川上哲治氏vs広岡達朗氏『確執の歴史について』
似た者同士とも言える二人の関係についてシブく語る趣旨のスレなのであります。 メジャーで首位打者経験のあるフランコが来たり、球団の本気度は感じた。 >>47
人脈があるわけじゃなく、采配や指導には口を出したがる
GMとしては最悪だなw 海老沢泰久という作家は随分広岡GM寄りの意見を発しているように思えた。 人間には向き不向きがある
根本はGMでは最高でも山崎裕之いわく
ミーティングもない「のびのび野球」で「この人じゃ勝てない」という監督だったそうだ
中西は打撃コーチでは最高だが江本いわく
「中西さんはピンチになるとベンチから消える監督だった」
広岡は監督では結果を出したがGM向きじゃなかった 川上さんが球団社長になる話はあったみたいですね。
勇退後はNHKと日刊スポーツの評論家で
読売系のメディアからは離れた。 巨人OB総会とかいうのを長嶋茂雄氏が5年連続で欠席したのを「長嶋はけしからん!」
とか言って球界のドンが怒ったらしいけど、別にそんなもん、過去の郷愁に浸るジジイ共
の宴会で出なければならないという必然性がない。
球界のドンの怒りは筋違い。
そこへ「私が来るように仕向けましょう」と広岡達朗氏が言って、本当にミスターを出席
指せたという話は意外性があった。
ミスターを出席の方向へ持って行ったということよりも、広岡達朗氏がその場に居たと
いうことのほうに。 辻にも逃げられて中西さんも出て行った。
慕って来たのはマイク中田くらいで。
つくづく人望のない人だなと思った。 マイク仲田は子供の頃の写真は完全にアメリカ人に見えた。
1964年生まれで高校3年時19歳。どこかで「ダブり」があったものと思われる。 ある富裕層の家で家庭教師をしていたら、そこの生意気なガキが
「お前なんて、ウチの使用人じゃないか」と言った。
そのクソ生意気なガキを怒った川上哲治さんがぶん殴るとガキが泣きだした。
ガキが親に言いつけて川上さんは、その家を追い出された。
この行為について言えば100%川上さんが正しい、と私は思う。
こんなガキを増長させておいてはいけない。
そもそもガキがこんなセリフを口にするのは、親の教育がなっていないからである。
ガキは親の言動を真似しているだけとも感じる。親のほうもぶん殴って構わないだろう。
「暴力は最良の解決策である」というケースが、まさにこれ。
悲観した川上さんは、阿蘇山に行って、身投げすることを考えた。
しかし几帳面な川上さんは、間違いがないように阿蘇山へのルートを丁寧に人に
訊ねた。
そうして阿蘇山に行ってみたら、そこには父親が先回りしていた。
川上さんの様子を見て異変を感じた人が、こっそり父親に連絡していたのだ。
いろいろと悪い評判も聞くが(湯口投手の死に際してのコメントなど)人知れず
川上さんは苦労を重ねた人生を送ってきたのだと今にして思う。 瀬古利彦氏や早稲田大学などを指導した中村清氏は
「私は選手を殴りません。しかし、どうしても我慢出来ない時には一発殴らせてくれ。
ただし、私が殴る時は自分自身もこのぐらい殴るつもりです」
そう言うやいなや、自分自身の顔を思い切り殴りつけたという。 いや瀬古さんの師匠の中村さんね。
川で不審死したのが謎 戦時下に部下だった丹波哲郎さんを殴ってた川上さんは 箱根駅伝ランナーの黒木亮(本名は金山雅之)の『冬の喝采』という本は箱根駅伝が
近付くとつい読み返してしまう。金山選手は早稲田大学で3・4年と2回箱根駅伝出場。
中村清の暴走老人ぶりが余すところなく描かれていて、落雷に遭った人には気の毒だけれど、つい笑ってしまう。
プロ野球の世界に譬えると誰だろう、とか、つい考えたりする。 廣岡は現場を離れる度にラジオ日本(81年9月まではラジオ感度)と解説者契約してたのが、
西武監督辞任後は川上のいるNHKだったな。 ラジオ感度じゃない、ラジオ関東だった
ラジ関時代は出力も弱く、感度も悪かったがw 東京12チャンネルの懐かしい思い出。
プロレスと言えば国際プロレス。金網デスマッチ。ラッシャー木村😊 川上さんのことを「カワさん」とか最近は呼んでいるようで、意外と親しみが
籠っている感じもする広岡さん。
「責任感は強かった」みたいにも言っている。
昭和39年当時の二人のツーショット写真を見たが、目がお互いに笑っていなくて
「冷戦」は本当だったと感じたのだが。
よく修復したと思う。 >>76
山櫻名刺のCMから国際プロレスアワーの流れ子供心に覚えてる ↑意外というか、笑うと愛嬌があってカワイイ(失礼かなあ!?) キモいんだよ広岡キチガイ
この板はお前の落書き帳や日記帳じゃねえ >>63
選手を殆ど凹らなかったのはノム
___
高橋里志 Wikipedia
…南海時代、なかなか一軍に昇格させてもらえず日頃からふてくされていた。二軍での或る試合で、炎天下でもコーチから労いの言葉一つなかったことに怒り試合途中で帰ろうとしたところ、
二軍の視察に偶然やってきた一軍監督の野村に見つかり、殴られ、倒れたところを蹴られたという。
野村が野球人生の中で選手に手を挙げたのは3回で、そのうちの1回がこの件だったとされている[12]。
中村清氏は双眼鏡で自分の頭を思い切り殴りつけ、血がボコッと噴き出して
説教されていた選手が卒倒したというエピソードならば知っている。 40年くらい前だろうか。
川上氏のモノマネをする人と長嶋氏のモノマネをする人がセットでフジテレビ系の番組に
出演していた。
川上氏(ニセモノ)によるとフレッド・ブラッシーと同年代だという。
プロレス番組によく登場していたが、昼の番組にも登場して、ニセ長嶋氏と卓球に興じていた。
右利きだったが「リウマチなんですよ」と元々は左利きであることを強調。 >>89
いいともの草創期じゃないか
子どもにはチョーさんはともかくドンとか言ってモノマネされても
何を言ってるのかさっぱりわかりませんねー だったが ドン川上のモノマネやってた人はたしか当時まだ30代で日本旅行勤務だった 人生はベースボール。ホームランか三振か。
死んで花咲くデッドボール。
来たかチョーさん。待ってたドン。 山本浩二が後楽園の巨人戦でボールを頭に当てて落球したシーンがあった。
宇野選手のヘディングが有名だったが、山本浩二選手もやっていた。
プリティ長嶋氏が「これは私が監督だった時のことですね」とのたまっていたが
手を大きく広げて、セーフをアピールしている三塁ベースコーチは、どう見ても
牧野茂さんで、プリティ長嶋氏が間違ったことを言っているのが分かった。
牧野茂さんは第一次長嶋監督時代はヘッドコーチを務めていない。TBSで解説を
やっていた筈だ。
恐らくこの映像は第一次藤田政権の81年くらいのことだろう。
牧野さんは昭和の時代に亡くなってしまっている。
亡くなる目前に川上さんが「牧野! 起きろ!」と声を掛けると、牧野さんは
しっかりと反応してくれたらしい。川上・牧野コンビは最後まで盤石の信頼関係が
あった。 >>93
ユニフォームの書体見れば一目瞭然。
第1次長嶋政権下はサンフランシスコ・ジャイアンツを似せた書体(1953年にも使用)。
藤田政権以降は伝統的な花文字タイプを復活。 >>94
ユニフォームと言えばビジターでは胸に「TOKYO」だったのを「YOMIURI」に変えたのは引いた 「もう一度監督をやるとしたら、もう二度とあんなつまらない野球はやらないよ。
管理野球は当時誰もやったことがなかったから、やることに意味があったんだ」
監督を退いてから何年も経って、平成の代になってからだが、川上さんが自らの
野球を否定したコメントを発していたのを覚えている。 送りバンドをしないとか、大差での負け試合に野手を登板させるなんてのを、率先していたかも。 見た目の風貌からすると全く意外だが新しもの好きな性格に思える。 >>97
「おれはここに来た球じゃないと捕らないからな」と捕球でジャンプすらしなかったからな
だから広岡がキレた >>100
自演w
何回も何回も同じネタ書き込んで飽きないのか?
いい加減見飽きたわ 張本さんもドンと似ているな(´;ω;`)
ああ、それで張本さんが尊敬しているのか・・・・・ 張本選手の守備は「敵よりもダメージを負わせることのある味方」 >>20
天下(か、どうか知らんが)の広岡さんを向こうに回して
「おっさん」呼ばわり出来る男もなかなかに凄いですな(*´ω`*)
田淵幸一さんや東尾修さんでも出来ませんよ。 田淵さんは東尾さんあたりからは「おっさん」の愛称で親しまれていたそうな。 >>100
川上さん、痔が酷くてジャンプできない状態だったのかも知れませんね(∩´∀`)∩ 榎本喜八も川上と同じ系統で守備は酷かったのは
村田有藤山崎が言っている
守備機会連続無失策記録を持っていたが100%処理できる球しか手を出さなかっただけの話
当時は守備なんて査定されないからテキトーだったのかもしれん 松原誠さんなんか素晴らしい守備力の持ち主なのに、一度もダイヤモンド・グラブ賞に
輝けず。
いっぺん受賞して辞退してやるのが夢だった(笑)とかコメントしていました。
王さんの名前による壁ですね。
松原さんの股関節の柔らかさはタコかイカかというぐらいに柔らかくて写真で見て
息を吞みました。 怒らせたら怖い人:関根潤三・高木守道・松原誠の各氏
スポニチだかに松原氏のコラムが連載されているが、90年の中日戦での星野仙一監督との
舌戦の様子が詳しく書かれていた。
槙原のバンスローへの顔付近への投球に激高した星野監督がベンチを飛び出したが、当時・巨人
コーチの松原氏が「セン公! 引っ込んどれ!」と叫ぶ。
星野監督が松原氏に向かおうとするところへ、原辰徳やクロマティまでも星野監督を止めに入る。
松原氏の言い分は、原辰徳が出席に立っている時に「ぶつけろ!」などと平気でヤジを飛ばしている
男がガタガタ言うな、ということだった。星野、と呼び捨てで書かれており、星野氏が故人に
なった現在でも、松原氏が良い感情を持っていないことが明らかだ。
この乱闘寸前の騒ぎで、間に入った水野雄仁が星野監督に殴られている。彼には本当に済まない
ことをした、と松原氏は書いている。
ただ、星野が藤田監督に抗議したようだが、私としては考えを変える気はない、と書いている。
不謹慎なようだが二人の1対1の決闘を見たかった。どちらも「喧嘩上等」のタイプだから
一歩も引かないだろう。ただ、松原氏は普段はおとなしいから、こういう人のほうが怖い。 このスレ立てた自演野郎のマイブームが何十年も川上広岡なんだろな
誰も興味ないのに頭おかしい >>111
オリの山アサチヤが大学2年まで一塁兼任でノリノリでタコ足など披露していた
しかし今思えばありゃイカだな 白くてシュッとしてるし 沢村英治先輩をタイムマシンに乗せて現代に蘇らせても大リーグで活躍するのは残念ながら
難しいだろう、江川卓ならば十分に通用する可能性が高いだろう、と川上氏が本に書いていた。
56年頃の話。 >>117
藤田元司は「昔の選手は全然凄くない。今の選手の方が凄い。」と言っていたが意見が一致しているな マニエルは広岡さんに出されたが、行った先の近鉄で2年連続でリーグ優勝。
ヤクルト時代と合わせて3年連続の優勝経験者。
「優勝請負人」などと言われていたかも(^_^)/~ >>117
1956年に江川がプロ入りしてたかよ
まだ0歳から1歳だろwww 池田旋風は当時物凄くて高校生とは思えないくらい他校とは大人と子供くらいの力の差だったが
そんな池田もみんなこぞって池田と同じことをやりだしたらすぐに弱くなった。
昔の人だって新しいものを取り入れたらすぐに追いついちゃうよ。 ポカリは変な味って当初の悪評をまだ払拭できていない頃だったか 池田旋風の頃と広岡氏の指導者としての最盛期は今にして思えば同じ時期だった。 >>121
自演漫才
自分の書き込みに1人突っ込み1人ボケ
アホか 物分かりの悪い校長を池にぶん投げてしまったという伝説を持つ蔦文也監督は
なんとも憎めない。 >>117
川上は江川のストレートがメジャーでもトップクラスだと本に書いていた。
澤村もストレートとカーブそれぞれならトップクラスだろうけどね。
フォームで球種がメジャー選手にはまるわかりだったらしい。 >>118
藤田は江川や自分が投げていたホップするストレートがこれからのメジャーで復権すると言ってた。
予言はそのとおりになった。 >>123
水野は江川さんと比べると自分の身体がみすぼらしくて情けなくなると言ってた。 >>132
バカボンwww
何年のどのメディアでそんなこと言ってたのかソース出せ この板の江川
ユーチューブの野村
このあたりの崇拝は統一教会を笑えんわ 水原茂監督に対する川上氏と広岡氏の評価が気になるところ。
東映でも日本一になっているから手腕は上位と思うが。 名将のベスト10を選ぶとなると、さすがに川上・広岡両氏は入ってくると思う。
これは正解のないクイズのようなもので難しいが、三原氏、西本氏、落合氏などは
候補に入るかと。名前が上がるだけでも名誉。 うーん。上田さんに藤田さんも候補に挙げたい。
ベスト10かどうか分からないですけど (´;ω;`)
少なくともヘボではないのは分かります。 川上・広岡・鶴岡・三原・水原・西本・(上田)
上田は日ハムで統一教会に妨害されなければ完全確定だったが
残り三枠を仰木・森・星野・藤田・落合など 名将でかつ人格者と言うと思い浮かぶのは西本監督。
この人を悪く言う人がいない。昭和の頑固オヤジだけど目が優しい。 「あたたこうてやわらこうて もう手ばなせんワ」
宣伝の仕事であんなとろけんばかりの笑顔を作る芝居っけもある 広岡と原はシリーズで審判疑惑起きすぎるのがかなりマイナスにならないか >>145
マニエルが西本を日本の父親と慕っていたが
マニエルにとっては広岡→西本の下で野球をした経験は大きかっただろう
マニエルは「今では広岡が言っていたことも少しは理解できる」と言っていた