西武黄金時代ってどれだけすごかったの?
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大金出して常勝チームにしたり清原を可愛がったりV免した森監督に冷たく当たったりしてたが
実は堤オーナーはアイスホッケーは大好きだが野球に思い入れがないなどと書かれてたけど本当かな >>721
西武が破れたシリーズかな
どうして二塁に行かないんだと言われ
秋山は降ろされバッティンググローブを叩きつけた >>726
93年のシリーズじゃなくて92年第6戦の9回表の大塚が好走塁でホームインした際に秋山が2塁を陥れなかった時じゃない? 同じような場面で、川又米利は星野から怒鳴られていたが、
秋山は首脳陣が不機嫌になっただけか 結局その試合は10回裏の秦のサヨナラホームランで負けたからあの場面で秋山が2塁を陥れていたらとは思う。 >>720
日本野球における走塁意識は、
伝説の走塁以前とそれ以後で大別されるわな。
あれ以降、他のチームも隙あらば一つ先の塁に進むようになった。
サッカーで言えばラインDFする前と後くらい変わった。 >>725
思い入れがないにしては凄い熱の入れようだな
近鉄なんかラグビーに力を入れてて野球に力を入れてなかったから長年ああだったけど。 >>724
広岡さんが森を抑えに回したのは、なかなかの英断だったんじゃない? >>722
>西武黄金期の弱点は中継ぎ、抑え
あれは近鉄、特にブライアントに勢いがあっただけで特に中継ぎ陣が弱かったイメージはない
当時のサンフレッチェと呼ばれた鹿取潮崎杉山は、
後の阪神JFKロッテYFK巨人スコット鉄太郎など勝ちパターン3人組の走りと言うか先駆者ではないか? >>731
根本さんという優れた軍師が居て、「全て根本君に任せてあるから」とのスタンスが良かったんだろうね。
そもそも大の野球好きで自ら経営に乗り出したり口出したりするなんてロクな結果を生まないから(例・大映永田オーナー)
又、球場の施設・設備等のハード面では早大OBとして堤が面倒を観ていた石山建一(プリンスホテル野球部監督)のアドバイスも大きかった様だ。
ちなみに、ゆくゆくのドーム化も視野に入れた球場設計された方が良いですよとアドバイスしたのも石山氏だという。 >>722
元々森さんは優勝に必要な勝ち星を73勝(130試合制下だと53敗4分で貯金20となる)と想定して、それ以外は負けられるとの計算で1シーズンの
戦略を立てていたんだけど、近鉄が仰木監督に変わってからそれに近い若しくはそれ以上の勝ち星を記録するようになった事で、当初の計算
から狂いが生じたのが遠因としてある訳で。
で、リーグ優勝まで逃した事もあって、想定を80勝(130試合制下だと50敗0分で貯金30となる)に引き上げたんだけど、只、デストラーデ
が抜けてからは、森監督就任当初の目標設定73勝をクリアするので精一杯の戦力になってしまった。
近鉄が仰木さんから「あの」鈴木監督に代わっていた事で、それでもリーグ優勝こそ継続出来たけど、あの2年の森さんはシリーズでも
何処か諦めの境地の様に見えたフシも。
勝負を投げ出す感じでは無かったし、又、そんなタイプの人でも無いけど。
何れにしてもそれ以上に勝てる自信があってこその73勝だったり80勝だったりの目標設定な訳だが。 それ以前の中継ぎ抑えは弱かった
西本高山とか。小田なんて永射とカブってるし
工藤や郭が仕方なしに一時的に抑えをやっていたり 森繁和と鹿取潮崎の間はね
1988年のチーム最多セーブが小田5、1989年は山根4とか >>737
鹿取と潮崎が入団しなかったら
当時の状況的に優勝が少なくなっていたかもしれない 88年の終盤に森が先発中3日令を出して
工藤が「無理して投げて肩を壊したら誰も面倒を見てくれない」と言って
問題になってた。
それが今は工藤が監督になってサファテに同じようなことを言われてるという・・・ >>739
ほんこれ。このピンポイント補強は見事だった >>740
怒ったチームメイトを取り纏めたのは石毛だったとか。 >>732
開幕投手の森をいきなり後ろに回したのは驚いた。
開幕戦で7対10で負けて森が自信を失った時にリリーフ通告したというのも思い切った
ものだと思った。さすがに開幕戦だからね。ある種のお祭り試合だから自信も何もないとは
思うけどね。 広岡さんの頃って目立って故障した投手は松沼弟くらいだったな。
まさに管理野球だったんだな。 広岡さんの頃って目立って故障した投手は松沼弟くらいだったな。
まさに管理野球だったんだな。 >>737
鹿取、潮崎が入団する前は抑えが居ないに等しい
88、89年の近鉄との死闘になったのも抑えの差だった
森は抑えを軽んじていたが、負けたことで鹿取のトレードに至った >>745
郭泰源が1年目で故障しただろ
あれ故障したせいで阪神との日本シリーズに投げられずに負けたし、復帰後も急速が落ちたと言われる 鹿取は藤田と水が合わなくてトレード志願したんだっけ トレード相手の西岡も森と反りが合わずにトレード
結果的に双方が得した稀有なトレード しかし、その年不調とはいえ抑えの鹿取を控えの外野手で獲れる層の厚さ
巨人吉村が「西岡さんが控えとは。西武は層が厚いなあ」と。 >>746
東尾、渡辺久、工藤、郭、松沼兄と先発5枚揃っていた事で、若手投手(横田とか森山とか高山とか)を先発の1枚に加えて、
3連戦x2カードを賄う先発完投で通したんだよね。
で、目標勝ち星である73勝(若しくは貯金20)に達しないペースと観たら、先発6人の中から1人抑えに回し、先発5人(不調、
故障等で揃わない際は4人)で回して所謂「勝ちに行く」体制を確立する(>>740はその際に起きた一悶着)というのが潮崎、鹿取
が加わる前のシーズン基本戦略だった。 >>748
水が合わないというより、桑田・槙原・斎藤雅を先発三本柱として徹底した先発完投を打ち出した事で、長年起用されてきた疲れもあって
既に抑えの座を広田に奪われつつあった鹿取の出番が極めて少なくなってきたのが原因。
これで元々登板間隔が空くと調子が狂いがちな傾向がある鹿取が調子を崩してしまい、ますます登板機会が減少してしまった。
又、斎藤に次ぐ期待の先発として香田、宮本、木田(シーズン当初のみ)を抜擢したりする一方、槙原をリリーフに起用したりとの藤田監督
の投手起用もあって、巨人では戦力として全く期待されていないと感じたんだろうね。
それで藤田監督に来シーズン以降について確認した所、今後も起用法は変えないので、もしトレードを希望するなら応じるとの回答だった
ので、ならばとトレードを希望したという経緯。
そんな経緯からか西武入りが決まった直後の西武鹿取としてのインタビューでは、大きな責任感と大きな不安が入り交じったかの様な
えらく硬い表情で、知人にも「西武投手陣は巨人以上かも知れない。そんなチームで使ってもらえるのかどうか・・・」と不安を口にしていた
らしい。 西武は左のサイド左腕とか、左の殺しの代打とか、
普通のチームなら1人のスペシャリストを2人置いていたのが強みだったな。
勝負を2度かけられる。
西岡を使ってもまた広橋が使えるんだから。 鹿取が当時の西武は外野陣が鉄壁だったからツーアウト2塁でも
シングルヒットじゃ帰れないから
もうワンチャンス増えると喜んでたな ゲッツ―でチェンジになるかランナーが残り失点になるか、
例えばこういうプレーに強いチームと弱いチームに
差が出るんだよな。 6 石毛
7 金森
9 田尾
3 スティーブ
DH 大田
5 秋山
2 伊東
8 岡村
4 辻
P 工藤 >>756
85年打線かな?
阪神ファンだけど
シリーズで西武打線は怖くなかった。
でも試合巧者なイメージだったから接戦はきついかなとは思ってたな >>757
1985年に、レギュラーシーズンで2度、日本シリーズで1度ある >>752
その頃の西武も巨人も完投至上主義だったな >>753
>西武は左のサイド左腕とか、左の殺しの代打とか、
>普通のチームなら1人のスペシャリストを2人置いていたのが強みだったな。
左の代打はともかくか左のサイド左腕って永射と小田で、ワンポイント2人は強みでもなく
枠の無駄使いだろ。ワンポイントサイド左腕なんか一人でじゅうぶん。2人も3人も要らない
2人もいるとその分1軍枠どこか無理せざる負えなくなる 逆に考えて、
こういう左のワンポイントが本職のスペシャリストは2人いるけど、回跨ぎやロングリリーフ出来る左腕いないから
その分先発左腕の工藤らに負担が回って後の工藤の発言になるのかな? '80年代の試合後半に出てくる左投手というと、角と石本ぐらいしかもはや思い出せないな >>756
この打線でよく優勝出来たな
スティーブは一発ないし田尾は中日の1番打者だし >>766
オマケにヤクザ・オト松は故障だし泰源・工藤・ナベQがいなかったらBクラスもあり得た。 >>766
1番石毛76打点
3番田尾60打点
4番スティーブ61打点
6番秋山93打点
7番伊東62打点 >>768
一応北村・佐野・平田・木戸よりかは全員打点は上回っているのね。 >>766
広岡さんは岡村の所に外人を入れたかったのですがそこで根本さんと対立したのですね。
中軸はつなぎ役でその外に大砲を置くとはまさに現代のメジャー野球を当時から実践していた
のですから驚きです。 1980年のアマチュア主体のIBAFワールドカップが日本で開催されたんだけど
その時の岡村が大活躍で、正直西武が2位で指名た時に、
かなり活躍するだろうなあと思ったんだけどね
やはりプロは甘くないよね
その時のメンバーが当時ドラフト前、このまんまプロ球団になってもそこそこ行くんじゃないか?ってメンバーだった
捕手中尾孝義1塁駒崎幸一2塁金森栄治三塁原辰徳遊撃石毛宏典そしてライトに岡村が入り、
毎試合TV中継されててそこそこ視聴率高かったはず。 >>771
駒崎は1980年のワールドカップには出ていないと思う
一塁は武居、二塁には中屋が入っていたんじゃないかな
金森は外野ね 岡村ってアマチュアレベルって言葉もヌルいくらい守備が下手だったやつだろ?
よく西武があれを指名したもんだわ >>772
あ〜そうでしたっけ?
すいません記憶があやふやで。
前年の日米大学野球はサードが原でショートが岡田。
当時は完全にアマチュアは打高投低。
打撃練習もアメリカ勢より原岡田中心の日本勢の方がスタンドに放り込む
当時解説者が試合前だかに「初めてじゃないですか?アメリカより日本の方がパワーが上って」と。
というか、今現在も含めてあの時だけかもw >>766 >>768
この打線でも独走優勝だから野球は投手だと思い知らされる >772
駒村じゃなくて駒崎か
岡村てヤクルトの荒井とかとだぶるな
アマチュアの時物凄い選手だったという
実際見ると短足でどこが凄いんだろうと言う
同じチビ短足でも金森とかガッツプレーの奴は目立つし
プロでもやる印象があったな
あと勝ち運ぷりをアマチュアから発揮した伊東昭光と上原浩治も
実力はしょぼいんだけど勝ち運がな 上原なんか岩田よりしょぼい投手だったのに >>776
ただしあまりに打てないと投手陣がよくても優勝できないこともよくある
99と00の西武がそうだった >>756
金森が立花より優遇されたのがわからん
立花は長打もあったのに
金森の貪欲さや努力家なところが広岡に評価されたのかな 1984年
立花 263打席239打数54安打15二塁打2三塁打3本塁打17四球1死球 打率.226出塁率.280長打率.343
金森 181打席148打数37安打9二塁打0三塁打2本塁打15四球12死球 打率.250出塁率.366長打率.351
死球力の差、ですかねぇ >>780
出塁率も長打率も金森なんだね
そりゃ金森を使うな 外野手の基準が秋山になったからな。それまでのライオンズ歴代生え抜き外野陣は高倉・玉造・竹之内・大田・立花等という決して豪華とは言えない面子だったから金森クラスでもまだ有難がられたけど。 金森って自身がコーチになってからの指導がそうだったように飛ぶボール前提の打ち方なんじゃないの。
だから80年代後半からラビット使われなくなって干されたかと。
立花も金森も阪神行ったけど立花は金森よりもっとダメだったな・・・ >>783
秋山が外野にコンバートって87年からか?
トレードで吉竹を補強して外野の守備陣を鉄壁にしたのは87年からか >>768
数字だけ見てると素直に3番石毛4番秋山にしろよとしか思えないがこれでちゃんと機能してたんだよなぁ… >>786
中日から平野も取ったしな
秋山や平野の外野とか鉄壁だよな
強い巨人でも外野は松本クロマティ吉村と
ザルの外野だったからな ホームラン数も
秋山 40本
石毛 29本
田尾 13本
スティーブ 11本
とクリーンアップより打っている
(というかクリーンアップが酷すぎ) 秋山はサードをやってた時もちょいちょい外野を守ってたよな? >789
阪神が急凋落したせいで
脆さを抱える巨人ばかり日本シリーズに遣ることになった >783
85の吉田もセンターラインと当時から口酸っぱく言っていた
木戸-平田-北村(弘田)と西武に劣らずよかったと思う
北村の美技は心に残っている >>791
秋山が外野以外での出場がある年の各ポジションの試合数
81 三**3
84 三*27 外*33 指1
85 三116 外*22 指2
86 三108 外*56
89 外124 指**2
90 外130 三**3 東尾って事ある度にトレード候補にあがってたけど結局はライオンズで生涯を全うしたな。 98年の横浜との日本シリーズが85年の時と似ていてやりにくかったって東尾が言ってたな。
滅多に優勝できないチームだから異様に盛り上がるからね。
でもそれ考えたら今の広島はそういう勢いに乗れなくてちょっとだらしないのかもねw 85の阪神は守備の部分もしっかりしていた
木戸平田弘田北村と打だけでない部分もしっかりしていた
岡田も美技を見せバースも見せた
一方の西武は秋山を始め、粗さがあった
辻や伊東や秋山は守備でも阪神に勝てなかった 阪神の
木戸平田弘田北村には
西武の伊東辻秋山石毛にはない
オーソドックスな部分があった
大杉の大ファールや阪急など
昭和の野球の部分を摘んでいる
平成寄りの若者は若さゆえにビュンビュン飛び回る落ち着きのない
心性になった
清原もその代表だと思う 阪神の外野手は新庄の前も
弘田、北村、吉竹と上手い選手いたな
打撃は弘田以外はイマイチな印象だが >>796
あの時の横浜ファンは第三戦のボロ負けすら沢山の投手がマウンドに立てて「シリーズ登板おめでとう」みたいな感じで喜んでたもんな
西武のデニー登板すら嬉しがって拍手してたし、何というか色んな意味で相手が悪かった まあ98の横浜は2015ヤクルトと並ぶ最弱優勝チームだったしな
負けるのはしゃーない
巨人や中日が来ても負けてたわ ただ98年の横浜の打線は途切れないんだよな
2013年の楽天打線に似てる
どっちも長距離打者は少ないけど安打を積み重ねる 85年の西武は黄金期メンバーの基礎が出来た年
秋山、辻、工藤、ナベQなどの新戦力がレギュラー定着しての初優勝
この年の優勝があったからこそ森の長期政権に至った重要な年だった 84年は3位ながらも1年で理想の世代交代ができた広岡監督生活で一番の会心のシーズン >>804
広岡的にはそうなんだろうけど、
優勝争いに一度も絡めずやっとのことでAクラス確保という体たらく
ベテランは急速に衰えて、新戦力は期待はずれ
のちのち振り返ればこの年の世代交代が大きかったのがわかるんだど、若手の伸びしろも不透明だった当時はファンとしては暗澹たる気持ちだった 阪急ロッテに打ち負けてカモられた割に打者の補強はせずに、
打線で計算が立つのがスティーブと石毛だけで立ち向かおうとしてたからな
(大田と片平は終わった人扱いしてた)
だから年が明けて1/24(だったか)に田尾の移籍が決まったときは
ようやく打線の体裁が整ったとホッとした。
田尾はご存じの通り成績はたいしたことなかったけど、通年で3番を打ってくれたことと
5月までは3割打って独走態勢の立役者になってくれた。 まだ秋山もブレイクする前だったし、実績と名前のある田尾をクリーンアップに置けたのは大きかったね
お陰で秋山をシーズン通して6番で使えて大ブレイクに繋がった
(2008年におかわりを6番に置いたのとダブルな) 田尾パイパイがクビになった理由の一つに
エンドランのサインが出てた打席で
「狙ってた球と違った」
って理由で見逃し三振した、ってのがあるらしが、仮に事実でなかったとしてもさもありなんと思わせるものがある 田尾は天才肌だが、その一方でデータを徹底的に収集して決め打ちする打者だったらしい。
だからリーグが変わったのはつらかったようだ。
今だったら交流戦が苦手な打者になりそう。 中日時代の田尾は首位打者争いの常連だったのに、西武では全然ダメだったなあ
中日時代は大洋の長崎と首位打者争いで、大洋が全打席敬遠して問題になったな。
中日の最終戦で勝つか引き分けで中日の優勝、大洋が勝てば巨人の優勝となる決戦で、大洋は田尾を全打席敬遠。それが得点に繋がり中日が勝って優勝した。
大洋の敬遠策に読売ヲタが発狂したw >>812
ごめん98西武が史上最弱チームと言いたかった
横浜は普通に強かったわな >>804>>805
堤さんに3連覇しなくてもいいよと言って貰ったのが広岡さんも気が楽になったかもね。 一方で3連覇して翌年優勝を逃した森さんにはやりたければどうぞの辛らつな言葉を放った。
何でだろうね。
堤さんは東尾監督にも勝たなくてもいいよといって気を配ったのに。 人工芝だったので疲れが出たのかなとも田尾は。
阪神の甲子園では峠を過ぎながらも元気だったからね。 84年はロッテが二位に躍進した。
しかしあの稲生監督のいい加減な采配でよく好成績が残せたなとも。西武にも強かったな。
落合の監督は寝とけというのは本当なのかもw >>817
>やりたければどうぞ
>勝たなくてもいいよ
いや、堤は森だろうが東尾、広岡だろうが
監督にたいしてこういうスタンスだったと思うよ >>819
85年もロッテは2位だったよ
といっても、85年は西武の独走で2位以下は団子状態だったけど
当時は近鉄が世代交代で弱く、前年優勝の阪急がコケた 西武に残ってくれないででていく選手が多い本当の理由は。
真夏の西武ドームが灼熱地獄で不快だから。 >>814
この時のパリーグそのものが大混戦で
18連敗して最下位になったロッテも勝率思ったほど低くないからな 今のように143試合あったら、前半低迷していたオリックスが優勝して、18連敗ロッテがAクラスになってたかも。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています