川崎末期のロッテってどれだけ酷かったの?
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流しそうめん
麻雀
ぬいぐるみを3個とも同じ一家の人がゲット
あの狭い球場でピストル打線
10・19 >>57
そんな集団プラス落合やリーを手懐けてた稲尾さんは、ある意味最強だな。しかも、稲尾さん自身は温厚篤実な御仁なのに、決して舐めた態度は取られない。 初芝は高見盛のような観客ウケしそうな朴訥さだったな >>66
それこそ選手としての実績が神様で人柄が仏様だからな
最近出版された佐藤ミチの本によると
納会の席でウイスキー2本アイスペールに入れて一気飲みしたとか
しかもなぜか横になりながらw
このようなさりげないデモも怠りなしとあっては >>53
パッと見た瞬間の威圧感は大事だと思う
平沼は微塵も見た目が怖くないからな 当時のパ・リーグ球場見たら外野無人やね。
レフトスタンドにホームラン出てもライトスタンドから歩いてボール取りに行ける懐かしい時代。 >>59
高沢は筒井康隆読破してたな
おすすめ短編なんだったかな 高沢と言えば>>1に出ているぬいぐるみ3個の内の1発を打っているんだよな 高沢って10.19だけでなく1991年の終盤の近鉄戦でいい働きをしてまたしても近鉄の優勝を遠のけた
>>72のホームランもこの時期に飛び出したもので前日にも野茂から同店ホームランを打っていた
近鉄は9月末のロッテとの3連戦で1分2敗で終戦したといってもいい 高沢がいつの間にかロッテに戻っていた経緯 ほとんど報じされなかったな。
なんだったのあれ。広島から無償譲渡? 駅南部の治安の悪い工業地帯に球場がある
おまけに駅から徒歩15分
客が来るわけがない
もっとも、交通至便の大阪球場も末期はガラガラだったけど 仙台の反省を生かした本拠地作りをしたら良かったのに逆に酷い環境に飛び込んだのはなにがしたかったのかわからないんだが…
仙台がムリならいわき、つくば、福島、高崎、静岡あたり、まったく違う福岡や下関や岡山とかもあったはず 川崎球場はジメジメして湿気まみれだったので、
高畠導宏コーチが特注の乾燥剤入りバットケースを打者全員に提供していた >>65
藤倉はロッテで打数は少ないけど.348打った年もあるのにあまり使われなかったな >>75
15分で行けたかな。もっと遠かった感。
子供心に川崎の地下アーケードはびっくりしたな。当時としては珍しい規模だったんじゃないかな。 平沼は千葉市ナンバー1不良として有名だったらしい
キヨもそれを知っていれば・・・ キヨのジャンボ直伝のジャンピングニーで体重100kgの巨漢の平沼が5mはふっ飛ばされててワロタよ
プロで500発打つような打者のパワーは尋常じゃないよな
王さんは堀さんをワンパンでKOしたし筋肉もりもりのチンピラ慶彦を浩二は半殺しにした
500本塁打クラブの武勇伝は枚挙にいとまがない >>76
とりあえず首都圏ならどこでもいいという感じだったんじゃない?
選手も大半は東京近郊に自宅構えてただろうし 愛甲と成瀬は横浜高校のサウスポーでフォームが特徴あって
ロッテ入団とはダブる物あるな。
プロレスラーの鈴木みのるって横浜高校OBだったのか。 いわき、つくばは85年の万博に合わせて整備
高崎や福島は新幹線が82年に開通は仙台と同じだからなにも解決しない >>81
よく言われるようにアレはジャンボやなしに荒鷲式よ >>83
ジプシー・ロッテの頃は一月に一回しか家に帰れない事もあったって話だからな
どこでも良いから首都圏にホームが欲しかったんだろう 仙台空港→羽田→ラウンジで家族と二時間ほど歓談→福岡空港へ というルートも珍しくはなかった
2シーズン制だったから、早々と優勝争いから脱落した期の終盤のビジターゲームの際、レギュラークラスは丸々東京に帰して休ませるなんてこともやってたな 新幹線の無い時代の西鉄東映戦とか正気の沙汰じゃない
ペナント中ってほとんど練習できんだろうし ロッカーに置いておいたグローブがネズミにかじられてたとか
壁からアスベストの塊が崩れてきたとか選手生命に関わる環境だったのはヤバい その川崎球場に時代を先駆けて球場内FM局があったのを知っているか?
内野指定席に【イヤホンジャック】があったと記憶。 有藤あたりまであった東北シリーズが金田あたりでほとんど無くなったのは整備や千葉移転のためか? >>59
その高沢を抜擢したのが >>66 の稲尾さんだな。ちょうど
>>65 で弘田が抜けた後釜にうまく治まった。 やくみつるが高沢を「球界一の常識人」と評していた。 >>93
英語読みならケイニダとかになると思うが
いちおう原音どおりのつもりだったのかね 高沢にしてもそうだが園さまにしても
日体大で体育教師なるために行ってたら最後に活躍して
急にプロ行く展開になったりとか
「何がなんでもプロ行くぞ!」
って感じじゃない選手がちらほらいてそれがまた独特の雰囲気を醸し出してた
島田とかもそうだろう 首位打者獲った選手に減俸提示するトンでもないチームだったし その1年だけの確変で首位打者獲得した吉岡さんも、最初はロッテだったんだよね >>89
関西3球団が有利だったわけです
なんか月のうち半分は自宅から通ってたと言ってた阪急の選手がいた >>98
ヨッシャーもそう
覆面パトカーになって福本から奪い取った >>98
別当薫「俺なんかトリプルスリー達成して1000安打未満だぞ」 >>100
1977年の有藤や1983年の落合なら減俸でもしゃーない >>97
六大学の選手には相手にされないから東都や首都大学の選手にターゲットを絞っていたらしい 落合にしても事前に「指名したら来てくれるか?」と確認したら「行きますよ」と言ってくれたので3位で指名したって話
メインストリームから外れた場所でも落合のような大打者が隠れているんだもんね 川崎駅前の系列外食チェーンには外野席の入場券が束になって置いてあるという噂があった 庄司智久
巨人の“二軍の帝王”からロッテの主力になった方
まだ巨人軍時代の話ですがある試合で外野守備で落球してサヨナラ負けしてしまい
次の日のスポーツ新聞に「鳥目!庄司」と1面に載ったとパ・リーグとセ・リーグの違いは?と質問されたときに言ってた 当時、自前の球場を持ってたのは阪神、阪急、南海
今でも西武、ソフトバンク
電車の会社は、例えば野球の試合やらない時にコンサートに貸してもお客さんが電車で来るから儲けになる。
ところが川崎球場や東京スタジアムは住宅が隣接していてコンサートなどやれなかった。しかもロッテはじめ電車の会社でない会社は運賃も入らないから球場持
たない >>108
あの当時で六大学からロッテ入ったのは袴田と彼の3年後輩の武藤一邦ぐらいかな 小林 至
東京大学経済学部経営学科卒。1991年ロッテオリオンズの入団テストを経て、練習生として在籍 >>109
あの時代ならね。
今は掘り出し物ってないと思う。 >>112
小佐野賢治はロッテに対して「賃貸じゃ採算がとれないから東京スタジアムを買い取ってくれ」と要望したんだよね
ロッテは首を縦にふらなかったので1972年限りで閉鎖になった 落合は土肥が打撃の師匠だとよく言っているが、
投手のクセ盗みのコツや打撃のアドバイス受けていた、
高畠導宏の名前を、どの本にも一切挙げてないのが謎 >>117
重光社長が東京スタジアムの小佐野賢治会長を訪ねて、「来年も東京球場を本拠地に使用したい」と伝えると
小佐野会長は累積赤字13億円を前面に押し出し
「球場よりも実入りのいいアパートに転用したい。もしロッテが東京球場を本拠地として使いたければ買収してほしい。それがダメなら貸すわけにはいかない」
と突っぱねた。
提示された買収の値段は45億円。「野球場で45億のカネは使えない。これからも使わせてもらえるよう何度も小佐野さんにお願いしていきたい」と述べていた >>118
本当に書いて無いんですか?
推測になりますが
西村をスイッチヒッターとして成功させるなど、育成面で多大な功績を挙げた高畠コーチ
落合のように監督に評価されていない“大器”をあの手この手を駆使して試合に出させた高畠
一方で落合は後年の証言で
入団当時に山内さんが言ってる打撃理論が難解すぎて理解できなかったが最近わかるようになったとも
山内理論を拒否してしまったことによる
そのあたりの複雑な心情もあるのでは? >>109
当時まだ仙台にもいたから秋田うまれには親和性あったんじゃ 落合獲得を進言したのは当時ロッテのスカウトだった城之内
落合は「あのアッパースイングでプロで通用するわけがない」とさんざん言われたらしい
首位打者をとった後ですら野村が本で「アッパースイングを矯正してほしい」と書いていた位だから
昔の選手にはそれだけ邪道らしい >>117
>>119
結果論だがロッテも国際興業も見誤ったな。
もう少し待てば土地バブルの時代が来てあんな区営のスポーツセンターなんかにはならなかったろう。
そしてどちらかが大儲けした 三冠取ってトレードに出された落合
出されたというより出して貰える資格を取ったとでもいうかw >>124
仙台で粘っていても後に東北で天下を取り2013楽天みたいになれたしな… >>120
高畠の能力に嫉妬してるんじゃないのか
野村克也も高畠に嫉妬してヤクルトのコーチを1年でクビにした
自分よりもあからさまに劣る土肥はやたら持ち上げるが、
超有能の無名高畠にスポットが当たって自分自身が霞むのがイヤなんだろう 落合移籍後高畠が指導していても貧打のロッテって、
よっぽど素質の無い打者まみれだったんだろうな
どのチームでも高畠が打撃コーチに就任したら、
前年度よりもチーム打率が1~2分は上がっている 高畠は帽子の3mmくらいの小さい穴から投手を覗いて観察すると、
どんな投手でも十数球足らずでくせを見抜ける特殊能力を持っていた >>127
ノムについてはこのオッサンもうついて行けんわと
自分から見限ったんじゃなかったっけ >>129
十数球足らずじゃあ一打席が終わってしまうやんけ 川崎球場はコンサートをやろうとしても設備がやばかったから無理だったのでは?
(でも何かのコンサートやった様な記憶も)
トイレがああいう前世紀な代物で女性がまず来るわけがない。
仮に仮設トイレとか膨大に作らないといけないし。周辺の治安も悪いし。
行政に拝み倒されての本拠地。
大洋に横浜スタジアム競り負けての川崎。消去法の後ろ向きな選択しかない。
落合は東京スタジアムの経緯見ても選手全体の給料の枠が決まっていたのでは?
それは社長決裁でも覆らなかった位
だから落合は手に負えなくなって本人抜きの政治的な動きで放出と言う手しかなかった
のでは?
有藤とかの意向とか入るスキのない。
もっとも有藤の監督決定自体球団の内の政治争いの副産物
ある意味犠牲者。落合のことなど関係ない。
マスコミが作り上げて誤解を長年背負ってしまったのでは?と思う。
ロッテ自体大物政治家からの依頼で色々良くしてもらうための政治的な意味でのメリット
とその縁を大事にしての球団保有だったと思う(ある時期まで)
自然と枠も限られてくると。予測 >>4
佐々木朗希の時も微妙で笑えた
普通の人は韓国っぽくて嫌やからな 選手は一応ちゃんと給料は貰ってたし南海や近鉄よりはマシって聞いた >>133
場外乱闘が酷くていつもアリーナ席の椅子が足の踏み場もないくらいぐちゃぐちゃになっていたので。
どこでやっても一緒。 >>135
「親会社のロッテグループの規模を考えたら
あんな劣悪な環境の球団なのはやる気がないとしか思えない」と
批判していた人もいた
千葉に移転して球団名も変えてようやく改革された で、広岡の入るスキを作ってしまった。と。
息子が社長の代の時に。
金田時代のユニフォームをずっと変えなかった理由が【減価償却出来てない】と言う位
きっちり経費内で球団経営を回そうとしていたんだろうな。
ま、ビジターのカラーは良かったな。
でも広岡の副産物(負ではない)でユニフォームは一気にカッコよくなったし。
あのMマークとメジャーのクラシック回帰と重なって余計。
ロッテと毎日・大毎すら歴史で結びついたような気を起させる良い意味で当時
インパクトあった。
ピンク時代はグラウンドコートがカッコよかった。ユニフォームはあまり。 >>133
一回アリーナ席に行ってみて
休憩時間に外野走って軽く感動したりしたw FMWはインディーというのが売りだったから
川崎球場はイメージ的に合っていた。
西宮球場でもやったことあったよな。 >>140
ピンクユニはバレンタインが戦う色じゃないって言って変えさせたんだよな >>143
フランコじゃなかった?
影響力はいち選手の枠を超えていたそうだし >>144
誰が提言し誰がアイデアを出したかは諸説ある
それにしてもGM及び新監督の就任から開幕までの短期間で球団旗まで含めたフルモデルチェンジを果たしたのは凄かった しかし千葉移転時になんでピンクになったのか当時のファンからすると謎、っていうか拍子抜けだった。
臨海なんだし青かもしくは後のジェフみたいな菜の花系を予想してた人が多かったから 愛甲さんが語る裏金事情 どの球団でも公表より多く貰ってるようだ。
https://youtu.be/EjBqUf1_R34 >>146
千葉県を走るJR特急のカラーは
青い海、白い砂、菜の花だからな
全部ぶっこむとなんともとりとめのないカラーリングだがw にしても、今のロッテの応援がこんなにも熱くなるとは、川崎時代からすると考えられんよな
大阪や神戸なんかではレフトスタンドが満員になってオリックスを凌駕するほどだし
昔はビジターのロッテファンなんて希少種だったのに ジン・トシオがロッテの応援に尽力してきた事はもっと評価されていい。 川崎の右中間あたりにも好き勝手はしゃいでる連中はいたけどさ
あー俺こんなところでしょうもないことやって でもやめらんねえ
みたいな屈託というか葛藤が感じられて嫌いじゃなかった
26人目の選手とかおれたちの誇りだぜとかカルトじみてんのにくらべたらな 選手にとっては昔の方が明らかに嫌だったようだがな。
2005年頃に堀が
「今は試合が楽しいが、昔はただたんたんと数を消化してた」
と言ってたり。 川崎球場の屋台でラーメン食べた記憶 美味しかったっけ? 81 :神様仏様名無し様:2005/10/29(土) 21:15:54 ID:HUFYy/VQ
トヨさんの本によるとスカウトの悲哀はすごく
高校生の家に挨拶すると母親と息子が泣きながら
『絶対指名しないでください』と懇願。
辛さ紛らわす為に自棄酒に浸って早死にした人がいるという。 >>156
当時の環境だとそう言われてもしょうがない
自分の目で川崎球場を見れば良い
80年代だとロッテと南海が行きたくない球団一位争いだった 千葉移転後のイメージしか無い世代からしたら川崎時代のロッテなんて
別の球団みたいに見えるんだろうな
川崎時代はとにかく暗くて野暮ったいイメージだった >>159
小池ドラフトから20年
ドラフトの目玉左腕がロッテが希望球団と言う時代になった 結局、落合を出したことはロッテにとってプラスになったのだろうか? >>154
当たり前だろwそんなこと
俺個人にとっては川崎が見やすく人も少なく居心地良かったってだけで ロッテリアも売り払ったしな。
かつてのロッテの球団所有の意義は大物政治家との絆の為(男の約束というやつ)
宣伝費と割り切っていたから本拠地も首都圏にこだわった。(あくまで当時)
だからトップがそういう価値観だから福岡とか福島とか全く眼中になかったと思う。
球団の現場は移転したかったんだろう。稲尾招聘もそういう感じだったかも
あるいは監督成り手がいなかったから稲尾の熱意を利用したのかも。
そういう意味では福岡出身としては怒りも感じるが当時の福岡政財界は引き取る
だけの度量は持ち合わせは無かった。
赤字であえいでいたけどプライドは高かったようだから球団の姿勢としてはもし
地方に本拠地構えたとしても「来てやった」「都落ち」が大きく出たように思う。
だから息子の代になって初めて外の意見(広岡という強烈なキャラ)を聞いたのは
潮目が変わる意味で良い意味でも悪い意味でも大きかったと思う。
球団自体も努力はしていたと思う。
ファンブック作ったり、CMコラボで選手出させたり、バレンタイン企画したり
親会社との販売企画とか球場独自FMとか独自ビックリマンシールとか。
ただその範囲とアピールがあまりにもこじんまり過ぎて広まらなかったんだよな。
マスコットガールとかいたけど多分地元の女子大とかに募集かけていたのでは?
関東の中でも川崎圏内の狭い宣伝だったような気もする。宣伝費の枠内で。 むか〜〜しロッテリアが経営危機になったときにコンサルに一般の人に
ブランドイメージと好感度を聞いた結果を見せられてあまりにも自分らとの認識との
ギャップに物凄いショックを受けたらしい。
(自分らではブランドイメージはマックの次、好感度も7割以上ある。)
実は5業界番手くらいの位置。好感度は3割程度だったらしいしロッテリアと聞いて思い浮かぶ
商品が「わかりません」という答えが8割だったらしい。
そこからバーガー(究極や五段バーガーとか)の改良に取り組み持ち直した。
広岡とオーナー息子があったときに聞かされた球団のことも同様だったかと。
広岡がGMでTVに出たときロッテのひどさを巨人と対比して語っていた。
とにかく選手が来てくれない。向こうから来てくれる巨人と全く違う。
そこからチームを強くしていかないといけないと熱く語ってたが。
何でも首や口を現場にツッコミたくなる性格が組織を混乱させてしまう器であったのが
残念。でもそこからスカウトも変わって後に日本一になるメンバーを取って育成も
していける環境を作っていった。
でもこの球団は何年かのサイクルでこの人はどうなの?という球団上層部の人事がある。
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