原辰徳80年代最強打者だった [転載禁止]©2ch.net
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ONのあとの巨人のプレッシャーでの通算成績は見事
もし他の選手が巨人の4番だったらプレッシャーで潰れていたことだろう
間違いなく80年代最強打者は原辰徳だ
当時の毎日視聴率30%前後で超満員の後楽園球場で
エースもぶつけられてた巨人で.285〜3割の35本打ってた原だから
巨人以外なら打率は2分は上がって
本塁打も10本は多く打てたろうから
それ考えると原って実は王貞治並の打者なんだよな
王は別に前任が凄かったとか無いから重圧無かったろうし
2分だとたった安打10本ぶんくらいか
他チームで気楽にやって毎月5安打増えると1シーズン半年の6ヶ月で30本ぶん安打増えるから
それだと6分も打率上がるな
原は実は常時打率.340〜.368の大打者なんだよ
そりゃ観客50人の気楽なロッテ落合なんか川崎劇場ならそんくらい打てるわ >>551
>通算成績だけ見れば落合の圧勝と思ってしまうが、
>冷静に所属チームの環境を考慮すると実は大差ないという可能性も。
俺もこれに賛同
両者まだ全盛期の88年なんかは
落合(中日)が.293で32本
原(巨人)が .300で31本
原ぐらいかやや落ちる成績の年も存在してるわけで
中高の頃から大スターで酷使されまくってた原はこの30歳頃を境に身体が死んだが
秋田の無名落合は中高大と酷使されてなかったから40近くまで好成績残せたけど
2人の実力は大して変わらないと思う(どっちも天才) >>560
試合に負けると主将である息子タツノリを皆の前でボコボコに殴った親父・貢の影響で
身内(手塩にかけてる選手)には異様に厳しく当たるのが原
内海=偽侍←打たれるといまだスラングとして使われ
亀井=一時.290の25本とブレイクするが不振時の原による恫喝で逆に萎縮してその後パッとせず
大田=自分を慕い母校にまで入学した強打者にはさらに我が子のようにハードルを挙げきっかけをつかませられず
このへんの選手には原の貢式教育はマイナスに作用したな
でも内海は2年連続最多勝したし大成したほうか 巨人の4番だから理論からすれば
落合は40過ぎて巨人に来て
巨人で通算打率.300くらい残して出塁率.400くらい残した落合はとんでもなく凄いな
巨人の4番40過ぎてあれだけの成績残せたんだから
全盛期なら原なんて余裕で超える成績残しただろうね 晩年の巨人落合は
ホームランは捨ててたからね
それなら率は残せる
それに巨人時代て3年だけだし
あと94年は巨人で落合・松井秀・原が揃ったわけだが
彼らの半分の試合しか出てない原の成績が一番いい ライバルだった広島戦の通算成績出してから言ってくれ >>557
そこまででもないみたいだぞ
ヤクルト 88
中日 79
大洋+横浜 73
阪神 72
広島 70 >>565
落合は42歳で巨人の4番で21本.301
原は34歳で11本.229で4番くび
40過ぎた落合に4番奪われてお気楽な立場になって半分も試合出てないからそこそこ打ったけど
次の年はさっぱりで引退 原辰徳
打率.300↑ 4回
打率.310↑ 0回
出塁率.400↑ 0回
長打率.600↑ 1回
OPS1.000↑ 0回
本塁打40↑ 0回
100打点↑ 1回
首位打者 0回
本塁打王 0回
打点王 1回
キャリア15年 通算OPS.878
落合博満
打率.300↑ 11回
打率.330↑ 5回
出塁率.400↑ 15回
長打率.600↑ 6回
OPS1.000↑ 8回
本塁打40↑ 3回
100打点↑ 4回
首位打者 5回
本塁打王 5回
打点王 5回
キャリア20年 通算OPS.987
落合は完全に衰えても巨人の4番でそこそこの成績を残した
この二人が同等とかギャグでしかないね >>561をよく読め
落合と原じゃ中高大での酷使のされ方が違うんだよ
秋田の田舎と高校大学でプラプラしてたのが後に幸いした
清原や松坂なんかも小中高からスターだったから酷使ひどくて
人より早く30も越えるとガタが来ただろう 原の30以降とかもう脚やっちゃってるしオマケだよ
落合は確かに37くらいまで安定して好成績だったけど >>落合は42歳で巨人の4番で21本.301
↑
この年だけ得意げに出すけど
中日最晩年と巨人での他の年はもう衰えてて
たいした成績じゃなかったろう セリーグに移籍してからの成績に限れば原さんがやや上かな
守備走塁をふくめた総合力では圧倒的に原さん
落合は広島の水谷実雄と同じくらいの選手だと思う だからロッテ閑古鳥()川崎での落合の無茶成績と
当時の大正義国民的チーム()の巨人での原の成績を
単純に比較すんなよw
日本で.360だ50本だ凄いだろ!ってアメリカの野球ファンに自慢するようなもの
そんくらい当時のパなんて西武以外ゴミだった
ノンプロより客入ってないし 両翼80mの球場でもプレッシャー何もない場面で稼いでただけだからな
しかも消化試合で猛打爆発してただけだし 落合も天才は天才だよ
最初から巨人に入っててもすぐ2軍から台頭して
.325 35本くらいの中距離打者として
やっぱ中日での第二次全盛期並に打ってたかもしれない
でもプロ入り前の経緯(東芝府中からドラ2の25歳)からして
ONの後継としては最初から見られなかったろうからやっぱ原より気楽な立場なんだよな 衣笠の場合三振以上に高級アイスとアレ同様故障しようが試合に出場し続ける姿勢が問題。 俺は広島カープが
世界記録達成&国民栄誉賞の偉人を原爆落としたアメリカとの合いの子だからって
かたくなに監督にすらさせない風土がきもちわるいよ >>576
消化試合の鬼は落合だよ。
原は新人の時に巨人の新人では長嶋以来のサヨナラホームラン、
翌年は5月5日の子供の日に山本和からサヨナラホームランとかド派手な活躍してたわ 落合と原はプレー環境をさっぴくといい勝負だな
ライバルといっていい存在だ >>583
だから彼は「落合は消化試合の鬼」と言ってるんでしょ
それは俺も知ってる
若き秋山とオッチは秋前までは37本くらいで並んでるんだよ
でもオッチは秋口からの
客がスタンドでソーメン遊びしてるほぼ無観客消化試合からのスパートが凄い
結局オチは50本 秋山41本くらいで落ち着いてた 落合が最初から巨人に入ったとして原以上の成績を残せたかはかなり怪しいな
平均20本キャリアハイで35本といったところか
消耗して選手寿命も縮まり15年くらいで引退だろう
通算打率290.本塁打は300前後で終わりそうだ >>559
50人は言い過ぎ。300人ぐらいだろう。 落合が消化試合の鬼だったのはよく言われるが、
それを差し引いたとしても、落合の方がど派手な活躍は何度もしただろう。
巨人の敵として、最も憎らしいエピソードだと思ったのは、
ノーノー目前だった斎藤から打ったサヨナラHRかな。
因みに翌年はリリーフの桑田からもサヨナラHRを打っているが、
これはあまり知られていない気がする。 落合自身、ここぞっていう場面で打たないタイプだったからねえ。
だからこそあの斎藤からのはインパクトあった。 ヤクルト時代の広沢が言ってた。
「落合さんを消化試合の帳尻合わせって言う人がいるでしょう?けど、それができる人が他のどこにいるんですか?」 >>586
落合入団時のロッテは客は少ないが山内監督張本有藤村田に金田取締役
親は重光家独裁で球場は一軍はオンボロ川崎二軍は青梅竹藪の劣悪環境
それはそれでウンザリなチームだぞ
お坊ちゃんの原がここに入ってたら神経病むよ 吉村が20〜30HRを10年くらい打つ強打者になってたら原の運命はかなり変わってたと思う、良くも悪くも >>595
同感。
86、87と数字がよくなったのも吉村がでてきた効果かな。
あと、けがで衰える時期は変わらないとしても、
88途中から92まで吉村がいればと思う。
400本はいけたんじゃないか。
返す返すもあの大アクシデントは残念だ。 >>594
東海大相模の監督は父の原貢
チームの誰かがミスしたり負けると主将の辰徳が貢にボコボコにされる
昭和のきつい理不尽な体力練習。そんな巨人の星みたいな劣悪環境のどこがおぼっちゃんだよ
秋田の7人兄弟の末っ子で
高校大学と野球部きつくて中退したりプー太郎からノンプロ
適当に映画見ながらサボって暮らしてた博満のほうが100万倍おぼっちゃまだよ
顔だけで判断しないほうがいい でもまあそんな経緯が落合が40過ぎまでバリバリやれた結果になるんだから
わかんないもんだ
原はその球児時代に足に骨が露出するほどの大怪我をして
それがプロで30過ぎに古傷として出てきて苦しみ急激に成績が劣化することになる >>597
孫が日ハムに指名されてクジが当たっただけで「人権蹂躙じゃ」とか喚くような身内贔屓が息子に劣悪な環境に置くかよ。
まして奥さんが妊娠中に不倫してて暴力団案件になってもいまだに読売で幅効かせてるってどんだけ恵まれた環境なんだ。 あんな昭和体罰爺でも孫には勝てんのだろう
不倫の件は選手時代の条件と全く関連無い
むしろ落合みたいに川崎のソープを毎晩ハシゴして離婚して
あげくお水のアゲマンのブス鬼嫁もらうくらいが野球選手にはちょうどいいのかもな 原が人気絶頂期の巨人軍のプレッシャーを浴びながら長年4番を張り続けたのは事実
甘やかされたおぼっちゃんでは不可能な偉業である 原が四番の頃は巨人の人気絶頂期じゃない。消費社会絶頂期。
高度経済成長の時分はみな歯を食いしばって働いていた。その後経済大国になって高度消費時代になった。
文藝春秋によると日本の最盛期は1983年。
高度経済成長時代はONに自分を仮託して息を飲んで見ていたが、四番原は打てなくても笑ってネタに出来る余裕のある時代になってた。 恥ずかしい無知さんに教えてあげるけど
1983年は
原・江川全盛期(巨人も優勝し3年目原も25歳でMVP・日本シリーズでは西武と世紀の大激戦で敗れる)
巨人戦の視聴率もテレビ放映史上で最も高かった年
(実はON時代ではない)
ある意味人気絶頂期だよ 83年のシーズン途中のテレビ中継映像を見ると
プロ3年目83年は.302の32本で山本浩二と4本差(プロ2年目の前年は掛布と2本差で本塁打タイトルを逃す)
解説の金田は「3冠も視野に入れてる選手だから〜」なんやかんやと解説してる
まあまだ25歳3年目で上位の年上の球聖打者たちをこれだけおびやかしてたわけだから
ちょっと間違えば凄い未来があったのかもしれないな
翌年からチームも3期連続V逸したりして4番叩き報道も加熱して伸び悩んだ気もする
それでも.285 35本くらいは打ってたが
今考えるといい数字だな 選手時代の苦労が、監督になってからは
生かされたのではないかという気もする。 本塁打王と40本塁打目前で津田との対戦で骨折、
タイトルのチャンスはめぐってこなかった。
原の結婚式は金田により激励会となった。 プレッシャーとか(笑)
原と落合比較するのもおかしいレベル差だが、明らかに技術の問題。 >>607
オールスターくらいまでは、HR王ねらえるかもって感じだったけど、
津田に粉砕される前に、たしか三塁守備で手首の辺りを怪我してるんだよね。
津田による粉砕も元を辿ると、その守備の怪我が引き金になったらしいから、
どのみちバースには勝てんかったと思う。
でも津田の粉砕がなければ、40本は超えたかも。
「津田の粉砕」と書いてはきたけど、
デッドボールとかじゃなくて、ファウルチップですけどね(´・ω・`) クジはずした大洋か広島入って気楽にやってたら+10本で毎年45本だっただろうな
落合どころか王並だな 当時知らない人に
当時の巨人戦または巨人というものの雰囲気を説明するのは難しいな
毎晩がWBCや日本シリーズみたいな感じというか
毎晩視聴率が25%超だったし(対大洋戦とかは幾分低かったが) 一家の大黒柱だった親父がナイターにチャンネルを合わせれば家族全員で見ていた時代に
毎打席注目され負ければ戦犯。凡退すればチャンスに弱い。ニヤニヤするな。と罵声を浴びせられ続けていた男
原ほど叩かれたわけではないのにあのパリーグを代表する4番の清原ですら精神が崩壊してしまった
落合や松井でも短期間しか耐えられなかった
原が並みの心臓のバッターだったら自死に追い込まれていただろう 原はカープにも指名されている。カープに入ってら浩二衣笠の薫陶よろしく、まして何のプレッシャーもなく、
津田に手首粉砕されることもなく、浩二の入団以来18年連続規定打席を軽く超えて20年連続は規定打席。
狭い広島市民球場のこと、当然毎年40本で王に肉薄したのは間違いないな。プレッシャーもなく2000打点は達成してる プロ野球史上、いや、日本スポーツ史上最もプレッシャーを浴び続けた男だろうな
そしてその中で一流といえる成績を残している 原さんはなにげに浩二と仲がいいんだよな
浩二は原さんのようなさわやかスポーツマンが大好きだからな
てことで右打ちを伝授されて年間15本は伸びる
ボールを怖がってたらキヌさんにどやされるし原さんの弱点のボールを怖がる癖も克服される
通算580本塁打くらいいっただろうな >>610
手首粉砕って有鈎骨骨折でしょ
今でも有鈎骨骨折で検索するとヤクルト小川とか中日高橋とかハム杉谷とか
ぞろぞろ出てくる
野球選手には普通の故障で骨折後タイトル取ってる人も多い
80年代だとロッテ西村90年代だと中村紀洋 衣笠に休むなと言われ浩二に右打ちを習ってたら2600年連続出場、3試合に1本で867本。
そうなったらあと1本だが記録のためとは言われたくないだろうから更に5年やって950本はいってたな。
浩二に読みも習って打率も毎年.330、
.320 950本 2300打点。
晩年数字が落ちたとしても楽勝だろう。 >>618
いくらネタスレとは言え、原ごときにサン付けして浩二を呼び捨てすな! おまえのネタレスがワザとらしすぎて
数字もデタラメでいっちゃんつまらん
まあ広島なら.320の38〜45本くらいは毎年打ててたんじゃねーの 初代応援歌のベース「エイトマン」は
殺人犯歌手のキャリアを代表する曲
関係者も考えろよ…
ところが二代目応援歌は
プロの作曲家が作成、
原岡崎の応援歌が神曲に 手首手首って、原はあの怪我以降も長く活躍してるし充分現役を全うしただろ
怪我で惜しまれるってのは吉村や桑田みたいな連中だろう 原さんは手首の怪我以降も長く活躍したが落合は持ち直さなかったね。
この点ひとつみても原さんの打撃技術のほうが上だとわかる
原さん>>>>>>>>落合 手首手首って
手首もそりゃ痛いが
その86年はオールスター(90試合前後)の時点で最終47本だったバースより本数打ってたと思う
その年やそれ以降の年は元々高校時代に酷使で痛めた脚の古傷とかで欠場もしたからな
春〜初夏と王が50本打った年とかとペースと変わらんのに
8月以降猛打の王と
オールスター明けの真夏8月に脚の不調でピタッと止まる&数試合欠場の原
その差だな 応援歌はキヨシのが完璧すぎて
(今だに全球団であれより上のは無いんじゃないか?)
当時はキヨシが一番人気の選手と思ってた人も多そう
当のキヨシもそう思ってたかもな
でもキヨシよ
あれは「応援歌が出来杉なだけだから」ww 阿部が原の382号に並んだけど
実働17年でようやくなんだよね
原は15年で達成してるしそう考えると原はかなり凄いよ
阿部は2001〜2005くらいまでラビットの恩恵受けてるしね 馬鹿はすぐ阿部すげえええええええええとか言い出すんだよね
でも現実はどうかって言われるとね
阿部程度じゃ原の影も踏めんよね 原は400本前後クラスの打者の中では本塁打率はかなり高いほうだからな
その周囲の打者はホームランを打つためには原より1、2打数多く必要とした 王、長嶋、原が巨人の選手ベスト3。
川上、原が巨人の監督ベスト3。
総合では原が巨人ナンバー1の人物。 昔の大学野球部はしごきがひどくて心身ともにボロボロになってたからな
200勝投手なんてほとんどいないだろ
プロに行くなら高卒か社内人経由がいいと昔からいわれている そんなの万年優勝狙いの高校だって一緒ですやん。KKだって結局あの様だったし。 いや、さすがに捕手の阿部を原と比較するのはどうかと思うが 巨人戦が娯楽の頂点だった頃の4番と野球を誰も見なくなった時代の選手を比較するのもどうかねぇ?
ONの亡霊にとりつかれたオッサンたちの目が厳しかった中での382本は実質500本くらいの価値がある。
阿部は凡退しても2ちゃんの実況でひ弱なオタクから「知ってた」とか書かれる程度。
背負ったものが違いすぎるよ。 ちなみに>>628さんは
公式通り「燃えろ〜キヨシ男なら」か
後楽園の「お〜まえが男なら」
どちら?
山倉に至ってはフルコーラス歌詞違うしな
メロディーに限って言うならやはり岡崎
その後の
落合清原松井はクソメロディーでガックリきた
岡崎の振り付けは今でもできる 広島に入団してたら3年で戦力外通告されたかもなど
練習や移動は大変だし >>639
昭和のオヤジどもは凶暴だからな
原の凡退に腹を立ててテレビを何台もぶっ壊したなんて例は腐るほど聞く
今みたいに温いファンしかいない時代なら通算で.320 850本は打ってたんじゃないかな >>640
本塁打王複数回に首位打者までとった松井に失礼過ぎるわ(笑)通算OPSからしても比較対象外。
無冠の由伸程度なら環境次第の打点王(まぐれ)一回の原と比較してもいいレベル。 >>640
由伸と松井秀なんて巨人の4番て呪縛無いから気楽だよ
そもそも同じ左でブサメンで天才てとこで掛布信者な松井秀に「巨人4番」の呪縛は元々無い
入団して今では「巨人てのは特別なチームなんですよ」と、ちょっと前に朝日新聞のインタビューで言ってたし
その大変さはわかったみたいだけど 俺が大学()なんて行ってもったいないと思ったのは江川と原
もちろん天才落合だって25まで大学〜プータロー〜ノンプロとやってたのはもったいない
高校の原は大谷みたいな方法で巨人は釣れたんじゃないのか?
したら77年からプロ入りで
最終黄金期〜衰退期の王(77年 37歳で.325 50本)とクリーンアップ張れたのに
江川同様、肉体としては大学時代が黄金期だったろうしな >>639
>ONの亡霊にとりつかれたオッサンたちの目が厳しかった中での382本は実質500本くらいの価値がある。
そのオッサンたちの若い頃の熱い期待を背負った王のHRは実質1200本、長島も600本の価値があるね。 川上とかはいたけど
どっちかつうと王と長島は切り拓いた側なんでノビノビやれたからね
西鉄とか鬼強くてまだ巨人が聖域ってほどでも無かったし 掛布が「吉村の怪我で原が徹底的にマークされて成績が下がった」とよく言っていたな。 六大学卒、生え抜き、イケメン、右打者、4番、サードだからまんまポスト長嶋だったからな
原でその系譜は途切れてしまったが 原にも中畑いたけどな
開幕から不振の84年巨人(広島が鬼強く最終3位)で
原にも26歳4年目ついに大スランプ来たがその年は中畑が31本もホームラン打って上行かれた
まあ秋山砲と違い中畑は中距離打者だからやっぱ違う気もするけど
吉村不在になった89年からは原自身もケガがちになって
1年トータルの成績残せんようになった
ほんとなら30歳迎えてこの3〜4年が脂乗った全盛期になるはずだったんだが原(と清原は) 清原には秋山に加えて石毛がいたからな
中畑篠塚松本山倉河埜は80年代中〜後期には姿を消して、台頭してきたのが吉村駒田村田川相か
外国人はクロウの後もブラッドリーモスビーバーフィールドとそれなりのがいたけど、小粒になったかな 原には長嶋の勝負強さと王の長打力の両方を求められたから酷だった。 4番の成績に大きく影響するのは5番の実力でしょ。
だから清原はデストラーデ。
いなくなったら平凡な成績になったでしょ。
原も吉村が元気だったころは数字はよかった。
もちろんそれがすべてとは言わないが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています