広島の暗黒期を振り返る [無断転載禁止]©2ch.net
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>>200
亀レスだが名球会云々の話題に万年二軍の朝山が出てきている時点でおかしいと思うんだがw >>241
平成4、5年のドラフトがひどかったな。
それなりに活躍したのは菊地原くらいで、その他に一軍で試合に出ている姿を見たことあるのは
山本昌のコピーだと言われた田中と捕手の吉本くらいだ。 福地を一軍で見たことないってアンタ本当に広島ファン? >>239
80年代までは広島がそこまで貧乏だったイメージはなかとたけど
(むしろ選手の総年俸では上位だったはず)
単にケチだっただけなのか それもしかしてMr.ペニスケースことオコエさんのことディスってんの? >>239
15年ぐらい前の近鉄のキャンプの昼食がうどんとか
10年ぐらい前の阪神のキャンプの昼食がうどんとおにぎりの食べ放題とか
結構最近まで似たようなことをやってる球団があったらしいぞ >>242
前は指導者は昔の考えにとらわれてるOBばかりだったから
他所の考えとか入って刺激になると喜んだよ >>238
シュールて日ハムで確か抑えだったしおかしくないんじゃないかな ****3212352102145
2ちゃんねる https://www.2ch.net/ google https://www.google.co.jp/#spf=1 yahoo http://www.yahoo.co.jp/
警備.岡山.評判.株式会社.セフティ.クチコミ.ブラック.indeed.求人.給料.事件.行政処分.柔道部.窃盗.逮捕.
僕は道を歩いていて、ときどきクスッと笑うことがある。
「ああ、自分は行政処分の警備会社:山陽セフテのビインなんだ...」
と思うと、嬉しさがこみ上げてくる。
誰でも採用...落ちた者がいないという激烈な入社試験を突破して8ヶ月。山陽セフテに入社したときのあの喜びがいまだに続いている。
「岡山で行政処分を受けた唯一の警備会社:山陽セフテ...」
その言葉を聞くと、僕は自然と身が引き締まります。
ウカンムリで逮捕された先輩方に恥じない自分であっただろうか...
しかし、マエモノの先輩方は僕に語りかけます。
「いいかい?行政処分というのは我々山陽セフテのビインが絶対もらしてはいけないものなのだよ!」と。
僕は感動に打ち震えます。
「山陽セフテが何を犯したかを問うてはならない。君が山陽セフテに何をなしうるかを問いたまえ!」
僕は使命感に胸が熱くなり、武者震いを禁じえませんでした。
でもそれは岡山の治安をになう最底辺のエリートである僕たちを鍛えるための天の配剤なのでしょう。
山陽セフテを作りあげてきたマエモノの先輩をはじめ先達の深い知恵なのでしょう。
山陽セフテに入社することにより、僕たち山陽セフテのビインは行政処分隠蔽の伝統を日々紡いでゆくのです。
嗚呼...なんてすばらしき山陽セフテ ビイン魂哉。
知名度は全国的。人気、実力すべてにおいて並びなき王者。素晴らしい実績。余計な説明は一切いらない。
「お勤め先は?」と聞かれれば、「山陽セフテです。」の一言で失笑と軽蔑の眼差し。
合コンのたびに味わう圧倒的な劣等感・背徳感 そして言いようのない敗北感...
「山陽セフテ」ブランドのすさまじき威力。
山陽セフテに入社して本当によかった。
末はマメドロボウでしょうか? >>1
プロジェクトX 挑戦者たち
史上最大の集金作戦
広島カープ市民とナインの熱い日
危機迫る 球団解散 鯉登れ
日本で唯一の"市民球団"として、1950(昭和25)年に誕生した広島カープ。
原爆で深い傷を負った広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。
しかし1年目のシーズン終了後の3月、資金難から、カープの解散が発表された。
「復興への希望の灯を消すな!」
――困難を乗り越え、市民球団・広島カープの存続に至った感動のドラマを追う。
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h21036AA
http://www.dmm.com/rental/-/detail/=/cid=n_636nsdr21048r/
なぜ暗黒時代でもカープは愛され続けてきたのか?
なぜFAで人を獲らず、自前で選手を育成していく方針なのか?
なぜ鳴り物応援は広島からスタートしたのか?
なぜ黒田や新井が広島に帰って来ようと思ったのか?
このDVDを見たら、すべてが分かります。 草創期の広島カープの話。
遠征で中日と宿舎が同じになった事があって、晩飯の時、
中日選手の部屋にトンカツが運ばれてるのを見た広島の選手が、
「おい、今晩はトンカツじゃ」等と喜んでいたら、広島の選手の部屋には、
メザシとたくあんが運ばれてきて、選手一同唖然としたらしい。
しかも、おかわり無し。中日の選手はおかわり自由の食べ放題。
予算の関係であるが、長谷川良平は中日の待遇を羨ましく思った。
この事が後に大事件に発展する長谷川移籍問題の発端と成る訳だ。 広島の草創期の話
甲子園球場での試合を明日に控えた、広島駅。
遠征に向かうカープの選手達は、球団関係者からとんでもない言葉を聞いた。
「実は、遠征費が無いんじゃ」
凍り付く選手達。回りに居たのは、沢山の熱狂的なカープファン。
ファンの中から声が上がった。「おい、みんな金を出そうや」
しかし、戦後の貧しい時代。金を募っても選手達を送り出してやれる金額を集まらなかった。
ファンも喰うや喰わずの生活、なけなしの中から金を捻出したのだ。
騒めく駅構内、そんな時、カープの選手から声が上がった。
「わしらは金は無いが、足がある。なにより、応援してくれるファンがおる。
なぁ、みんな、甲子園まで歩いて行こうじゃないか。明日の試合までには、着くじゃろう」
「おう、歩いて行こうや」と選手一同から声が返った。選手達の目には涙が溢れていた。
結局、この話を聞いた地元企業の社長から遠征費が拠出され、
選手達が歩いて行く事は無かったが、当時の広島カープの話である。 広島の草創期の話。
広島に球団を創ろう。の合い言葉で発足したのが、広島カープ。
原爆で廃墟となったはがりか、肉親まで失われた広島市民にとって、
明るい話題と云えば、カープの存在が唯一の希望だった。
しかし、親会社を持たぬ貧乏球団。存続の危機がやってきた。理由は「金が無い・・・」
球団の運営が困難な為、大洋球団との合併話が持ち上がったのだ。
そんな中、広島市中心部のとある料亭で、広島球団と石本秀一監督の話し合いが行なわれていた。
石本が球団幹部から聞かされたのは、大洋との合併は決定事項である。と、
そんな時、料亭周辺が騒がしくなった。
球団存続の話が行なわれている事を知ったファンが取り囲んでいたのだ。
「わしらのカープを無くさんでくれえ」「カープは、わしらの宝じゃ」等の声が響き渡った。
石本は言った「わしに全てを任せてもらえんじゃろか」
球団幹部は首を縦に振るしかなかった。そして、新聞記者の経験もあった、石本は
自ら原稿を書き上げ広島県庁前で演説を行う。伝説の樽募金が誕生した瞬間である。
この樽募金と後援会組織による金集めで、広島球団は存続する運びと成る。 プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく
史上最大の集金作戦 - 広島カープ市民とナインの熱い日々
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0006875
広島カープ。県や市が出資する日本で唯一の“市民球団”として、昭和25年に誕生した。
原爆で深い傷を受けた広島にとっては、復興への大きな希望の星だった。
初代監督を引き受けたのは、石本秀一(52)。広島商業を3度の全国制覇に導き、
その後タイガースの監督も務めた、野球の鬼だった。両親と兄弟を原爆で失った石本は、
故郷復興へに役立ちたいと、広島に駆けつけた。
しかし大企業の後ろ盾がない球団は深刻な資金不足だった。有名選手を集められなかった。
石本は、高卒の新人や、喫茶店のマスターをしていた元プロ野球選手までかき集めた。
合宿所の窓は閉まらず、雨が吹き込んだ。遠征の時は3等列車の床で寝た。
シーズンが終了してみれば圧倒的な最下位 だった。
そして、結成翌年の3月、資金難から、カープの解散が発表された。石本と選手たちは唖然とした。
その時、立ち上がったのが広島の市民たちだった。路面電車の運転手、坂田政利(23)は私設応援団を結成。
球場の前で一人一人に募金を呼びかけた。
「復興への希望の灯を消すな!」。それを合い言葉に、全市民を巻き込んだ募金作戦が展開されていく。
それは想像を超えた壮絶なものとなっていった・・・。
“市民球団”広島カープが、存続の危機を乗り越えていく感動のドラマを描く。 ・・・こちら変わって広島カープ。年が明けた昭和26年早々、重大事件が勃発していた。
セ・リーグ内に、「広島カープを解散させるべし」との案が具体化しつつあった事だ。
その根拠は、カープは給料を遅配し定期的支給を怠っているが、これはセ・リーグ加盟球団として恥になること。
また、25年度ビリであったが26年度も強化の実が上がっておらず、再びビリが決定的であり、
セ・リーグのお荷物になること、であった。
その最終的決定を協議するセ・リーグ理事会は、26年3月16日、甲子園球場で開かれることになった。
16日から三日間行われる 「大阪優勝大会」の初日の試合が終了した時点で、一気に可決してしまおうとしたのである。
勿論広島カープもこの準公式試合に参加する予定であった。解散か、大洋への吸収合併か、
を目前にして何ら手を打たないほどカープは無能ではなかった。
広島カープ危機一髪・・・あらゆる手段を講じ、出来るだけの手を打っていた。
例えば、広島専売公社への売り込み、某ビール会社への打診、某ウィスキー会社への嘆願等々。が、全て失敗に終わった。
こうして万策尽き、途方に暮れていた折りもおり、3月13日、NHKの広島放送局即ちJOFKが、
−−カープ解散か?と正午のニュースに流したからえらい事になった。
JOFKのニュースを聞いたカープ合宿では、緊急選手会が開かれた。皆実町の御幸荘アパートの合宿は、せきとして声もなかった。
「今のラジオを聞いたか。皆んなの遠慮のない意見を聞かせてくれ」ようやく監督石本秀一がこれだけ言った。選手達は答えなかった。
答えられなかった。給料の遅配にもめげず、一年間頑張り抜いてきた選手達であった。
質屋通いをしてどうやらその日、その日を過ごしてきた健気な若者達であった。
しかし、もう甲子園大会に出場するための汽車賃を捻出することさえ不可能であった。
「リュックサックにバットとグラブとユニフォームを入れて歩いていこう。広島から大阪まで歩いていけん事もなかろうが」
悲壮な決議を前夜、満場一致で可決したばかりであった。歩き疲れ、睡眠も不足とあっては、甲子園までたどり着いたとしても、
果たして試合ができるのだろうか・・・そんなことは誰も考えなかった。カープの選手は全員ただ野球がしたかったのである。
しかし、その決心もJOFKのニュースを聞くに及んで、事態はそこまで行っているのかと落胆し、全員が虚脱状態に陥った。 同じ頃、バットを手に手に持った”8人の侍”が市内を走り回っていた。
その道順は県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社であった。
バットを持った壮漢の侵入に、県庁の受付は「すわ暴漢」と一瞬色めき立ったがバットには”必勝広島カープ”と墨痕鮮やかに記されており一安心
総務部長河野義信に面会の手続きをとったものである。
当世流に言えば、カープを愛する市民運動とも解釈される”8人の侍”の善意の行動であった。訪問先で話すことは同じであった。
「今のニュースを聞かれましたか。貴方の熱意不足で、我々が愛するカープが危機に瀕しています。早急に支援の手を差し伸べて下さい」
最後の中国新聞社を訪れた際には、興奮その極みに達し「早急に援助しないようなら活字ケースをひっくり返して見せますぞ」
と迫った。新聞社側は大いに驚いたが、同時に「カープは市民にそこまで愛されているのか」と感激した。
直ちにその夜、広島商工会議所でカープ発起人緊急会議が開かれ
短時間で次の5項目を可決した。
−広島カープ解散反対
−広島カープの合併反対
−広島カープを県民の手で存続させる
−広島カープを甲子園に送る
−カープ代表をセ・リーグ理事会に派遣
惜しまれるのは、カープ存続の影の原動力になった”8人の侍”の氏名が判らない事である。訪問を受けた県も市も新聞社も、
驚きと感激のあまり訪問者の名前を控えておくことを失念してしまったのである。いずれも、市内の商店主や勤め人であった、
ということしか判っていない。カープの選手達が、甲子園大会に出場すべく出発した。天国と地獄の差を選手達は味わった。
「こんな嬉しいことは生涯味わえない」
さもありなん、旅費が無いためリュックを背負って、広島から大阪まで何十時間かかるかも判らぬまま徒歩旅行を決行しようと
していた矢先、列車に乗れようとは。 広島駅を出発しない前に、早くも選手達は天国を見た。
どうして出発の時刻を知っていたのだろうか。見送りの市民で駅は埋まっていたのである。
列車に乗り込むと、窓から陣中見舞いの金一封、菓子、果物が差し入れられた。
発車のベル。その時、人垣をかき分けて一人の老婆が、助監督白石勝巳の手に小さい紙包みを押し込んだ。
「白石さん、汽車賃も無い聞いて心配しとったのに・・・よかったのう、よかったのう・・・これはわしのほんの気持ちじゃが、
笑わんでとってくんさい ・・・」
半身を窓から乗り出して白石はその包みを受け取った。
「何かしらんが、有り難く貰っておくけんのう」
列車が走り始めた。白石は小さな包みを開けてみた。
大きい握り飯が三個、それに梅干しが三つ添えてあった。白石は、列車が岡山駅に着くまで涙が止まらなかった・・・ 西日本パイレーツが西鉄ライオンズと合併吸収して
セ・リーグ7球団となった1951年は日程が組みにくく
(球団合併話が出たのもそのせい)
他球団は110試合ぐらい消化したのに対して
カープは99試合しかさせてもらえず2年連続の最下位。
しかも給料遅配等資金の問題が云々されたのに
当時の金で110万円の黒字を出して
「球界の七不思議」と言われた。
ちなみに巨人は長嶋がデビューした1958年、
阪神は1975年にようやく球団単体で黒字化した。 あとは電車賃出してもらって出たトーナメントで
阪神が優勝賞金2万円をカープに贈った話も これも広島の話。
故森永勝也が広島カープと契約した。当時としては破格の契約金は1000万円。
森永は意気揚揚と広島に入団したが、肝心の契約金が振込まれない。
それどころか月給で支払われる筈の年俸も遅延していた。
なんとか、社会人時代の貯金で、日々の生活をしのいでいたが、ある日意を決して、
球団に尋ねた。「あのぉー僕の契約金と給料の話なんですが」
「ああ、契約金?。あの話なんじゃが、分割払いでどうじゃろか?」
森永は、契約金の分割払いなんて聞いた事が無い。と思ったが、
球団から「その代わり給料は、ちゃんと支払うけえ」と言われ納得したと云う。
結局、契約金は全額支払われる事は無かったとの話である。
これが切っ掛けで、後に森永は巨人に移籍する。 広島の草創期の話。
球団運営の為、金策に奔走する石本秀一監督。
監督でありなから、試合の采配は白石選手に任せていた。
石本は、球場の無賃観戦対策や金集めに追われていた。
石本は、球団存続の為には何でもやった。
試合後、疲れている長谷川ら主力選手を連れて広島各地の公民館等を回り、
金集めをした。選手には歌を歌わせ、芸のある者には芸をさせて、場を盛り上げさせた。
選手の中には、俺達は野球をやる為に広島に来たのに、
何で芸人みたいな真似をしなきゃならないのか?。と批判もあったらしいが、
カープファンの暖かい声援、なけなしの金を寄付する人々を見ると
自然と不満は消えていった。長谷川は云う
「自分らも、食うや食わんと云う生活をしとるのに、わしらの為にお金を下さる。
こんなに有り難い事は無いです。この金は一円足りとも無駄に出来なんのんです」 これまた広島の草創期の話。
戦後の貧しい時代、野球選手に成れば飯が腹一杯食える。
その思いで、広島の選手に成った。しかし、当時の広島球団は資金難。
野球選手としての技術も乏しい選手も多かった。まるで草野球。
そんなレベルにも係わらずファンは集まった。
ファンは集まるが、親会社を持たない広島球団は運営費用等で慢性的に金が無い。
満足に飯も食えない、遠征も他チームに比べて貧相。
一部の選手からは当然、不満が出る。
選手の士気が下がっていた頃、県営球場で練習中の選手の下に一人の訪問者が現れた。
見るからに乞食の様な少年、今で云うホームレスだ。
当時は、この様な少年は多かったので選手達は気に留めなかったが、
次の瞬間、驚く事が起こった。
「カープの為に寄付します。」
少年が選手達に差し出したお金に選手達は驚愕した。
「そんなお金があるなら、自分の為に使えばいいのに」選手達は思った。
少年は言葉を続けた「カープの為に使って下さい。がんばって下さい。」
この言葉を聞いた選手達は、好きな野球をやれてるだけで幸せ、飯が食えんでもがんばろうや。と奮起したらしい。 またまた広島カープの草創期の話。
金が無い、金が無い。広島は球団創立から慢性的な金欠。
広島に入団した選手は、プロ野球選手に成れば、飯が食える。と、入団した。
当時は、戦後の貧しい時代。白い飯を食べる事が最高の贅沢だった。
しかし、プロ野球・広島カープに入団した選手は愕然とした。
飯が食えない、野球用具も満足に無い、それどころか住む場所も無い。
一部の選手達は、石本秀一監督が用意した宿舎で生活した。
宿舎での食事は、選手が均等に食べる為、ご飯を計りで分けた。
「せっかく、プロ野球選手になったのに、なんでこんな生活なんや・・・」
選手達は一同に憤った。そんな日々が続いたある日の事。
選手達が生活している宿舎が、実はボランティアで運営されている。
事実を知った選手達は一同・・・泣いた。
しかも、その宿舎の経営者は夜逃げをする程、追い込まれていた。
経営者は夜逃げをしたが、広島球団の説得に依って、その後も、選手の生活を支え続けた。 広島カープの球団誕生の日、晴れの場である会場には多くの広島市民が詰め掛けた。
新球団の役員、監督など6名、各球団から苦労の末に来てもらった選手24名が新ユニフォーム姿でお披露目されるはずであった。
しかし、ユニフォーム姿の選手は22名しか見当たらない。選手は24名だという話であったのに残りの2人はどうしたんだろうと市民は思った。
紹介が進み、23人目の選手の名前が呼ばれた時、列の後ろについていたボロボロの私服を着た青年が手を挙げた。
そう、ヨレヨレな身なりの列の後ろの2人はただの球団関係者ではなくれっきとした選手だったのである。
聞けば資金難により新球団のユニフォームは22着しか作れなかったと言うことであった。 >>265
広島カープの資金難は昭和30年代にはかなりマシになっていたからな
広島カープ創設当時、入場料収入はホームゲーム・ビジター等関係なく勝利や敗北に応じて勝ち7:負け3の取り分だったため勝率3割切っていた広島カープは資金難になっていた。
1952年にプロ野球では正式にフランチャイズ制度が導入されて入場料収入は勝敗に関係なくなった
そのため観客動員数に優れた広島カープの経営環境は徐々に安定化することになる。 球団創設のときはパ・リーグへの加盟話もあったというカープ
そうならなくて本当に良かったねぇw >>268
全くその通りだ
広島がセリーグの一員になったのは
ある意味強運だろう 西日本の地方球団が 「セントラル (中央) リーグ」 に所属って・・・ んなこと言ったら今のパシフィックリーグで本拠地が太平洋に面してるの楽天だけだぞ。 コボスタ自体は内陸部じゃないかwwwだったらまだホークスやマリーンズの方が太平洋に面していると言えるわ。 >>270
東日本の地方球団が中央リーグにいてもありなのか?
東京以北以東の百万都市は札幌と仙台しかないのに 東北楽天ゴールデンイーグルスは、1954年の高橋ユニオンズ以来50年ぶりのプロ野球新規参入球団であることだよ
そして当時のプロ野球選手。特に読売巨人軍の羨望度は今では比較にならない。読売巨人軍と他球団では明確に待遇に格差があった。
そして広島カープは監督や選手たちの待遇は、全球団のなかで最低・最悪レベルだった。
東映(現北海道日本ハムファイターズ)〜巨人などで強打者となった張本勲は、
広島戦で巨人の宿舎でビフテキを食べる選手に憧れ「強い選手になって稼いで家族を楽にさせる」と言う闘魂で結果夢をかなえ、
金田正一は国鉄(現ヤクルトスワローズ)に入ったとき2等車で移動が出来るのがまず夢だったという。
もっとも新人は3等車で至極失望したけど。
当時の広島カープは東京に遠征するときには選手・監督含めて全員、急行「安芸」に乗って一般客と同じ3等車で雑魚寝していた。
東京までの遠征は15時間、冷房レス仕様で超満員のスパルタンな汽車で難行苦行の旅だった。
球団創立当初の広島カープはまるっきり勝てないBクラス常連チームだった。ただし、ファンだけは腐るほどいて、当時の本拠地である広島総合球場は連日、満員に膨れ上がっていた。
“当時のファンの熱狂ぶりは今では考えられない。食うにも困る時代に、金を払ってまで野球を見に行っていたのだから” カープの創成期をリアルで見てる人って85歳以上になるな >>275
そうだな、終戦直後だからな
プロ野球の球団絡みで唯一「プロジェクトX」のネタになったんだぜ??
「プロジェクトX」で野球ネタ
・海のかなたの甲子園 熱血教師たち・沖縄野球 涙の初勝利
・女子ソフト銀メダル 知られざる日々〜不屈の闘い・リストラからの再起〜
・史上最大の集金作戦 広島カープ 〜市民とナインの熱い日々〜
・東京ドーム 奇跡のエアー作戦 カープ創生期の広島には古くからの巨人や阪神のファンも結構いたと聞いた
地元球団ができたからといって急にはひいきは変えられなかっただろうし >>275
広島カープが出来た頃は娯楽と言える娯楽が少なくてテレビも無ぇ!ラジオも無ぇ!がザラにいた時代だからな
そりゃ草野球レベルの試合でも満員になるだろう 河内(国学院久我山高)が「ドラフトの目玉」とか言われてた年のドラフトで達川広島が引き当てた。
達川がタバコの銘柄にちなんだギャグで嬉しさを表現してたが全国メディアは「目玉が広島って・・」という雰囲気だった。 >>277
仙台や札幌はあっという間に地元球団のファンになっているんですがね >>275
広島は球団創立当時が漆黒の暗黒時代だからな
昭和20年代の広島の暗黒ぶりは伝説の領域 >>281
昭和25年 広島8位 大洋5位
昭和26年 広島7位 大洋6位
昭和27年 広島6位 大洋4位
昭和28年 広島4位 洋松5位
昭和29年 広島4位 洋松6位
カープの暗黒に大洋も付き合ってくれたって感じ
FAでの急な補強をしない球団ゆえ
いまのメンバーがピークを過ぎたら
また低迷期を迎えるのだろうか 広島カープで、最も偉大な選手、と聞かれると、長谷川良平であろう。
167p56キロで万年最下位、弱小球団で、197勝を上げ、カープ球団消滅の危機を救った、救世主なのです。
1951年セリーグは、球団数が多い為、勝率3割を切ったチームは強制解散という決定をして、
前年勝率2割9分9厘で3割を、切っていた広島つぶしの策を、打ち出した。
この年カープは32勝64敗3分で、勝率3割3分3厘で解散を免れた。
32勝中17勝は、長谷川の勝ち星で、チームの半分以上を上げている。
まさに〔長谷川がいなかったら、今のカープはない〕 と言われるゆえんでしょう。
チームを救ったと言われる人はいくらでもいるだろうけど、
文字通りに球団そのものを救ったなんて人はこの人ぐらいしかいない
>>285
主力が同世代に固まっているのと関東出身が多い、というのはちょっと気掛かり 広島で生まれて広島で育った4番打者が続けてFA流出しているんだから
関東だのなんだのは関係ないでしょう 初優勝からFA導入の年までは、ずっと強かったイメージしかない。 >>289
逆に言えばその時期以外は暗黒だったってことだよね。今の勢いもね……今年優勝したら流石に来年はないだろうし。 過去にFA移籍した選手たちは
優勝争いのなかでプレーしたいという動機が多かったから、
再度黄金期を築こうとしている今いる選手たちはあまり流出しないのでは。
(本当の理由がカネだったのなら話は別だが)
仮に本当に黄金期になった場合、
いかにうまく世代交代をすすめるかが
暗黒期に逆戻りしないためのカギとなるんだろうね。 カネの問題もあるし、菊池のあの守備がどこまで続くか、あと2、3年で限界だと思うんだよね。それくらい酷使してるんじゃないかと。
菊池の代わりはどこにもいないからね。 >>248
大食漢川藤が「昼飯食い過ぎたら腹痛くなるやんか」と言うぐらいで、
キャンプの昼飯は簡素にしてるのかも >>287
前者は権藤ベイスがまさにそうだったな
主力選手のほとんどが1970年前後に固まってたもんだから
その辺の世代の移籍や衰えが一気にきて暗黒突入と >>294
結局は牛込さんや木庭スカウト陣以外のスカウトが全く仕事しなかったって事だな。 >>292
カネのご心配無い
昨年の売り上げみて
近年で一番売り上げが少なかった2006年の56億と比較してみると良いよ >>296
いつまでもこの人気が続くとは思えないし、金以外でもやはり首都圏の人間は広島何かにいたくないと思うんじゃないかね 川口、江藤、大竹は首都圏に戻りたいパターンか。
地元近くに戻れて年俸もハネあがるとなればそりゃあ移籍するか。
川口や江藤なんてすっかり巨人の人になっちゃったもんね。
むかしほどじゃないだろうが、解説者なんかにしてもまだ元巨人は有利か。
TBSラジオの人選なんか見てるとそう感じるな。 やっぱ銭だから。山口俊なんかが3年7億だよ。セカンドが穴の巨人はは菊池に5億でも出すよ。
それで巨人に行ってもしょうがないわな。 あれは実質功労金みたいなもんだから
それでも筑後の豚と違って2年間ちゃんと戦力になったし 川口は元々西武に決めてて、日ハム上田監督からの直々の誘いにお断りいれたってね
なぜか巨人へ行ったのは相当大金つまれたんだろうな 広島は球団創設当時が漆黒の暗黒時代で、まさに神話の領域だったからな
だがしかし初期の広島を支えていたのは「35番目の選手」である
今の千葉ロッテ以上に熱いファンたちだった >>303
35番目じゃなくて26番目な。広島カープに限らず日本野球機構に加盟する球団では1軍の試合のベンチ入りは25人までしか登録されていないからな。
千葉ロッテマリーンズによるとベンチに入って試合に出れる事の出来る選手は25人であり、26人目は選手をいつも熱く応援するファンであると解釈している。
そのためにいつもファンと共に戦うという球団の考えから26番の背番号のユニフォームがベンチに飾ってある。
ベンチに入る25人の選手が全ての力を出し切り26番目の選手であるファンにも共に戦って欲しいといった球団の意図が込められている。
このファンサービスを優先した球団の姿勢は好評であり、実際問題として広島のズムスタでおきたビジパフォ問題によるチケット問題でも球団の対応は早いほうだった。
・・・だがこれは球団による表向きの理由にすぎず、裏の意図が隠されているという都市伝説がある。
実は千葉ロッテマリーンズには背番号26を付けた選手は存在していた。その選手は小川博という投手だった。だがしかし、彼は2004年に強盗殺人事件を起こして球界から永久追放された。
ベンチに背番号26を飾ってあるのは“小川選手が行った不祥事を絶対に風化させてはならない”と言う球団からの無言の圧力があるとされている。 >>299
そりゃ菊池欲しいだろうね。ただFA権とったときにはかなり守備力落ちてると思う。
まして人工芝で摩耗して片岡の二の舞になるんじゃないかね? >>304
広島は球団創設当時が漆黒の暗黒時代だったのは間違いはない
だがしかし「26番目の選手」であるカープファンは今の千葉ロッテ応援団以上に熱いファンたちで、
球団存続の危機になったなら一線を越えた非合法行為も躊躇しないファンも存在していた
このファンによる武勇伝の一つが「木戸美摸投手負傷事件」の警察身代わり出頭で
現在でもなお「誰が、何のため、どのような目的でビール瓶を木戸美摸投手に投げたのか?」は未だに謎であり、未解決事件になっている 創設当初、最暗黒時代だった広島カープの貧乏伝説
・ユニフォームが作れない選手がいる
・ボールが高いので買えず、ほころびたボールを縫い直して使う
・宿舎には火鉢が各部屋に1つしかない
・風呂がないため練習が終わったら1つの水道に並んで体を洗う
・米が食べれず腹を空かす毎日 イッセー尾形が初代監督の石本秀一を演じた
カープ創生期のドラマ (NHKで放送) がようつべに上がってるな 創設当初、最暗黒時代だった広島カープを支えた「26番目のプレイヤー」
広島カープファン、その武勇伝
・当時の本拠地「広島県総合グランド野球場」のあちこちに募金用の「酒樽」を設置して
集まった当時400万円の金を球団に寄付、球団は解散の危機から救われた
・判定に怒り、レフトのポールを引き抜いて審判に集団暴行「それー 審判をみな殺しじゃ」
・大阪の有名選手の家の前で「広島カープに入ってくれ」と座り込みするファン
・移籍してくる小鶴誠の出迎えのためだけに深夜1時半の広島駅にファンが集合。
・長谷川 良平投手が広島に帰ってきたら広島駅にファンが集合して大歓迎。 創設当初、最暗黒時代だった広島カープを支えた「26番目のプレイヤー」 広島カープファン、その武勇伝
1953年4月1日に太田垣喜夫(備前喜夫)の母校である尾道西高校(現尾道商業高校)で開催された
大洋松竹ロビンスとの公式戦で、外野のファンが「白石の打った球だ! ホームランにしてやれ!」と
みんなでロープを前に出しホームランにしてしまった。
洋松監督の小西得郎は猛抗議をしたが判定は覆らず、このためこれは「ナワ・ホームラン」と呼ばれた。 創設当初、最暗黒時代だった広島カープを支えた「26番目のプレイヤー」 広島カープファン、その武勇伝2
広島県総合グランド野球場
プロ野球・広島カープのかつての本拠地球場(観音球場)
カープ可愛さの余り、暴徒化したファンが試合後に審判団を軟禁したり、
空き瓶を相手チームの選手に投げ付けるなどのトラブルも頻発した。
1953年に行なわれた広島カープ対洋松ロビンス戦では洋松の選手が
レフトポールに直撃するホームランを放つと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」と
ファンがそのポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた 創設当初、最暗黒時代だった広島カープを支えた「26番目のプレイヤー」 広島カープファン、その武勇伝3
1952年オフ小鶴誠・金山次郎の入団だけで大パレードを敢行し、
続いて獲得した日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉入団の際には
更に盛大なパレードを行い、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。
なお1953年シーズンのオールスターファン投票で長谷川良平・小鶴誠・白石勝巳の3選手がトップ当選。
「集団投票事件」などと批判を浴びた。 >>277
この時期って大学野球の方が人気なくらいやし、しゃーない 連覇をしたことがあるのは
巨人ヤクルト中日広島だけだが
2回以上連覇 は巨人広島(今年優勝するとして)だけ
3連覇も来年巨人広島(来年もライバルになりそうなチームはなさそう)だけ
歴史的に見てももはや巨人に次ぐ強豪球団が暗黒語るなw 今はさておき、古葉さんと阿南さんの時代以外全部暗黒じゃね?w >>286
で、解散して大洋と合併したのが松竹というオチか 加藤伸一の復活二桁勝利劇は全国レベルではさっぱり騒がれてなかった。 >>318
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/player/sportshasegawa.htm
A広島カープ存続の危機を救う
1950年は、長谷川の入団1年目であるとともに、広島という市民球団にとっても1年目のシーズンであった。
長谷川は、先発投手として15勝27敗の成績を残したもののシーズン最多敗戦投手。チームは41勝96敗1分、
勝率.299で最下位の8位に沈んだ。
翌1951年は、セリーグは7球団になったものの、試合日程を組む難しさに直面したセリーグ連盟は、セリーグを
6球団に減らすために「勝率が3割を切ったチームの処置は理事会が決める」という露骨な広島潰し策を打ち出した。
1950年の広島は、勝率.299で唯一勝率3割を切った球団である。
広島は、創設2年目にして解散の危機に立たされたのだ。
長谷川は、入団2年目にして自らの右肩にチーム存続の運命を背負ってしまったのである。この年、長谷川は、
獅子奮迅の活躍を見せる。41試合に登板し、17勝14敗、防御率3.48の成績を残したのだ。
チームは32勝64敗3分で2年連続最下位。それでも、勝率.333を残して広島は解散を逃れた。長谷川の17勝は、
チームの勝ち星の半分以上を稼いでおり、勝率も.548。長谷川が広島を救ったといっても過言でない働きだった。
1952年の長谷川は、11勝にとどまったものの、広島は、37勝80敗3分で何とか勝率.316に踏みとどまり、
最下位も脱出した。代わりに松竹が勝率.288で最下位に沈み、大洋に吸収合併されるという結果になったのである。 関東のカープ女子さんたちよ
あんたら創生期のカープだったらファンになるかね? 意外に「かわいそう」って受けるかもよ。
別所引き抜きとか知ってて巨人ファンになるんかい!
江夏に「優勝せんでええ」って言った阪神球団のファンになるんかい!
言いだしたらキリないよ >>277
広島カープ創世記「廣島カープ」と名乗っていた時代
プロ野球の人気はありえないくらい低かったからな
昭和30年代までは日本で野球といえば東京六大学野球と高校野球、社会人野球であって
プロ野球、当時は「職業野球」というのは大人になってまで玉遊びで金を稼いでいる連中という見方が依然としてあった
今風で言うと「俺はバイトなどのかけもち無しでユーチューバーで食っていきます」みたいな扱いだった
親は100%反対するし、学校に相談すれば除名されかねないレベル。
この時代は「職業野球を仕事にするなんて恥ずかしすぎる」とまでいわれていて
大学野球のスター選手はプロのトップより実力は上だと妄信的に信じられていた。
何しろプロ野球の試合が東京六大学野球の前座に追いやられることが珍しくない。こういう時代。
これらをふっ飛ばして
「野球というのはプロの選手がやるもの」
という驚愕のパラダイムシフトを起こして、
プロ野球の価値を大幅に押し上げた野球の天才が現れた
・・・それが「ミスタープロ野球」こと、長嶋茂雄だ。
なにしろ、長嶋茂雄がこの地球上にいなかったら、プロ野球は消滅していた可能性だってあったからな
現代のプロ野球ファンは、今のプロ野球があることを長嶋茂雄に感謝した方が良いレベル。
ちなみに、朝日新聞・テレビ朝日系は今でも変わらないアンチ・プロ野球、アマチュア絶対主義 やけに心配性がいるけど
ジョンソンに3億払ってる時点で
過去とは違う事を認識しよう 広島県に限らず瀬戸内海沿岸はは野球王国として知られてるからな。
広島高校野球の代表は激戦区の東京都・神奈川県、愛知県の代表などとも互角な戦いを繰り広げていて
過去広島県勢春夏で計12回優勝してる
まぁその2校とはいうまでもなく広島商と広陵の2校
この両校が広島県の高校野球の早慶的な存在
そして野球王国じゃないのが埼玉県。ここの高校野球代表は、弱い。
あと東北・北陸・北海道も高校野球は弱い(冬になったら練習できない) >>324
朝日新聞内部も戦後のセパ分立時にはアマ至上主義者とプロ参入派とで揉めていた様だからな。
プロ参入派は「朝日レッドソックス」という名前まで考えていたという。
初期の近鉄球団に芥田武夫など朝日関連の人物がいたのも、その名残という説も。 個人的には根本監督の昭和40年台半ばの万年Bクラス時代が暗黒だった
衣や浩二が出だしたときだから夜明け前とも言えるがな
山内なんかもいたけど、今津、古葉、朝井、田中尊とかの脇系のほうがなぜか印象深いね >>326
広商と広陵って最盛期はほとんど入れ替わりみたいなもんだろ >>329
さらに県立広島工業・崇徳も。
一時高陽東も常連になりかけたけど、最近影が薄いな。 >>328
しかし、その頃の広島て監督根本を筆頭にコーチ関根爺・広岡、牢名主えびせんだから、そら若かりしの頃のピーコや衣笠がビビりまくり、黄金時代の西武でも甘いと言われるなあ。 当時、大ベテランの山内和弘。後に高橋慶彦を育てた御仁。 >>330
県工って松井を敬遠した明徳に褒め殺しして勝ったとこだよな
ちなみに当時1年だった辛いさんはベンチに入れず 新井さんは1年のとき甲子園だけどメンバー外
3年の時は、二岡や福原がいて全国レベルのチームだった広陵に3回戦でまぐれ勝ち
次の試合でコロッと負けて余計なことしやがってと恨まれてた
部活引退後の秋には下級生が中国大会を勝ってセンバツ確定
いまいちついてるようでついてなかったw 広島県の高校野球の応援歌の定番は「宮島さん」でカープ応援団も使ってるけど、これだけでは高校野球全国大会には威力が足りないから広陵のオリジナル応援歌「チアソング」ができた。
きっかけは天理の『ワッショイ!』にヤラれた、ウチにもオリジナルの応援歌を作るべきって・・・。 梵って、そよぎだと一発変換できないけど
ぼんだと一発変換できるんだよな
なるほど
この選手の野球人生っぽいは
なんか風貌
いかにも「ぼん」って感じだったからな
ボーッとしてる雰囲気が
菊池や田中から比べたら
もっさり感ははんぱなかった 【プロ野球】セ・リーグ T2-3C[9/18]…カープ2連覇、8度目のセ・リーグ制覇!松山先制打・野村スクイズ!8回バティ決勝打!…阪神2発応戦も及ばず [無断転載禁止]©2ch.net
http:// hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1505722451/ ウン年後には、また2ちゃんで暗黒期突入のカープを嘆く
スレが立つんじゃねえの?
ファンの人は 「いま、このとき」 を大いに楽しもう! 安部で思い出したが、彼は入団10年目にしてようやく覚醒したが、あれは能無犬前監督が安部を干したため、覚醒するのが遅すぎた
能無犬が実力も才能もない堂林を贔屓起用したために安部はなかなかレギュラーになれなかった
堂林の贔屓起用がなかったら、安部はもっと早く覚醒していた。それだけ安部は堂林よりも実力も才能もあったってこと
安部よりも堂林をレギュラー固定した能無犬は正真正銘の低脳・低知能。監督として無能 90年代から高校生の投手を育てられないイメージ
社会人と大学の即戦力はなんとか使えるのもいたけど育てた感じじゃないし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています