【毎日大毎ロッテ】 オリオンズ 【川崎宮城南千住】 [転載禁止]©2ch.net
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栄光のオリオンズについて語ってくれ!!
「あんな場面でスクイズを指示する馬鹿がどこにいるんだ!!」 稲尾監督の時のチームは良かったんだけどな。
稲尾さんの明るいキャラのおかげで、チームの雰囲気もよさげな感じだった。
高沢や西村が成長期にあって、リーと有藤がベテランの味を出しつつ
「完全無欠の主砲」落合が4番を打っていた時代。
仁科と深沢の両下手がいて、石川と右田に期待を賭けて
水谷や梅沢がしぶとく投げていた時代。
そして、不死鳥のごとく蘇ったマサカリ投法“サンデー兆治”
受ける名女房・袴田との息もピッタリだった。
それを大らかにベンチで見つめる稲尾監督。
これからが楽しみな、いい意味で家族的なチームだったんだが。
結局そのあと、無理やり有藤政権を誕生させたのが運のツキ・・・。 スレタイ、南千住ってw
東京球場だよな、当時の俺は豊島区駒込在住、親父に連れられて何回か逝ったよ、東京球場
当時も後楽園の巨人戦は、当日券取るのもすげえ並んで大変だったけど、
東京球場は夕方突然ブラッと行っても、そこそこ余裕で見れて良かったな
一番印象に残ってるのは、オリオンズX近鉄戦で、
入団したての太田幸司がブルペンで投げてるのを間近で見て、
なんてすげえ球を投げるんだ、と感動したけど、
試合ではボコボコに打たれてショックを受けた思い出がある
プロって甘くないんだなあってね 川崎のラーメン小屋が懐かしい
あれしか場内で食べたことない 88年頃か?文化放送ライオンズナイターで川崎でのロッテ−西武戦。
聞いてたら、ロッテベンチの野次が恐ろしいほどマル聞こえ。
清原に対し村田兆治がデットボール当てた時、「罰が当たった、罰が当たった。」と野次られてて
解説の豊田が「ここで(西武の)伊東(=なんと現ロッテ監督)はスクイズをやってほしい。」としゃべったら、
ロッテの選手が「トヨダさんスクイズはないでしょ。」とか言ったのがはっきり聞こえた。
ベンチ内でラジオを聴いているようだった。今思えば凄い時代だった。 今語る昭和最後のロッテオリオンズ 殺人野球の元祖
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/meikyu/1322910755/
「ロッテ」創業家長男“電撃追放劇”真相はどこに 頑なに沈黙を守るロッテ、流出する「臆測」
http://www.sankei.com/premium/news/150119/prm1501190005-n1.html
>非上場企業であるロッテは、情報をまったく開示していない。
>後継レースに浮上したのは、プロ野球、千葉ロッテマリーンズのオーナー代行なども務め、
>日本での知名度も申し分ない次男の昭夫氏だ
>中央日報日本語版など韓国メディアはここにきて、「昭夫氏は今月10日に来日し、佃孝之ロッテHD社長や
>関係企業のトップと会った可能性がある」と報じた。 おお、ロッテスレ出来たのか
パ・リーグでロッテだけスレが無かったから嬉しい
>>1乙 ぼくがはじめて手にした野球帽はオリオンズのものだった。
いまやロッテといえばマリーンズ、という名前が定着してるけど、ぼくのような「オールドファン」にとって、
ロッテは今でも「オリオンズ」の匂いが抜けない。愛着がある名前なのだ。
でも、チームはマリーンズとなってもう14年がすぎた。ぼくがロッテを応援し始めてからのキャリアで言えば、
そろそろ「オリオンズ」と「マリーンズ」は同い年になる。だからいまでは「マリーンズ」にも愛着があるのだ。
「マリーンズ」になって何がいちばんうれしいかというと、ファンに愛されるチームになったなぁ、と実感することだ。
ぼくはマリーンズになった91年にはすでに大阪にいたけど、はじめ千葉に移ると聞いた時には「だいじょうぶか?」と正直思ったものだった。
でも今考えると、ロッテの球団史上1、2を争う大成功が千葉への移転だったと一ファンとしてのぼくは思う。
さて、これだけロッテファンの時代が長いと思い出にのこる選手は山ほどいる。
リー、有藤、レオンのクリーンナップに心躍らせたのは、ぼくが小学校低学年のころだ。
当時の日本の男の子の多くが野球を好きになる年齢。
ほとんどがお気に入りの球団の野球帽をかぶっていた時代に、ぼくが最初にかぶったのは、オリオンズの濃紫の帽子だった。
パリーグがまだ前・後期制をしいていたころ、ロッテは(たしか)後期優勝チームとして
日本シリーズ出場をかけ、阪急ブレーブスと争ったことがある。
ぼくがはじめてライブで観戦した試合は、このブレーブスとのプレイオフだったように思う。
その日の試合結果は覚えていない。第何戦だったかも忘れた。
ただ、有藤道世が、レロン・リーが、放つきれいな打球の弾道が、まだ小学生だったぼくには強烈な印象として残った。
(この年、ロッテは結局プレーオフには敗れた)
当時小学2年生だったぼくのお気に入りは、ロッテ球団史上最強助っ人の呼び声の高い、このレロン・リー選手だった。
彼は1年目のこの年にいきなり本塁打・打点の2冠王に輝き、最後まで首位打者を有藤と争った。
結局有藤が首位打者を獲得したために3冠王はならなかったが、この年の打撃3部門はロッテの選手が占めたことになる。
野球の華はホームランとよく言うが、白球の描く弾道に魅了され始めた小学生が彼らに憧れたのは当然だったと今でも思う。
翌年、やってきたリーの弟、「レオン・リー」は、兄と一文字違いのややこしい名前だったこともあって?
登録名はファーストネームの「レオン」だった。
それでも、小学生のぼくには正直言って見分けがつかず、そのため、背番号、の便利さを覚えたのは
この頃だったのではないかと思う。今考えればとてつもなく失礼な話だが(ごめんなさい)、
リー、有藤、レオンと続くクリーンナップは、当時パリーグ最強と呼ばれていたと記憶している。
レオンはのちにセリーグに移籍したが、移籍してからも大活躍を見せてくれたことがうれしかった。
(大洋のユニフォームはあんまり似合ってなかったけどね)
もちろんリー兄弟ほど優秀ではなかったが、上にいた兄がぼくより一足早く野球をしていたこともあって
早くからぼくは「野球少年」となった。そのぼくがよく真似したのは、このリー、有藤、レオンだった。
ゴムボールとバットをもって、山田久志のアンダースローを真似る兄と、
リー、有藤、レオンを真似るぼくは、住んでいた団地の空き地でよく対峙したものだった。
もっとも、右利きのぼくが真似るリーは、本物とは程遠いへっぽこで、
これがまた、リー選手が第一のお気に入りだった小学生のぼくには堪えた。
まだサッカーがそれほどメジャーではなかった時代。
日本の多くの場所でこんな光景はきっと見られたろう。
そんな子ども時代を、ぼくはオリオンズと一緒にすごした。 ロッテといえば三宅そうげんさんだな
かぎ市出身ということなので、「KANО」公開前にでもどこかで
取材されないかな 1990年5月(?)の日曜日。
日曜日ってことで、川崎球場にしては、比較的観客が集まったデーゲーム。
新人の小宮山と、若きエースとして活躍してた西崎の壮絶な投手戦が印象に残ってる。
打たせて取る小宮山と、それと対照的に奪三振ショーを繰り広げる西崎。
試合は終盤の7回(8回?)に虎の子の1点をあげた日ハムの勝利。
両者9回まで投げ切って西崎完封、小宮山は1失点も完投負け。
あんなに狭かった川崎球場で、こんなにも素晴らしい投手戦が生で見れたということもあり
いまだに印象深く記憶に残ってる。 川崎球場
臨港バスの川崎球場前で降りるより市バスの教育文化会館前で降りたほうが近い
移転直後は市バスに乗ると毎回ロッテ選手のメッセージが流れていた
余談だが王貞治が打った場外ホームランのせいで
ある民家は家財保険場外ホームラン特約をつけていた 川崎球場は右中間が左中間より2メートル狭かったらしいが、
適当に建設してるね >>16
適当というより何故なんだと興味持てないか?
そうやって知識を得るものなんだがな 狭い路地のすぐ隣は普通の住宅地なんだね
あんな球場他に見たことないわ 東京球場の試合の映像で現存している物がなかなか少ない >>21
知らないんなら偉そうな口を叩くなバカ野郎!! オッサンとゆとりのケンカかよ
オッサンはゆとりに優しく教えてやれ オリオンズか〜。
その昔、子どもの頃からオリオンズが好きで、
記憶をさかのぼると、
当時ファン手帳には村田兆治投手、水谷則博投手、仁科時成投手とか、
望月投手、安木投手などなどいたかなあ。
打者でいえばリー兄弟はもちろん、実はびっくりするほど小柄な弘田選手もいたし
あの張本選手とか白仁天選手とか。
で、山内監督、山本監督、稲尾監督になっても応援したり
落合選手がトレードされて残念なことも、
横田選手が新人、2年目と連続して打率3割突破も、
巨人から来た山本功児選手のいぶし銀の活躍も、水上選手が長髪で目立っても、
サンデー兆治+袴田捕手の黄金バッテリーが楽しみなことも
全て思い出すなあ。
ああ、すべてが懐かしい・・・。 25年ぐらい前の珍プレー特番が出てきたんだけど、川崎のスタンドの客は
やりたい放題だったんだなw
グランドでは金やん大暴れ 武士道が好きな人は村田兆治
不良系が好きな人は伊良部
熱血漢が好きな人は黒木
理論派が好きな人は小宮山
逸話系が好きな人は園川
いろんなファンのニーズに応えられるチームだったね 黒木ってジョニー??
あれは千葉に移転してからの選手では 南海ファンで申し訳ない
いつも「三井雅晴と藤田学がケガさえなかったらエース」ということで重なります
南海が最悪の状態の時は水谷や安木でも貧打 倉持出てくれば終わり
水谷は園川より目立たないのはイチローのせいか さすがに東京スタジアム時代を知ってる世代は極少かなぁ
自分は1970年の巨人との日シリのときは中学1年生
あまり真剣に見ていなかったので、詳しい試合内容は憶えていない
「どうせ巨人が勝つんだろ」 というあきらめの気持ちが強くて… 今年からCSのTBSニュースバードで本拠地中継が行われるようだな
オリオンズとパ・リーグを作った毎日新聞とTBSは、特に強力な結びつきはないようだが
何となく先祖返りという趣を感じないでもない
TBSニュースバードは去年まで横浜の完全中継をやってたが、旧大洋の横浜とロッテは
78年新装の横浜スタジアムを巡って、「横浜は後楽園の巨人、日ハムのような共同本拠地にするべき」
「我々にも横浜を使わせろ」とロッテが迫り、大洋は「横スタは我々大洋が使うんだからロッテは使い古しの川崎に行け」と
揉めまくった時代があったな
人気の高かったカネやんロッテに食われることを恐れた大洋が、ロッテの横浜入りを強硬に阻止して
結局、暗黒の川崎入りとなった経緯がある
横スタ運営側は、共同本拠地なら主催試合も多くなるしロッテも歓迎するという姿勢で、実際にホーム用のロッカーは
二球団で使えるような作りになってたが、もし78年から川崎ではなく横スタ本拠地ならロッテの運命はどうなってたか
前77年は全盛期だった上田阪急と激闘のプレーオフの末破れたが、南海のお家騒動に乗じて野村克也を獲得してたし
戦前の予想はかなり盛り上がってた
野村と運命を共にすると言明していた江夏、柏原の同時獲得も狙っていた
スポーツ新聞の噂レベルだが、三井、成田に加え、後に落合に影響を与えた中堅捕手の土肥らを交換相手に出したが
南海側から「村田兆治や有藤クラスならわかるが、金田はバカにしてるのか!」と一蹴され、実現しなかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています