ここでも書いたかも知れんけど、日ハムの場合、当時業界首位だったプリマハムの牙城となっている東日本を切り崩して、
代わってハム業界首位に立つ目論見だったから、日ハム本社のイメージ戦略として東京・後楽園の球団のままの方が
都合が良かったってだけなんよね。

当時は吉本も東京本格進出前(ピン芸人で東京でも知られていたのは若干居たけど)、いわゆる関西臭が
東日本で嫌われていた時代で、関西系企業は概して大阪色を払拭するのが全国区への近道と観ていた。

そこへ当時の日ハムオーナーとは同郷且つ旧知の仲だった三原脩氏が中西太氏(これ又、オーナーが
旧制中学時分に少年だった中西を弟のように可愛がった関係だったそうで)を引き連れ、日拓の身売り話
を持ち掛けた事から、中西氏を監督にしたチームを持つ夢と、在京球団を持つ事で日ハムを業界首位に
立つ実利の両方が叶うと観て、買収に応じたって顛末。

オーナーの目論見通り、東日本での販路が大きく拡大し、又、張本選手繋がりで在日コリアン関連の売上げ
(焼肉店とかね)が急拡大という嬉しい誤算も加わり、チーム買収から1年も経たない内に業界トップに躍り出たと
いう。