元大洋のマイナーな選手を懐かしむスレ その2
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右田は阪神と競り合ったと記憶。
で、大洋のキャンプを偵察した阪神スタッフがブルペンで投げる右田を見て、
「(籤が)ハズレでよかったよ」と言ったとか言わなかったとか。。。
右田を逃して獲得した源五郎丸の方が素材としては上の評価だったんだろうな。
でも結果はあのザマです。
スレ違いなのでこのへんで。 竹田は
『肩がもうイカレてます』
みたい球しか投げられなかったな
27番が泣いていた 右田は巨人戦で駒田に満塁弾を浴びた試合しか覚えてない。
右田と同じ時代に関根という社会人出身の投手がいたな。
同姓のよしみかどうか分からんが関根監督時代には重用されたものの
近藤監督に代わってから完全に干されそのままフェイドアウト。 >>57
関根は規定投球回のために
シーズン終盤のダブルヘッダー両方先発したな。 右田は大洋じゃ期待に応えることはできなかったが、代わりに来たおすもうさんのお兄さんが結構いい働きをしたよな >>58
うん、覚えてる。
で、2試合とも負け投手になったんだっけね。
シーズン成績3勝11敗。防御率4.29で投手10傑圏外。
連チャンで先発という荒行なんてしんどいだけなのに、
規定投球回数に達すると何かご褒美が出たりしたのかな? >>49
お払い箱じゃないだろ
田中を取るためにリリーフエースだった奥江と渡辺メリーまで出してんだぞ >>57
干されたんじゃなくて、内蔵を壊して投げられなかったんだよ
最後は自分から引退を申し入れた >>62
活躍っていうほどでもないけどね
この時代の一軍半の野手で他に清水、吉本、河野、山崎などが
起用のされ方がよく似ていてイメージがダブる 関根投手は肝臓をやられてたんだっけ
野球選手で肝臓を傷める人は意外に多い。
東映→ヤクルトの故・大杉氏はそれで寿命を縮めたし、
他にも有名選手で療養のためシーズンを棒に振ったり、関根投手のように選手生命を絶たれた人もいる。
スポーツ選手だからと言って健康とは限らないんだな つか三浦は若い頃夏場になるとしばしば肝臓でリタイア
してたよね
今まで現役を続けていられるのは節制の賜物だと思うわ 姉さん女房、子持ちルーキーで話題になった門田
82年6月のの巨人戦完封劇はそれまでの苦労を知ってただけに
ラジオ中継を聞いていて少し感動したの覚えてる。 門田こそユニホーム姿でなかったらそこら辺のサラリーマンにしか見えない 門田富昭は現役晩年に
リリーフエースとして活躍した年があったな
通算31勝なら、少なからずプロで成績は残せた方だろう。 前年までいたシピンに追いかけられた
門田とはすれ違い入団だから災難だったな 門田は、大学の時「西の江川」なんてもてはやされてたけど
通算31勝か。 弱小チームに在籍してたことを考慮しろよ
といっても江川との差は開き過ぎだけどな >>77
西南学院では不滅のエースで地元テレビ局で追っ掛け特番があったらしいくらい有名だったが
「西の江川」は聞いたことないなあ。さすがに持ち上げすぎじゃねえの? 1年目の5勝11敗のあとは中継ぎでチョボチョボ投げていた記憶しかなかったが
それから26勝もしていたんだな 一番活躍した82年、ハマスタで巨人を完封した時点で4勝1敗。
しかしシーズン終わってみれば8勝9敗。
巨人完封後は4勝8敗だったんだな。
主力だったらせめて通年で五分の星でシーズンを乗り切って欲しかった。 低迷期からの復活という意味では1982年は印象的かもしれんが
先発とリリーフの両方で起用された1985年や
リリーフ専門になって防御率・勝率が自己最高になった1986年の方が自身にとっては思い出深いかもよ。 >>68
痛み止めの薬の副作用で内蔵をやられる
選手も多いらしい
中野渡本にあった >>84
近藤監督にフォームを弄られたんだっけね。
結果が良い方に出た稀有なケース。
フォーム改造は失敗が多いので門田は幸運だったと思う。 クラウンが江川獲りに参加してなかったら門田はクラウン入りしてたかもしれん
地元では人気あったからな 辻が衰えて、さあこれから、と思ったらアメリカ帰りの若菜が入団したので割りを食った。
もし若菜が来てなかったら、正捕手になれてたかも? >>88
弄られたというか、タメを作った方が良いとアドバイスしたという方が正確。
門田には拒む選択肢もあったが、熟考のうえ受け入れて改造した。
押し付けで変えさせられた人はダメになってるな 渡部高史っていたよね?
何年か前、FM番組で湯浅さんっていう女性DJがいきなり彼の名前出して驚いた
中学の同級生だったそう 相川英明の渾名「モンモン」が気になってた。
入れ墨?高校2年のとき「家庭的な事情で野球部を離れてた」と書いてあった。 甲子園に出た時はものすごい評判だったのに
プロではイマイチで終わっちまったな 相川は桑田や清原と同い年なんだな。
高卒ルーキーから1軍で使われてたけど
その後は伸び悩んだという典型的な選手。 入団後まずまずの成績で推移してたのに
89年に急にダメになったんだね
その後2年ほど続けてあっさり現役引退 相川 高校時代バッティングもめちゃ良かった記憶があるが岡(高知商)同様
打撃にも影響が出るほど肩を痛めてたのかな?自分は「打者・相川」として指名したのだろうと思ってた。
カクカクした投球フォームだった。 横浜高校の渡辺監督がこの夏で引退するそうだ
相川がプロ入りする時、「相川はきっと活躍できる」と
取材記者に語ったそうだが、心中複雑だっただろうな。 流麗とは程遠い投球フォームでシーズンを投げ続ければ
体のどこかが悲鳴を上げるのは時間の問題だったのね
指導者は何をしてたんだろう 投手としてダメでも打者でやって行こうと思ってたんじゃない >>115
ちょっと恥ずかしいぞ
知らないにも程がある >>73
自分は阪急時代の宮本しか知らず、大洋にいたことはかなり後になってから知った。
この人、タレ目でいつも泣き顔だった。
阪急で先発起用の時は、立ち上がりが悪くて打たれてたが、
たとえ上手く乗り越えて3回、4回と来ていつ打ち込まれるのか分からんスリルがあった。
84年、ローテーションに定着して日シリにも登板した時は嬉しかった。 詳細宜しく。
昭和何年度
第一試合何回?
第二試合何回?
>>58
> >>57
> 関根は規定投球回のために
> シーズン終盤のダブルヘッダー両方先発したな。 リンク先がおかしくなった。
詳しくは10月10日の試合結果をご参照。 >>121
引退後はバッピ・スコアラー・スカウトなどいろいろな仕事をやって
球団も転々として台湾に行ったこともあったんだよな
苦労が寿命を縮めたのか、若くして亡くなられてしまった。 >>88
フォーム改造と近藤監督といえば思い出すのは北野勝則
といっても近藤時代にフォームを変えたわけではなくて
大洋から中日移籍後にフォームを変えて左ワンポイントで活躍。
この人が出てくるときに古巣中日系の解説者に戻っていた近藤御大、
解説だと決まって「この選手は私が大洋監督の時に取ったんですよ」と。 >>130
スカウト時代、ある年のドラフトの目玉選手を獲得できなかった責任を問われて
配転されたという記事を読んだことがある チームに魅力がないのにスカウトの責任にされてもなあ
酷い話だ アドゥチを思い出せない 思い出そうとするとパチョレックになる 超暗黒だった81年の最初に巨人(その年巨人戦3勝しかしなかったような)
に勝った前泊
そのあと活躍したの?ってぐらいあまり名前を聞かなかった。 マイナーかどうか分からないが
他球団のファンだが宮里と田辺と米は欲しかった >>136
アドゥチは個人的に嫌いじゃなかった。
桑田を打った決勝ホームランが印象に残ってる。 >>138
前泊は81年だけの一年草。
でも巨人相手に勝てたんだよなあ。不思議だ 前泊が登板していた時に解説者(誰か忘れた)が、前泊はプロ入り前は沖縄の離島で文房具屋を
やってたと言っていた。
プロ野球選手としては変わった経歴だ。
引退後は再び文房具屋になったのだろうか? 関根ジュニアの実家は本屋だった
月刊横浜大洋を売っていた 前泊は高卒で社会人の日産に入ったが、首都圏での生活に馴染めなかったがで
夏には辞めてしまった。
地元に帰ってたところで草野球の助っ人に呼ばれ、投球を見た恩師が後押しして
母校でトレーニング→テスト入団。その当時のバイトみたいなもんだろう。
奇しくも逃げてしまった横浜の地に戻ったわけだ。
引退してからは大洋資本の神奈川工大職員になって就職課で名物みたいな人に
なってるよ。野球部には関わってないが、チームは浜スタでも試合をやってる。 そうだったんだ。
元プロ選手の中でも、かなり数奇な人生を歩んでるなあ マトモな仕事に就けない人が少なからずいるなかで
安定したサラリーマンに転身できたのだから良しとしよう >>143
そもそもプロで先発することさえ稀だったから
はじめて9回まで投げ切ったということで
疲労感はハンパなかったらしい。 前年まで冴えない一軍半の中継ぎ要員が、何に覚醒して主力投手になったんだろうな
TVKの中継でマウンド上で躍動する佐藤を見て何度もそう思った 年度ごとの成績を見た限りでは
あの年だけ確変したと言った方がしっくりくるような。
でも実績が乏しい割りには、随分現役は長かったんだな。 >>146
ラジオで
「かながわこーかだいがく」てCMやってるあれか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています