実在しない選手の想い出をでっちあげるスレ
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まずは阪急・ヤクルト・阪神で活躍した尾沢慎太郎について語ろうか 広島の持田には期待していた。
新潟六大学リーグ出身で中央球界では無名ながら、素材はロッテの古川なみとの前評判。
右の長距離砲が欲しかった当時の広島に、スターが現れたと確信していたが。 後に町田公二郎をドラ1で獲得した際には持田の二の舞だ!と思ったもんだが。 あえて言うなら持田は当時のコーチに
一年目からフォームを徹底的にいじくられたのもまずかった
1シーズンごとに新しい打法に挑戦して迷走し続け
最後は極端なオープンスタンスになってて素人目にも打てる雰囲気皆無だった もちろんは一瞬だけ出てきたイメージ、その後の片岡や斉藤、ロッテから来た高沢あたりに食われてしまった。
都度フォーム改造は気の毒だった。 持田といったら橋口だろう?
新潟大学というか、大学選手権で地方国立大を初のベスト4にまで引き上げた怪腕。
ドラ2も不可解だったが、先発不足の大洋で鳴かず飛ばずだったのが不思議で仕方ない。 新潟明訓のエースだったが甲子園は逃し、現役で新潟大に入ったんだよな。
入学直後から地元リーグでは無双だった。
同期には県立新潟高校を県大会ベスト4に導いた右腕・江指もいて二本柱だった。 「江指の23球」は有名だね。
野村克也氏が解説で「社会人野球は半世紀が流れていますけど、これ程の場面に出くわしたことはない。おそらくこれからも出るか出ないか分からないと思う。それぐらいの名場面じゃなかったかと思います」と話したぐらいだった。
残念だったのは江指自身が1チームに安定しなかったことか。
ひとつのチーム、大洋で野球人生を全うし今はコピー機を売るサラリーマン橋口と、野球人生チーム流浪の末に最期はドミニカで客死した江指。
一瞬だけすれ違った男達、野球人の生き様として感慨深いものがある。 岡田陽集
PL学園時代選抜で優勝。卒業後、慶応大に進学し6大学で三冠王。
ドラフト1位で巨人に入団するも、
鳴かず飛ばずで6年後近鉄にトレードされる。
近鉄ではバイプレヤーとして活躍。
オールスター出場1回。
引退後は同球団のコーチ、スカウトなどを歴任した後、現在は
父親である彰布氏の経営する「d‘Ondenコーポレーション」副社長に
就任。夫人は元女優の森岡美奈子。一男一女。 ボツトレードだが橋田(広島)⇔木賀(オリ)
スポ新に具体的な名前が出て同一ポジションの交換は成立確定と見られたが
広島が木賀プラス二軍の投手(羽根山らしい)を要求して破談に
1:1でいいだろう広島よ、そんなに持田は惜しかったのか 広島の羽根山とは懐かしい、NTT四国を都市対抗に出場させた156キロ豪腕だな。
ただアーム式の投げ方がなあ、あれではプロは厳しいよ。
退団後四国独立リーグ機構のマネージャーやってたみたいだけど、今もまだ元気にやっているんだろうか。 木賀はファームの打撃ランキング常連も一軍ではさっぱりでしたね
最終年は一軍でチャンスをもらったその試合の守備でお手玉してランナーを返す
試合後に即二軍行き通告そしてオフに自由契約 広島の大野が3年間だけ登録名が「大野豊」だったの知ってるか?
原因は1982入団してきた「大野望(おおの のぞみ)」の存在。
盈進高校から近大進むも中退してデュプロでプレーしてた。テスト入団。
ファームで打たれて「おまえの野望はそんなもんか?!」とスタンドのおっちゃんに野次られてた。
当時 金石と仲良かったみたい。無口同士 気が合ったのだろう。 原田俊一も麻生義郎も入閣できなかったのに、
まさか飛田が・・・ 飛田のアホは国会来ないでずっとシールズのデモに参加してたな。 おいちょっと、
ラグビーワールドカップの観客席にクリストフ・モローでてなかった?! 初期ダイエーの150キロ右腕、橘川について語りたい。
ノーコン橘川が1年だけ2ケタ勝利挙げた頃が懐かしい。 衰えた山内なんかのベテランに代わって彗星の如く登場した橘川懐かしいね
2ケタ勝ったときはこれで村田勝喜と並んでダイエー二枚看板誕生と思ったんだけどね… オフに
「アメリカ式調整を取り入れます」
「新しくフォークを覚えます」
これでノーコン再び
いやそれまでよりもっとひどくなってたからな 橘川は真面目だったから、ゴセージやタネルの影響を受けたんだろうか?
当時も大リーガーって言っていたもんなあ 八百長野球というと大倉唯由を思い出すな。
井本とともに近鉄から不可解なトレードでヤクルトのに行ったのは忘れられない >>459
あの頃のダイエーはアップショー、バナザード、ゴセージ
メジャーリーガー色々連れてきていた
彼らの話に影響されたのかもしれない
あの平和台とダイエー守備陣をバックにしてフタケタ勝利だからなあ
惜しい選手だったよ シグペンなんてのもいたね、当時のダイエー。
橘川が10勝して12敗で済んだのはパワーピッチのおかげだったから、大リーガーを勘違いしたんだろうね。
インターネットが当時あれば、あんなことにはならなかったんだろう。 そう言えば88年に入団しヤクルト黄金時代の4番サードだった
谷上明隆がエンジェルハートに出るらしいな…
まあかつて容姿が冴羽りょうに似てると言われた事から
大洋のポンセと並んで子供達から人気者だったし… しかしまぁ、アップショー、バナザード、ゴセージ、シグペン
他球団のデシンセイ、ホーナー、オグリビーとか
この頃の日本プロ野球はメジャーで実績を残した選手を色々獲得してたんだなあ
2010年代の今よりこの頃のほうが夢とか華があったな
あ、阪神も獲ってたね
バースが退団した後釜にダイスとかいう一塁手のメジャーリーガー 今ほどメジャーの情報が入ってこない分、どんなにメジャーで実績があろうと気安くバカに出来る鷹揚さがあったよな
「マドロック出入り禁止」とか「ダイスダイキライ」とか ダイスのサイクロン打法はカッコ良かったな、バットでボールを吸い込む様にして打つんだよね。 来日前年メジャーリーグで13HR、その前年は18HR
過去に5年連続20HRしたこともある実力者だったけど
さすがに38歳はきつかったな 引退間近の尾花がダイスの頭にぶつけたのがきっかけで起こったのが、あの有名な「神宮の大乱闘」。
ファン同士でも不穏な空気となり、外野の一部でもケンカ騒ぎが。
近鉄から途中加入したヤクルトの外人投手、バカーラだけは我関せず、ブルペンで一心不乱に投げ込んでいたのが印象的だった。
今思えば防御率6点台だったんだよね、バカーラ。 投げては打たれるバカーラが戸田では妙に人気があって、登板するたびに「バカ」コールが凄かった。
少し前のレスにあった谷上がベンチ「バカにバカとはなんだら!」と本気で怒鳴っていた記憶がある。
バカーラ本人はバカコールは人気があると勘違いしてたみたいなのが救いか。。。
連投スマン バカいたね、僕の堺西高校同級生だった句例がオリックスブレーブスに入団したときも、ウェスタンで投げてたわ。
句例元気かな? 町見の話しようぜ、あいつは1989年あたりで活躍してただろ?
句例は焼きとん屋台やっとるよ、中洲で 町見って結局バンクスと殴り合いしたのはなんでだったの?
バンクスが町見のカノジョとキスしてたのを町見が見たとかそーいうウワサだったが
バンクスあんときの乱闘で腰をやってロッテも失速したよなー >>163
ガタラサライはネメスコーチの猛特訓による守備の改善とボールを叩きつける人工芝ヒッティングを覚えてから飛躍したな。 >>474 バンクスと町見の当時のカノジョが一緒にメシ食っているトコ町見に見つけられてそれでアレになったらしい 1981年頃、近鉄の志水と阪急の舟場ってホモ関係だったって本当?
誰か詳細知ってる方いますか? 舟場はロッカーで着替え中の選手にやたら触ったりして苦情が出たらしいな バンクスか
チームメイトの回想によればロッカールームではとても静かで
あの川崎球場の環境にも不満を言うことなく淡々としてたそうな
バンクスといえばグラウンドでは腕グルグルパフォーマンスに
熱血プレーと乱闘が名物だったけどあれはキャラを作り上げるために
わざとやってたのかもしれんなあ。。。 日ハムに鳴り物入りで入った小名雄一郎はいまいち大成できなったな
東京ドームなのにもかかわらずHRが全くうてなかった
今何やってるんだろうか 小名は当時の打撃コーチだった羽沢淳一にフォームを崩されてしまったよ
今は確か相模大野でスナック経営している傍ら、近所の少年野球で教えてるはず >>482
小名が現役だったころは東京ドームがプロ野球の本拠地で一番広かったからな。 小名は2年目がもったいなかった
4月の時点で7本打ってたけど膝やって… >>482
金属バットに慣れすぎて、木製に全く対応できなかったもんな。
都市対抗の一試合3ホーマーはすごかったけど。 小名が入団して3年めのオフにオリックスの木賀とのトレード話もあったな
ボツったが 木賀はオリックスブレーブスだった二年間だけ活躍したな。 昭和58年ドラ6でヤクルトに入団した小磯って覚えてますか?
1軍では7試合に登板したのみで平成元年に戦力外になった投手です
実は小磯の娘が某AV女優らしいんですよね、知ってますか? 小磯懐かしいな。
小磯は自由契約になった後、韓国名パク・サンスとして韓国リーグのサンバンウルレイダースに参加したはず。 >>491
阪神21年ぶり優勝決定試合のヤクルト先発は小磯だった ウォーレン・スパーンはカープのコーチ、監督とイタリア代表の監督と何故か指導者としては海外だったな。
75〜77カープ一軍投手、78〜81イタリア代表監督、86〜88カープ一軍監督、89〜93オリックスヘッド 土井監督と折り合いが悪かったな。チームの空気も良くなかった。 オコエを見てるとどうしても97年WBCナイジェリア代表の中堅手オティンティンガーを思い出す。
野球は下手だったが秋山幸二をも遥かに凌ぐ身体能力はセンセーショナルだった。
現状のオコエよりも上。歳は変わらない位だが。
敗退が決まった後の最終戦では3番から1番に打順を上げバックスクリーンに目の醒める様な3ランも鮮烈。
大会直後メジャーの球団がこぞって獲得に乗り出しマイナー契約。
メジャーの舞台にも昇りつめた後33歳で引退したが、他にメジャーでプレイしたナイジェリア国籍っているのだろうか?
日本野球に合わないのは百も承知だがそれでも日本で観たかった選手だ。 >>500
名手はファインプレーをファインプレーに見せないと言うが、その真逆を地で言っていたな。
平凡なフライを目測誤って右往左往したのち快速飛ばしてアクロバティックなキャッチ。
観てる分には面白かったが…
もっともナイジェリア守備陣は皆こんな感じだったから、攻撃面で「高速マシンガン打線」が嵌っても勝てなかった。
監督は70年代に広島をすぐ引退してた片渕だったな。 ナイジェリア代表はピッチピチのユニフォームで選手達のイチモツがクッキリとしてたからな。 小学生が「オティンティンガーのオティンティンがー!!」って叫んでた。
野球を知らない子供からの知名度という点ではかつてのクロマティを軽く凌いでいた。 オティンティンガーといえば
あの2打席連続ランニングホームラン 日本の実況ではオーチン・ティンガーと発音していたが
場内アナウンスはネイティブに則っていたからバレた
東スポが思いっきり見出しにして評判になり、それからは皆「オチンチンガー」としか言わなくなった >>503
片渕は選手としては誰にも知られず引退したレベルだったが、
日本人選手として球史に残る屈指の巨根だという事が判明した。
カープ時代のチームメートでナイジェリアに臨時コーチに来た縁もあり、
これまた巨根で知られる高橋慶彦が「片渕さん相変わらずだな」と唸っていた程。
しかしナイジェリア人選手の中に入ると明らかに小さくて気の毒だった。 >>505
メジャーの広い球場で打ったやつか。
ツボに入ったら球場の広さ関係なく弾丸ライナーで叩き込むけど粗いから詰まった打球も多い。
でもそれを外野手が処理もたつくと一気にランニングホームランに出来たんだよな。
野球が盛んな国で育ってたらメジャー屈指の外野手になっていた素材だ。 確かにイチローとティンガーの一、二番コンビは見たかったな。 代表権を争ったカメルーンのリリーフエースはピエール・マンクォーだったな。
追い詰められたカメルーンはナイジェリア戦で奇襲でマンクォーを先発に起用。
初回オティンティンガーに3ランを打たれる等一死も取れずノックアウトで勝負あり。 マンクォーはサンバンウル・レイダーズに一時期いたね。 >>512
本人は野球チームのレイダーズのつもりで契約したのに実際に入団したのはバスケのチームのレイダーズだったって話だよな。 >>513
へー。ジジマールと同じパターンか。カメルーンではよくあることなんかな。 94年、横浜にいたニチロ・ニッスイ、オープン戦は凄かったな。公式戦は研究されまくって全く打てなくなってしまい、前半でクビになってしまったが。 オティンティンガーの功績といえばもうひとつ、
アフリカからいろんな選手をスカウトしてきたこと
中でもセネガルからつれてきた
ゲオはこのスレの最初の方で語ったな >>515
後のセルビー、マラべ、グランと続く系譜を作ってしまったな。
元々、前年ブラッグスが後半離脱したからそういった事態の保険として獲っていた選手だった。
二年後近鉄がオリックスのイチローに対抗して「ニチロ―」の登録名で獲得。 >>516
ガーナから来たディック・ズルムケを忘れちゃ困るな。 同じディックでも八百長はホッカムリーのほうだろ。
ホッカムリーは不可解な金銭トレードや二軍落ちが多かったけど今から思えば八百長を首脳陣に疑われてたのだろうかな? 爺さん世代は日系のディック・禿(ディック・カムロ)の方を思い出すわい。
孫が大阪から熊本の秀岳館に入学したそうな。ボジションは同じく投手。 イアン・リード
アメリカのマイナーリーグ界で鋼鉄の男とあだ名されてた十年物の選手。んで大洋ホエールズに入団。開幕戦の初打席で特大ホームランをかっ飛ばすもベースランの途中で足がつってタンカで運ばれた。
奥さんがフランス人の美人だったんだけどタンカで運ばれるシーンを球場で見てて幻滅したらしくAV出演して夫婦仲がごたついたって週刊紙とかが取り上げてた。
AVのタイトルは忘れたが「潮吹きくじら」みたいなやつだったと思う。 リードは近鉄に移籍した後3割を一度記録した気がする リードもホモビ男優としてニコ生でオモチャにされるとはな。 タンカで退場した以降の試合も気を取りなおしてアーチを量産していたんだがな。
放物線なのに速度があって「ドカーン」言う効果音が正に当てはまりそうな当たり。
ちょくちょく離脱してたのが惜しかった。
帰国後ホモビが発覚した事を本人は知っているのか? 「赤門の奇跡」って本が六月に出版予定。
東大が唯一のリーグ優勝した72年春のシーズンを関係者の
インタビューを中心に描かれたドキュメント書。
勿論、優勝に大きく貢献した
熊神剛一(エースとして浪商で夏の甲子園優勝、のち南海、日ハムなど)を
はじめ宗谷、室戸といった当時の選手や元プロだった豊国監督の
回想も読み応えあり。 東大っつったら「赤門のドカベン」がついに政界進出だな! 政治の話はやめろよ。
また飛d
ry)の話をしなきゃいけなくなるだろ。 ホセ・アルキメデス
父がギリシャ系、母がスペイン系のキューバ人サウスポーピッチャー。
130キロ台のストレートと70キロ台のスローカーブを引っ提げて東京ヤクルトスワローズに入団。
じゃじゃ馬コントロールながら前半戦だけで10勝をあげオールスターにも出場した。
シーズンオンオフ関係なしに秋葉原に出入りしていたようで目撃情報が多かった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています