阪急黄金時代ってどれだけ凄かったの!?
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アニマルが飽きられて祭は終わった
夢から覚めたかのごとく西宮に閑古鳥の日常が戻った アニマルは風貌やパフォーマンスは面白かったが肝心の実力がなぁ
クローザーなのに145kmも出なかった記憶があるんだが なんか一人、
アンカーのレス番、滅茶苦茶なの居て
何が何だかわからない >>192 >>195 >>198
この、ずっと未来にレスしてるバカは最初に間違えたのを指摘されて意地になって
「え?間違えてるんじゃなくてわざと未来にレスしてるんですけど何か?」
と言ってるつもりなんだろうなw小学生かw どれも等しく12レス分ズレてるから、別のブラウザを使ってるかこいつのブラウザがバグってるかのどちらか
おそらくこいつは自覚していない 1984年の阪急最後の優勝は
ブーマーの三冠王と西武の主砲の田淵の衰えが主因かね
この優勝の時は相手が地味な広島だったので日本シリーズも
イマイチ盛り上がらなかった 西武がベテランの衰えや江夏のゴタゴタで勝手にこけたイメージが強いのが残念 >>218
試合自体は盛り上がったよ
東京マスコミが馬鹿にしてたからね
50周年優勝出来なかった馬鹿Gの嫉妬
これに親戚阪神のマスコミも乗っかる
監督問題を大きく取り上げ散々嫌がらせで読売をバックアップ
西宮が平日開催だったのが更にツイてなかった
不入りで叩かれる
土日西宮だったら満員になってたと思うよ
平日広島でも満員になるだろうし 75年以来の顔合わせとなったが、そのときとは比べものにならないくらい盛り上がらなかった。
75年は結果は一方的だったが、第1戦と第4戦の延長戦での息詰まる攻防、とくに第4戦の広島外木場の200球の熱投はうなったな。
それ以上にこのシリーズは山口高志の豪速球が話題をさらった。6試合中5試合に登板、MVPは当然だった。
対して84年は山田、福本、山本浩二に衰えが見られたな。第1戦の福本の守りにそれを強く感じた。福本は75年第5戦ではシェーンの大飛球を走りながら背面で捕球する神業を見せていただけに。
山田も膝を痛めながらがんばったがシリーズ3敗のワースト記録だった。 >森監督は阪急西武戦はパリーグのTG戦と言ってたよ
デイリースポーツの中川優がそう言っていたのは覚えている
阪神が巨人戦に燃えるように阪急も西武戦に燃えるとも言っていた
ただし上田監督はまったくそう思っていなかった ID:HSQ9L6cs
ずっと未来にレスしてる奴ってお前の事だよ
お前が使ってるブラウザか何かのレス番がぶっ壊れてるぞ >>174
熱狂的ファンの数はそこそこいたかもだけど、南海の場合弱すぎてバカにされてるってのがイメージ悪い
しかもそこそこいたはずのファンはちっとも球場に来ないし 野村さんが阪急の情報を巨人に流していたという話は
フェアプレイの精神に反するでしょう。 >>226
ホンマか?
どないしたらええねん
スマホで投稿してるだけやで >>212
第2次上田阪急時代は西武の黄金期と重なるが、
その期間の対西武戦の成績を見るとトータルで僅かながら勝ち越していたぞ >>204
じゃあ、しょうもない思い出話をすると
俺は博多出身で、当時はクラウンライターライオンズだったが
ある日親父が今日を野球を見に連れて行ってやろうというので楽しみにして
タクシーで平和台球場に向かおうとしたら、タクシーのラジオから
1回表阪急の猛攻で試合は7点先制放送が流れたので
その場でタクシーを降りて試合観戦も流れた。
黄金期の阪急は本当に面白くもおかしくもないくらい強かった。 >>ID:HSQ9L6cs
お前には俺のレス番が232に見えるのだろう
だがそう見えてるのはお前だけで、このレス番は220だ
原因は知らんが、レスを返したいときはそいつのレス番から12を引いてアンカーを付けろ >ID:HSQ9L6cs
ま、阪急なんてほんとくっそ人気なかったし
京都に移転したって人気なんか出るわけないよなw >>174
藤原満がスターってw
南海レギュラー中心選手だっただけじゃん 自分にとってはスターだったんだろう。
それはそれでけっこうなことだが、自分の感覚を世間一般の感覚と勘違いしているんだろうな。
だから南海の観客数>阪急の観客数なんて平気で書き込むんだろう。当時を知る人からすれば間違いとすぐ気づくんだけどね。 人気がないと定説だった阪急、アマの有望選手にも阪急を志望する選手など聞いたことがなかった。
数少ない例外が、81年の甲子園優勝投手の金村(報徳学園)。阪急入団を熱望していると聞いて、あのときは耳を疑ったものだ。
まあ金村は長池のファンだったらしいが。
結局クジで近鉄が指名して入団。
オリックスになってからは90年、長谷川(立命館大)、そして戎(育英)が相次いで志望したのでおどろいた。 もし阪急が金村を引き当てていたら、ポジションはどうなっていたんだろう?
三塁には松永がいるから外野かなぁ。 このスレ、阪急黄金時代ってどれだけ凄かったの!?
なのにお前ら80年代の話ばっかりしてんな
まあ70年代をリアルタイムで覚えてるのはもう50代後半だろうからしゃーないが そもそもパの球団を希望する選手自体が少なかった
80年代になると西武を希望する選手は多くなった
阪急はパの中では良球団なので指名されたら入団する選手は多かったって感じ >>229
しゃあないよ
2、3人しか書いてないから
その80年代すら知らない奴が居るしw >>209だが、だれも75年の日本シリーズについて書いてくれないのが悲しい。 上で藤原満がスターだと書いたヒトは
水島教あぶさん好きなんかなw
野村監督以降の南海でスター(知名度)なら
普通は門田やドカベン香川をイメージするから いやぁタイプ的にって意味やろ
中距離ヒッターで一発もある 藤原といえば、76年に門田、加藤英司、吉岡と首位打者を争ったな。
この年の首位打者レースは三割を少し越えたくらいの低い率での争いだったが、藤原は最終戦、途中交代せずに最後まで出場した。たしか4の2で惜しくも吉岡を抜けなかった。最終的には3割2厘だった。 >中距離ヒッターで一発もある
シーズンキャリアハイが10本で
二桁越えはそれのみだと寧ろ短距離じゃね
wikiみてきたが打率3割越え4回に
三振は少ないが併殺打は多くて
出塁率も.350越え2回のみで通算は.320
ノムの好みに仕立てられて中途半端になった感がある
門田のインタビュー記事でノムの「スパイ指示を嫌って従わず睨まれたが従ってた選手は先に消えていったから己れを通し続けて良かった」
藤原辺りの事かな? 自分は西本監督時代も知っているジジイ世代だけど
何度も優勝しながら伝説にならない球団だったなぁ 黄金時代の阪急は選手それぞれが自分の仕事をまっとうする、ふだんは仲が悪いが試合になるとまとまる。昔ながらの職人集団というイメージだった。
長池は、私生活のことを記者に聞かれても「野球とは関係ないので」と話そうとしなかった。もう少しファンサービスというものを考えていればもっと人気が出て知名度もアップしたと思う。
自分はそういう時代のプロ野球のほうが好きなんだが。 長池、土井、大杉
この3人やったら長池が一番人気あったやろ
昭和40年代パリーグ
野村、杉浦別格
有藤、山崎人気選手 長池も衰えるのが少し早かった気がする。
75年から数字が落ち始めた。あの年は近鉄とのプレーオフ第二戦の八回に起死回生の逆転ホームランしたのが印象的だったが。
本人いわく、「DHになってから野球が終わりました」。
76年以降は、78年後期の近鉄戦で鈴木から代打逆転満塁ホームランしたことしか記憶にない。 >>228
金村が入団した年に、松永がレギュラーになり、島谷が引退。金村が入団していたら、松永が外野手になったかも?
まあ、どこのポジションを争うにしても、金村は松永に勝て無い。 >>245
松永ショートやろな
弓岡セカンド
でも金村自身が大した事なかったからな
サードを空けるほどの価値はなかったやろな
近鉄でもやっとこさ定位置確保した感じやし >>244
1976年の時点からだから32歳の若さで衰えだしてるんだね>長池 長池は練習の虫と云われる位
懸命だったのが仇になって
故障で衰えて終わったな
最後は死球骨折で選手生命終了した掛布と通ずる >>242
左肩にあごをのせるバッティングフォームは人気だった。 その長池の家に外車が並んでるのに憧れて阪急入りを目指したのが金村
掛布もそうだが手首を骨折すると致命的だわな
清宮は大丈夫やろか 長池のキャリアハイは73年かな。
このとしは三冠王も、という声がかかるくらいだったが、最終的には打率が落ちてダメたった。
長池は法政大学時代、南海から栄養費をもらっていて、卒業後は南海入りが既定路線だった。
しかし、ちょうどその年からドラフトが始まり、このときは各球団が希望する選手に順位をつけた名簿を提出(いまの比例代表の選挙みたいだな)、順位がかち合ったときは抽選というシステムだったらしい。
で、南海は二番、阪急が一番だったため阪急が交渉権獲得して入団したらしい。 ドラフトでは色々な選手の運命が変わったからね
田淵は巨人にしか入らない気だったのに阪神に指名されて
葛藤したけど阪神入団を選択した でも長池は青田コーチの指導を受けて内角球を打てるようになった、プロのスイングができるようになったのは青田さんのおかげです、と話している。阪急に入ってよかったと思うよ。
青田さんの指導をからだにしみこませるためにキャンプでは毎日千球の打撃練習をしたらしい。これでは故障するのも無理はない。 長池、wiki見て驚いた、意外に俊足なんだな。
年間盗塁21個とか18個とか普通にやってんだな
ってか加藤秀司も24盗塁したり二桁盗塁6度もしてんだな。
あの強かったころの上田阪急。日本シリーズで対戦するセリーグに解説者が
「球団盗塁数はリーグでダントツに多いですけど、1番から9番まで
よ〜くオーダー見てください、走れる選手は1番の福本、2番蓑田にせいぜい後ミッチェルぐらいですよ、
この3人が塁に出たら気をつければいいのだけれど日本シリーズで対戦する
セリーグの各球団は、「阪急=走る」ってイメージで塁に出た高井から加藤まで
全走者警戒しすぎてる」という言葉をいまだに覚えてる 2番に蓑田か、そら強い筈だ
83年西武の9番石毛みたいなもんだな >>256
あ~そう、揚げ足取りなさんなw
外国人でありながら背番号1のウイリアムスねw
そう。簡単に背番号1を外国人に与えるあたりが阪急らしいねw バルボンやマルカーノは日本語ペラペラになったし
ブーマーも長年活躍したし外人には居心地がいい球団なんだと思う >>257
揚げ足取りってそういう時に使わなくね? ていうか3人も走れる(盗塁王になってもおかしくない)選手がいたら、十分だろ 長池は実際には、意外と小柄だった。
西武のコーチやってた頃は、引退してかなり年数経っていたけど、体格はむしろ華奢な方に見えた。 >>262
掛布もそんなに大きくなかったし体格的にそんなに恵まれていないのに
ホームランバッターをやっていた事が体に負担をかけてしまって
30代前半で衰えてしまったのかもしれんね >>233
あぶさんは30巻代あたりのコーチ時代の藤原満知ってその後初期あたりの現役時代を読んだけど、後に成績見て2桁は一度だけで盗塁数多いの知って驚いたな。 掛布は誰がどう見てもデッドボールでの手首骨折が原因でしょう
阪急も水谷や蓑田が頭部デッドボールから急激に劣化したよな >>261
>ていうか3人も走れる(盗塁王になってもおかしくない)選手がいたら、十分だろ
普通ならね。しかし当時の阪急は福本と蓑田が走る選手で
かろうじてウイリアムスも程度だからね(78年盗塁11個失敗10回)
だからね。
1978年年間199盗塁。二桁盗塁この3人にたいして
同じ200盗塁近くで1997年西武と比べてみても
松井62個大友31個高木大成24個垣内12個奈良原13個と5人いた
1978年阪急 福本70個蓑田61個ウイリアムス11個 掛布は84年以降打率が残せなかった上に翌年に日本一になってしまったから手首骨折関係なくバーンアウトしてしまったのかも。 高井がいた阪急にとってはDH導入は黄金期への後押しになったね ヒックスというブーマーを超える超極端なクローズドスタンスの助っ人を覚えてる人いる?
案の定一発はあったが低打率で1年で解雇されたけど >>264
んなことあるやろ
試合の大半休んでるだけの指名打者には理解できんだろうけど
ただ、それを差し引いても選手生活後半の掛布は不摂生だったのは事実やね
しかも阪神という超絶重圧の強いチームの主力でしかもサード固定、
そんな中で家に脅迫電話やカミソリが来るんだからまぁどうやってても
選手生命は長くはならんかったかもしれんけどね 門田はアキレス健を切ってDHで生きながらえたからな
もしDHが無かったら引退だっただろうね >>271
スレチだがそのとおり。
不摂生に慢心だったのは事実。
それどころか飲酒運転で捕まっちゃうんだから。
プロ入りのころは野球大好き、練習の虫で若くしてスター街道をばく進したものだから、勘違いしてしまったのだろう、残念だ。 結果的に、門田と掛布のトレードは成立しなくて良かった
お互いに 掛布についてはケガ以前に
評論家時代(第二次政権前)の吉田義男が、
「近年の掛布はたるんでる。特に守備。
自分が監督だったころ(第一次政権)と比較すると手抜きが目立つ。」」と指摘してたな >>269
高井にとっては代打本塁打の本数が減ったけど。
たしか77〜79年は代打本塁打はゼロだった。
あれがなければ通算30本はいっていた。
高井といえばやはり74年オールスター戦で松岡から放った代打逆転サヨナラホームランだな。
だれもがそう期待したなかでそのとおり打つんだから、鮮やかだった。 >>230
山口高志はヤクルト蹴って阪急だよ。
ヤクルトは下位指名だったけどね。
それに関西に住んでいると、親会社の阪急のイメージは悪くない。 山口は関大四年のときのドラフトのときは「絶対にプロに行かない」と言っていたなかでのヤクルトの強行指名、たしか四位だったから。
のちに知ったが、ヤクルト側は契約金として白紙の小切手を山口側に提示したらしい。「好きな金額を書いてください」というこれ以上ない条件提示。
それでも初志貫徹して社会人入り。本人は、当時は身体も小さくてプロで活躍できると思っていなかったと語っているが。
関大四年のときは全日本、明治神宮大会を制覇。神宮大会では山下大輔の慶応をノーヒットノーランに封じたのをはじめ、先発した試合は全試合完封というすごさだった。 ヤクルトは至れり尽くせりの選手に優しい球団なので入団しても失敗はしなかったと思う
プロ野球選手で組合を作ろうとした時もヤクルトの選手だけは当初は参加しなかった位だから 長池も日本シリーズで外木場だったと思うが頭部死球あっただろ
あれから成績が落ちた印象があるが 水谷も蓑田も耳付きヘルメットでは無かったんだよな
長池の時代は知らないけど耳付きヘルメットは無かっただろうから
頭部デッドボールが原因で劣化した可能性は大だろうね >>280
ヤクルトか電鉄に入社→球団に出向って途は選ばしてくれんかったんかな? 山口が入団する際、阪急は野球を辞めたあとでもグループ内で60歳まで雇用することを約束したらしい。
松下電器という大会社を辞めて入団するからということだったらしいが、もちろん山口の破格の実力を考慮してのことだっただろう。 >>286
長池は当初は耳当てなしだったが、晩年になって耳当てを付けた。
簑田は若手時代は耳当てありだったが、耳当てなしに変更。 >>282
高校野球では72年の選抜から耳つきヘルメット着用が義務づけられた。
そのきっかけは、プロで70年に阪神の田淵が広島の外木場から頭に死球を受けた事故があったから。
ただプロは高校野球とちがって義務づけられてなかった。 田淵は1983年の死球で終わったね
落合が「田淵さんは天才だけど球を避けるのが下手」って言ってたって話 竹之内にしても田淵にしても公式戦で東尾と対戦する機会があればもっと死球対策を練っていたのかな。 >>280
睨んで参加させなかっただにきまってるじゃないですか(笑) >>286
田淵や長池の頭にぶつけるって外木場ろくでもねえな オリックス時代の門田が西武工藤に頭部にぶつけられて
怒って相手ベンチに殴り込みに行こうとしたが
チームメートが何とか止めたとか 門田も最後まで耳あて無しだったよな
そこで怒る怒らないレベルで済んで良かったなぁ 落合が東尾に報復ピッチャー返しやったのは有名だけど
門田も東尾に似たような事をしたらしいね >>275
広岡も掛布の守備をみて
広岡 あんな手袋ばかりしていたらミットにはいる
ボールの感覚がなくなりますよ
素手でとらないと
掛布自身、晩年はアベレージを意識する打撃に
変えようとしたがファンがホームランを求めるがあまり
無理に腰をいれた打撃に変えたために
どうしても守備がたるみ勝ちだった
でも驚異的なリストの強さがあったのと
優勝という目標が、緩み勝ちな心を押さえていた
と掛布は言ってた
だから日本一前後はもうリストの強さだけで
打っていたので打球が反対方向ばかり
あの骨折がなくても翌年はホームラン激減は
予測できた
だからこそ吉田義男は日本一翌年の4番を岡田にして
掛布はクリーンアップからはずそうとした
しかし結局色々あって外せなかった 掛布の話などスレチだろう。
阪急の話をしようや。
>>277
74年のドラフト、あのときはまさかだったなあ。
予備抽選の結果、本抽選の指名順は一番近鉄、二番阪急となった。
イの一番の近鉄の指名は「松下電器、投手」、だれもが山口だと思っただろう。それがまさかの山口のチームメートの福井保夫だった。
すかさず阪急が山口を指名、これが翌年からの阪急三連覇につながっていった。
近鉄の敵前逃亡と当時いわれた。超目玉の山口を指名したら契約金など高額が予想されるため球団の財政事情を考えて山口指名を回避したらしい。
福井はプロでは2勝したにとどまった。近鉄にとっては痛恨の判断ミスだっただろう。 「高い契約金を避ける為に指名を回避」って当時のパがいかに暗黒時代だったか
象徴する話だな >>298
もうね、日本語が下手過ぎて、誰がどこの部分をしゃべったのか全く伝わらない駄文 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています