近鉄バファローズスレ Part10
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トレーバーがヘラヘラ審判にブチ切れた時に 間に入って止めてたのが金村義明と石井浩郎だった 近鉄入りの運命…死闘続きの阿波野vs西武/パ伝説 https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909170000690.html ○…阿波野が入寮した日は雪がちらついていた。新幹線を新大阪駅に出迎えたのは、スカ ウトの河西さん、NHKのディレクターとぼくの3人だけだった。“大近鉄”をバックにする 球団、ドラフト1位の大物新人だから、タクシーで藤井寺市にあった「球友寮」に乗り付 けるものと思っていた。しかし、ベテランの河西さんは「よぉ、来てくれたな。早く関西 に慣れてほしいんや」と、地下鉄と近鉄電車を乗り継いで移動したのは驚いた。藤井寺駅 に着いて、そのまま寮に向かうのかと思いきや、駅前のうどん屋に入った。河西さんは 「大阪はうどんがうまいんやで」と説くのだった。関西になじみがなかったから仕方がな かった。阿波野は薄味のうどんにしょうゆをかけて腹に入れた。プロ入り後の活躍が、関 西風味に慣れたことを証明していた。 ドラフト1位をうどんで接待するなよ >>415 事前の指名あいさつがなかったってのも今の感覚だと凄いな 当時は強行指名上等みたいな時代だったからな >>415 電車は会社からして別におかしいとは思わないが うどん屋はねーよw >>415 ドラフト3位の佐野慈紀なんて喫茶店でグレープフルーツ1杯だけだったらしいぜ OB TVで言ってた >>419 グレープフルーツ? 一杯二杯と呼ぶ物たったっけ? いや、だったっけ? なんか他の飲み物かなんかと間違えたか? ☓グレープフルーツ1杯 ○グレープフルーツジュース1杯 >>423 「失礼な事を言うな。天かす入れ放題や」 そういえば、天かすを入れたうどんは関東では「たぬきうどん」になるところだが、 大阪では自分で入れるスタイルもあるからか、 かけうどん(すうどん)のバリエーションと化しているな。 近鉄のシブチンエピソード 近鉄・三原監督の退任騒動はなぜ起こったのか/週ベ回顧 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190920-00000001-baseballo-base 事態が動いたのは、11月5日、近鉄本社での佐伯勇オーナー、芥田球団社長とのトップ会談だった。 そこで三原は、佐伯オーナーから契約について「来年も今年のままで頼む」と言われ、顔色が変わった。 67年オフ、三原と近鉄の契約は契約金なしの1年契約。大洋とケンカ別れのような形で飛び出しただけに、1年目は条件度外視で就任要請を受けた。しかし、しっかり結果を出したにもかかわらず、なぜ同じなのか、の思いが強かったようだ。 さらに言えば、近鉄は内々で三原監督に「契約金ありの2年契約」を提示していた。 それをオーナーが突然覆したことで不信感も生まれた。 三原は再度、芥田社長と会って確認したが、「1年契約は会社の最終決定」と言われ、その場で辞意を伝えた。 佐伯オーナーも球団に愛情を持ちつつも、会社の経営者という立場を優先して、 球団経営に懐疑的な多数の本社幹部に配慮せざるを得ない面も大きかった感じだな。 日本ハムも大社オーナーとその下の本社幹部との温度差が激しかったのか、 大沢常務と大社が考えていた土橋の後任としての上田の監督就任が、幹部の反対で一度流れたことがあった。 福浦が引退。 これで藤井寺球場一軍公式戦に出場経験者が絶滅か。 昔からのバファローズファンだが近鉄という企業は大嫌い 阿倍野近鉄百貨店以外に褒めるところ無いし 下請や取引先の評価も旧体制のシャープ並に最悪だし 近鉄電車で毎日通勤するのは本当に苦痛 10.12から今日で30年 平成元年の名勝負「10・12」とは? 令和元年に、30年前の激闘を振り返る https://full-count.jp/2019/10/12/post570386/ 江夏の21球 10.19 ロッテより弱い この3つに尽きるかな どれもほんの少しのボタンのかけ違いで日本一になれてた…と思う 西武は4タテ喰らって今年も優勝しながらCS敗退 やはり打線だけで短期決戦を勝つのは難しい 去年も言ってる人がいたが近鉄も2001年にCS制度があったら日本シリーズに 出られたか微妙やな... あの年は3すくみだったからなぁ ダイエーに強い西武が勝ち上がってきたら十分いけるけど 西武に弱く近鉄に強いダイエーが勝ち上がってきたらアドバンテージ1勝分あっても厳しい気がする 90年代中盤以降の近鉄には絶対的エースがいなかった 90年代2桁勝利投手 1990年→野茂18勝8敗、阿波野10勝11敗1セーブ 1991年→野茂17勝11敗1セーブ、小野和義12勝4敗、佐々木修10勝4敗1セーブ 1992年→野茂18勝8敗、高村祐13勝9敗 1993年→野茂17勝12敗 1994年→山崎慎太郎12勝10敗 1995年→山崎慎太郎10勝12敗、佐野重樹10勝4敗6セーブ 1996年→アキーノ11勝9敗 1997年→小池秀郎15勝6敗、赤堀元之10勝7敗23セーブ 1998年→2桁勝利投手無し 1999年→2桁勝利投手無し リリーフの佐野と赤堀が10勝してるのが 先発投手の駒不足を物語っている >>439 92年の赤堀は11勝 佐野はともかく赤堀が10勝してるのは起用法の問題だと思う。ストッパーだからね つかそういう感想が出てくるってことは、80年代や90年代前半の野球を知らない人と見た > 92年の赤堀は11勝 失礼、1992年の赤堀は11勝4敗22セーブだった、50試合も投げてる 今みたいにクローザーを3点差以内で勝ってる試合のラスト1イニング限定で使うのは 90年代後半以降かね 小池が社会人時代に故障していなかったら 打線の援護のある近鉄ならもっと勝てたろうに 近鉄の歴史の最後に岩隈という若きエースが育ったな。 >>442 抑えを3点以内で勝ってる9回頭からの起用に限定するのは90年代後半から。97年ではまだストッパー的な起用が多い 98年の佐々木や大塚あたりでようやくイニングまたぎが減ってクローザー的な起用になっていく移行期(登板と投球回見ればわかる) 97年の赤堀は救援のみ57登板97.1投球回。2イニング投げるのが割とよくあった 90年代半ばまでの、ストッパーと呼ばれた抑え投手は その名前の通り「相手の勢いを止める」「火消し」の役割が強かった 先発投手が完投するつもりで投げてて8回にランナー溜めて降板、そこで抑え投手にスイッチとか 9回表に先発投手がランナー一人二人出したところで抑えにスイッチとか イニング頭固定じゃなくて、ランナー出てる場面での投入がよくあった なので、ヒットやHRなど1本打たれて同点に追いつかれ、裏でサヨナラとか、同点延長突入してそのまま投げてチームが勝利とか そういう棚ボタ勝利が珍しくなかった。厳しい場面のリリーフやイニングまたぎが多かったから仕方ない 当時の抑え投手は救援のみで5-7勝してるのが普通で10勝してるのも珍しくない 先発投手が12球団屈指に充実してた黄金時代西武でも ダブルストッパー体制で鹿取や潮崎は登板の倍イニング投げてて、どっちも10勝したシーズンあるし、まぁそういう時代だった 高津は8勝したシーズンあるし、佐々木は12勝したシーズンがあるなど 80年代から90年代前半にかけて抑え投手を数年経験した投手は、二桁勝利かそれに近い勝ち星を挙げたシーズンが大抵ある そんな感じで起用法が全く違うので、同じ抑え投手でも「クローザー」と「ストッパー」は別物だと思ってる >>444 2001年の前川は4点も5点も普通に取られてたけど、見方が大量点を取ったくれたので勝ち星を積み上げていた ・・・と思ってる人が多いらしいが、そういうわけではないよ 前川の12勝のうち、前川が4失点以上したのは1試合だけ(7.1回自責点5) それ以外の11勝は全て3失点以内 前川はいい時と悪い時の差が酷すぎて、、勝利投手になった以外の試合の成績が壊滅的だった 1985年 石本貴昭 70試合登板 19勝3敗7セーブ 防3.56 今の考え方からしたらとんでもない起用法されてる 確かに「ストッパー」と「クローザー」はまた別物だね もしかしたら金田より先に死んでたのか、カネやんキックの 時が有名だが91年9月西武との天王山小野が完投(だっけ?) 試合最後の辻の1塁線の打球ファインプレー思い浮かぶ NHKラジオ深夜便 10月16日(水) 午前4時台 【スポーツ明日への伝言】 10.19 昭和のプロ野球、最後の名勝負 野球史研究家 山室寛之 >>450 聞き逃し配信で聞いた この日を現地で見届けたので感慨も一入だ プロ野球の歴史で語り継がれる1988年の熱戦「10・19(じってんいちきゅう)」。 朝日放送ラジオ(https://www.abc1008.com/ 別ウインドウで開きます)が昨年制作したドキュメンタリー番組が、二つの賞を受賞した。 これを受け、同局が19日に番組を再放送する。 番組は「『10・19』〜7時間33分の追憶〜」。 ラジコでは26日までタイムフリー http://radiko.jp/#!/ts/ABC/20191019160000 1988年と89年のパ・リーグは本当に凄かった。心から震えるものがあった。 有名な10・19やブライアント4連発の他にも 200勝に王手をかけ川崎球場に宿敵バファローズを迎え 延長11回を投げきりながら敗戦投手となった昭和生れの明治男「サンデー兆治」 日ハム相手に粘りに粘り延長戦に縺れ込んでのサヨナラ勝ちは海水浴帰り車中のラジオで聞いた! 8-0を終盤猛追し9回表に逆転、尚も反撃する西武を振切り13-12で激乱戦を制したホークス! 崖ップチのオリックス戦でリベラの亡き佐伯オーナーに捧げたサヨナラ3ランとか 中秋の陽射しを浴びカリフォルニアのR&Rが響く中、打撃練習に興じていた猛牛達 日本で初めて観客席を360°周回する止まらないウェーブの中には俺もいた! 今でも鮮やかによみがえるな〜心の奥底に それまでダサいと思っていた近鉄のユニフォームが物凄く眩しく見えた 文芸春秋社のもいいけど、俺はニュース・ステーションの年末特集をビデオに録った。 番組はかなり出来が良くて、特にジョー・コッカーの"You are so beautiful"をバックに 最終回の裏、大石が帽子を目深にかぶり淡々と守備につくシーンは何度見ても涙が溢れる。 第一試合で鈴木が生還!中西コーチと抱き合い転げ廻り全身で喜びを表す姿も本当に良い 今でも大切な何かを思い出したいときに見返している。 プロ野球界、取り巻くマスコミの皆さん、特に読売の方、 野球の素晴らしさは、あの試合に凝縮されています。 ファンを増やし球界を盛り上げるには、金にまかせてスター選手を強奪したり、 権力でルールを捩曲げたり、球場をカラクリ仕掛けの密室にしたり、 国民的行事やメイク何たら、何たら愛やら〜変な煽り文句など必要はありません。 場末の汚い球場でも、無名の一流半の選手でも良いんです。 一途な思い、叶わぬ夢、 不条理なルールと時間の壁、それでも懸命に闘い抜いた男達の姿は、 何年たっても多くの人の心を豊かに潤し、熱く勇気づけてくれています。 あの頃のパ・リーグ、猛牛達、そして仰木監督、一生涯、忘れません。 本当に、ありがとう。 お疲れ様でした。 上記の文章は、2000年秋、某2ch野球板に立った「阿波野引退」スレッドのレスを改変し、 2005年師走、仰木監督の死を悼むスレッドに貼付けたモノだ。 裁判官/検察官含む官僚及び大阪府/市職員ら官界政界財界読売等マスゴミが癒着し総掛かりで 近鉄バファローズをすり潰した2004年から毎年、10月19日15時より 2ch野球実況板では 「10.19 川崎球場 近鉄vsロッテ 25-26回戦」のエアー実況が行われている。 スマートでスピーディ スムーズでシステマティック 難攻不落 完璧 絶対王者な西武ライオンズと アホでガサツで鈍臭いが ド根性とパワーだけは過剰 無理無駄無茶苦茶の塊な近鉄バファローズ との間には明白な実力差が有り レベルが違う 次元が違う 違う! 違い過ぎた… 神懸かり的なブライアントの4連発!!!! が無ければライオンズが10年連続日本一V10達成! 1989年に近鉄バファローズが成し遂げたのは奇跡と言うしかない! 1989年11月 ベルリンの壁を崩し始めたのは 前年 厳戒体制下 ブルース・スプリングスティーンの ライブ 特に “Hungry Heart” に心を揺り動かされた人々だった。 歌は時として途轍もない力を持つ 頂点から転がり落ちて30年 あらゆる分野で低迷する日本 中でも政治と人々の心が貧しく荒み余裕が無い 自分さえ良ければ他人が苦しもうが構わない 他人が苦しむ姿を見るのが快感な腐れ外道が多過ぎる そんな奴らを叩き潰し 放射能に塗れて沈没する日本を救う チャンスは今しかない! 昭和最後の秋の「10.19」を 2019年の秋に顧みたい。 あの頃は日本には四季があり、汗臭いけれど今よりずっと のんびりと余裕があり寛容かつ熱く潤い漲り迸っていた! これからの日本を担う子供達に あの頃の奇跡を語り継ごう! あの頃の自分に戻って しばしのタイムトリップを楽しもう! 1989年10月5日? 西武ライオンズ球場 http://bbs3.fc2.com//bbs/img/_648500/648419/full/648419_1492771756.jpg >>453 88,89年の激闘を観て一生バファローズファンで居ようと決めた みんなそうだよな 79,80のリーグ連覇も胸を打つものがあったな。 それとマニエルの鬼の様な打棒はすごかった。ブライアントやローズも確かにすごかったが マニエルは打率も高く強打者なのに三振も少ないので相手投手としては手の打ちようがない。 赤鬼のニックネームはホーナーではなくマニエルが一番ふさわしかったと思う。 >>454 1989年8月2日でんな ttp://2689web.com/1989/LH/LH15.html もういいって 30年以上も前の事をいつまでやってんだよ いい加減しつけーわ 興味深い記事を見つけたからリンク貼っとくよ 永淵洋三、佐々木恭介、梨田昌孝、マニエル、大石大二郎、新井宏昌、ブライアント……&中村紀洋、ローズ「近鉄“いてまえ打線”に帰結した猛打の歴史」/プロ野球20世紀の男たち https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail& ;id=097-20191019-12 2000年以降パがセを圧倒しまくってるけど今のパのファンは当たり前すぎて 何も感じてないんだろな セに対する反骨心とか何世紀前の話ってことなんだろ 北川が最初に所属した阪神のコーチか。 あまりにも近鉄時代の印象が強くて、阪神時代を忘れかけていたw 今の力で押し切り圧倒するパリーグ野球は、色々な意味で近鉄の遺産が生きていると思う。 遺産が全く生きていないチームが約1チームありますがw 日ハムは梨田がそれを全否定するようなチーム作りをしたからなぁ 梨田はそのチームの状況に応じたチーム作りするタイプでしょ 日ハムはディフェンス型のチームだったからそれ踏襲しただけ そもそもハムはフロントの発言権が強いから、フロントの意向では マニエルが使っていたフェイスガード https://imgur.com/jkI1IZb 現在のフェイスガードと違って、口を守るような作りですな まぁアメフトのフェイスガードそのまま持ってきてつけただけらしいから マニエルによると、ちょっと動くだけでも上下に揺れて邪魔だったから 実際に使ったのは数試合だけらしいよ >>466-467 いや、ハムの事じゃないんですけどね。ハムは何度も優勝してるし >>470 うん、それはわかってる 俺は466に突っ込んだだけ キチガイとバファローズと全く関係ないチームファンの馴れ合いスレ 気持ち悪いだけ >>468 当時は高校生でも、耳当てが片方のみのヘルメットしか使ってなかったから、マニエルは日本初の両耳タイプのヘルメット使用者かもね。 そもそも1970年代、外国人の耳当て付きヘルメット使用自体が珍しい。マニエルは八木沢からの死球の有無に関係なく、従来から耳当てありだった。 今はプロ未満は両耳の左右兼用が常識だが、昔は高校生でもプロと同じくカッコよさ重視の片耳ヘルメットで裕福だったんだな。 今は耳あて無しヘルメットは使えなくなったね 耳あてありが多くなっても「なしの方がしっくりくる」と 耳あてなしを使い続ける人もいた >>476 カッコよさも何も 両耳ヘルメット自体は少年野球から普及したからでは? だから高校生は片耳だっただけ 近鉄に関する話題が出たと思ったら、ラグビー日本代表の トンプソンルークと名阪新型特急のことだった。 >>478 アマチュアごときに右用、左用と分けて作る余裕があったってことだな 今は野球は衰退の一途でわざわざ不要な用具作らないだろうね スポーツ用品コーナー行っても野球道具無かったりして悲しいし 興味深い記事を見つけたからリンク貼っとくよ 30年前の10月14日、近鉄優勝! その1年前のドラマを覚えていますか?【1】 https://news.yahoo.co.jp/byline/yonobuyuki/20191014-00146347/ 金村が絶対にホームラン打たれない裏技でボールを変えていたとかしょうもないことばっかり言うからいよいよ今の野球やパリーグにとって害悪の側面が強くなってきたな 金村は確かにタレントとも対等に喋れるくらい弁が立つからそっち向けの需要はあるんだろうし 彼も生きて行かなきゃならないから絶対悪だとまでは言いきれないけど、 最近話題らしい高倉健の養女みたいなもんで、死んだり消滅したり、辞めて関係なくなったりしてから 実はああでしたこうでしたとあれこれ外に公表するのって人としてどうなのかなあと思う ラルフ・ブライアント-日本公式‏ @MrTwoRun · 11月8日 ファンの皆さん、 元 #近鉄バファローズ のブライアントです。 ツイッタを始めた! フォローしてね! これからいっぱいツイートします。 今関西におります。番組の撮影終わって、今観光中です。 最初のメッセージで金閣寺の前がいいと思って https://twitter.com/MrTwoRun/status/1192645484193570816 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ブライアントは芝刈り始めてから若返った 一時は凄いお爺さんみたいになってて驚いたが 栗橋氏もまた驚くようなエピソードに溢れているようだ。 「東京遠征に行くと、当時は田町の第一京浜沿いに宿舎があったんですよ。栗橋さ ん、酔っ払うと道路のセンターラインにある生け垣の中に立ってバットを振って ね。深夜、通り過ぎる車のライトをボールに見立てて、車が向かってくるたびに バット振って(笑)。なんちゅう人や。 https://full-count.jp/2019/11/10/post600443/ >>477 ベースコーチはいまだに耳当て無しだな。せめてホームベース側くらいはつけとかないと危険なんじゃないか。 社会人でもベースコーチは耳当て必須じゃないらしい。 89年の東京ドームのある日の日ハム戦 スタメンはこんな感じだった (二)大石 (中)新井 (左)ブライアント (三)リベラ (一)偵察メンバー (右)鈴木 (指)偵察メンバー (捕)山下 (遊)真喜志 ハムの先発が読めなかった仰木は五番と七番に偵察メンバーを入れていた 先発が西崎と発表されると五番に西崎と相性の良い羽田、七番にシーズン中にヤクルトから移籍してきた後関を入れた 試合は1点差の9回表に羽田が西崎から逆転2ランを放ちそのまま勝利 羽田はこれが現役最後のホームランだった 試合の性格な日時や近鉄の先発投手は忘れてしまったが「仰木マジック」を体感した試合だったので妙に印象に残ってる 金村は優勝したけど西武の方が強かったと言ってるな 俺もそう思う 1989年はやっぱりブライアントの四連発だわな それと仰木マジックと西武の絶対的な抑え不在が理由か https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191111-00601301-fullcount-base 1989年、“いてまえ打線”を誇る近鉄がリーグ優勝に輝いた時、中心選手として貢献した金村氏。 「個性的な人間が集まってましたよね」と懐かしげに振り返る一方で、 「優勝したと言っても、西武の方が強かった。西武の方が優勝回数は多かったですし、黄金期でした。 今のソフトバンクみたいに、走攻守全てが揃ったバランスのいいチームでした」と語る。 >>493 >>491 はいろいろ残念すぎる奴なんだよw 当該試合は1989年5月11日で、実際に、7番指名打者後関は最初からスタメンだ。 しかも後関は谷宏明との間で「1988年のオフ」に交換トレードだし。 多分、1988シーズン中に久保康生と交換トレードになった中谷忠己とごっちゃになってる >>494 ご指摘色々ありがとう 30年前のことだから記憶も曖昧だし、後関と中谷のトレードの件がごっちゃになってたわw 阪急の上田監督もうっかり偵察のつもりで山沖をDHに入れてしまって 1打席だけ打たせる羽目になったな。 ノムケンはまだ分かるがDHできる時のリアル当事者だったのにルール認識してないとかあるんかね >>499 上田監督の時は ルール改正1年目だったので間違えたのでは >メンバー交換をした後だったが、見かねた仰木彬監督がダイエー・王貞治監督に事情を説明。 >了承を得て試合開始後、藤本博史内野手を代わりに起用することになった。 >午後6時試合開始。場内放送で交代が告げられた。その直後だった。公式記録員から“待った”がかかった。 >記録員が示した公認野球規則六・一〇、指名打者の項のbにはこう記してあった。 >「試合前に交換された打順表に記載された指名打者、相手チームの先発投手に対して、少なくとも1度は、打撃を完了しなければ交代できない」。 >腹が痛かろうと、下痢をしてようとニールはダイエー先発の吉武真太郎投手と1打席は対戦しなければならないというルールを現場は把握していなかった。 https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0805/kiji/K20080508Z00002050.html >>491 仰木は五番によく偵察メンバー入れてた 仰木時代は五番が固定できず主に淡口・羽田・栗橋で回してた印象 鈴木貴久じゃダメだったのかな。 .270、20本くらいをコンスタントに打ってた。 その辺のベテラン3人よりはいいだろうに。 >>314 亀レスだが島本講平の娘、テレ朝アナの島本真衣も忘れないで 彼女は今ではテレ朝の朝の顔になった >>506 グッドモーニングは歴史的経緯もあって、ABCではやってないんだよな。 ただ同じく島本が出ているニュースな会は、もともとネットしない局が多かったり、 広島ホームテレビのように系列外の鑑定団再放送を優先して2時間遅れという例もある中で ABCが同時ネットしているのは意外な気も。 >>504 仰木時代の貴久は、守備位置ライトで、、 6番か7番で大体スタメンで出ていた記憶があるな >>506 野球選手の子供でアナウンサーになったのは島本真衣と田淵の息子くらい? アイドルやってた若田部の娘が現在アナウンサー目指してるらしいが >>508 上にもある通り常に2割7部 20本って感じだから 5番にするには物足りないって事だったんだろうな>鈴木貴久 阪神の佐野仙好にも似ている >>509 局アナではなかったと思うけど、高田繁の娘の高田雅代がプロ野球ニュースに出ていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる