二葉あき子について語ろう
戦前の大歌手で唯一元気な二葉さんについて語ろう。
淡谷のり子は洋楽志向が強く
渡辺はま子は中国風で
二葉あき子は演歌じゃないけど古きよき日本の
歌を歌ってます。今もコンサートを開いたりしてるそうで。 この間TVで見ました。90歳に近いとか。東京音楽学校の先輩が藤山一郎で、『藤山先生は怖いお方でした』って言ってました。
戦中かな、二人で♪懐かしのメロディ♪唄ってますね。あの曲は好きです。
東京音楽学校って、今の東京藝術大学の音楽学部、凄いなあ。 彼女の曲は特別詳しくは無いけど、【夜のプラットホーム、水色のワルツ、別れても】未だあるとは思うけど思い出せません。
総体的に難しい曲が多いですよね。これも彼女の歌唱力を考えて、作曲されたんですかね。
淡谷のり子が行ってたけど夜のーーーは戦前、彼女の曲だったみたいですね。何故唄わなかったのかは知らないけど
戦後、二葉の歌になったようで、 二葉さんのスレあったんだ
レスを読むかぎり元気そうですね(90才近いですよね?
顔も見た事ないし、CDも持ってないですが(あるのかな?)
恋のアマリリスという曲を聞いてもっと他の曲を聞きたいなぁと思いました 浪曲出身の二葉百合子さんは〔岸壁の母〕今も浪曲で鍛えた喉で変わらずに聞かせてくれてますね。二葉あき子さんよりも恐らく一回り若いと思いますよ。
歌謡曲の世界では、断然あき子さんのほうが上と思います。ヒット曲の数も多いし。
〔フランチェスカの鐘〕が好きです。 二葉あき子全集みたいなCDある?
見かけないんだけど(そうそうあるもんじゃないよな?) TSUTAYAのホームページで検索したら結構出るよ。 まだまだ元気でたまに歌われる様ですがどこで情報を得られますか?
まさかファンサイトなんてないでしょうし… サンフランシスコのチャイナタウンの人?
全然違うか・・・ 本格派なので、クラシックもやってたのかな。多分アルトと思うな。だって、ヒット曲は彼女の低音の魅力を生かすような曲が多いもの。
♪桑港のチャイナタウン♪は、渡辺はま子ですよ。 戦前歌手スレって100レスいけば良い方だからな。
この板でいう懐メロはせいぜい35年くらい前まででしょう? 二葉センセなら、耳が遠くなって歌手活動に支障きたして引退して広島へ帰ったよ。
ttp://app.memorize.ne.jp/d/83/96122/2003/11/0021 より
元気ではあるらしい。 >>18
引退されたんだ。残念。
徹子の部屋に出られたときも、音が聞き取りづらいということで、
補聴器かなにかつけてらしたけど。
でも最後に出演された「年忘れにっぽんの歌」で、
お耳が遠くて音が取れず、最初テンポもずれていたのに、
間奏でダンサーのステップを見てテンポを取り、
音程はあやふやだったものの最後まで歌い上げた姿には
脱帽しました。
五人会も現役は胡美芳さんだけになりましたね。 二葉先生の引退、初耳です。ショックです・・・
広島にいらっしゃるのは存じていましたが、まさか引退されてたなんて。
でも、理由が理由だけに仕方ないですね。晩節を汚すのはご本人が
一番ツライでしょうから。
長い間お疲れ様でした。あとはゆっくりと人生を楽しんでいただきたいです。 大ヒットした曲でBest5なら
【フランチェスカの鐘、夜のプラットホーム、古き花園、水色の手紙、別れても】で良いですか?何か抜けてるような気もするけど >21
水色の手紙→水色のワルツでしょ。
「さよならルンバ」や「村の一本橋」、「恋のアマリリス」はどうなの? 二葉先生はヒット曲いっぱい持ってるから、5曲に絞るの難しいよね。
二葉先生のBEST5を私が好き勝手に選ぶとしたら
@巴里の夜
A私とピアノ
B夜のプラットホーム
Cビロードの月
Dアデュー巴里
って感じです。
マイナーな曲も入ってるけどね。 原爆投下の直前(10分ぐらい前)に列車で広島を離れてて助かったんでしょ。 広島発の列車が数分遅れたそうです。
それで列車が出発してトンネルに入ったときに原爆が投下されたらしい。
トンネルから列車が出たときに、二葉さんは窓からキノコ雲を見られたそうです。
列車が遅れなかったらトンネルを出たときに被爆していただろうし、もう少し遅れていたら死んでいただろうていうことで、
私は何故生き残ってしまったのかという罪悪感で一杯だったらしい。 >>24-25
その同じ列車に乗り合わせていたという人の話を読んだよ。
オートバイの本で「別冊モーターサイクリスト」ってのだった。
運命だね。 神様が二葉先生の声を世の中に響き渡らせようとしたとしか思えない。 二葉先生は、戦後ずっと働きどおしだったとかで、
疲労からか高音がちょっとかすれるというような
違和感を持っていたらしいんだけど、
どこかで「水色のワルツ」を歌っていたときに、
高音部のところで喉に激痛が走ったらしい。
で、それから高音が急にでなくなり、歌えないと失望し、
実家に帰り、短刀で喉を切って自殺しようとされました。
でも、その時に「私はあの原爆のときになぜ助かったんだろう」
「多くの方々が亡くなって私が助かって、
なのに今自分は自ら命を絶とうとしている」
という思いがよぎり、自殺を思いとどまり、
低い声でも歌えるように、自分でアルトの音域を作ったそうです。
音域を変えたころは「パダムパダム」などのシャンソンを
ステージで歌っていたそうです。
それからは、1曲1曲歌うときに、命をかけて歌おうと
決心されたといいます。 >>28
服部先生が「二葉ちゃん、その声でいいんだよ。高い声だけが
いい声じゃないんだから。キーはいくらでも低くしてあげるし
低い音域でも人の心を打つ歌は歌えるんだよ」と言われ、
古賀先生は「二葉ちゃんは心で歌う歌手なんだから、キーが
下がったことぐらいは何の問題も無い。これまで通り心を
こめて歌えばいいんだよ」と励まされたとのことです。 >>28、>>29 良いお話ですね。恐らく同じ方が書かれてると思うけど、色々エピソード聞かせて下さい。 >>30
同じ人ではないですよ。
>>29
服部先生のエピソード、二葉さんが服部先生が亡くなられた時の追悼番組で
「私の命の恩人です」って、お話になってました。
高木東六先生は「もういちど二葉君が高い声で歌う『水色のワルツ』が聞きたい」
と仰っていたようですが、私は高い声のときの歌も低くなってからの歌も
好きです。
特に声が低くなってからの方が、歌に厚みが出て、
説得力というか聞き手の心にグッと入り込むものがあったような気がします。
特に「パダム・パダム」は素晴らしいです。 二葉亭四迷は
「くたばって死ね」が由来
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
へぇ〜へぇ〜へぇ〜へぇ〜(ry
関係ないのでsage あぁ風よ 心あらば伝えてよ
愛し子待ちて怒涛来る 岸壁に立つ母の姿を こんなネタ ツッコミ入れてくれて『ありがとう』
浜村淳 ありがと〜 ありがと〜 ララランラン ララ〜ラ〜・・・かぁ? 昔、都内で「これから札幌ラーメン食べに行こうか?」といわれて
二葉あき子だけが、いま羽田空港から札幌に食べに行くと勘違いして
「ええ行きましょう」といったそうな。
ちなみに「あき」は広島の意。 12月29日(水)NHKラジオ第一「年末アーカイブス」22:05〜22:55
『あの時この音〜ラジオの紅白歌合戦』が放送されます。
昭和29年第5回大会を中心に…って事なんですけど、二葉先生の歌唱を是非聴いてみたいです!!
ちなみに曲目は「パダム・パダム」で、連続5回出場されてますね。 二年くらい前に九段会館の軍歌演奏会に出演されてました。汽車に乗って
トンネルの中で原爆を免れた話をしてました。今の世の中を戦争で死んだ
人たちに見せたくないとも。米寿になったら耳が聞こえなくなっちゃった。
今日も腰が痛くてコルセットをして立っているのがやっとなの。と言って
ました。めんこい子馬とフランチェスカを歌いました。 >>45
戦後60周年特集でなんか載ってるみたいですね 東京音楽学校出の声美人
Futaba Akiko_SPban_Furuki Hanazono.mp3
が思い出の曲 広島に帰っちゃって、コロムビアの社員のみんな、きっと寂しがってるね。 二葉あき子は昭和11年デビュー。14年の「古き花園」でスターダムに。戦中戦後もヒット曲を量産。昭和30年代頃のどを痛め自慢の高音が出なくなり、それ以降はアルトで歌うことに。最近はもう高齢ですから歌番組でお目にかかるのは難しいのでは? せめて昔の映像を流してほしいのう
深夜・早朝帯でいいから 二葉あき子は霧島昇よりもレコードデビューは先輩らしい。 つい2・3日前に、「昼の歌謡曲」でやってたよ。
カーラジオで聞いた。 今日、「古き花園」と中野忠晴氏とデュエットした「若き日の夢」を聴いた。
巧いね、声も瑞々しいし。「巧さ」では淡谷のり子さんより上じゃないかな。
それに、戦前の一番充実してた頃のコロムビアオーケストラの音も良いし、
仁木氏のアレンジや中野氏も良い味出していて、かなり気に入ってる。 NHK-FM「わたしの名盤コレクション」で落語家の立川志らく師匠が
紹介していた。曲はありふれたものだったが志らく師匠と二葉先生
の交流(一面識もないのに真打昇進パーティーの際に手紙を書いて
来て貰った話)などを話され、楽しいひとときだった。
再放送が8月1日午前9:20〜にあります。
ttp://www.nhk.or.jp/hensei/fm/20050801/frame_05-12.html 二葉さんって松原操さんとの掛け合いが似合ってますよね。
同じような声質ですし。松原操さんとの掛け合いでご健在の方はこの方と桜井健二さんぐらいでしょうか? 昨日初めて映像見た>テレビ
ふっくらした方なんですね
歌は『フランチェスカ』だったけど自分としては『アマリリス』が聴きたかったなぁ >>49
私も昔コロムビアのロビーで二葉先生を見かけたことある。
10年ぐらい前の話。受付で担当の人を呼び出してもらってたみたい。
受付のおねーちゃんと楽しそうに話してたよ。 引退されてたってほんと?
日本歌手協会にはまだ名前あるけど。 耳が難聴になって音程が取れなくなったんです。
ここ数年間突然二葉さんは音程を全て外して歌っていて正直聴きにくかったです。
1、2年くらい前にテレビに出た時にレポーターが大きな声で2回位同じ質問をしていてわかりました。
今は故郷の広島で暮らしているそうです。
耳をやられてしまったら、インタビューの受け答えも出来ないし、歌もまともには歌えません。
本当に残念です。 二葉さんの最後のテレビ出演は平成16年5月2日にテレビ山口で放送された『ムーブ
2004・22歳の青春』という番組でした。この番組はその後、九州、沖縄、大阪と放
送されました。老人ホームを懐メロ慰問している22歳の青年の活動を紹介したドキュ
メント番組で、その青年が藤山一郎と共に憧れる大歌手二葉あき子を訪問し、ご自宅
で「フランチェスカの鐘」を共に歌うという設定でした。二葉さんはこの時「さよな
らルンバ」もメロディーに合わせて踊られました。
なお、ラジオでは、つい最近の平成17年8月26日、FM札幌が「なつかしの流行歌を
訪ねて」という番組で終戦60周年記念の一環として二葉あき子を特集し、その中で二
葉さんはリスナーへのメッセージを伝え、また、昭和20年8月6日のご自身の被爆体験
に基づいて創作された短歌を朗読されました。 最後に年忘れにっぽんの歌に出たとき「さよならルンバ」を歌ったが、
一番ではリズムもキーもはずしたけど、間奏でダンサーのステップを見て
リズムをつかみ、二番ではキーははずしたままだったものの、
リズムだけ何とか取り戻して最後まで歌いぬいたのを見て、
私は感動してしまった。
フィナーレでは恥ずかしがってセンターに立つのを拒んでたのを
大津美子さんが手をつないでセンターに連れてきて一緒に歌ってた。 これからも細々と活動するのかなー…?
でももう年忘れ日本の歌には出ないだろうね… まぁ昔のXがストックされてるしね。
大量にあるテレ東なんかは画像も鮮明だし 祖母は90になりました。2年前に広島に帰りました。まだ元気です。全集はコロンビアに残っていると思います。広島三次市の道の駅(R54)布野に於いても二葉直筆の色紙とともに販売しております。もう描きませんからお求めになられてはいかがでしょうか? 親族一同 詳しくはわかりません02暮れ頃のヤクルトホールではないでしょうか?細かい仕事ならば03初頭関東周辺の老人ホーム慰問等で唄っていたかも知れません。 日本コロンビアの専従者と行動を共にしていたので詳細はわからない事が多く正確な返答はできかねますので悪しからず。 >>加藤雅也さん
そうですか。
僕は今19ですけど99年の「年忘れ日本の歌」で「さよならルンバ」を聴いた以来ファンです。
二葉さんは祖母と同い年で、祖母も二葉さんのファンです。
不思議な事に二葉さんは年を重ねた後の方が歌が上手くなっている気がします。
生で聴ける機会がなさそうなのが非常に残念です。
これからも元気でいて欲しいです。 祖母はやはりスターだと思います。もう一度舞台に立てればよいのですが長寿を祈る他ありません 「フランチェスカの鐘」のオリジナル音源にはあばずれ女の台詞が入ってるんだよな。 高杉妙子という女優の吹き替えです。 ほくも意味はわかりません。 昔、お孫さんのピアノで「水色のワルツ」を歌ってたのをテレビで見ました。
「ガラスの指輪」と「白いライオン」はお孫さんの作品ですね。
すごく素敵な作品だと思います。
息子さんの作品も歌ってらっしゃいますし、二葉さんはお幸せだと思います。
「水色のワルツ」を作曲した高木東六はまだ生きてるんだよな。
流行歌嫌いだったらしいけど。
これほどの名作を残せるぐらい実力があるのだからもっと作曲すればよかったのに。 >84作品は結構ありますが、あまりにもクラシカルで世に出ないだけ。 「情婦マノンの唄」古関裕而作曲。隠れたる名曲です。 「アデュー巴里」もいいね。
和製シャンソンで、ちゃんと本場のシャンソンみたいに
クプレとルフランから成り立ってる。
「巴里の夜」よりいいかも。 「パリの夜」「情婦マノンの唄」「アデュー巴里」は和製シャンソンの傑作だと思
います。日本の和製シャンソンでは「パリの夜」が一番ヒットしたのでは?二葉あ
き子は和製シャンソンの大御所である一方、典型的な日本調の流行歌や軍歌も大ヒ
ットさせています。シャンソンとは対照的な日本調の曲(「新妻鏡」「お島千太郎
旅唄」や「父よあなたは強かった」「海の進軍」など)を戦前に大ヒット曲させ、
戦後、和製シャンソンをもヒットさせた歌手は二葉さん以外いないでしょう。 まったくその通り!!よく美空ひばりのジャンルの広さがテレビで(昨日の17回忌で
も)取り沙汰されますが、カバー曲でなく、和製オリジナル曲で二葉あき子ほど
ジャンルを越えてヒットを放った歌手はまず見当たりません。「ビロードの月」
(和製ジャズ)「古き花園」(和製ブルース)、「めんこい仔馬」(童謡)、「高
原の月」(和製クラシック)「黒いパイプ」(和製タンゴ)、「パリの夜」(和製
シャンソン)など、洋楽調の和製オリジナル曲を大ヒットさせているところは、
歌謡史上、二葉さんしかいません。音楽教育の頂点である上野でクラシックを学んだ
後に、日本調の流行歌や軍歌で大ヒットを飛ばし、洋楽調でもジャンルを越えて、
数々のヒットを放ったそのキャリアに優る歌手は皆無といってもいいでしょう。
発売されて55年〜70年後にも通信カラオケに残り、歌い継がれる曲があるというの
は、まさに大歌手としての証左以外の何ものでもありません。 「村の一本橋」とか「祇園の坊さん」とか和ものでジャズィでカッコいいですね。 戦後二葉さんが歌ったジャズィな米山作品について、発売当時に聴いた世代の中に
は「二葉さんには似合わない!!」と酷評する人がいます。戦後、クラシック嗜好の
音楽ファンが唯一許せた流行歌歌手が二葉さんであったとされ、戦後「別れても」
から「恋のアマリリス」までの品のある流行歌を歌ってきた二葉さんがそれまでの
イメージを覆すジャズィな日本調の曲を歌うことが許せなかったのでしょう。確か
に純粋な二葉ファンにとっては抵抗があったかもしれませんが、ブギ全盛の戦後の
時代にあって、米山作品は二葉さんの新しい魅力を引き出すことに一役買っていま
す。 霧島昇のとデュエット曲
「新妻鏡」「高原の月」「旅の舞姫」もいい!
ヒット曲たくさんあるよな。
ナツメロ番組では淡谷さんや渡辺さんは同じ曲歌わされてたけど、二葉さんはいろんな曲歌ってたようなイメージがある。
もっと評価されるべき方です。 スローワルツの「新妻鏡」は歌いだしのG音が松原操ではでず、急遽音域の広い二
葉さんが歌うことになり、大ヒット、「高原の月」も霧島に合わせて一音低く、B♭
長調で吹き込みしています。逆に後年、二葉さんがコントラアルトになって以降テ
レビの舞台で「新妻鏡」を歌った時、霧島の後、間奏で一音下げて歌っていました。
以後、通信カラオケの音源やステージの演奏も低く設定され、世界的でも稀な低音
女性歌手として語られることがあります。楽譜に忠実な二葉さんの歌唱は業界でも
大変評価が高く、全盛時を知る同窓の森一也氏も絶賛していました。 二葉は昭和30年代に入り高音が出なくなり、それ以降アルトで歌うことに。低音も素晴らしいが、高音が聞けなくなったのは惜しまれた。 >93二葉はヒット曲が多すぎる分、自身の代表曲がない。例えば淡谷なら「別れのブルース」、渡辺はま子なら「桑港のチャイナ街」。二葉には突出したヒット曲がない。 そういえば森一也氏は二葉さんと同い年で東京音楽学校を浪人して入学して
いますね。で、本人いわく、昭和7年当時でも、一回で(現役で)入学でき
る生徒はほとんどいなかったそうです。ですから、100日の受験勉強で、す
んなり現役合格した二葉さんを宇宙人だといっています。特に師範科は一般
科目の傾斜配置も高く、学力的にも難関だったことはいうまでもありません。
代表曲か、強いて言うなら「水色のワルツ」か「フランチェスカの鐘」だと思う。
「古き花園」も好きだけど代表曲とは言い難いな。 >98二葉あき子のこの1曲ってなるとなかなかしぼられない。確かに「水色のワルツ」は高木東六作曲の曲が素晴らしい。「フランチェスカの鐘」も古関裕而の傑作。…だけど、やはりしぼれない。