>>54
ただチーム最多勝が中村稔の17勝で、セ6球団で唯一の20勝投手不在と
(ちなみに稲尾42勝権藤35勝の年である)、絶対的な柱が欠けていたのは
事実。
61年シーズンは9月に緊急補強で関大を中退して入団した村瀬広基が1ヶ月間に
5連勝を果たして中日、国鉄との争いを逃げ切ったけど、翌62年はキャンプ中
から故障を訴えていて大きな期待が出来ない状態だった。
(結局シーズン2勝と使い物にならなくなっていた。)

又、エース不在を解消すべく、社会人ナンバーワン投手城之内邦雄投手と高校野球
夏春連覇に大きく貢献した柴田勲投手を入団させており、社会人・高校の両大型新人も含め横一線での競争として「オープン戦で調子が良かった投手を使う」との方針を打
ち出した、つうか打ち出さざるを得なかったのが実際の所かと。