【毎日大毎ロッテ】 オリオンズ 【川崎宮城南千住】 [転載禁止]©2ch.net
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栄光のオリオンズについて語ってくれ!!
「あんな場面でスクイズを指示する馬鹿がどこにいるんだ!!」 なぜ田丸仁というアマチュア畑の人間を監督に据えたのだろう。
国鉄が砂押監督にしてた時点で時代遅れだったのだが
小山のリタイアなどもあったが案の定1年しか持たなかったが >>56
後楽園がオリオンズの正式なホーム球場だった時代もあるんだよなあ
金やんロッテは70年代のホームレス時代にもたまに同球場での主催公式戦をさせてもらってたらしいな
本来の主である日ハムをビジター扱いにしての公式戦もやったことあるのだろうか >>35
横浜、ロッテというとアレだが、大洋-大毎なら日本シリーズの顔合わせでもあったんだな
この時も74年も主催球場は後楽園
東京球場と千葉マリンで初めて単独本拠地での開催という、関東圏の流浪球団、一時避難所が宮城 >>61
あったよ。
ちなみに73〜77年における後楽園での両球団の対戦は新聞縮刷版で確認しない限り、
どっちがホームでどっちがビジターだかわからないw
神宮でも同じことが言えるが。 G+で広島時代を見たが、変わった投げ方してたな…肩や腰に負担かからんかな大洋の小谷正勝が60キロ台のスローボール投げたがそれより遅いのか…
>>49
> 金田留広は投球間隔が無茶苦茶短かった印象
> あと凄かったのはスローボール
> 晩年のカープ時代、ナゴヤ球場のスピードガンで50km/hを出したことがあった >>42
大洋球団の経営に堤が絡んだのも影響したんだろうな。
謙吉が急死したために堤はその中村が関与していたライオンズ買収に動いた。 ロッテが韓国でやり放題…日本企業が気付かない間に日本のお菓子を次々丸パクリ。グリコがついに提訴 [転載禁止](c)2ch.net
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1422712100/ 西武が上井草に野球場を持っていたらしいですね。
もっと活用して欲しかった。 \ おさかなくわえたマドロック〜おっかけて〜 /
\ はだしで かけてく 陽気な 有藤〜 /
∧ ∧ ∧ ∧
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東京スタジアム時代は川崎時代より更に酷くて
土日でも1万人を超えるのが極めて稀な位にガラガラだった 1万とかあり得ないだろ
雨の川崎で公式発表500というのがあったよ
どう見ても中止なのにtvkで中継があったので強行した >>73
川崎時代も東京時代も水増し。
70年の優勝時は2万人越えた試合が優勝決定試合だけ。
その前日ですら1万人を切ってる 今は1人単位まで数えるから東京ドームの巨人戦も55000人とかウソ言えなくなったね >>70
戦前に東京セネタースの経営に携わった旧西武鉄道が所有していた球場。
戦後に旧西武が武蔵野鉄道と合併して現在の西武鉄道に。
1950年にパリーグの公式戦が開催されたのが最後で、
その後、西武から東京都に売却されて取り壊された。 ロッテが仙台を(準)本拠地にしていた70年代、ようやく野球を覚えたての子供だった。
たしか「ロッテバブルボーイズ」という子供対象のファンクラブがあり、年会費2〜3千円(うろ覚え)を払えば、外野席が1年間無料だったはず。
もっとも、そんなファンクラブに入らなくても、どっかのスキマからただで入れたような気も?
宮城球場は意外と立派で、「スコアボードの点数のところが電光掲示板なのは、後楽園球場と宮城球場の2つだけなんだぜ」と友達に知ったかぶりをしていた覚えがある。
父親にたまに連れて行ってもらうのが楽しみで、スタンドに向かう階段の踊り場の売店で「素うどん」を買っていくのが定番だった。
応援の様子はあまり覚えてないが、確か、ベンチの上でおっさんが笛を吹きながら音頭を取っていたような…。
現在の応援のような盛り上がりは全くといっていいくらいなく、皆、適当に野球を見て、かなりドギツイ野次を飛ばしていた。
東北新幹線もまだなく、上野−仙台間が特急で4時間もかかっていた時代。
そのせいか、やたらダブルヘッダーが多く、2試合目はすっかり惰性で観戦。
しかし当時のロッテは意外にもなかなか強く、仙台最後の年はリーグ優勝を果たして、当然、日本シリーズは仙台で…と
思っていたのに収容人数が少ないという理由で、1試合もやらずじまい。
おまけに仙台を去るということも重なり、最終戦での金田監督の挨拶に対しては、それはもうすごい罵声がとんでいた記憶がある。 千葉ロッテX西武 1992/6/2 (県営宮城球場)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5154027
改装前の宮城球場が見れるYO! >>77
スコアボードの点数が電光なのに、選手や審判名が雄渾な毛筆フォントなのが
何とも趣があって良かった。 ハムとロッテは少年FCに豪華な景品を配って話題になったね
その頃の少年たちは今もファンなのかな? >>77
仙台ラストイヤーはプレーオフで阪急に敗れ、さらに年間通算成績でも南海に抜かれて3位だったよ 仙台でシリーズをやる可能性があった(やるはずだった)のは昭和49年だな。
東京スタヂアムもそうだったけど、時代が早すぎたね。
東北新幹線開業後なら仙台定着もあったかもしれないが、開業直後はまだ
大宮が発着駅だったから結局移動が面倒だとかで関東に戻ってきたか。 クラウンライターといい仙台ロッテといい新幹線の恩恵を
受けずに、もしくはちょっとしか受けずに移転しちゃったよ。 >>81
1981年もプレーオフでまけて日ハム、阪急に次いで勝率3位だった。 >>83
クラウンどころか太平洋のときに(1975年)博多まで開業してるが 乞食とヤクザと在日の街・川崎も、今はラゾーナとかできて
多少はイメージが明るくなった
球場があるほうはどうなってる?銀柳街とかいう商店街はまだあるの? 銀柳街やその周辺の商店街もチェーン店が増えて
昔みたいなやばさはもう皆無。
小美屋・西武に続いてさいかやが閉店で川崎駅前から百貨店が消える 昔、西武と丸井が入ってるビルがあったね
友達がさいか屋で働いてたんだけど、性格が悪い女が多くて鬱になってたわ
結構昔からハロウィンパレードをやってたね
神奈川最古かな? 子供の頃(小学校低学年の時)、親と一緒に川崎駅の駅ビルのペコちゃんで
ペコちゃんサンデーを食べるのが、大好きだった。
小学校高学年の頃は、モアーズにあったジャンボパフェにはまってた。
大学時代は、バイトが終わったらコミヤの地下のとんかつ弁当をよく食べてた。
ロッテの試合を見た後、「1ドルラーメン 2ドルカレーライス」の店で飯食ったこともあった。
今はもう全部ないけど。 我が物顔で暴走するチャリ、うつろな目で歩くホームレス、
オーストリッチのセカンドバックを持った、いかにも怪しげなフィリピン人女と歩くおっさん、
トラサルディなどの「ヤートラ」ファッションに身を包み携帯を持ち歩くやーさん、
髪の毛が金色でスカートの下にジャージをはいてる女子高生
エンドレスに上から降り注いでくる「銀柳街」のテーマソング・・・・
誰が何と言おうと俺はこんな川崎が大好きだったぜ・・・ >>89
川崎おかだやモアーズってあったよね
横浜のモアーズは何とか生き残ってるけど
真夏、川崎にイースタンリーグを観に行ったことがあった
球場近くで顔が真っ黒のホームレスとボーダーな人が屋台出して磯辺焼きを
売っていた
真夏の昼間に磯辺焼き!?と驚いたが、プール帰りの子供が買ってたよ
何だか不思議な光景であった >>90
昔は駅前に停まってる893の車にはカッティングシートで
“稲川会”って貼ってあったなあ、
今じゃとてもできないだろうけどw さらに昔は川崎駅から球場前をトロリーバスが走っていた
(その頃は東京球場時代だが) モアーズといえば、毎週土曜日、屋上と7F特設会場に
ニッポン放送の「モアモア歌謡センター」の公開放送で
誰かしらアイドルや歌手などのタレントが来ていたね。
川崎球場といえば新人時代の野茂の完封勝利を見た記憶があるな。
あとは前期優勝した時に、サインボールやお菓子が入った福袋が発売されて
有藤、落合、リー、などのサインボールを期待していたのに、
山内監督のボールでがっかりしたのを子供心に覚えてる(笑) レスを見る限り、オリオンズは案外川崎に根付いてたんだな
当時のロッテが地域密着にそれほど熱心でなかった印象があるだけに以外だった 川崎は市民球団を名乗ってなかったっけ
自分は他の市民なので、川崎市にどれほど浸透してたのか知らないが 東京球場は73年以後もしばらくはロッテが戻ってくるという噂が
地元住民の間で広まっていたらしい。
完全な閉鎖ではなく、77年に取り壊されるまで町内会のイベントなどで
東京球場が使われる機会があったそう >>95-96
ロッテになってからは唯一の毎日・大毎時代在籍経験のある監督だったな。 68年公開の『闇を裂く一発』(大映・峰岸龍之介主演)では、今はなき東京球場でのオリオンズ対ブレーブスの試合風景がふんだんに使用されている。
(写真はスコアボード)
http://livedoor.sp.blogimg.jp/donzun-baseball/imgs/9/3/93a1e52d.jpg >>97
そういう思い込みで勝手な記憶が作られていくんだなw レオンさんはのちにアメリカで逮捕されたね
冤罪だったみたいだけど
基本的にまじめでいい人 >>103
オリオンズ絡みの映画といえば、修行を積んだ主人公の剣豪が大毎オリオンズに
入団して大活躍する 『一刀斎は背番号6』 (1959年 大映)
西鉄ライオンズとの試合のシーンあり
原作の小説では巨人に入団するらしいが・・・ 映画「KANO」に出てきた人間機関車・呉波(ランニング君)巨人ー阪神と在籍して
最後には毎日にいたんだな
いい映画なのでおまいらも見てください >>96
その4人だったら
高値が付くのは
えびせんかリーのボールだろうなw >>103
ど真ん中に鎮座するアイデアルの広告がいかにも下町の球場らしくていいね
アイデアルが何の会社だかわかる世代はオッサンどころか年寄りの域に入っちゃったかな >>103
帰ってきたウルトラマンでもロケ場所に東京球場が使用されてるが、撮影時期が1971年9月頃なので本当取り壊される直前の姿。 大映が倒産したのが71年10月だったかな。
その半年前までオーナーをやってたラッパも破天荒というか。
大映本社の巨額債務隠しがばれたのが67年だから
そこから約4年、本業ともども低空飛行を続けて墜落したわけか。
結果的に球団をおしつけられたロッテは今やパ最古球団になってしまった 最強だったのって2リーグ分裂直後?
阪神からいい選手がたくさん入ったらしいね >>113
パリーグ最古球団はオリックス。
ロッテは同一親会社が最古球団。 >>106
千葉時代でスレチだがヤクルトからきた秦も「はた」表記だった。 >>112
最終回でも使われてたね。劇中だと「東亜スタジアム」だったけどw
放映日が1972年3月31日だったから、撮影時期は3月初旬か? 1967年大映製作のガメラ対ギャオスでも東京球場は使用されてる。中日球場としてW
この映画、永田オーナーが政治力を使って国から資金を引き出して作ったもの。(輸出振興の名目。)
その後のシリーズでも主役の子供はオリオンズの帽子をかぶっていた。 水谷実雄の野球人生をめちゃくちゃにしたロッテの土屋 水谷といえば、近鉄のデービスが東尾にぶつけられて乱闘になった時、
プロ野球ニュースで「殴ってもかまわない!」と言う過激なコメントしてたな。
やはり、死球にはかなり悔しい思いをしたんだろうなと思ったもんだ。
そういや水谷つながりで思い出したけど、ロッテの水谷はその阪急に滅法強かったな。
阪急が山田や今井でも、水谷先発の時はかなりの確率でロッテが勝ってた記憶がある。 >>120
打点王のタイトル・ホルダーが翌年の開幕戦で頭部死球、三半規管の損傷で引退だからな
川崎時代はあちこちの球団と死球トラブルを起こしてた
日ハム大宮、西武秋山、南海河埜など
与死球数は稲尾就任年から急増して清原のバット投げの年に頂点に達したが、「弱投球団の内角攻めは
仕方ねーだろ」みたいな開き直り声もデカかった
野村がヤクルト、阪神の監督になってからは、「野村が監督になった球団は死球数が増える」というデータが
週ベで大きく扱われたりしたが、長嶋巨人戦相手の死球トラブルを反映したものだった 死球といえば八木沢・・・
その後マニュエルさんとは和解したん?故意じゃないんだろうけど >>124
一応手打ちはしたが、マニエルは故意死球であると譲らなかった模様 東京球場でプレーした最後の選手
確実なのは門田(92年引退)
可能性あるのは大島(94年引退) 最後の公式戦に出てたヤクルトの杉浦は1993年引退だった 結局、戦前の少年院のロケ地に使われるレベルの川崎に移転するなら
東京球場のままでも良かったのでは…
狭さも変わらないだろ。
でも、小佐野がレンタル球場を頑なに認めないってのが
最大の課題だったらしいから無理か… >>125
双方が存命なうちにテレビの企画で和解シーン撮れないかな >>129
ジプシー2年目で日本一になったこと思えば、東京球場に腰を据えていたら常勝球団になっただろうか? >>131
無理だろう。絶対的なファン数が少ないし。
あくまでも仙台は名目上の本拠地
実際は後楽園や神宮がメインだった。 >>126
門田の公式戦デビューは東京スタジアム。
1970年4月12日(日)ロッテ×南海1回戦。
前日の雨天中止で日曜ダブルヘッダーによる開幕。プロ2打席目に木樽から初安打を記録。 >>120
をいをい、千葉県民で銚子市・・・の隣の隣の隣(富里市)出身の俺にとっちゃ
銚子商の土屋は永遠に英雄だぜ。
2年の夏は江川擁する作新学院との高校球史に残る雨中の投げ合いを制し、
満を持した翌3年夏は桑田・清原のPL、松坂の横浜などにもひけをとらない
「史上最強」と言っても過言ではない戦力を整えた銚子商のエースとして
県大会を通じてもわずか2失点で甲子園優勝投手にまで登りつめたんだぞ。
しかしだ、この数年後に甲子園のアルプスから銚子商のシンボルだった大漁旗は消えてしまったのだよ。
なぜって?アホ高野連が禁止したからですよ。
そして応援も「○○倒せ!お〜」の言葉を禁止してしまった。
時代がやさしく、いやつまらなく変化していくにつれ次第に
銚子商の姿も甲子園で見ることが少なくなってしまった。
たまに甲子園に出てももはやあの「強かった銚子商」という
昔日の面影を見ることはできなかった…。
それでも土屋の時代の銚子商の栄光を知る者は
剛腕を擁して相手をバッタバッタと切り捨て
打っては黒潮打線でなぎ倒す。
そんな銚子商の華麗なる復活を心待ちにしているのである。 第一次金田監督時代の「ロッテ親衛隊」の歌
その歌詞は単なる親会社の社名連呼で「オリオンズ」の名前は皆無・・・
「○○ズ」の名を重要視するセの他球団の応援歌と比べると情けなくなるわ ・交通の便が悪い(実際には営団・都電・都バスが来てたからイメージほど悪くない)
・南千住という偏見を持たれがちな立地で集客しにくい
・オリオンズが不人気でパの人気もどん底の時期(年間30万人を切った年もある)
・大映が経営難→倒産でラッパが東京球場から手を引く
・ロッテが小佐野の球場買収提案(当時で数億かかる)を拒否
・新監督カネやんが欠陥球場発言で拒絶
いろんな要素が積み重なって東京球場は閉鎖された。
小佐野は「オリオンズ戦は赤字だから貸せないが大洋やヤクルト主催ならOK」
と言ってたらしいがセ公式戦も行われなくなった >>135
毎日・大毎・東京時代のOBたちは、さぞ寂しい思いをしたであろう
オリオンズという名称にはそれなりに誇りを持っていただろうし >>134
ロッテで夏の甲子園の優勝投手といえば
あのお方だっているぜ
ここまで全く話題になってないがw ロペス リー
江藤 有藤
榎本 アルトマン レオン
田宮 落合
山内
葛城 夢のある打線だった >>138
牛島は村田には私淑していたがカネやんとは確執があったな 川崎球場の看板
閉鎖のドサクサの間に盗まれたままなんだよな >>138
愛甲か。ロッテでは野手としての印象が強いからかな? >>138
>>143
取手ニ高の石田のことも思い出してあげて 平和台のロッテ戦でライトを守る愛甲選手に仲間3、4人で汚いヤジ飛ばしてたら、
ものすごい形相で我々がいるライト後方の外野席へ向かって来た。
あの時、外野フェンスが無かったら、間違いなく我々は愛甲選手に殺されていただろう。
彼は高校までは神奈川一の悪だったらしいが、それも納得の恐ろしさと迫力だった。 >>145
その愛甲も意中の大洋に入れずロッテに指名されてこの世の終わりみたいな顔で
悔しいです
といってたな。 >>144
そんな選手ロッテに在籍してないだろ
川越工の石田か? >>147
ロッテ3大ドラ1ハズレの1人の石田さんか?
(ちなみに残りの2人は佐波農の笠原さんと沖縄水産の比嘉さん)
83年比嘉さん、84年笠原さん、85年石田さんと3年連続して指名した
ドラ1投手が全員1勝もできずじまいだったことは黒歴史なんで触れんといてくれや! >>148
当時のロッテは超超超不人気球団ということもあり、
「ロッテだけには絶対に入団しない」というドラフト候補も多く、
そのためロッテ球団としても半分ギャンブルとして
無名の高卒投手の指名を続けざるを得なかったという点もあるんだけどね。
まあ笠原の時の2位・小川と4位・横田、
石田の時の2位・園川がモノになったんで少しは救われたのだが。 >>149
当時のロッテは超超超不人気球団ということもあり、
「ロッテだけには絶対に入団しない」というドラフト候補も多く、
その象徴が小池のドラフト拒否事件だったな 小池は亜大4年の時に日米大学野球を生で神宮で見たことあるが、
2安打くらいで完封勝利 まさに神だった
皇太子殿下もすぐ後ろでご覧になられておったねえ
殿下の始球式は米国投手がネット裏の殿下の近くまで来て、
殿下がそいつにポーンと投げられた
小池も発奮したことだろう
ロッテに指名されて運気が落ちたのか、
大学時代の輝かしい実績を思えば、
プロでは今一つな印象だったね 小池が入りたかったのが当時のマスコミ受けする人気球団で野球ファンはザマアミロだったはず。
社会人進んで肩壊して不人気の近鉄指名で入らざるを得なかったのが笑える。
小池拒否後ロッテがすぐに移転して千葉の人気球団になってたのも笑える。 千葉移転後に逆指名した吉田篤史も、
週ベで「川崎時代なら入りたくなかった」みたいなことを言っていたと
記憶しているが。 超超超不人気とは川崎に失礼だな
超超超絶不人気と言えよw 南海だって同じようなもんだったんだろ
大洋は横浜に移って本当に嬉しかったろうな
都市のイメージが雲泥の差 >>134
高校四天王、土屋、定岡、永川、工藤か
中日時代は「すすめ!パイレーツ」で、鈴木孝政や谷沢と一緒に、猿山に誘われるまま試合中に
「千葉県人会」の茶飲み話に参加するという、お茶目キャラで描かれたこともあるが
土屋はロッテ移籍1年目の開幕戦で水谷への頭部死球、しかも当時は危険球退場が慎重化されてた時代で
主審から「ワザと狙って投げたわけではない」と判断されて退場にはならず、そのまま投げ続けてたから、
阪急の上田利治監督がカッカしてたんだよなw
そもそも、パが危険球退場ルールを制定化した1982年、阪急の山口高志、佐藤義則が、立て続けに危険球退場の
第1号、2号を宣告されたことにキレた上田が「ワザとじゃないのに、内角攻めができないルールで野球ができるか!」
と、審判相手に激昂、あげく佐藤の退場が取り消し、ついには危険球退場ルールも、その場で審判がよく考慮した上で
宣告するという、曖昧な定義で有名無実化した流れがあった
危険球退場が増加したのは、長嶋が復活し、長嶋巨人を守れ!という空気ができた94年以降であって
当時でもマイナー色の強かったパはセの流れに乗っただけ
ま、それでも水谷が土屋からの頭部死球で引退に追い込まれた事実は変わりはない
マニエルのアゴ砕き死球や、ハム戦での一試合7死球でロッテのイメージがメチャクチャ悪かった背景も土屋には不運だった >>155
理論派の小宮山は意外にもアンチカネやんではない。
第二期政権でカネやんに感謝してそうな選手
前田、井辺、白武、今野、堀、初芝、島田(茂)、平井、佐藤(和史)、古川 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています