1978年のプロ野球 [転載禁止]©2ch.net
たられば抜いたらこんなスレの存在意義あるのだろうか? だからと言って、讀賣ヲタの戯れ言を正当化する気にはなれん この年こそ巨人優勝して阪急破って日本一なってほしかった。
アニメ版新巨人の星ではそうなったが。 今時アンチ巨人やってる人って貴重だね。昭和の香りがする。 昭和53年のシーズンでは、王・張本の衰えが見え始めた
巨人が阪急に勝つには、昭和51年の日本シリーズがチャンスだった
昭和52年は阪急があまりにも強過ぎた シリーズ前予想じゃ巨人有利の声もあったけどね
…
それでも足立は打てないなとは思ったよ。 阪急や巨人よりもまだ優勝経験の無いヤクルトを日本一にした方が有意義だろう 77年の日シリは森とかほとんどの評論家が巨人の勝ち予想してたよ 78年のシリーズ
稲葉は虫垂炎だかの手術明けと聞いたが真偽は?? >>376
まだ読売の縛りが強かった頃だしな(´・ω・`)
かなり後の1990年の日本シリーズ前予想でもテレ朝ニュースステーションの月曜スポーツコーナーのコメンテーターを務めていた江川が明快に
「西武の4勝1敗」と西武の圧勝予想したのに対して、一般週刊誌面(無論読売とは何の関係も無い)で「巨人OBがそんな夢が無い話をすべき
では無い」云々と江川批判が展開された位で(w
まだ「プロ野球の発展の為には巨人が強くないと」いう考えが深く信じられていた時代の話。 球界最大の英雄である長嶋が
無名の上田に負け続けるという現実を
多くの野球ファンは認める事が出来なかったんだろう。
当然の反応だ。 >>305
この年の阪神ってこんなに勝率悪かったんだな 江本がソフトボールの投げ方でジャイアンツ戦に完投勝利したのって本当?
観た人いる?? >>378
今年広島が日シリで勝てなければ
この雰囲気になりそうな悪感… あの頃とは違って、今は讀賣の栄華など
誰も望んではいない 昭和の香りでもなんでも讀賣なんざ大嫌いよ
若い頃は試合の度に讀賣ファンを殴り倒してたわ 上田が「クラウンは真弓とか若菜とかキャバレーの姉ちゃんみたいな名前なのに、よう打ちよる」とか言ってた 巨人戦中心のナイターもテレビでもちろん見てたが
今井の完全試合とか鈴木と東尾のどちらが先に20勝に到達するかとかラジオで熱中して聴いてた クラウンに15才の練習生が二人いた
吉田大介(福岡市立志賀中→修猷館高定時制→所沢高定時制)
太田浩喜(福岡市立花畑中→修猷館高定時制→所沢高定時制) 5月に八木沢が現役引退コーチ専任、6月に現役復帰ということもあった。
その後ローテに復帰して9月に規定投球回に一瞬到達するが、不振で結局最終規定投球回数に到達できなかった。
代わりに仁科が二番手投手に台頭した年であった。 現役引退コーチ専任→1ヵ月後に現役復帰だなんて、
一体何があったんだ? きっかけは八木沢に対するカネヤン暴言事件。
確か記者団前に「お前はクビだ」と言い放ち、暫く問題になったような。 当時でさえそうなら、今なら大問題だろうな
ヘタしたら、監督のクビが飛ぶw 金田がテレビで言ってたがある日グラウンドに出てきたら、いきなり監督を首になってたとか 昭和53年のロッテは金田監督の暴言が過激化し、采配もおかしくなっていた。
試合中にベンチで選手と怒鳴りあいの喧嘩をすることもあり、選手の心が離れていった 前年に野村が「度重なる公私混同」を理由にクビになったという事実が出来たことで
必然的にどのチームも秩序を守っていかなければならない空気が出来た
そんな中金やんは旧態依然のままで、チームがBクラスが定位置になると
コーチ会議を欠席してゴルフに行ったりして不興を買ってしまった
拾った野村が活躍しなかったこともそんな空気を更に後押ししてしまった 金田さんはチームの調子がいいときは、陽気にチームを盛り上げて、記者たちにも
選手をよくほめるが、チームの調子が悪いと、言動が乱暴になったり、チーム運営や
采配が投げやりになったりする
当時、金田さんの投げやりな態度は、スポーツ新聞でよく批判されていた
>>398
コーチ会議を欠席してゴルフに行くのは酷いね
アトムズ監督時代の別所さんも、指導を豊田さんに任せて、自分は麻雀に興じて、
豊田さんがそんな別所さんの態度に疑問を呈していた
大投手出身の監督は、こうなりがちなのだろうか? 野村もサッチーに会うためにチームを抜け出していたし
長嶋稲尾小山も現役時代、スランプに陥った時のストレス解消法は
移動日にチームから離れてゴルフに行くことだった
そういうのがまかり通っていた世代だったとの解釈も出来るっちゃ出来る 昨夜のヤクルトOB戦に若松、松岡、安田、大矢、八重樫、杉浦らのV1戦士が出場したね
特に癌で余命宣告されていた安田が元気に姿をとりあえず見せてくれてよかった 金田さんや野村さん、長嶋さんと同じ世代でも、榎本喜八さんは真面目な性格で
酒とか女とかゴルフはしなかったらしいね
趣味は猟銃で、スランプになると怒り狂って部屋の中で猟銃を乱射することもあったが、
この真面目さは他の選手も見習うべきであった >>405
息抜きを知らず何事も思い詰める性格でストレスを貯め込んだ末の行動として、戒めとして紹介される事が多いね。
元々3安打しても自分の打撃が出来てないと1人悩み苦しむって性格なのに、永田オーナーの意向で同僚が次から次とトレード放出されてミサイル打線只1人の
生き残りとしてチーム内で孤立化してしまった事とか、自身の加齢に伴う体力気力の衰えとか次から次と難題が降り掛かってきたらね・・・・・・。
1963年をピークに自分(の打撃)は壊れたと言っていた人だし。 臍下丹田に気を集中して打つ優れた打撃理論を持っていた
榎本さんを打撃コーチとして迎えて若手打者の指導をしていれば、長嶋巨人は三連覇できていた 榎本は人付き合いが下手だったし、それはさすがに無い
荒川博と山内和弘くらいにしか交流が無かったし、長嶋をライバル視してた。
(王は荒川道場の弟弟子と見なしてた) >>407
そんなタラレバ、後からだったらナンボでも言えるわなw >>412
お前らの脳内には珍カスと虚カスしかいないのかw
これだから知恵遅れは困る この時代なら鯉カスと竜カスとヤクカスと鯨カスと近カスと急カスと南カスと西カスとガムカスとハムカスもいる ジュリーはレコード大賞連覇を逃し、最優秀歌唱賞と発表された瞬間思いっきり嫌な顔。
受賞式でも「ファンの皆さんごめんなさい。本当に残念です」と発言、最優秀歌唱賞の権威を落とす。
レコード大賞はピンクレディー。 9月6日まで巨人首位。試合消化の違いで実はヤクルトの方が優位だったとあまり気付かれなかった。
9月以降ヤクルトは奇跡的な勝利、巨人はアホな星落とす機会増える。 中日がヤクルト支援に回ったおかげだなw
後年、廣岡がラジオで「あの時は私も随分といい思いをさせてもらった」と語っていた。 セリーグMVPは打率2位の若松だったが、その若松を打撃3部門全てで上回った広島の水谷は、外野手ベストナインにすら選ばれなかった。
(若松以外の外野手ベストナインは、本塁打王の山本ピーコと、39本塁打のマニエル) すいません、すげー適当なこと書いてしまった。水谷はこの頃既に一塁手だった。
意地でも王をベストナインに選んでた時代だから、そりゃ水谷は選ばれないか。 確か1979年、三部門全てで王を上回った大島がベストナインにかすりもしなかった そんなに王ってだけで偉大なら今年1/3イニングだけソフトバンクの一塁を守ってベストナインに選ばれるがいいさ 王が引退した80年は、さすがに首位打者の谷澤がベストナインに選出されたが、
それでも記者陣は打撃30傑中最下位の王に半数近い票を投じていた。 1978年の捕手、大矢が選ばれて、大矢より打撃成績の良かった田淵、木俣、水沼は落ちた。
ヤクルトが優勝しなかったら、多分大矢はかすりもしなかったろうね。 >>200
田淵不振は阪神初の最下位で田淵放出につながって行った >>411
キチガイはお前
榎本にコーチなんて務まるわけがない http://hissi.org/read.php/meikyu/20190722/TlZvOElFTDM.html?name=all&thread=all
板:野球殿堂(仮)
日付:2019/07/22
ID:NVo8IEL3
名前の数:1
スレッド数:12
合計レス数:12 コイツ、NVo8IEL3に親でも殺されたのか
とでも言わんばかりに粘着しているな 8月20日巨人102試合消化 4.5差首位
9月6日巨人115試合消化-0.5差首位転落 以後浮上できず この年も、82年も86年もライバルが試合数を残していて5ゲーム離していても「負け数」が多かった。
今年は逆に残り試合数も多くて負け数もずっと少なかったから、見た目以上に楽だった。 ヤクルトスワローズの日本一
それがあったのは、この年の今日だった 訂正
この年の今日に発生したのは、ヤクルトのリーグ優勝だった
スマン… 野村派の追放で一気に転落した南海だが、この年は只でさえ戦力ダウンの上に
そこに追い打ちをかけるようにチームの中心選手達が故障で成績を落とした。
野手では藤原と門田、特に攻守どちらにも秀でた外野手だった門田がこの年は肩を痛め
翌年のキャンプでのアキレス腱切断で完全に打一本の選手になってしまう。
投手では一番潰しが効く年齢の金城が肝炎再発でシーズンをほぼ棒に振ってしまう。
おまけに広瀬監督らの時代遅れの首脳陣。
捕手の穴は野村の後継者育成に失敗して来たつけが一気に噴出。
こうして見るとなぜ藤田学は前年と同じ16勝もできたのだろうという感じ。 晩年のヨタヨタした守備しか見ていないから、門田が「守備に秀でた」イメージがどうもわかない。 南海も野村一派の集団退団を黙って見ていた訳ではなく、新外国人として
カルロス・メイとボビー・トーランというメジャーでもそこそこ名の通った選手を獲得してはいた。
メイは12HRながら打率.312(チーム最高打率)で打率6位、80打点とクラッチヒッターぶりを発揮したが
トーランはメジャーでアキレス腱を断裂した影響からか全く振るわず(.267 6HR)あえなく解雇に オールスター組織票が批判されて辞退した日ハムの古屋、菅野は
古屋はのちに何度も出場したが菅野は結局出場なしで終わった >>440
トーラン、、名前からしていかにもダメっぽい雰囲気があるなw
トーランがクビになって、王天上が来たのか。 メイはメジャーでも1000試合・1100本安打を記録した実力者で、ベトナム戦争の兵役に就いてた時に
バズーカ砲の暴発事故で右手親指を吹き飛ばされるも、独自の打法でメジャー
(主にホワイトソックスでプレー)を生き延びてた。
トーランはカージナルス時代には68年の日米野球に来日し、その後レッズでビッグレッドマシン最初期メンバーに
名を連ねていた。
アキレス腱を断裂し戦線を長期離脱してレッズからも移籍したが、後にアキレス腱を断裂した門田が
怪我からの復帰話をトーランから聞き、リハビリ中の励みにしてた 75年のAS遠投競争にパ代表の一人として出てる>門田 中日を追い出される形でクラウンライターに移籍したデービスだが、クラウンでも奇行癖は治まらず
遠征先の宿舎のルームキーをそのままかっぱらって福岡へ戻るのを繰り返してた。
ある時、抜き打ちで選手の持ち物検査であった際にデービスの鞄から大量のルームキーが見つかり
「この大量の鍵は何だ?」と聞かれるとデービスは「ルームキーをコレクションするのが趣味なんだ」と
答えたという >>443
チームが弱過ぎた為に日の目を見なかったけど、間違いなくメイは優良助っ人。
退団した翌年の新外人ダットサンがまるで外れだったことを考えると
もう1年メイを残してみてもよかったんじゃないかと思ってしまう。 中日時代のデービスは、俊足の上、長打もあり、実力はあったが、人柄が悪過ぎるので
評判は悪かった。スポーツ新聞にも散々に書かれていた。
練習の態度が非常に悪くて、チームの士気に影響したらしい。
「いくら実力があっても、デービスなんかいないほうがいい」と言われていた。 >>448
アメリカ時代のデービスはどうだったんだろう。
活躍してるから素行には目をつぶってもらえてたのかな。 投手陣が悪いチームは短期決戦は無理と言われてるが
去年・今年の西武で顕著に出てるし
この年のヤクルトはなぜ日シリでそれを覆せたのか
阪急に山口の故障もあったけど 第4戦5点差逆転勝ちが大きかった
あれ阪急が普通に勝ってれば3勝1敗で4連覇間違いなかっただろう >>451
あれ確か打者ヒルトンのところで山田投入のつもりだったらしいね。
なんで結局交代をやめたのか分からないけど、どうもこのシリーズは
阪急に油断があったんじゃないかって感じがする。 上田は山田に交代させるつもりだったが、ナインが「雄ちゃん(今井)に続投させましょう」と説得し、上田も情に絆されたら最悪の結果が生まれた その投手交代の判断ミスが翌日にも響くんだよね。
ブルペンでリリーフ準備O.Kまで仕上げていた山田が翌日先発して、案の定ピリッとしない投球で連敗してしまうわけ。
バカな新聞記者などのマスゴミは「山田は休養十分にも関わらず」などと言う人もいたりしてむかついた。 まあ、それもこれもリリーフエースの山口高志がシリーズ前に故障離脱したのが全て。
山口がいれば監督がリリーフの投手交代に迷うなんて事は無かっただろうに。 同じような継投失敗は1983年の巨人の第6戦でもあったな >>453
後年、取材で、審判に交代を告げてからマウンドへ行けば良かったと後悔を口にしていた。 この年から南海のレギュラー捕手の座をつかんだ黒田。
とにかく打てないけど19死球でリーグ死球王。
ポジションを守るために必死だったんだろうな。
チームは暗黒の時代の幕開けだったけど黒田当人には
まさに千載一遇の世に出る機会だったわけだ。 >>458
黒田は野村追放がターニングポイントになったね
あの後は西武にトレードされて日本一にもなれた
黒い霧事件後の投手不足が切っ掛けでエースになった東尾にも近い >>459
黒田は西武移籍の前年81年は香川、吉田、岩木と併用されるようになって
完全なレギュラーではなくなっていた。一緒に移籍した片平もそうだが
ブレイザー監督の評価があまり高くなかったようで、それが幸い?して
西武に移籍となった。レギュラーのままだったらさすがに南海側もトレードには
応じ無かったろうな。西武移籍で更に黒田は運が開けた。 1番福本70盗塁
2番簑田61盗塁
て、凄いね。
この年に限っては福本よりも簑田の方が凄いと思う。
それは福本は次打者が2番の簑田で盗塁のアシストをしてくれるけど、簑田の後はクリーンナップなわけで
2番打者ほど盗塁のアシストはしてくれない状況での61盗塁だから。 二人で131盗塁って、今にしてみたら凄い数字だよね
チームの盗塁数がこれより下というところが多いから 強いチームには機動力もあるからな
一見豪華でもヒットを四本続けて打たないとホームに帰ってこれない
打線は怖くない >>256
日本一前も人気あったよ。
V9時代は巨人戦しか客が入らなかったが、
最後まで優勝争いしたので、
その翌年初の黒字になり戦国時代になった
巨人戦以外のカードも客が増え、
長嶋巨人との優勝争いで人気定着。
村上ファンドのオッサンが覚えてるスタメンもこの当時。 1985年の近鉄打線もなかなかだ
走れる選手が大石しかいない野球盤打線 最近は外野が定位置で、走者がすぐスタート切れる二死でも
ヒットで二塁から還って来れない場面が増えた気がする。
外野守備が洗練されてダッシュからの送球が早くなったのに
走塁が洗練されてなくてスタートが遅いとかよく見るし(怒) この年の阪急は前年と比べても決して弱くない。
むしろ1、2番が充実して、強化されている印象もある。
日本シリーズでヤクルトが勝てたのは、やはり池沼と呼ばれた広岡監督の采配だったからだろう。 広岡は頭脳的な采配をするからな
見ていて勉強になる >>469
池沼じゃなくて知将じゃないのか
同音異義語でも、意味合いは対極だぞw 江川事件が起きるまでは阪急・ピーマン・北の湖が
3大子供の嫌われ者扱いだった この年に阪急が日本一になっていたら、上田は翌年以降も監督をやっていたのだろうか。 「まさかの退陣」
元々のきっかけは「もうお前は限界だ」と言って、八木沢荘六を強制引退させた事からだった。78年5月26日の日本ハム対ロッテ戦で、8回から
登板したロッテ・八木沢は最終回に2点リードを守り切れず敗戦投手なり、試合後に引退とコーチ専念を発表した。ところが、これは監督である
金田正一による指令だと分かり選手から不満が噴出してしまうと、ロッテは真っ逆さまに落下していった。
八木沢は当時まだ33歳、しかもリーダー格とあって影響力もあった。確かに直近2試合続けて先発で早期KOしていたが、引退発表の時まで
3勝2敗1Sで防御率3.69と平凡な成績という事を考えると、金田特有の投手像と気分によるものだったのか。
78年ロッテの滑り出しはむしろ上々だった。4月に4連勝と7連勝、5月にも5連勝、前年阪急とのプレーオフで最終決戦まで持ち込んだ自信と、
リー兄弟結成による強力打線で4年ぶり優勝もあると思われていた。阪急をピタリと追走し5月15日には貯金12で0.5ゲーム差に迫るほど
だったロッテ、八木沢の一件が起きる前日でも20試合強を残して4差で直接対決も8試合ある状態だっただけに、指揮官の求心力低下は
致命傷となった。5月31日の対阪急で打撃戦を制し5差としたが、6月に入ると前期の閉幕まで1勝も出来ずリーグワーストタイの15連敗まで
喫して5位で終了した。
勢いを失ったチームは後期に入っても今ひとつで5割近辺を上下していたが、皮肉にも後期復帰していた八木沢が完投勝利を挙げた8月22日の
一部スポーツ紙に、重光武雄オーナーの了承を得たとして「金田更迭」の見出しが出ると、翌日から2分けを挟んだ8連敗で終戦した。後期は
最終的に3位ながら借金持ち、まさかのシーズンを過ごした金田は最終戦の試合前に「ワシはもう疲れた」と言って辞表を提出した。
打撃陣でリー兄弟をはじめ山崎裕之、得津高宏らが奮戦したが、規定投球回クリアがわずか2人でリーグ最下位の防御率を記録した投手陣が
足を引っ張った。木樽正明の引退、成田文男の故障、金田留広と三井雅晴はピークを過ぎるなどV戦士の後を育て切れず、大洋からトレードで
来た奥江英幸も4月の移籍後初勝利以降は8連敗で終わり戦力になれなかった。大洋時代74年からの4年間で28勝を挙げ76年には11勝して
いた実績を活かせなかったが、同じ移籍組の野村克也も捕手出場31試合ながらリーグ最多タイの7捕逸に打っても30安打だけと南海時代の
面影はなかった。オフには1年のみ在籍の渡辺秀武と弟・留広を広島へ、野村と山崎を西武へ放出、チームはワンマン体制のお祭り野球から、
山内新体制の手作り野球へと舵を切った。 (了) この年の今日、ライオンズが福岡から所沢への移転を発表 >>476
またお前か
だからプリントアウトして家族に読んでもらえキチガイ >>475
あるいは、日本シリーズでのあの抗議がなかったら、上田氏は翌年以降も監督でいただろうか いずれにしても、この年で一区切りという感じだったのね >>476
コラムさんのレス久々に見るけど相変わらず面白い…
今年は西村と三木が理不尽なクビだし… >>484
西村と三木、どちらも無能ぶりを曝け出していたからね >>474
対象が子どもじゃなくて成人男性(巨人大鵬卵焼き時代の子ども) 普段不人気のパリーグでも西鉄や南海や西武は一時は巨人を食いそうなぐらい人気が出たのに
阪急だけはどんなに勝ち続けてもサッパリ人気が出なかったな >>488
阪急の立地が阪神とかぶるので、集客できなかったんだろうね
上田阪急と同時期の長嶋巨人の人気が高かったので、「巨人を倒す」よりも「長嶋の
巨人に勝ってほしい」ファンのほうが多かったのかも知れない 7月のヤクルト対巨人で凄絶な試合があった
シピンの暴力退場は知られているが
先発ライトが2回でko などで雰囲気が
騒然としていた中で試合が進み
その後大杉が自打球が顔面に当たる
いうアクシデントが発生、当然大杉は退場
さらには代打の伊勢まで顔面自打球で退場と一気に修羅場とかした
伊勢の場合は死球かな?そのあたりは
うろ覚えですまん。
9回裏、巨人の2点リードだったが負けられないヤクルトが粘りに粘って執念で追いつき引き分けに持ちこんだ
代走青木の神スライディングで同点になったはこの試合だったかな
ヤクルトの対巨人戦は角のサヨナラ3ランとかもあって、巨人コンプレックスとか揶揄されていたがこの年だけは払拭できた。広岡さんのおかげたろう >>476
スポーツ新聞でも金田ロッテは散々な書かれようだった
南海から野村が移籍してきて面白いチームだったんだけどね 王貞治の通算800号が8月30日、
今井雄太郎の完全試合が8月31日だったっけ? この年の夏頃の週ベで阪急の選手達が、今年のシリーズの相手はヤクルトだ
と言っている記事が載っていた。まあ実際その通りになったわけだが
この時点では自分達がそのチームに負けるとはまるで思ってない事も伝わってきた >>501
阪急のこの年のスローガンが、
「パーフェクトベースボール」
偶然だぞ! >>505
ペナントレースだけだったら完璧に近かったな、この年の阪急は この年の鈴木啓示の成績はやっぱり何度見てもすごい
最多勝25、最優秀防御率2.02、最多奪三振178 30完投 8完封
普通に見てMVPも妥当なのに、結局最後の大事なとこで負けちゃう・・・ 鈴木啓示はすごいんだけど、「パリーグの弱いチームのワンマンエース」を脱しきれ
なかったと思う。ライオンズの東尾もそうだったが、西武になってからは次第に
常勝チームの大黒柱の風格が出てきた。 阪急の後継球団とヤクルトが共にリーグ優勝は今年で3回目
(初回はこの年) 意外だったが、阪急の中沢はこの年初のベストナイン&ダイヤモンドグラブ賞
ダイヤモンドグラブ賞はこの年の一回きりだった >>511
そして、今年の日本シリーズはこの両チームの対戦となった
そういえばこの年も、日本シリーズで神宮を使えなかったんだよね >>511
今年で3回目だけど、今回もヤクルトの日本一で幕を閉じた ヤクルトは日本シリーズに出る機会は多くないが
出た時には何かを起こす可能性を秘めているのはこの時から受け継がれてるのかなと
監督森時代の西武の日シリでの連勝記録と今回セ球団の日シリでの連敗記録を止めたし >>515
そもそもヤクルトは日シリに8回出て6回も制覇してるというのがかなり凄い印象…
昨日の川端のタイムリーと清水は神がかりすぎたな… 黄金期阪急に勝ったのが広岡ヤクルト
黄金期西武に勝ったのが野村ヤクルト
だね この年のヤクルトがここまで強くなったのが謎
前任の監督が育成を頑張っていたという話も聞かないんだけどね 76年序盤で荒川が辞任し後任として広岡が監督になり、食事改善とか
いろいろやり出したのがきっかけ。また、日本ハムから移籍してきた大杉が
やっとセリーグに順応するようになったのも >>515
地味に巨人以外のセリーグ球団が久しぶりに日本一になるケースもヤクルトが当てはまることが多い感がある >>518
前年の若松大杉マニエルの数字見てみなよ
3人の打率打点本塁打はチームレコードとしていずれも20年ぐらい破られなかった
こんな核がいてキャッチャーがリーグナンバーワン大矢 後は投手だけじゃん マニエルが打つようになったのが大きいな
1年目はあまり打てなかったが、2年目以降強打者になった
マニエルを切ったとたん、弱くなった ヤクルトって、過去7回中5回は優勝翌年がBクラスなんだよね。何でこう反動が来るんだろうか?
来年に関しては、万に一つも崩れる要素がないが。
2002年は2位だったが、優勝した巨人に10勝18敗と大きく負け越したので決して見てくれは良くない。
1978→79(6位)
1992→93(1位)
1993→94(4位)
1995→96(4位)
1997→98(4位)
2001→02(2位)
2015→16(5位)
2021→22(??) >>523
八重樫が今だから言えると回想していたが
「日本一の翌年に最下位になったのはマニエル放出が原因じゃない。
シーズンオフはサイン会やイベントで副収入を稼ぐチャンスだったのに
それを秋期練習で潰された事だった。あれで「広岡監督はもういいや」という
空気がチームに蔓延した」そうだ >>519
セリーグに順応したからではなく、
移籍後荒川のダウンスイングに取り入れたが合わず、
本来のバッティングに戻して打てるようになった。 >>524
当時は年俸がそれほど高くないから、副収入は貴重だったのかもな
後の西武くらい年俸が高ければ、副収入がなくてもいいかも知れないが 堀内が1度だけ20勝した年のオフはサイン会しまくって翌年成績ガタ落ち >>524
V旅行で選手本人以外費用が自己負担だったせいで
翌年以降やる気を失った近鉄みたいなもんか >>526
西武の場合は選手のCM出演禁止とかやっていたけど
「結果を出せば年俸を上げてやる」という方針だったので
そのやり方は広岡監督に合っていたんだと思う
山崎裕之の回想だと1982年は数字だけなら減俸されてもおかしくないのに
「こんなに上げてもらって良いの?」と思ったほど景気よく給料を上げてもらえたそうだ >>526
掛布が若虎としてブレイクしてTV等に呼ばれたギャラを貯めこんだら
フェラーリを買える位の金額になったと言っていた まさに、チリも積もれば山となる
というパターンだね >>523
広岡の時はフロントとの内戦でチームが瓦解
野村の時は監督の慢心
真中の時は元々乏しい戦力での僅差の勝利で翌年Bクラスは特に不思議じゃない
>>524
そもそも広岡は78年の日本一を置き土産に勝ち逃げする気だったし
オーナーの松園・社長の佐藤もさっさと武上を監督にしたいからどうぞどうぞって感じだったのが
フジサンケイが「優勝監督を辞めさすと体面が悪い」と言って続投させ
広岡が「俺の好きなようにやらせてもらえるなら続投」と言ってやりたいようにやってフロント&選手と大揉めしたからな 体裁じゃなくてあのシリーズで記録した視聴率45.6%だよ
共同経営者の水野成夫が倒れた瞬間に球団を売っぱらったほど
大の野球嫌いで知られたフジ社長・鹿内信隆も「広岡という男は絶対に必要だ、
お前ら広岡を辞めさせたらクビだ」と関根潤三とアナウンサーの深澤弘を脅し、
この二人で何とか残留を翻意させた。
(越智正典「巨人を超えた男より) >>528
Jスポの番組で金村が面白おかしく語っていたね この年から初めて開幕戦から野球を見るようになった。
開幕間もないころの巨人中日戦で梅田が土井に2塁ベース付近でケリを見舞ったのは
小学生の自分にはショックだったな >>540
梅田の気の短さと喧嘩っ早さは有名
前々年にいたローンと梅田は他球団からしたら別の意味で驚異だったな >>541
開幕からずっこけ、5月まで阪神と最下位争いしている状態と大きく出遅れたのが尾を引いた恰好。
この年は前年からお試し的にショートを守らせていた高橋慶彦をコーチ陣の反対を押し切って、三村に代わるショートに固定した年なんだけど、
再三の不味い守備でフィールディングに不安を抱いていたコーチ陣の予想が的中し、その悪影響が守備陣全体にまで波及し、それが攻撃面でも
前年まで盗塁王争いしていた衣笠が12連続盗塁死を記録したりと散々で、優勝への切り札として金銭トレードで「敢えて」獲得した筈の江夏も
セーブ失敗が目立ったりと、どうにも投打が噛み合わない状態がオールスター前まで続き、王を遥かに上回るペースでホームランを量産していた
ギャレットの一発のみがせめての慰めといった感じだった。
古葉監督が慶彦に「お前がレギュラーに完全定着するか、俺が首になるか、どっちが先になるかだぞ!」とハッパを掛けたのはこの頃と思われる。
そんな状態はオールスター後に一変し、浩二がギャレットに追い付き追い越すペースでホームランを量産し出したのを契機として、連日打線爆発で
首位争いしていた巨人・ヤクルトに割って入る勢いで一時はカープの大逆転優勝すら囁かれる様になった、と同時にあまりの打線の爆発振りに、
スパイ(サイン盗み)疑惑を(長嶋好きの)雑誌メディアが公然と取り上げ出す訳だが、シーズン当初の大きな出遅れとそこからの建て直しに手間取った
事が響いて、3位に付けるのがやっとで終わった。
只、この快進撃振りからシーズン終盤には翌年以降のカープ黄金期到来を誰もが予想するまでになった。
で、長嶋巨人がそんなカープを恐れてローテをヤクルト戦中心からカープ戦中心に組み換えた事で、巨人に離され掛かったヤクルトが息を吹き返して
優勝に辿り着いたと青田昇氏が発言している。
この年後半のカープの打線爆発&快進撃を観て、カープファンになった人なんでよく覚えている。 >>540
その場面は自分もテレビ中継で見ていた
二塁手の土井と走者の梅田が交錯して、梅田が突然切れて、土井の大腿あたりを蹴っ飛ばした
V9戦士で大ベテランの土井に無名選手が何てことをと、子供ながらに思った
梅田は退場になったが、コーチになだめられてベンチへ帰って行った
土井は驚いた表情だったな 土井正三は、ダイヤモンドグラブ賞に、キャリア3番目の高打率、リーグ最多犠打と、上々の成績を残したのに、リーグ最終戦から僅か一週間で引退決意し(させられ)た。
日米野球でもほとんど出場がなかった。 そこまでされたら、普通なら長嶋のことを忌み嫌いそうなんだけどね 昔の選手は余力を残して引退することが多かった
大洋の基も代打中心とは言え.345で引退だもの >>547
恨むなら球団代表じゃないかな。
>>548
余力残し過ぎ、本人は年俸アップを目論むほどの好成績なので。 >>548
130試合制で122安打も打ってコーチ修行のために引退した藤原満
そして監督手形はダイエーにパクられた
本人は新しいことを始めるにあたってまったく躊躇はなかったと言ってはいるが >>546
土井は引退に不服でまだ現役を続けたかったらしい
だが、球団幹部から「現役を続けるのも引退してコーチになるのも、巨人軍に奉公することでは同じ」
と言われて引退させられたらしい そう考えると他球団でも現役を続けられる近年の巨人勢は実はまだマシな扱いなのかもしれん 山倉入団で3番手捕手〜4番手に序列を落とした矢沢正もこの年ひっそりと引退してる。
堀内と相性が良かったのに >>551
そこまで言われて、讀賣に奉公なんかしてやる義理も義務もないけどね
仮に自分がその立場だったなら、二度と讀賣に関わろうとは思わない
それぐらいの愚行だよ それでもオリックス監督の3年間以外は、ずっと巨人のコーチか読売系の解説者で
面倒見てくれたわけだしね
ケツまくってよそに行って(そもそもこの時代に36歳ベテランを取ってくれるかどうかも怪しい)
数年現役を延ばしたとしても、その後の野球人生が保証されるわけでなし
理論は確かだとしても、人脈も人気も少ない職人肌だけに >>557
淡口も引退後は1990〜2005年まで巨人のコーチだったし
あくまで推測だけど定岡の身代わりでトレードされた時に
「引退後は巨人で面倒を見る」と条件をつけたんじゃないかって気がする >>556
自分もその話を聞いたときは無茶苦茶腹が立ったんだ
V9戦士に対して何て言い草だと思ったよ
でも、土井クラスの実績の内野手って、他球団(特にパリーグ)では年俸は安いんだよね
巨人の選手だからこそ、そこそこの年俸をもらえていた
当時は解説者の口も多くて、読売グループにいれば引退後も安泰だった
「巨人軍に奉公」に対する恩恵が大きいから、こういう高飛車な言い草になったのかも 他のチームで、土井を欲しがりそうなところもあまりないかな。
強いて言えば、山崎を出したロッテか。
>>559
淡口は引退年の日シリで、巨人相手にそこそこ頑張っていたんだが、終了後あっさり引退して巨人に戻ったな。
羽田・栗橋の引退は、確かシリーズ中継の中でも言及があったが、淡口は引退するとは思わなかった。 V9戦士でもやめて一切巨人読売の世話にならず自分で喰ってけそうなのは
ONとあとはナボナの婿くらいなのかねえ V9戦士で引退後に巨人と縁を切ったというと広岡、森 最初は読売で仕事してたが、次第に疎遠になったのなら、黒江もそうか 森、黒江は昭和40年代に1000万プレーヤーだったんだよな
当時1000万取れたのはチームの主砲やエースクラスだったので、巨人のメリットが大きい
森は引退直後は日本テレビで巨人戦の解説をしていたから、当初は読売人脈にいたのだろう
広岡に誘われてヤクルトのコーチになってから、読売から離れていった >>563
ナボナのかね → 国松さまのおとおりだい! >>560
以前も書いたが土井正博より土井正三の方が有名だからな
巨人のネームバリューは大きい 川上が藤田の後任に国松推薦してナベツネの信頼失って長島復帰 土井正博は「太平洋の土井」「クラウンの土井」と呼ばれていたな
太平洋なんか滅多にテレビ中継がないので見たこともなくて、
「太平洋にも土井がいるのか」くらいしかわからなかった
あんなに実績のある選手なのに 土井はこの年久しぶりに3割を打って好調だった
長池や大杉ほど目立たないけど、「主力打者としては合格」というラインを長く続けた選手だね 阪神編のイメージのないがんばれ!!タブチくんが始まった年
同時にヒロオカのヤクルト時代も描かれて
阪急の藁人形を五寸釘で打つ場面もあった
両者が西武で合流するとは >>575
ヒロオカは惨敗とウエダ監督のイヤミな談話の報復に阪急電車に置き石をはかるが
「スキのない」阪急の警備に阻まれる というネタもあった
さらに タブチが阪神電車に置き石しようとして同じ目的のフルサワにばったり会うが
「ここはダメですよ エナツさんのナワバリらしいから」 というネタも
ほどなくして実際に置き石でひっくり返ったのは野球に関係ない京阪電車だった >>562
土井ってV9時代の巨人みたいにチーム全体の意識が高くてレベルの高い野球をするチームでしか生きないように感じる
パリーグの大味な野球をするチームに行ったら、単に非力な守備固め要員にしかならないかも
土井自身も「巨人ではこんな低レベルじゃなかった!」って不満が残るだろうね >>569
さらに土井正博自身がイメージと違って豪傑キャラでなく、
ひたすら目立ちたくないタイプの選手だったから余計に目立たなくなった
チームの顔みたいな扱いをされるのも嫌がっていて、
近鉄ではその役割を鈴木啓示が請け負ってたんだとさ
これは鈴木自身の証言 >>18
こうして見ると、大下剛史って、前世代なんだなって思う。
まあ、そもそも広島って言うよりも東映の人だしね。 >>137
逆じゃないか? 人気投票でことごとく日本ハムの選手が選出されている中、それでも人気投票選出した福本は凄いってことでしょ。
他球団もスターがいないポジションだけど、その中で菅野が選出される実績も無いし。甲子園のスターだったとかの裏づけも無いし。 >>550
まあでも、親会社がそのままだったら、監督もあったんじゃないかって人なら福本や山田久志とかもいるしね。変わったところで可能性が途絶えてしまうのは悲惨さは薄い気がする。
山田久志は、他球団だけど監督にはなれたし。なれる人にはどんな形であれ、巡ってくるよ。 >>588
ただ、山田の場合は中日で監督になったはいいが、周囲は全て敵という
四面楚歌状態だったからね >>593
この球団の場合は、山内でも同じような感じになったと言われているくらいのところだから、まあそんなところなんじゃない?
こういう現役時代、チームに所属した経験の無い人が監督になれるチームであると同時にその条件の方が就任しても、非協力的なのが問題なだけで。
ただ、自分が所属した親会社のチームが消滅したにも関わらず監督まで出来たのは凄いことなんじゃないかなと言うことで。 伝統がある(かどうかは知らんけど、古いことだけを自慢にしている)球団だからか、
生え抜き以外には排他的だとか、そういうことがありがちだよね >>585
土井の現役時代は孤高の人っぽいイメージがあったな
東映の張本みたいに子分を連れて親分になったりしない
でも、大毎の榎本のような変人ではなくて、選手間の人望はある >>600
そしてそれは、土井氏が指導者になっても変わっていないよね 800号
1時間19分の講義
江川事件
この3つだよな 横浜スタジアム開場
今井雄太郎完全試合
西武ライオンズ誕生、福岡から所沢に移転
オールスター日本ハム組織票 横綱ネタ 王貞治800号、上田監督猛抗議、江川空白の一日
大関ネタ 今井完全試合、クラウン身売り西武へ
関脇ネタ 田淵西武へトレード、ヤクルト初優勝
小結ネタ 横浜球場開場、日ハム組織票事件
前頭 ラジオ関東ジャック、阪神球団初の最下位 この年から、センターカメラからのテレビ中継が本格化 クラウンの江田孝投手コーチがキャンプで急死。
後任には浦田直治二軍コーチが昇格したが、捕手出身。
一軍にはコーチ3人のみ、二軍には2人のみ(監督除く)。コーチを雇うお金がなかったんだろうなあ。
西武になった翌年、一軍コーチ5人に増えたが、浦田は何故か投手コーチのままで、新任のバーノン・ロー(元中日のバンスローの父親)はバッテリーコーチだった。
二軍コーチは2人のままだった。 >>96
作文野郎しつこいな
他の奴らがこんな長文レスしてるか?
雑談掲示板の空気読め
100歩譲ってお前がこのスレ立てたならまだ許せるけど違うだろ?
ここはお前の自己顕示欲丸出しの作文発表会場じゃねえんだよ この年から野村がロッテに移籍したんだよな
当初は「打率2割8分、30本」を目指していたが、かなり衰えが見えた年だね
でも、シーズン後半で4番も打って活躍する場面もあった 8月31日の今井雄太郎完全試合には、野村は出てなかったのよね。
この年の後期のロッテの捕手陣は、高橋メインに、野村・土肥・榊とあわせ4人を交代で使っており、31日の阪急戦ではそもそもベンチに入っていなかったんではないか。
完全試合阻止するにはうってつけの打者なわけで。 >>612
43歳シーズンでその目標値はちょっと高すぎる気がする >>613
「コーちゃん、わしをうちとったらノーヒットノーランやな」
「…はい(ニッコリ)」
独特の「ノムさん語り」に動揺したか、太田は四球を与えた…
例によって某漫画のシーンだが
いくら当時のパでも 打席でささやいてもピッチャーには聞こえませぬ
「ほほう、今年あたりクビになるかと思ったら今井もえらなったもんやのう、中沢よ」
中沢(ぶつけろ) >>614
1975年には28本打ってたとはいえ、以降は30本とは程遠くなってたし、明らかに打率がガクンと落ちていたからね。
ロッテは捕手の層も厚く、指名打者にはリーがいたし、移籍の経緯からしても、南海時代ほど出番に恵まれるわけもなかった。 といっても当時のロッテは正捕手だった村上公康が膝痛の悪化で77年限りで引退、
残りは前年加入した高橋博士と土肥くらいで、法政大で江川とバッテリーを組んでた袴田を
ドラフト指名したばかりで意外と捕手層は不安があった ロッテの捕手は村上・土肥・榊・高橋の併用で、定まった正捕手はいなかったんだよね
捕手が規定打席に達したのは、昭和46年の醍醐が最後
野村はDHで使うこともあった オリックス・山本由伸が2年連続MVP
パリーグの投手としては、この年まで3年連続の山田久志(阪急)まで遡る >>610
前年の写真名鑑で子供心に「このオッサン、顔色悪いなあ」と思った。
どこかに死の予兆が出てたのかも >>620
日頃から高血圧、かつ50を過ぎても一晩でボトル一本空ける酒豪だった。
当時の新聞記事いわく、キャンプ前に身体作りはしていたものの、いまいち体調が優れない状態だったようだ。 一晩でボトル1本って、ムチャクチャだな
自ら死期を早めているようなもんだから >>622
貴ノ浪は一日に日本酒3升飲んでいた
そりゃ40代であの世に行くわな 「屈辱の一頁」
強力投手陣を擁しながら貧打に泣き、巨人にV5を許した69年の阪神を率いていたのが後藤次男だった。田淵幸一に新人王を獲らせ、江夏豊と
村山実の左右エースだけでなく権藤正利や若生智男のベテラン勢といった、ローテーション投手全員に救援との両用という起用こそあった後藤
だったが、総体的には特徴のある戦略や戦術は少なく「お人好し」「安全運転」のイメージが強かった。
現役時代は打率3割が4回、遊撃と投手以外どこでも断らず守り、愛嬌のある雰囲気と熊本市出身をかけ合わせて“クマさん”と言われていた後藤に
再び監督就任要請の声が掛かったのが77年オフだった。前任の吉田義男は選手に対し体質改善、チームプレーの重要性を説く厳しさを持ち球団に
物を言うタイプだったが、77年の成績不振で求心力を失っていた。後藤の就任は69年2位の実績もさることながら、球団に明るさと和を取り戻す事が
出来るのではないかという点と、野球に精通している点を評価されてのものだった。
前回はスター監督への“つなぎ”といったところだったが、この2回目は三年契約、瓦解したチームを一から立て直して64年以来となる悲願の優勝を
狙うはずだった。
5月に球団ワーストタイの9連敗と2度の4連敗、6月も7連敗で前半戦を終えて既に借金25を数え5位・広島と9.5差と散々だった要因は多々あるが、
中でも山本和行の先発転向で1回目の監督でも行った「全員先発、全員救援」はあまりに時代にそぐわなかった。役割分担が崩れた事で、防御率
リーグ2位で11勝20SPの江本孟紀以外の投手が苦しんだ。古沢憲司が16敗、上田次郎と期待の益山性旭もそれぞれ10敗ずつ、山本も最初は
連勝スタートだったが球宴明けは1勝も出来ず5連敗で5勝10敗という有り様だった。
野手陣はハル・ブリーデンとマイク・ラインバックの両外国人を共に開幕から左膝痛で欠くなど故障者が続出、田淵も腰痛、掛布雅之は死球禍、
中村勝広はアキレス腱とベストメンバーが組めなかった。
後半戦は先発に定着して終盤5連勝した池内豊の奮闘はあったが借金14を上乗せ、8月26日の敗戦で早くも24試合を残しながら前年更新した
ばかりだった最低勝率が確定した。全球団負け越しで特に大洋には甲子園で1勝も出来ず2分け11敗の体たらくで、優勝したヤクルトと30.5差、
5位・中日とも10.5差という球団初の最下位は、80敗に勝率.339という創設以来最低の数字となって表れた。
最終戦後「やっと終わったという感じ。結局ワシに力が無かったんだ」と話した後藤は2回目も一年で退任、“屈辱の一頁”をめくり終えた阪神は
68年以来の外様監督招聘と主砲のトレードに踏み切る大改造に打って出た。 (了) >>625
吉田監督の功績は強打の外人を入れて、田淵の前後の主軸が打てるようになったこと
掛布の抜擢、江夏の放出で投打ともに充実させたことだな
遠井が主軸を打っていた従来の打線も面白かったけどね 掛布の抜擢、そして台頭は大きかったよね
衰えるのも早かったけど だけど機動力を軽視し続け(これは村山時代から)チーム全体の盗塁数も少なく
さらに田淵を始めとするメタボ体型な選手も何人か目立ってたため
阪神部屋と呼ばれてた。
中村勝広や島野くらいしか走れる選手がいなかった。 >>629
野村談
要は、タニマチ球団なのだ。大阪だけでなく全国どこへ遠征に出かけてもタニマチがおり、
選手は連日、彼らに誘われ、夜の街へと出かけてしまう。遠征先のホテルに残っているのは、
いつもマネジャーと私だけだった。なぜ誰も不思議に思わないのだろう。
もちろん、プロ野球は人気商売だ。熱心に応援、後援してくれるファンあってのものである。
しかし阪神は、その一面に甘え切っていた。もし田舎の高校生だった私が阪神に入団していたら、
おそらく今はなかっただろう。 >>630
丹後のおイモちゃんにいきなりお声はかからんよ 何だかんだ言っても、この年は讀賣が優勝しなくて良かったよ 巨人は王・張本にやや衰えが見えてきた年だった
シーズン初めには荒川さんが「王の1000号は私が保証するよ」と語っていたんだけど
柴田・高田・土井のV9メンバーは健在だったんだけどね ザベストテン開始
暴れん坊将軍開始
大河黄金の日日
ピンクレディレコード大賞
キャンディーズ解散
未知との遭遇
スターウォーズ
さらば宇宙戦艦ヤマト
世良公則&ツイストひきがね10週連続1位
ブルートレインブーム
バンバンボールブーム >>625
ま〜たお前かwww
お前、「了」の意味も用法も知らんだろ?
了と書きながら同じスレでまたクソ作文投下したこともある阿呆w
そういうケースは最初の長文の後に書く文言は別の漢字2文字なんだがwww
まあ無知無学が背伸びしてるだけの作文野郎は一生知らずに死ねよw >>636
この年の王は、シーズン中に38歳を迎えた
もしかしたら、シーズン40本×5年とか本気で続けられると
思っていたんだろうかね >>636,641
大洋の本拠地が川崎球場からハマスタに変わったのも少なからず影響したとの評論も。
この頃の王さん、狭い川崎でホームラン量産しているってイメージだったからだろうな。 78年王ホームランスプリット
10号 20試合
20号 57試合
30号 100試合
39号 126試合 77年
10号 40試合
20号 73試合
30号 90試合
40号 106試合
50号 129試合 >>641
>>642
加齢に加えて、本塁打が出にくい環境であること
これはもう仕方がない 王、張本ともオールスターまではよく打っていた
オールスター後に成績を落としているんだよね
シーズン途中から衰えが出てきた感じ
翌年はさらに打てなくなった 83試合
王・・・.304 22HR
張本・.337 13HR
130試合
王・・・.300 39HR
張本・.309 21HR もし巨人が優勝していたら、日本シリーズは阪急が勝っていただろうな
51、52年でも勝てなかった巨人は53年の戦力で阪急に勝つのは難しい >>649
そうなると上田監督続投で近鉄の優勝もなかったかもか だからこそヤクルトが阪急を倒して日本一になった事は衝撃的で痛快だった。
江川事件が勃発するまではっきり言って阪急はヒールチーム扱いされてたし。 それって、あなたが讀賣のファンだから、それを破った阪急憎しという観点で言ってるわけじゃないよね? 阪急は常勝球団になったのに人気がなかった
そこが黄金時代の西武と違うところ
あれだけ一流選手がそろっていたのにね 八重樫が言うには「四タテだけは食らわないようにしないと」と始まる前は思っていたそうだ
選手間でも当時の阪急は最強チームと認識されていた 日本シリーズの第三戦(西宮)で足立がヤクルトを完封して勝った際に
ヒーローインタビューで足立が「シリーズは西宮で終わりますよ」と言ったのが
ヤクルト(特に大杉)を発奮させた。このあたりに当時の阪急の傲慢さが伺えた。 >>654
西武と違って田淵や清原みたいなアマチュア界の大スターが皆無だったからな まあ、西本監督による叩き上げ集団だったからね。その良さは玄人には分かっていたはず。
76年最終戦、足立の力投で初めて巨人を倒した後、NHKラジオで解説だった川上氏が「これで来年は西宮球場にもお客さんが増えるでしょう」と言ってたのははっきり記憶している。
77年は増えてたと思うが。
今のオリックスも弱いところからジワジワ増えてたね。 >>658
大矢が後に言うには第1戦逆転負けしたとはいえ、8回までに5失点とヨレヨレの山Qを9回も続投で完投させたのを観て、
「これなら少なくとも良い勝負出来るかも」と思ったんだそう。 >>661
第1戦もヤクルトに勝機は十分あったな。
安田を引っ張り過ぎた。 西宮の外野が人工芝になって、競輪バンクによる芝のハゲが解消された。
前年までは、外野手はゴロヒットの処理が厄介だったんじゃなかろうか。 ヤクルト優勝年の中日は、9分の8が5位以下
2位 1993
5位 1978 1995 2001 2015 2021
6位 1992 1997 2022