1961〜1974 川上監督時代の読売ジャイアンツ [無断転載禁止]©2ch.net
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>>35
15歳と25歳はどエライ違いだが、歳を重ねていくに連れさしたる差ではなくなる。
19歳の頃小学生だった知り合いとこないだ会ったら35歳のおっさんになってた。こっちが劣化してなかったらどっちが年上か分からない。 実はBクラス経験あるよね
64も貯金わずか2だし
今と比べられないくらい上3つが安定してた時代によくクビにならなかったもんだ その年、ONの前後があまりに打てなさ過ぎた。
業を煮やした川上は外人獲得を打診した。
上層部に反対されて実現しなかったが。 >>37
1軍コーチ 木戸
2軍コーチ 町田、鈴木
投手 田尻、松尾、新井、峰
捕手 杉山、魚、淡河、所
内野 大北、大竹、庄司
など >>43
で、63年の開幕戦は前年優勝の阪神と甲子園。
初戦こそ小山正明に敗れたが、2戦目から何と13連勝!早々に独走態勢に入ったが終盤はヨレヨレだったらしい。 60〜64は大洋が隔年で強かったからね
62、64をとってたら今みたいな負けるのが当たり前のダメチームに
なってなかったかも 監督に就任したころは、打線が本当に弱かった。
まともに打てるのは、長嶋だけだった。
だから、チームプレーを重視する緻密な野球をするしかなかったのだろう。
水原時代のような、千葉・宇野・平井・青田・与那嶺・南村といった
打てる選手が何人もいるチームだったら、川上野球はもっと違ったものに
なっていたと思われる。 >>43
62年オフにはクビになりそうになっただろ 当時の、優勝逃しただけで進退が問われる巨人にあってはクビでも
おかしくないわな。
もっとも最近でも原はV逸即クビになってるけど。 投手陣が過渡期だったので戦力的に乏しかったよ
61年は日本一だけどシーズン中に干されていた堀本が日シリ第2戦、4戦、6戦に
先発するほどだった 翌62年は開幕投手が新人の城之内で2戦目も新人の柴田(法政二)
確固たる柱がいなかった 62年も順当にシーズン勝ち進んでいたら、王の覚醒もなかったかもな。 >>52
また妄想か。
開幕から新人を起用したのはこの年はオープン戦で成績がよかった投手から使うという、
別所コーチの方針だったからだけ。 >>54
ただチーム最多勝が中村稔の17勝で、セ6球団で唯一の20勝投手不在と
(ちなみに稲尾42勝権藤35勝の年である)、絶対的な柱が欠けていたのは
事実。
61年シーズンは9月に緊急補強で関大を中退して入団した村瀬広基が1ヶ月間に
5連勝を果たして中日、国鉄との争いを逃げ切ったけど、翌62年はキャンプ中
から故障を訴えていて大きな期待が出来ない状態だった。
(結局シーズン2勝と使い物にならなくなっていた。)
又、エース不在を解消すべく、社会人ナンバーワン投手城之内邦雄投手と高校野球
夏春連覇に大きく貢献した柴田勲投手を入団させており、社会人・高校の両大型新人も含め横一線での競争として「オープン戦で調子が良かった投手を使う」との方針を打
ち出した、つうか打ち出さざるを得なかったのが実際の所かと。 ちなみに大学ナンバーワン投手として日大の日本一に貢献した宮田征典投手が
入団したのも、この1962年。
只、高校の頃から病気がちでスタミナ不足なのを巨人側は既に入団前から認識
していた様で、他に狙っていた日大選手を中日が獲得した事に依る穴埋め的な
入団で、結局、開幕一軍からも漏れて二軍からのスタートとなったけど。 >>55
自分が知らなかった情報に乗っからなくていいから 当時阪神コーチだった青田昇が
べーやんはカッコつけたがる所があるから
開幕に新人2人を持ってきてしまったと語ってたな >>57
知ってたけど、絶対的エースの不在が別所のその方針に大きく影響を与えたかも?
と補足しただけだぬ。
又、当時は必ずしもエースが開幕投手という訳では無く、二線級や新人が開幕投手
というのも、そう珍しい事では無かった事も承知の上。 61年は中日優勝なら面白かったと思って
プロ野球記録見たら優勝決まってから連敗して1ゲーム差になっただけみたいだな
権藤大車輪の年ね 川上時代か長島時代か忘れたが小林が投げてる時に全裸男が乱入したことあったっけ。 >>61
それが無いんだよなぁ
見たこと無い
1973日本シリーズで倉田が打ち込まれたら登板機会があった筈です(南海の本拠地?)
ブルペンで新浦と小林が投球練習してますと…
ブルペン一瞬でも映して欲しかったが映像なし
1971日本シリーズ優勝決定直後、堀内の隣に背番号40の新浦寿夫(21歳)が映っていました
V9日本シリーズ登坂0
敗戦処理すら無かった
1973春キャンプ△川上監督は新浦に期待してたコメント残してた 73年のシリーズは堀内、高橋一三、倉田の3人しか登板していない。
74年のシーズンでは7勝くらいしていたはず。 今だとどういうチーム形態なんだろ
日ハムかソフトバンクが近い気はするんだが ハムかな。打線はONだけ傑出(レアードはいないか)、脇役は足の柴田=西川で後は数字は残せないけどしぶとい曲者揃い。
投手陣もそれほどびっくりするレベルはいなかった。村山江夏の阪神の方が上だったはず。 監督に就任した当初は、こんなに長期政権になると予想できただろうか?
チームは不安定だったし、昭和37年の別所事件はかなり痛かった。 >>69
読売テレビの佐藤忠功アナってGファンにも遠慮していたのか、全然嫌味の無い実況だった。V9の試合とか。 自分が生まれる前だからアレだけど、68年のONの成績凄過ぎるな。 >>70
初年度に優勝逃していたら、首斬られていた。
それくらい評判最悪だったらしい 監督就任1年目の昭和36年は、長嶋だけが突出して打ったが、優勝したのが
不思議なくらいの貧打線だった
一方、球史に残る日本シリーズになったのもこの年だった 川上巨人リアルタイムで見たかった
もっと早く産まれたかったな V9の前半をリアルで見ることができた人はラッキーだと思う
王・長嶋をバックに金田が投げているのを見ることができた
試合終盤で「代打金田」が決勝打を打って、そのままリリーフで出て
くる華やかな場面を見ることもできた >>77
そんなの60過ぎのじいさんだろ。あと巨人時代の金田でそんな場面はない。
昭和42年に代打ホームランはあったが、その後投げてはいないから。
国鉄時代は知らん。 監督して最高の成績を達成したのに
アンチ派が多いのは気の毒だ。 火曜か水曜にBS1でやってた川上哲治の特集で、72年日本シリーズ第4戦9回裏の阪急のバスターを堀内−森のバッテリー、土井−黒江の2遊間が完全に読み切って阻止したのには震えたな。
これに匹敵するのは江夏のスクイズ外ししか無い。 V9時代の中でもっとも強かったのはどの年だろうか
長嶋が不振でも関係なく独走した67年か? >>77
川上巨人時代の「代打金田」は通算27回
後楽園での代打打率4割1分7厘というのはすごい 川上巨人より、川上・青田・与那嶺・千葉・宇野・南村などの打線、
別所・藤本・大友・中尾などの投手を擁した水原巨人のほうが強いと感じる
それでも、川上巨人のほうが優勝回数が多いのはなぜなのか? 水原時代は南海や西鉄も強かったからな
ドラフトが始まってから1球団が大々的に補強することができなくなった 昔は各チーム外人獲得のノウハウがなかったから、あまり良い助っ人が入らなかった。
もし今みたく毎年のようにどこかしらに優良外人が加入する時代だったら、巨人との
戦力差も埋まりここまで連続優勝できなかったろうし、ONがあんなにタイトルを獲る
こともなかったろう。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
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Q6FVQ 小学校入る前だったんで、まるで見てないが、野球興味あったら昭和48年のペナントレース燃えたと思う。
あのネ申展開知ったのはアニメの「侍ジャイアンツ」見て。
分身魔球デビューの阪神戦10−10の死闘、129試合目の中日×阪神(アニメでは大砲サヨナラホームラン)、
130試合目の決戦。史実に忠実だった。
昭和49年もあと少しで2年連続ネ申展開だったな。見てないけど。 73年巨人は田淵に何と16本もホームラン打たれてた。最終的に32本だったかな。田淵のホームラン数が延びなかったのは
夏場田淵は「腹痛」で何試合か欠場していた。
中日には全く勝てず、7月15日も後楽園で敗れて3勝13敗で7.5差の3位か4位。これが当時のセの逆転優勝の最大ゲーム差
だった。
翌7月16日は0−0の投手戦から、長嶋が2000試合出場を飾るサヨナラ2ランを巨人キラー稲葉から放つ。これが大逆転V9
の狼煙となった。8月31日、ついに首位復帰!ここから52日間阪神、中日とのデッドヒートが続いた。
広岡『それ程度の逸れ球なら、しっかり捕って下さいよ、、、』
川上『・・・・・』
阪神の復刻ユニで何故かまだこの時代のが無い。
敵として怖くてしつこかったイメージ。来年やるんならぜひ! >>92
チャンスは与えてもらったが結果を出せなかった。
特に0勝に終わった72年や第2節の広島戦で2年ぶり勝利投手になったものの、その後は尻窄み状態では。 V9前の巨人軍主選手で健在はON、森、黒江、国松、柴田、伊藤、エンディくらいか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています