川崎末期のロッテってどれだけ酷かったの?
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流しそうめん
麻雀
ぬいぐるみを3個とも同じ一家の人がゲット
あの狭い球場でピストル打線
10・19 >>278
「ガムのうた」は岡部の打席でしか聴いたことがない 田之倉って晩年に1年だけめっちゃ打撃覚醒した年あったよね >>280
駐車場は有藤村田レベル以外は屋根が無いので殆どの選手、記者、従業員は
ガラスや屋根、ボンネットに被害受けてない人はいなかった >>284
サッポロ一番を発売しているサンヨー食品は群馬県前橋市発祥と、実は北海道と無関係。
創業者が製麺業からインスタントラーメン事業に乗り出す際に全国のラーメンを食べ歩いたところ、
札幌ラーメンに感銘を受けた事から、この味で行こうとなったらしい。 >>286
しかしハム戦でサッポロ、サッポロはムリでしょw
まあ本拠地で北広島になるけどさ >>284
だからロッテの応援にそんな理屈を考えるな感じろ
メルホール 横田って入団から3割打ったけどビックリするくらい印象薄い。
初芝とかと気が合ってそう。
平井とかも。堀とか。岡部とか。
結構何だかんだ言って中距離砲は育成できていたんだな。 横田パパは熊野に新人王を掻っ攫われたり翌年には清原がデビューしたりルーキーイヤーから2年連続3割を記録(他は長嶋・坪井が達成)した割には扱いが悪いな 10.19観ると、田野倉も仁科も引退年の最終盤に思い出出場じゃなく普通に出てるのが新鮮。功児はコーチ兼任だったが。
横田は同郷の有藤が退任したあたりから定位置奪われた、西村が外野に来たのもあったが。
90年にプロ11年目で初安打の佐藤和史も懐かしい、万年二軍で和製大砲候補の伊藤史生も。 同郷の有藤退任というか、金やんがフェンスに激突しながら打球キャッチした平井を
大いに気に入ってレギュラーに取り立てちゃったのがすべてだろうね
ワンチャンスで首位打者まで獲得しちゃった平井の運の強さも賞賛すべきではあるが
田野倉はどこで出ていたろうと確認してみたら第1試合で左腕小野先発に合わせて
偵察に変わって出場。3の1か 当時の日ハム応援団内でゲーム音楽とかを使った応援歌が出来ると
「早く球場で使え!モタモタしてるとロッテが使うぞ」
という謎の競争があったとか 村田、荘、仁科、水谷、深沢、石川
伊藤優、小川、右田、園川、平沼 >>296
井部・石田・関・伊良部・桑田・今野・前田・小宮山 牛 阿波野、佐々木、谷宏
鷹 西川、山内和、山内孝
獅 松沼博、小野、東尾
肉 津野、金沢、佐藤誠
勇 山沖、佐藤、古溝 >>295
近鉄応援団「スカイキッドはウチが頂くで〜」 マスプロアンテナ
クリナップシステムキッチン
パソコンは富士通 1988.10.19の小川博
29試合 3.48 9勝9敗
186.1/3 奪三振186 四死87
なんだか、色々思い出して泣けてくるよ ♭シー♭シー♭シー♭シ♭シドードードーレド
♭シー♭シー♭シー♭シ♭シドードードーレド
♭シ、ファ♭シ、ファ♭シファ♭シファ♭シ 飛ばせロッテの核弾頭 打てよ闘志燃やせ
ここはお前のひと振りだ 燃えろ慶彦 >>304
出生は栃木県であるが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。
刑務所では痩せてしまって、ソフトボールの試合では期待ハズレだったと。
ショートを守り打撃もノーヒット。 >>103
佐々木修も、以前、近鉄バファローズアワーのラジオで関西3球団が集結している時は、ホームゲームと南海、阪急でのロードゲームでは、自宅から通ってたといってた。 川崎ロッテの選手は後楽園の日ハムとか、所沢西武に自宅から通っていたの
だろうか? >>315
流石に所沢で試合を時は立川のホテルに泊まるべ >>315
川崎時代から何故か千葉の船橋に家をかまえ
千葉移転のメリットを享受する前にチームを去った有藤
後楽園がまあ遠くないって程度の立地でいまだにナゾだ ええ?有藤って昔から船橋だったの?
じゃああのお好み焼き屋も移転したからってのもあっただろうけど
元から縁があったからなのか
逆に大洋の松原誠先生は川崎時代から横浜の中区に家を建てて
結果的に球場がめちゃ近くなってた >>315
堀幸一氏が以前語った川崎時代のエピソードによれば、
マイカー所有の主力選手は所沢まで車通勤だったようで。
試合終了後は渋滞する所沢市街地方面の道を避けて立川方面に抜けるのだとか。 この当時は年間シートってあったんですか?
あったとしても取りたがる企業なんて無かっただろうな。 >>318
もう現役最晩年の頃だけど
船橋の高校に入学して早々近所に有藤の家があるらしいという話が出てわざわざ見に行ったのもいた
俺は南海ファンだったんで流石に家までは行かなかったが
草創期でショボかったららぽに当初からあったお好み焼きには行きましたよ
そこで明石焼きなるものを初めて知った >>317
一説には1980年頃から千葉や宇都宮等への移転を検討並びに画策してて(身売りの前提ながら福岡も候補地の一つだった)、
早い内から移転時のコスト等から新球場の建設を前提に千葉への移転が最善つう結論に達していたとも。
>>318
大洋は1973年頃だと思うけど、公式に横浜市に対して「横浜公園所在の平和球場(勿論、後のハマスタ)の改築の際には移転する。」
との覚書を交わしていた。 >>321
あったよ、ニッポン放送って書いてあったの記憶にある >>321
セの人気球団は社内でも接待でもいくらでも使い道があるけど
パの不人気球団でも取引の関係上押しつけられる形で買わされていた
そんな年間シートがうちにも廻ってきたなあ、後楽園のハム戦だけど いまでも浦和の合宿所組はマリンで金曜土曜の連戦
(ナイトゲームからデーゲーム)のときは幕張で泊まってるって聞いた 愛甲がようつべで語ってるけど、合宿所が狭山にあったりグランドは青梅だったりと遠征じゃないのに
移動は大変だったみたい。
その影響で当時合宿卒業したファームの選手は所沢周辺や西東京などに分散してた。 ロッテの球団職員だった人がTwitterで
ロッテリアは日本ハムから肉を買ってたので
まず売れないマリンの特別観覧席を買ってくれたと書いてたな 小学生時代、偵察メンバーを知らなかったので、「5番ファースト 荘」を聞いてたまげた想い出
有藤ついにどうかなっちゃったのか、と本気で心配した 年間予約席多分2000-3000はロッテでも買ってくれていたと思う。
(ほとんどは取引の関係から)
だから実数数百人でも上記で2000とか3000とか公表入場者数にしていた。
80年前後の読売新聞の野球欄には川崎500、とか大阪1,000、日生1,500とかの記載
はあった。どんだけ人気ないんだと全然ファンでなくても心配するほど。 >>324
>>325
わざわざ年間シート取らなくても当日に売り場行って好きな席取れそうやけどね。
けど企業の営業接待だから無理矢理買わされるんだろうな。 >>320のリンク先(49分過ぎ)を見直してみたら
>>319が嘘であることがわかったため訂正を。
・主力選手の所沢までの車通勤に関するエピソードを語ったのは
堀氏ではなくトークショー司会の松本秀夫アナ。
・所沢での試合終了後の自家用車での帰宅ルートは立川方面とまでは言っておらず、
裏道としか言っていない。
嘘を書いてしまい申し訳ありません。 >>333
西武園競輪場側を通っても最終的には浦所バイパスや小金井街道に出るから結局渋滞に捕まるのには変わらないんだよな >>318
グーグルマップで普通に出てくるで
もちろんここでは詳細は語らんけど google map無くても昔からそこに住んでる選手は住所が分かっちゃうんだよなぁ・・・ >>332
80年代後半のホークス戦に通いつめたが
常連それぞれにお気に入りの位置があり 指定通りに座ったことはない 川崎市と関係のある東芝野球部をプロ化して、等々力球場を本拠地にしていたら、
大洋やロッテと違い、地元市民から熱く応援されていたように思える。 スコアボードの味の素という漢字の社名が物凄い川崎っぽい味を出していた。
ベンチ上の東京12チャンネルの広告も妙に当時のロッテの立ち位置とマッチしていた。
映画 コミック雑誌なんかいらないにも使われていたし。
そういう何かいかがわしさを含んだコンテンツとの相性バッチシだった。 >>337
球界再編騒動あたりまで
よほどのゲームでない限り指定席は指定席じゃなかったなあ
某球場などは指定-自由の境目チケット確認をすり抜ける方法すら
公然の裏技化していた >>340
さーて まずはトイレw
逆に今はトイレ行くたびにチケット確認でめんどくさくてしょうがねえ まあその某球場は指定エリアまで行くと帰りが面倒くさいので
結局自由席のまま座ってたけどな
そんな某球場も今や全席指定で高級席以外はノーチェックになってるわ 去年20年ぶりに行ってみて高級席が気になった某球場
オープン戦で入手しやすかったから来月行ってくるわ
しかし俺があそこの一塁側に座るなんて世の中変わるもんだな 五十嵐章人 絵になる男
時代をつくるは 五十嵐章人 >>344
言うほど絵になる男か?
言うほど時代を作るか?w
裕次郎の曲を応援歌に使うセンスも含めて天下一品過ぎるわやっぱ 仁科
庄司 パ
西村
リー イ
落合
山本功 オ
有藤
水上 ニ
袴田
芦岡 ア ピッチャーもプロで1度やったぜ。高校時代はエースで甲子園。
あと宇都宮の移転計画は清原球場が対象だったので、駅からのアクセス不便もあって頓挫したとか。 >>348
清原なんて名前な場所は縁起悪いわ
左翼が安倍晋三記念小学校に通うようなもん 川崎球場は本当に工業地帯のど真ん中にあるイメージそのもの。
どんよりスモッグ(死語)で煤けて土も宜しくなく芝生も枯れて、、、というイメージ
華やかなというよりいかがわしいとか雑然としたイメージ。
移転した直後にできた横浜や西武球場と雲泥の差だった。当時。
外野スタンドの緑のペンキ塗装も哀愁と貧乏くささに輪をかけた。 川崎駅から結構歩いたなー
帰りに必ずロッテリアに寄った >>351
本来、清原姓は、お公家由来の氏なんだが(例えば清少納言は彼女の出自である公家方の清原姓が由来だったり)、
約1名のせいでDQNの代名詞みたくなっとるのが(´・ω・`)
ちなみに宇都宮市清原地区の由来も、その一帯を治めていた芳賀氏が祖先由来として清原氏を名乗った事に
由来するそうで。
但し関東豪族や奥州の藤原氏(俄藤原氏・偽藤原氏)と同様の「自称」清原氏の様に見えるが。
ちなみに清原家末代までの恥としか思えん約1名も当然ながら偽(ry それ以前に清原いた時代は暗黒でカモられすぎだし
当時暗黒な阪神の斎藤みたいなもん
88なんかわざわざ優勝させてあげたし
猫はいざ競り合いになれば案外強いんだが、競り合いすら無かったのが 川崎球場でのロッテ戦は行ったことない。テレビでは観ていたけど。
ロッテが千葉行った1992年高校野球の神奈川予選観に川崎球場
行ったのが最初で最後。
駅から行き方分からず警察署で行き方聞いた記憶があるわ。 みんなはミスター川崎球場と聞いて、誰を想像する?
愛甲あたりがデフォかとも思うが 自分は落合だなあ
何度か見に行った親父がフェンスギリギリにホームランを打った場面を散々ネタにしてたよ 改めて地図見て思ったけど川崎駅から行くのに国道15号横断しなきゃいけないのも軽く致命的だったんじゃね
>>358
大洋時代も含めていいなら平松やろ バスに乗るには待ち時間も含めると微妙、でも歩くとそれなりって感じだね。 今思うと橫浜市レベルの都市で橫浜スタジアムが出来るまで
プロ野球の試合が出来る球場が無かったのが意外
平和球場はともかく、保土ケ谷球場あたりをプロ仕様に・・とかなかったんかな >>358
愛甲だな
自分が通ってた4年間は必ず試合に出ていたから 西ロッテファンが武球場を第二の聖地というか故郷みたくしていたので西武ファンからしたら鬱陶しかった ロッテファンが西武球場を第二の聖地というか故郷みたくしていたので西武ファンからしたら鬱陶しかった 横浜スタジアム建設で横浜野外音楽堂が閉鎖したのが地味に残念
今は騒音問題で野外会場って存在しにくい >>355
尊卑分脈には奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫と書いてあったよ。 1988年オフ、有藤が子供達にサイン求められるのは愛甲と牛島だけと言ってたな
首位打者とった高沢さえスルー ライトへレフトへ 水上ホームラン
ライトへレフトへ 水上狙い打ち 水上 善雄
2019年度より橘学苑高等学校(横浜市)硬式野球部監督。
ロッテ時代の1988年、理容院に行かれないまま春期キャンプ入ると打撃好調が続き、ゲン担ぎで髪を切らずにいると、周囲から「見苦しいから切れ」という圧力が入った。
水上は反骨心から切りにいかず、以降は長髪がトレードマークとなった(ロッテを退団する1989年まで。
水上は後に「いま思えば(あの頃は)薄っぺらな反骨心だった」と振り返っている。 >>37
前年に古川がブレイク寸前ていうのもあって長距離砲に手を付けなかった
結果、古川は育たず立川丹波も空振りし
まロ落遡を産み出した 古川は亜大出身、あの当時の亜細亜で揉まれたであろうポテンシャルは他に引けを取らないかと >>318
週刊ベースボール選手名鑑には選手の自宅、さらには実家の住所まで載っていて、八木沢の自宅は春日部だった。
実家は栃木だろうから、東京との中間で? >>375
岡部・山下・島田茂の事も思い出してあげて ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています