1978年のプロ野球 [転載禁止]©2ch.net
それでもオリックス監督の3年間以外は、ずっと巨人のコーチか読売系の解説者で
面倒見てくれたわけだしね
ケツまくってよそに行って(そもそもこの時代に36歳ベテランを取ってくれるかどうかも怪しい)
数年現役を延ばしたとしても、その後の野球人生が保証されるわけでなし
理論は確かだとしても、人脈も人気も少ない職人肌だけに >>557
淡口も引退後は1990〜2005年まで巨人のコーチだったし
あくまで推測だけど定岡の身代わりでトレードされた時に
「引退後は巨人で面倒を見る」と条件をつけたんじゃないかって気がする >>556
自分もその話を聞いたときは無茶苦茶腹が立ったんだ
V9戦士に対して何て言い草だと思ったよ
でも、土井クラスの実績の内野手って、他球団(特にパリーグ)では年俸は安いんだよね
巨人の選手だからこそ、そこそこの年俸をもらえていた
当時は解説者の口も多くて、読売グループにいれば引退後も安泰だった
「巨人軍に奉公」に対する恩恵が大きいから、こういう高飛車な言い草になったのかも 他のチームで、土井を欲しがりそうなところもあまりないかな。
強いて言えば、山崎を出したロッテか。
>>559
淡口は引退年の日シリで、巨人相手にそこそこ頑張っていたんだが、終了後あっさり引退して巨人に戻ったな。
羽田・栗橋の引退は、確かシリーズ中継の中でも言及があったが、淡口は引退するとは思わなかった。 V9戦士でもやめて一切巨人読売の世話にならず自分で喰ってけそうなのは
ONとあとはナボナの婿くらいなのかねえ V9戦士で引退後に巨人と縁を切ったというと広岡、森 最初は読売で仕事してたが、次第に疎遠になったのなら、黒江もそうか 森、黒江は昭和40年代に1000万プレーヤーだったんだよな
当時1000万取れたのはチームの主砲やエースクラスだったので、巨人のメリットが大きい
森は引退直後は日本テレビで巨人戦の解説をしていたから、当初は読売人脈にいたのだろう
広岡に誘われてヤクルトのコーチになってから、読売から離れていった >>563
ナボナのかね → 国松さまのおとおりだい! >>560
以前も書いたが土井正博より土井正三の方が有名だからな
巨人のネームバリューは大きい 川上が藤田の後任に国松推薦してナベツネの信頼失って長島復帰 土井正博は「太平洋の土井」「クラウンの土井」と呼ばれていたな
太平洋なんか滅多にテレビ中継がないので見たこともなくて、
「太平洋にも土井がいるのか」くらいしかわからなかった
あんなに実績のある選手なのに 土井はこの年久しぶりに3割を打って好調だった
長池や大杉ほど目立たないけど、「主力打者としては合格」というラインを長く続けた選手だね 阪神編のイメージのないがんばれ!!タブチくんが始まった年
同時にヒロオカのヤクルト時代も描かれて
阪急の藁人形を五寸釘で打つ場面もあった
両者が西武で合流するとは >>575
ヒロオカは惨敗とウエダ監督のイヤミな談話の報復に阪急電車に置き石をはかるが
「スキのない」阪急の警備に阻まれる というネタもあった
さらに タブチが阪神電車に置き石しようとして同じ目的のフルサワにばったり会うが
「ここはダメですよ エナツさんのナワバリらしいから」 というネタも
ほどなくして実際に置き石でひっくり返ったのは野球に関係ない京阪電車だった >>562
土井ってV9時代の巨人みたいにチーム全体の意識が高くてレベルの高い野球をするチームでしか生きないように感じる
パリーグの大味な野球をするチームに行ったら、単に非力な守備固め要員にしかならないかも
土井自身も「巨人ではこんな低レベルじゃなかった!」って不満が残るだろうね >>569
さらに土井正博自身がイメージと違って豪傑キャラでなく、
ひたすら目立ちたくないタイプの選手だったから余計に目立たなくなった
チームの顔みたいな扱いをされるのも嫌がっていて、
近鉄ではその役割を鈴木啓示が請け負ってたんだとさ
これは鈴木自身の証言 >>18
こうして見ると、大下剛史って、前世代なんだなって思う。
まあ、そもそも広島って言うよりも東映の人だしね。 >>137
逆じゃないか? 人気投票でことごとく日本ハムの選手が選出されている中、それでも人気投票選出した福本は凄いってことでしょ。
他球団もスターがいないポジションだけど、その中で菅野が選出される実績も無いし。甲子園のスターだったとかの裏づけも無いし。 >>550
まあでも、親会社がそのままだったら、監督もあったんじゃないかって人なら福本や山田久志とかもいるしね。変わったところで可能性が途絶えてしまうのは悲惨さは薄い気がする。
山田久志は、他球団だけど監督にはなれたし。なれる人にはどんな形であれ、巡ってくるよ。 >>588
ただ、山田の場合は中日で監督になったはいいが、周囲は全て敵という
四面楚歌状態だったからね >>593
この球団の場合は、山内でも同じような感じになったと言われているくらいのところだから、まあそんなところなんじゃない?
こういう現役時代、チームに所属した経験の無い人が監督になれるチームであると同時にその条件の方が就任しても、非協力的なのが問題なだけで。
ただ、自分が所属した親会社のチームが消滅したにも関わらず監督まで出来たのは凄いことなんじゃないかなと言うことで。 伝統がある(かどうかは知らんけど、古いことだけを自慢にしている)球団だからか、
生え抜き以外には排他的だとか、そういうことがありがちだよね >>585
土井の現役時代は孤高の人っぽいイメージがあったな
東映の張本みたいに子分を連れて親分になったりしない
でも、大毎の榎本のような変人ではなくて、選手間の人望はある >>600
そしてそれは、土井氏が指導者になっても変わっていないよね 800号
1時間19分の講義
江川事件
この3つだよな 横浜スタジアム開場
今井雄太郎完全試合
西武ライオンズ誕生、福岡から所沢に移転
オールスター日本ハム組織票 横綱ネタ 王貞治800号、上田監督猛抗議、江川空白の一日
大関ネタ 今井完全試合、クラウン身売り西武へ
関脇ネタ 田淵西武へトレード、ヤクルト初優勝
小結ネタ 横浜球場開場、日ハム組織票事件
前頭 ラジオ関東ジャック、阪神球団初の最下位 この年から、センターカメラからのテレビ中継が本格化 クラウンの江田孝投手コーチがキャンプで急死。
後任には浦田直治二軍コーチが昇格したが、捕手出身。
一軍にはコーチ3人のみ、二軍には2人のみ(監督除く)。コーチを雇うお金がなかったんだろうなあ。
西武になった翌年、一軍コーチ5人に増えたが、浦田は何故か投手コーチのままで、新任のバーノン・ロー(元中日のバンスローの父親)はバッテリーコーチだった。
二軍コーチは2人のままだった。 >>96
作文野郎しつこいな
他の奴らがこんな長文レスしてるか?
雑談掲示板の空気読め
100歩譲ってお前がこのスレ立てたならまだ許せるけど違うだろ?
ここはお前の自己顕示欲丸出しの作文発表会場じゃねえんだよ この年から野村がロッテに移籍したんだよな
当初は「打率2割8分、30本」を目指していたが、かなり衰えが見えた年だね
でも、シーズン後半で4番も打って活躍する場面もあった 8月31日の今井雄太郎完全試合には、野村は出てなかったのよね。
この年の後期のロッテの捕手陣は、高橋メインに、野村・土肥・榊とあわせ4人を交代で使っており、31日の阪急戦ではそもそもベンチに入っていなかったんではないか。
完全試合阻止するにはうってつけの打者なわけで。 >>612
43歳シーズンでその目標値はちょっと高すぎる気がする >>613
「コーちゃん、わしをうちとったらノーヒットノーランやな」
「…はい(ニッコリ)」
独特の「ノムさん語り」に動揺したか、太田は四球を与えた…
例によって某漫画のシーンだが
いくら当時のパでも 打席でささやいてもピッチャーには聞こえませぬ
「ほほう、今年あたりクビになるかと思ったら今井もえらなったもんやのう、中沢よ」
中沢(ぶつけろ) >>614
1975年には28本打ってたとはいえ、以降は30本とは程遠くなってたし、明らかに打率がガクンと落ちていたからね。
ロッテは捕手の層も厚く、指名打者にはリーがいたし、移籍の経緯からしても、南海時代ほど出番に恵まれるわけもなかった。 といっても当時のロッテは正捕手だった村上公康が膝痛の悪化で77年限りで引退、
残りは前年加入した高橋博士と土肥くらいで、法政大で江川とバッテリーを組んでた袴田を
ドラフト指名したばかりで意外と捕手層は不安があった ロッテの捕手は村上・土肥・榊・高橋の併用で、定まった正捕手はいなかったんだよね
捕手が規定打席に達したのは、昭和46年の醍醐が最後
野村はDHで使うこともあった オリックス・山本由伸が2年連続MVP
パリーグの投手としては、この年まで3年連続の山田久志(阪急)まで遡る >>610
前年の写真名鑑で子供心に「このオッサン、顔色悪いなあ」と思った。
どこかに死の予兆が出てたのかも >>620
日頃から高血圧、かつ50を過ぎても一晩でボトル一本空ける酒豪だった。
当時の新聞記事いわく、キャンプ前に身体作りはしていたものの、いまいち体調が優れない状態だったようだ。 一晩でボトル1本って、ムチャクチャだな
自ら死期を早めているようなもんだから >>622
貴ノ浪は一日に日本酒3升飲んでいた
そりゃ40代であの世に行くわな 「屈辱の一頁」
強力投手陣を擁しながら貧打に泣き、巨人にV5を許した69年の阪神を率いていたのが後藤次男だった。田淵幸一に新人王を獲らせ、江夏豊と
村山実の左右エースだけでなく権藤正利や若生智男のベテラン勢といった、ローテーション投手全員に救援との両用という起用こそあった後藤
だったが、総体的には特徴のある戦略や戦術は少なく「お人好し」「安全運転」のイメージが強かった。
現役時代は打率3割が4回、遊撃と投手以外どこでも断らず守り、愛嬌のある雰囲気と熊本市出身をかけ合わせて“クマさん”と言われていた後藤に
再び監督就任要請の声が掛かったのが77年オフだった。前任の吉田義男は選手に対し体質改善、チームプレーの重要性を説く厳しさを持ち球団に
物を言うタイプだったが、77年の成績不振で求心力を失っていた。後藤の就任は69年2位の実績もさることながら、球団に明るさと和を取り戻す事が
出来るのではないかという点と、野球に精通している点を評価されてのものだった。
前回はスター監督への“つなぎ”といったところだったが、この2回目は三年契約、瓦解したチームを一から立て直して64年以来となる悲願の優勝を
狙うはずだった。
5月に球団ワーストタイの9連敗と2度の4連敗、6月も7連敗で前半戦を終えて既に借金25を数え5位・広島と9.5差と散々だった要因は多々あるが、
中でも山本和行の先発転向で1回目の監督でも行った「全員先発、全員救援」はあまりに時代にそぐわなかった。役割分担が崩れた事で、防御率
リーグ2位で11勝20SPの江本孟紀以外の投手が苦しんだ。古沢憲司が16敗、上田次郎と期待の益山性旭もそれぞれ10敗ずつ、山本も最初は
連勝スタートだったが球宴明けは1勝も出来ず5連敗で5勝10敗という有り様だった。
野手陣はハル・ブリーデンとマイク・ラインバックの両外国人を共に開幕から左膝痛で欠くなど故障者が続出、田淵も腰痛、掛布雅之は死球禍、
中村勝広はアキレス腱とベストメンバーが組めなかった。
後半戦は先発に定着して終盤5連勝した池内豊の奮闘はあったが借金14を上乗せ、8月26日の敗戦で早くも24試合を残しながら前年更新した
ばかりだった最低勝率が確定した。全球団負け越しで特に大洋には甲子園で1勝も出来ず2分け11敗の体たらくで、優勝したヤクルトと30.5差、
5位・中日とも10.5差という球団初の最下位は、80敗に勝率.339という創設以来最低の数字となって表れた。
最終戦後「やっと終わったという感じ。結局ワシに力が無かったんだ」と話した後藤は2回目も一年で退任、“屈辱の一頁”をめくり終えた阪神は
68年以来の外様監督招聘と主砲のトレードに踏み切る大改造に打って出た。 (了) >>625
吉田監督の功績は強打の外人を入れて、田淵の前後の主軸が打てるようになったこと
掛布の抜擢、江夏の放出で投打ともに充実させたことだな
遠井が主軸を打っていた従来の打線も面白かったけどね 掛布の抜擢、そして台頭は大きかったよね
衰えるのも早かったけど だけど機動力を軽視し続け(これは村山時代から)チーム全体の盗塁数も少なく
さらに田淵を始めとするメタボ体型な選手も何人か目立ってたため
阪神部屋と呼ばれてた。
中村勝広や島野くらいしか走れる選手がいなかった。 >>629
野村談
要は、タニマチ球団なのだ。大阪だけでなく全国どこへ遠征に出かけてもタニマチがおり、
選手は連日、彼らに誘われ、夜の街へと出かけてしまう。遠征先のホテルに残っているのは、
いつもマネジャーと私だけだった。なぜ誰も不思議に思わないのだろう。
もちろん、プロ野球は人気商売だ。熱心に応援、後援してくれるファンあってのものである。
しかし阪神は、その一面に甘え切っていた。もし田舎の高校生だった私が阪神に入団していたら、
おそらく今はなかっただろう。 >>630
丹後のおイモちゃんにいきなりお声はかからんよ 何だかんだ言っても、この年は讀賣が優勝しなくて良かったよ 巨人は王・張本にやや衰えが見えてきた年だった
シーズン初めには荒川さんが「王の1000号は私が保証するよ」と語っていたんだけど
柴田・高田・土井のV9メンバーは健在だったんだけどね ザベストテン開始
暴れん坊将軍開始
大河黄金の日日
ピンクレディレコード大賞
キャンディーズ解散
未知との遭遇
スターウォーズ
さらば宇宙戦艦ヤマト
世良公則&ツイストひきがね10週連続1位
ブルートレインブーム
バンバンボールブーム >>625
ま〜たお前かwww
お前、「了」の意味も用法も知らんだろ?
了と書きながら同じスレでまたクソ作文投下したこともある阿呆w
そういうケースは最初の長文の後に書く文言は別の漢字2文字なんだがwww
まあ無知無学が背伸びしてるだけの作文野郎は一生知らずに死ねよw >>636
この年の王は、シーズン中に38歳を迎えた
もしかしたら、シーズン40本×5年とか本気で続けられると
思っていたんだろうかね >>636,641
大洋の本拠地が川崎球場からハマスタに変わったのも少なからず影響したとの評論も。
この頃の王さん、狭い川崎でホームラン量産しているってイメージだったからだろうな。 78年王ホームランスプリット
10号 20試合
20号 57試合
30号 100試合
39号 126試合 77年
10号 40試合
20号 73試合
30号 90試合
40号 106試合
50号 129試合 >>641
>>642
加齢に加えて、本塁打が出にくい環境であること
これはもう仕方がない 王、張本ともオールスターまではよく打っていた
オールスター後に成績を落としているんだよね
シーズン途中から衰えが出てきた感じ
翌年はさらに打てなくなった 83試合
王・・・.304 22HR
張本・.337 13HR
130試合
王・・・.300 39HR
張本・.309 21HR もし巨人が優勝していたら、日本シリーズは阪急が勝っていただろうな
51、52年でも勝てなかった巨人は53年の戦力で阪急に勝つのは難しい >>649
そうなると上田監督続投で近鉄の優勝もなかったかもか だからこそヤクルトが阪急を倒して日本一になった事は衝撃的で痛快だった。
江川事件が勃発するまではっきり言って阪急はヒールチーム扱いされてたし。 それって、あなたが讀賣のファンだから、それを破った阪急憎しという観点で言ってるわけじゃないよね? 阪急は常勝球団になったのに人気がなかった
そこが黄金時代の西武と違うところ
あれだけ一流選手がそろっていたのにね 八重樫が言うには「四タテだけは食らわないようにしないと」と始まる前は思っていたそうだ
選手間でも当時の阪急は最強チームと認識されていた 日本シリーズの第三戦(西宮)で足立がヤクルトを完封して勝った際に
ヒーローインタビューで足立が「シリーズは西宮で終わりますよ」と言ったのが
ヤクルト(特に大杉)を発奮させた。このあたりに当時の阪急の傲慢さが伺えた。 >>654
西武と違って田淵や清原みたいなアマチュア界の大スターが皆無だったからな まあ、西本監督による叩き上げ集団だったからね。その良さは玄人には分かっていたはず。
76年最終戦、足立の力投で初めて巨人を倒した後、NHKラジオで解説だった川上氏が「これで来年は西宮球場にもお客さんが増えるでしょう」と言ってたのははっきり記憶している。
77年は増えてたと思うが。
今のオリックスも弱いところからジワジワ増えてたね。 >>658
大矢が後に言うには第1戦逆転負けしたとはいえ、8回までに5失点とヨレヨレの山Qを9回も続投で完投させたのを観て、
「これなら少なくとも良い勝負出来るかも」と思ったんだそう。 >>661
第1戦もヤクルトに勝機は十分あったな。
安田を引っ張り過ぎた。 西宮の外野が人工芝になって、競輪バンクによる芝のハゲが解消された。
前年までは、外野手はゴロヒットの処理が厄介だったんじゃなかろうか。 ヤクルト優勝年の中日は、9分の8が5位以下
2位 1993
5位 1978 1995 2001 2015 2021
6位 1992 1997 2022