川崎末期のロッテってどれだけ酷かったの?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
流しそうめん
麻雀
ぬいぐるみを3個とも同じ一家の人がゲット
あの狭い球場でピストル打線
10・19 >>22
中日は出血覚悟のはずだったのにどう見ても損をしたのは四番不在になったロッテ
田淵のトレードは真弓若菜をとれた阪神が得だったのに 上川タイプって腐るほどいたからな
桑田は完全なる添え物 ロッテ時代の印象だけで書いたが桑田も中日時代活躍してたんか
落合は年も年だし結果的に長く活躍したけど、
トレード時点ではロッテのほうが得したかもしれん >>25
選手枠をくう、押し出すこともあり、人数増やすのって意味ない。
試合に出られる人数は限られている以上、選手価値は足し算ではない。
せいぜい1対2でトレードすべきだった。 佐々木朗希が小池秀朗と同じ年代だったら入団してたのかな。 >>6
小池が嘆くのはいいが
亜大の一般学生にそんな資格なんぞねえぞとつい毒づいてしまった記憶 >>27
そのあたり あるいは小松+宇野とか
宇野はその後結局ロッテに行く 石井一久千葉出身ということでマリン元年のロッテがロックオンしてたがお断り入れられたらしい >>15
刑務所じゃなくて少年院な
>>21
落合欲しいなら原を出せと言われていたとも知らないでまぁ呑気なもんだったな
実際自分が出されるってなったら辞めてたかな
>>32
素行があまりにも悪くて大学も社会人もいい進路が確保できなかったらしい >>32
愛甲は当初「意中の球団(横浜大洋)に入れなかったらプリンスホテルへ入社」という進路で、ロッテは入団拒否するつもりだった
しかし既に他球団の高卒下位指名で入団拒否からのプリンス入社が2人決まっており、
高卒3人(それもドラ1の愛甲まで加わり)揃って同じ行動をとってしまうと西武グループの囲い込みが大きく疑われるのは明らかで、
これを危惧したプリンス側が愛甲に「とりあえず指名されたロッテに入れ」と告げる成り行きになった
その際将来的にトレードで西武への移籍という密約があったらしいが、結局うやむやになった >>35
下位指名どころか
阪急1位の川村とハム1位の高山 >>30
ロッテ側の当初の要求は小松だったが中日も流石に「小松は出せない」で
「牛島ならOK」ということでその後はトントン拍子に進んだ
上川は良い選手だけど当時のロッテには上川と似たタイプの選手はいたからね
HRを打てる宇野+牛島を要求すべきだわな 意外と試合中だけは好青年
投手を威嚇したとか挑発とか聞いたことない >>22
その前にはレオン←→斎藤巧というのもあった
兄弟で活躍したのはいいが二人揃って年俸アップ要求したので弟のレオンが出された やる内容がない土日の午後にやけに中継していたからネタには事欠かないのがなおさら
しかも全チャンネルで >>1
加藤哲郎にそのピストル打線より迫力がないと言われた巨人打線 >>42
実際その年の巨人打線はランボーよりも怖い選手はいなかったからな 落合のトレードの後の前評判はロッテの方が良かった。
中日は深刻な投手力不足となり、その年に自由契約になった投手をかき集めた。 結果的に落合が高齢になっても活躍し続けたけど年齢考えたら主力打者としてやれるのはせいぜい3、4年ぐらいかと思われていた
1986年当時は門田みたいな例もなかったし 年長者の村田がご覧の性格だから牛島を取ったのは後進を育てるという意味では正解だったんだよね 高校時代の愛甲はバリバリのビーバップ喧嘩不良番長キャラだったのに
プロ入り後はかねやん、張本、有藤、兆治、落合にいじめられるヘタレキャラが定着してしまったな
年下の番長キャラのジャーマンあたりとあったらヘコヘコしてそう >>45
>1986年当時は門田みたいな例もなかったし
その年に引退した山本浩二は? 所詮は野球部の番長クラスなんだし、本物の組長クラスには逆らわない方が無難w
大人になり素行も良くなり長く活躍する事になったね >>47
愛甲にしても長嶋清幸にしても
プロ入り後はマジキチすぎる先輩やコーチを目の当たりにして
悪目立ちせぬよう大人しくなったか 良くも悪くもヤンキーって直情型だから
「お、俺より野球うめぇじゃねえか・・・」ってだけでもう従っちゃうんだろうね >>51
平沼がバリバリの武闘派だったというのが信じられん
あの見てくれで 平沼にバット投げ後、清原と辻がロッテのロッカーに謝罪に行った時に、
一番怖ったのは愛甲だったんだろか、牛島だったんだろか、ディアスだったんだろか。 渡辺久信もドラフトの時はビーバップハイスクールだったが
江夏でも干す広岡には逆らえなかった >>51
長嶋清幸はこれも武闘派だった岩本を蹴って負傷させたが。 >>54
愛甲、牛島、平沼、ディアズに囲まれ半殺し同然のガチ制裁も十分怖ろしかったが
それより震え上がったのは奥でずっと清原を睨みっぱなしだった村田兆治 高沢の良識人ぶりも凄い
現役時代は「自分には一桁番号は似合わない」と返上して
引退後は資格をとって保育士 高沢は電車通勤で川崎球場で売れ残った弁当を川崎駅で売っていたのを帰りに買って帰っていた 高沢のティー打撃はトランポリンにボールをバウンドさせて
間をとる練習も兼ねてその球を打っていた 10.19の第2試合で同点ホームランを打ったときに、二塁に向かう時にうつむく大石を見て、ヒットが良かったかな、えらいところで打っちゃったなと思ったとのこと 高沢は優しい性格だったんだな 首位打者確定してたし
肩の力抜けて気楽に打ったら入っちゃったんだろうな >>40
ロッテと阪神とのトレードで弘田←→藤倉という不釣り合いなトレードもあったなあ。挙句、弘田曰く「俺は、初めてこんなに観客の多い所で野球をした。」と阪神時代に言ってた。 >>57
そんな集団プラス落合やリーを手懐けてた稲尾さんは、ある意味最強だな。しかも、稲尾さん自身は温厚篤実な御仁なのに、決して舐めた態度は取られない。 初芝は高見盛のような観客ウケしそうな朴訥さだったな >>66
それこそ選手としての実績が神様で人柄が仏様だからな
最近出版された佐藤ミチの本によると
納会の席でウイスキー2本アイスペールに入れて一気飲みしたとか
しかもなぜか横になりながらw
このようなさりげないデモも怠りなしとあっては >>53
パッと見た瞬間の威圧感は大事だと思う
平沼は微塵も見た目が怖くないからな 当時のパ・リーグ球場見たら外野無人やね。
レフトスタンドにホームラン出てもライトスタンドから歩いてボール取りに行ける懐かしい時代。 >>59
高沢は筒井康隆読破してたな
おすすめ短編なんだったかな 高沢と言えば>>1に出ているぬいぐるみ3個の内の1発を打っているんだよな 高沢って10.19だけでなく1991年の終盤の近鉄戦でいい働きをしてまたしても近鉄の優勝を遠のけた
>>72のホームランもこの時期に飛び出したもので前日にも野茂から同店ホームランを打っていた
近鉄は9月末のロッテとの3連戦で1分2敗で終戦したといってもいい 高沢がいつの間にかロッテに戻っていた経緯 ほとんど報じされなかったな。
なんだったのあれ。広島から無償譲渡? 駅南部の治安の悪い工業地帯に球場がある
おまけに駅から徒歩15分
客が来るわけがない
もっとも、交通至便の大阪球場も末期はガラガラだったけど 仙台の反省を生かした本拠地作りをしたら良かったのに逆に酷い環境に飛び込んだのはなにがしたかったのかわからないんだが…
仙台がムリならいわき、つくば、福島、高崎、静岡あたり、まったく違う福岡や下関や岡山とかもあったはず 川崎球場はジメジメして湿気まみれだったので、
高畠導宏コーチが特注の乾燥剤入りバットケースを打者全員に提供していた >>65
藤倉はロッテで打数は少ないけど.348打った年もあるのにあまり使われなかったな >>75
15分で行けたかな。もっと遠かった感。
子供心に川崎の地下アーケードはびっくりしたな。当時としては珍しい規模だったんじゃないかな。 平沼は千葉市ナンバー1不良として有名だったらしい
キヨもそれを知っていれば・・・ キヨのジャンボ直伝のジャンピングニーで体重100kgの巨漢の平沼が5mはふっ飛ばされててワロタよ
プロで500発打つような打者のパワーは尋常じゃないよな
王さんは堀さんをワンパンでKOしたし筋肉もりもりのチンピラ慶彦を浩二は半殺しにした
500本塁打クラブの武勇伝は枚挙にいとまがない >>76
とりあえず首都圏ならどこでもいいという感じだったんじゃない?
選手も大半は東京近郊に自宅構えてただろうし 愛甲と成瀬は横浜高校のサウスポーでフォームが特徴あって
ロッテ入団とはダブる物あるな。
プロレスラーの鈴木みのるって横浜高校OBだったのか。 いわき、つくばは85年の万博に合わせて整備
高崎や福島は新幹線が82年に開通は仙台と同じだからなにも解決しない >>81
よく言われるようにアレはジャンボやなしに荒鷲式よ >>83
ジプシー・ロッテの頃は一月に一回しか家に帰れない事もあったって話だからな
どこでも良いから首都圏にホームが欲しかったんだろう 仙台空港→羽田→ラウンジで家族と二時間ほど歓談→福岡空港へ というルートも珍しくはなかった
2シーズン制だったから、早々と優勝争いから脱落した期の終盤のビジターゲームの際、レギュラークラスは丸々東京に帰して休ませるなんてこともやってたな 新幹線の無い時代の西鉄東映戦とか正気の沙汰じゃない
ペナント中ってほとんど練習できんだろうし ロッカーに置いておいたグローブがネズミにかじられてたとか
壁からアスベストの塊が崩れてきたとか選手生命に関わる環境だったのはヤバい その川崎球場に時代を先駆けて球場内FM局があったのを知っているか?
内野指定席に【イヤホンジャック】があったと記憶。 有藤あたりまであった東北シリーズが金田あたりでほとんど無くなったのは整備や千葉移転のためか? >>59
その高沢を抜擢したのが >>66 の稲尾さんだな。ちょうど
>>65 で弘田が抜けた後釜にうまく治まった。 やくみつるが高沢を「球界一の常識人」と評していた。 >>93
英語読みならケイニダとかになると思うが
いちおう原音どおりのつもりだったのかね 高沢にしてもそうだが園さまにしても
日体大で体育教師なるために行ってたら最後に活躍して
急にプロ行く展開になったりとか
「何がなんでもプロ行くぞ!」
って感じじゃない選手がちらほらいてそれがまた独特の雰囲気を醸し出してた
島田とかもそうだろう 首位打者獲った選手に減俸提示するトンでもないチームだったし その1年だけの確変で首位打者獲得した吉岡さんも、最初はロッテだったんだよね >>89
関西3球団が有利だったわけです
なんか月のうち半分は自宅から通ってたと言ってた阪急の選手がいた >>98
ヨッシャーもそう
覆面パトカーになって福本から奪い取った >>98
別当薫「俺なんかトリプルスリー達成して1000安打未満だぞ」 >>100
1977年の有藤や1983年の落合なら減俸でもしゃーない >>97
六大学の選手には相手にされないから東都や首都大学の選手にターゲットを絞っていたらしい 落合にしても事前に「指名したら来てくれるか?」と確認したら「行きますよ」と言ってくれたので3位で指名したって話
メインストリームから外れた場所でも落合のような大打者が隠れているんだもんね 川崎駅前の系列外食チェーンには外野席の入場券が束になって置いてあるという噂があった 庄司智久
巨人の“二軍の帝王”からロッテの主力になった方
まだ巨人軍時代の話ですがある試合で外野守備で落球してサヨナラ負けしてしまい
次の日のスポーツ新聞に「鳥目!庄司」と1面に載ったとパ・リーグとセ・リーグの違いは?と質問されたときに言ってた 当時、自前の球場を持ってたのは阪神、阪急、南海
今でも西武、ソフトバンク
電車の会社は、例えば野球の試合やらない時にコンサートに貸してもお客さんが電車で来るから儲けになる。
ところが川崎球場や東京スタジアムは住宅が隣接していてコンサートなどやれなかった。しかもロッテはじめ電車の会社でない会社は運賃も入らないから球場持
たない >>108
あの当時で六大学からロッテ入ったのは袴田と彼の3年後輩の武藤一邦ぐらいかな 小林 至
東京大学経済学部経営学科卒。1991年ロッテオリオンズの入団テストを経て、練習生として在籍 >>109
あの時代ならね。
今は掘り出し物ってないと思う。 >>112
小佐野賢治はロッテに対して「賃貸じゃ採算がとれないから東京スタジアムを買い取ってくれ」と要望したんだよね
ロッテは首を縦にふらなかったので1972年限りで閉鎖になった 落合は土肥が打撃の師匠だとよく言っているが、
投手のクセ盗みのコツや打撃のアドバイス受けていた、
高畠導宏の名前を、どの本にも一切挙げてないのが謎 >>117
重光社長が東京スタジアムの小佐野賢治会長を訪ねて、「来年も東京球場を本拠地に使用したい」と伝えると
小佐野会長は累積赤字13億円を前面に押し出し
「球場よりも実入りのいいアパートに転用したい。もしロッテが東京球場を本拠地として使いたければ買収してほしい。それがダメなら貸すわけにはいかない」
と突っぱねた。
提示された買収の値段は45億円。「野球場で45億のカネは使えない。これからも使わせてもらえるよう何度も小佐野さんにお願いしていきたい」と述べていた >>118
本当に書いて無いんですか?
推測になりますが
西村をスイッチヒッターとして成功させるなど、育成面で多大な功績を挙げた高畠コーチ
落合のように監督に評価されていない“大器”をあの手この手を駆使して試合に出させた高畠
一方で落合は後年の証言で
入団当時に山内さんが言ってる打撃理論が難解すぎて理解できなかったが最近わかるようになったとも
山内理論を拒否してしまったことによる
そのあたりの複雑な心情もあるのでは? >>109
当時まだ仙台にもいたから秋田うまれには親和性あったんじゃ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています