなたは強かった」も吹き込んでいましたか?
日本の危険地帯広島県から 二葉さんが出たとは驚きだ
昔は、人も土地も良かたのだろうか 原爆投下時乗ってる電車トンネルにいて幸運にも免れたらしいね。
そういや扇ひろ子は被爆者だったらしいね。 二葉さんは奇跡的に被爆を逃れた人です。お父さんの実家が県北の地にあり、8月
6日の朝、息子さんとお母さんがいる布野に向ったことはまさに運命の引き合わせ
としか考えられません。 >>226
いずれも、渡辺はま子さんや藤山一郎さんなどと一緒に吹き込みました。 >>229
そんな事実が
でも今でも元気ですよねぇ >>231 の方、
226にお答えいただきありがとうございました。m(_ _)m
このスレッドをよく読んでみれば、
>>133 >>196 にも書いてありました。
確かに二葉あき子の歌声は、澄んだ明瞭な発音でとても爽やかな響きでした。
軍歌など吹き込まない方が良かったのに、とも思いますが、戦時中にそんなのを
断れば、特別高等警察に捕まったかもしれませんから、やむをえなかったかも…。 二葉さんは、戦時歌謡や軍歌はあまり好きではなかったそうです。
ただめんこい子馬、荒鷲慕いて、空の神兵など、
好きな歌も数曲あったそうです。
なお、紀元二千六百年などをあんなに大勢で吹き込んだのは、
豪華オールキャストという意味のほかに、歌手が地方で歌うときに
それぞれが自分の持ち歌として歌えるように、という意味があったそうです。
>>224
松田トシさんも何気紅白歌試合出てるから二人生き残っているね。
司会の水の江滝子もまだ生きているし。 水の江さんは海辺の家で静かに暮らしてるらしいね。
「松田トシ」をYahoo!かGoogleで検索したんだけど最近のど自慢っぽい大会の審査員をやったみたいですね。 水の江さんは昭和11年の朝日新聞の広告欄に出てますよね。
「この美人は誰でせう?」という見出しの懸賞に写真付きで なんといっても記念すべき第1回の紅白から出てるのが素晴らしいですよね。
この時は東京放送会館第一スタジオで1月3日放送だったんですね
(わずか男女7組づつ)
よく見ると、そのプロトタイプともいえる「紅白音楽試合」にも出てる。
これははっきりした資料が残ってないので二葉さんの遥か遠い記憶に
頼るしかないんですが、昭和20年の大晦日で紅組司会が水の江滝子さんだそうです。 二葉さんの著書に、
「代表曲を歌えということで、古き花園か新妻鏡を歌ったと思う」
というようなことが書かれてありました。 >>241
懐メロファンにはかなりおいしい曲目ですよ。一応↓が紅白歌試合の出場歌手一覧です。
★ 1945年12月31日:紅白音楽試合が始まる
★ 紅白音楽試合 ・ 1945.12.31
司会 紅組・水の江滝子、白組・古川ロッパ、総合司会・田辺正晴アナウンサー
紅 組 白 組
芦原 邦子 / すみれの花咲く頃 加賀美一郎 / ペチカ
市 丸 / 天竜下れば 霧島 昇 / 旅の夜風
川崎 弘子 / 六段の調べ(琴) 楠木 繁夫 / 緑の地平線
川田 正子 / 汽車ポッポ 桜井潔楽団 / 長崎物語
近藤 泉 / ユーモレスク(バイオリン) 下八川圭祐 / ヴォルガの舟歌
小夜 福子 / 小雨の丘 浪岡惣一郎 / 曲目不明
長門 美保 / 松島音頭 平岡 養一 / 峠の我が家(木琴)
並木 路子 / リンゴの唄 福田 蘭堂 / (尺八)
比留間絹子四重奏団 / サンタルチア(マンドリン) 藤原 義江 / 出船の港
二葉あき子 / 古き花園 松平 晃 / 花言葉の唄
松島 詩子 / マロニエの木陰 柳家三亀松 / (新内流し)
松田 トシ / 村の娘 不 明
松原 操 / 悲しき子守唄 不 明
>>242
どっちも最近テレビで歌う機会なかったですね。
「夜のプラットフォーム」と「さよならルンバ」ばっか。 長門美保さん、藤原義江さんと犬猿の仲だったそうな… ちょっとコミカルな「村の一本橋」もいいですね。
二葉さんの歌では非常に珍しい『お前』と言う二人称が使われている。 いつの間にか年忘れや大全集で二葉さんの姿が消えてしまってから数年が経ちました。
撮りだめした「年忘れ」のビデオを久しぶりに見てたら二葉さんが出てきて「夜のプラットホーム」を歌っていました。
その時は「さーよなーらー、さよーなーらー」で声が裏返ってしまった回でしたけど、やっぱり上手いです。
あの歌声がもうリアルタイムで聴けないとなると無精に悲しくなります…