「重圧」

「凄い表現ですよね、A級戦犯って」と引退後の清原和博は12年前の巨人移籍年度を振り返った。96年オフに西武からFAで巨人に移籍
した新天地でのシーズンは、重圧に苦しみ続けて不振にあえいだ。開幕3連戦で毎試合安打、3戦目には移籍第1号を打った清原だったが、
開幕カードの対戦相手ヤクルトが見せた配球を他球団が参考にしたのか打てなくなり、第2号本塁打もチーム16試合目まで出なかった。
5月に入っても2割強の打率を推移し続けた清原だが、5月21日のチーム36試合目に早くも五番降格となった。広沢克が3割を打っていた
事、最下位に沈み借金7に増えた名門球団という背景も長嶋茂雄監督の決断を急がせた。

5月以降最下位を走り続けるチームに倣うように清原の成績も低迷した。四番の座も清原と広沢、同じく移籍の石井浩郎の3人が状況に
応じて座った。7月には殆ど六番を打つほどで、前半戦は.218の打率に15本塁打、47打点の低空飛行だった。
それでもファン選出により12年連続出場となった球宴では1試合2本塁打でMVPを獲得したが、後半戦はコンスタントに本塁打を放ち
最終的に32本塁打95打点、打率も.249までは引き上げて移籍初年度を終えた。
球宴の活躍が呼び水となって、セ・リーグの投手に慣れてきた面もあったが、球宴といい常にBクラスだったチーム環境といい重圧のさほど
かからない状況でなら打てるという裏付けにもなってしまったのも否めなかった。2ストライク後の打率が.164と極端に低く、強かった
得点圏でも.250と平凡で、中でも三塁に走者を置いた場面では.204と振るわなかった。

FA交渉の場では巨人側の条件と態度に違和感を抱き阪神入団に傾きつつあったものの、夢を捨てきれず長嶋の直接交渉で巨人入りを
決めたほど巨人そして長嶋には強い憧憬を持っていた筈だった。しかし中に入ると、練習の量と内容、野球の質について「これでいいのかと
衝撃を受けた。西武での11年間とはまるで違った」と考えていた。
シーズン中には応援ボイコットも味わいリーグワースト新記録の152三振、清原自身「地獄を見た」と言わしめた重圧の一年、前年優勝に
導きながら「清原と競り合って勝つ自信はある。だけどどちらを使うかで悩む長嶋さんの顔を見たくない」と言って飛び出した落合博満の
言葉を跳ね返す事は出来なかった。 (了)