69年はチーム内部で村山派と吉田派の対立が激しくて、仲裁の意味で監督を引き受けた。
村山が投手兼任監督とか、ブルペンへ行ったら何もできないのに、吉田を差し置いてやらせちゃうのがいつもの阪神の
歴史。それでも2位だったので78年第1期吉田政権の後に二度目の監督になったら最下位に。