元大洋のマイナーな選手を懐かしむスレ その2
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>>84
近藤監督にフォームを弄られたんだっけね。
結果が良い方に出た稀有なケース。
フォーム改造は失敗が多いので門田は幸運だったと思う。 クラウンが江川獲りに参加してなかったら門田はクラウン入りしてたかもしれん
地元では人気あったからな 辻が衰えて、さあこれから、と思ったらアメリカ帰りの若菜が入団したので割りを食った。
もし若菜が来てなかったら、正捕手になれてたかも? >>88
弄られたというか、タメを作った方が良いとアドバイスしたという方が正確。
門田には拒む選択肢もあったが、熟考のうえ受け入れて改造した。
押し付けで変えさせられた人はダメになってるな 渡部高史っていたよね?
何年か前、FM番組で湯浅さんっていう女性DJがいきなり彼の名前出して驚いた
中学の同級生だったそう 相川英明の渾名「モンモン」が気になってた。
入れ墨?高校2年のとき「家庭的な事情で野球部を離れてた」と書いてあった。 甲子園に出た時はものすごい評判だったのに
プロではイマイチで終わっちまったな 相川は桑田や清原と同い年なんだな。
高卒ルーキーから1軍で使われてたけど
その後は伸び悩んだという典型的な選手。 入団後まずまずの成績で推移してたのに
89年に急にダメになったんだね
その後2年ほど続けてあっさり現役引退 相川 高校時代バッティングもめちゃ良かった記憶があるが岡(高知商)同様
打撃にも影響が出るほど肩を痛めてたのかな?自分は「打者・相川」として指名したのだろうと思ってた。
カクカクした投球フォームだった。 横浜高校の渡辺監督がこの夏で引退するそうだ
相川がプロ入りする時、「相川はきっと活躍できる」と
取材記者に語ったそうだが、心中複雑だっただろうな。 流麗とは程遠い投球フォームでシーズンを投げ続ければ
体のどこかが悲鳴を上げるのは時間の問題だったのね
指導者は何をしてたんだろう 投手としてダメでも打者でやって行こうと思ってたんじゃない >>115
ちょっと恥ずかしいぞ
知らないにも程がある >>73
自分は阪急時代の宮本しか知らず、大洋にいたことはかなり後になってから知った。
この人、タレ目でいつも泣き顔だった。
阪急で先発起用の時は、立ち上がりが悪くて打たれてたが、
たとえ上手く乗り越えて3回、4回と来ていつ打ち込まれるのか分からんスリルがあった。
84年、ローテーションに定着して日シリにも登板した時は嬉しかった。 詳細宜しく。
昭和何年度
第一試合何回?
第二試合何回?
>>58
> >>57
> 関根は規定投球回のために
> シーズン終盤のダブルヘッダー両方先発したな。 リンク先がおかしくなった。
詳しくは10月10日の試合結果をご参照。 >>121
引退後はバッピ・スコアラー・スカウトなどいろいろな仕事をやって
球団も転々として台湾に行ったこともあったんだよな
苦労が寿命を縮めたのか、若くして亡くなられてしまった。 >>88
フォーム改造と近藤監督といえば思い出すのは北野勝則
といっても近藤時代にフォームを変えたわけではなくて
大洋から中日移籍後にフォームを変えて左ワンポイントで活躍。
この人が出てくるときに古巣中日系の解説者に戻っていた近藤御大、
解説だと決まって「この選手は私が大洋監督の時に取ったんですよ」と。 >>130
スカウト時代、ある年のドラフトの目玉選手を獲得できなかった責任を問われて
配転されたという記事を読んだことがある チームに魅力がないのにスカウトの責任にされてもなあ
酷い話だ アドゥチを思い出せない 思い出そうとするとパチョレックになる 超暗黒だった81年の最初に巨人(その年巨人戦3勝しかしなかったような)
に勝った前泊
そのあと活躍したの?ってぐらいあまり名前を聞かなかった。 マイナーかどうか分からないが
他球団のファンだが宮里と田辺と米は欲しかった >>136
アドゥチは個人的に嫌いじゃなかった。
桑田を打った決勝ホームランが印象に残ってる。 >>138
前泊は81年だけの一年草。
でも巨人相手に勝てたんだよなあ。不思議だ 前泊が登板していた時に解説者(誰か忘れた)が、前泊はプロ入り前は沖縄の離島で文房具屋を
やってたと言っていた。
プロ野球選手としては変わった経歴だ。
引退後は再び文房具屋になったのだろうか? 関根ジュニアの実家は本屋だった
月刊横浜大洋を売っていた 前泊は高卒で社会人の日産に入ったが、首都圏での生活に馴染めなかったがで
夏には辞めてしまった。
地元に帰ってたところで草野球の助っ人に呼ばれ、投球を見た恩師が後押しして
母校でトレーニング→テスト入団。その当時のバイトみたいなもんだろう。
奇しくも逃げてしまった横浜の地に戻ったわけだ。
引退してからは大洋資本の神奈川工大職員になって就職課で名物みたいな人に
なってるよ。野球部には関わってないが、チームは浜スタでも試合をやってる。 そうだったんだ。
元プロ選手の中でも、かなり数奇な人生を歩んでるなあ マトモな仕事に就けない人が少なからずいるなかで
安定したサラリーマンに転身できたのだから良しとしよう >>143
そもそもプロで先発することさえ稀だったから
はじめて9回まで投げ切ったということで
疲労感はハンパなかったらしい。 前年まで冴えない一軍半の中継ぎ要員が、何に覚醒して主力投手になったんだろうな
TVKの中継でマウンド上で躍動する佐藤を見て何度もそう思った 年度ごとの成績を見た限りでは
あの年だけ確変したと言った方がしっくりくるような。
でも実績が乏しい割りには、随分現役は長かったんだな。 >>146
ラジオで
「かながわこーかだいがく」てCMやってるあれか >>150
こちとら関西。
TVKテレビ制作・サンテレビがネットしていたハマスタでの大洋−阪神戦で
初めて見た佐藤の強烈な印象が忘れられない。
さっそく次の日、学校の休み時間にフォームを真似てキャッチボールしたものだ。 神奈川工大って厚木にある学校か
日本テレビでやってた大家族・石田さんちの5男がそこに入ってたな
今は大学院進学したんだっけ
政夫投手なつかしいな
多分歴代の大洋党首で最も個性的な投げ方をした選手だろう >>150
あの年は頭で投げた時の明夫野村古賀がピリッとしなくて早々に降板、佐藤池田加藤竹内藤岡あたりを総動員、その中で佐藤だけがヒョイヒョイ抑えて2イニング無失点なんてことが結構あった。左の先発が慢性的にいない大洋がとった苦肉の策がハマった感じ そうだ投壊の81年には藤岡も一軍メンバーの中にいたっけね
あの年は本当にいろんな投手を公式戦で見ることができた
ハマスタで欠かさず完全中継してくれたTVKテレビには頭が下がるw 地上波でナイターがゆっくり見られた時代だったね
幸せだった 広瀬と久保が二個一で売り出されてた
関根政権の時のキャンプ 与座、前泊、竹下、友利
興南高校出身の投手が相次いで入団したっけね 杉永・江幡と高本・与座は名前だけセットで覚えているな セット繋がりで言うと俺は先に出てた広瀬・久保がセットになってる
背番号も連続(広瀬18、久保19)だった そうだっけね
42とか49などの忌み番号が宛がわれるなんて、
久保は嫌われてたのかな 金沢と久保が背番号交換させられた
ちなみに金沢の前の49番は与座。 本格派ナンバーワンとまで称賛されてたのに、プロには行ってからはサッパリ・・ 与座朝勝投手・・・・大洋
投球フォーム・・・右オーバースロー「184センチの長身から投げ下ろす速球、
しなやかな腕の振りは沢村二世といわれた」
球種・・・得意球はシュート回転のストレート。落差30センチはあろうかというカーブ、
鋭いシュート。
1979年・入団時
「別当監督ベタ惚れ」「沢村二世」「15勝、間違いなし」与座朝勝は新聞の華々しい
見出しとともにデビューした。「自分のことじゃないみたい」沖縄からやってきた18歳の
感想はこれだけ。「青春のシンボル」がちりばめられた童顔の与座は無口である。
しかも蚊の泣くようなかぼそい声。「とまどっている余裕なんか・・・」ルーキーで
ただひとり一軍に抜てきされただけに緊張が続く。しかし、ひとたびマウンドに立てば、
大男ぞろいの投手陣にあっても目を引く184センチの長身。その体から投げ下ろす
速球は他を圧している。「プロ入り第1球は自信のある内角ストレートで」といって
のけるあたりは噂どおりの強心臓。若者らしく「強気」と「弱気」を交互にのぞかせながら
与座はいま青春の陽光を一身に浴びている。 王
柴田勲
>>115
>>117
> 愛甲
> 雄平
> 石井琢朗
> 関根
> 川上哲 小山正明も実は大洋に最晩年コーチ兼任在籍した
その最後の3勝がなかったら草と並んでいたな 1981年度118イニングス、57試合15先発3完投
こんにゃくクネクネ佐藤の完封勝利は珍記録だな
>>143
> あの佐藤政夫だって完封勝利できたんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています