1993年のプロ野球
広島は酉年との相性は悪いジンクス
93、05は最下位
17は優勝したがCSで… マーリンズが誕生した年でもあるんだな
ハフやサンティアゴ、ホフマン、後に近鉄に来るアキーノや前年まで西武のデストラーデもいた 「最多浪人記録」
91年頃を初めとした大相撲の若貴フィーバー、F1ブーム、92年5月に発足の全容を発表したサッカーJリーグといった日本スポーツの多様化から、
“野球離れ”が囁かれていた。しかし、91年と92年のプロ野球が人気低下するほどの内容かといえば、共に西武日本一の結果とはいえ近鉄との
激戦だったパ・リーグと、2年とも混戦のセ・リーグの戦いを見ても決して退屈するものではなく、日本シリーズは2年連続で7戦までもつれる大接戦
だった。野球人気について球界関係者が焦っていたといわれたが、その間巨人は4位と2位で92年の2位も前半の低迷が目立つ戦いぶり、即ち
当時の野球人気低下は巨人人気の低下といった時代だった。
読売グループにとって人気復活の切り札は長嶋茂雄だった。巨人の不振に加えて、91年には長嶋復帰に反対していた務台光雄の死去があり準備の
流れは着々と進んではいた。前年に続き優勝を逃した巨人は92年に10月7日に全日程終了、その翌日に長嶋の復帰が球団から発表された。さらに
4日後の12日には、長嶋の華やかな復帰会見といった動きは実に速かった。
会場となった東京・九段のホテルには48社のマスコミに、228人の報道陣が集まった。会見で「チームで戦うキメの細かい野球」と話していた長嶋、
監督復帰までの十二浪は“最多浪人記録”だったが、その間に五輪や世界陸上など色々なスポーツに触れて幅広く知識を身に付けてきた。就任時に
掲げた「スピード&チャージ」は、そんな取材から得た「スピードこそスポーツの原点」という感想からだった。本業の野球でもゲスト解説の席で、
進塁打の重要性を熱く語って“カンピュータ”のイメージ脱却を図ってきた。マスコミはその長嶋を「充電期間で視野を広げた」「視聴率と人気アップの
救世主」「「選手が蘇り若手が育つ」などと祭り上げた。
ただ長嶋によると、復帰について「降ってわいたような話、もう来年のスケジュールは決まっていた」と吐露していた。しかも第一次政権時の川上哲治
ほどでは無いにせよ、二回目も前任者の藤田元司が二度の監督生活7年間でリーグ優勝4回、日本一2回の実績を挙げていた事が長嶋には重圧と
して重くのしかかっていた。長嶋にとって謙虚に神妙にスタートするはずだった第二次政権を、周囲の鳴り止まない賛辞が戸惑いを与え発進を
微妙に遅らせた。 (了) 長嶋1が王の退潮と運命を共にしたのと対照的に、長嶋2は松井の成長と共にあった >>530
いい加減にしとけ。
ここはお前の作文発表会じゃねえんだよ自己満長文野郎 >>530
臭いんだよゴミ
誰も読んでねえから消えろ オナニー長文野郎が嫌いなのは1人じゃないと思います >>530
コラムさん乙
コミケに出すなら
1コマ漫画でもいれるといいかも? 昨年、中日のゲレーロが1年目でホームラン王を取り巨人軍に移籍したが、あまり盛り上がっていなかった。
30年前、ヤクルトのハウエルが不振と怪我の末、解雇されたが巨人軍に移籍したときはゲレーロより騒ぎになってた記憶がある。
巨人軍ファンにはこの1993年のハウエルが強烈な印象だったのだと思った。 巨人の大物捕りは、もはやニュースでもないし、
アンチの人たちも騒ぐことすら飽き始めた様な感もあるしね。
そして案の定、大した活躍もせずにチームは低迷と(´・ω・`) 超貧打だったなこの年の巨人
ドラフトで松井が当たってなかったら
何の希望もない打線 松井が当たらずに、夢も希望も無い打線
もしそうなったら、ナベツネ&セゲヲの強奪はもっと拍車がかかっただろうなw Jリーグ黎明期のスターは
ヴェルディ以外でも
前園、澤登、城、三浦丈
と居て結構長生きで名選手が揃っていた
ヴェルディのカズは現役だし永井も2016までやっていた
黎明期に日本のサッカーは既に完成されていた
だから落ちるのも早かった
野球は亀新ブームで関西が強かった 松井が阪神なら
暗黒もなかっただろうしな
虚カス行ってしまったせいでメチャメチャ 阪神に来ていたら
守れない走れない不細工根暗の新庄で終わっていただろうなw OBやタニマチに連れ回されるのか
それとも井川みたいにそれをスルーするかな 巨人の老害からの寵愛や焼肉記者とかの史実を見てると前者で活躍だな 阪神松井がどうなっていたかは藤浪を見ればだいたい想像がつく 今やネットでは松井秀喜といえば焼肉記者というくらい
マスコミとの癒着振りは有名だけど
阪神で在阪マスコミ相手に同じことやれたかどうかは興味がある ぶっちゃけこの時期のヤクルトは好きになれない
野村野球に染まりすぎて
スキがないから野球がつまらん 日本シリーズの第二戦で西武の攻撃を抑えてベンチに戻ったある選手が、
「西武打線は大したことない」という趣旨の事をつぶやいた際、
これを耳にした野村監督が選手たちに対して
「お前ら野球を舐めてるのか!」と激怒したというエピソードを
当時(テレビかラジオで)聞いた記憶があります。
それと、シリーズ第七戦のラジオ中継(ニッポン放送)のゲスト解説だった落合博満選手が
試合後にシリーズ全体の感想を聞かれ、
「監督が目立ったシリーズでした」と仰っていたのも印象的でした。 デストラーデが前年抜けて秋山清原も前年より成績が落ちても
7戦までいったからな
ヤクルトも前年と比べて打撃成績ちょっと落ちてたかな 強いチームの野球はつまらないってのはよく聞くな
川上巨人も森西武もそうだった 西武が02年までは日シリで勝てなかったが…
04年にようやく12年ぶりの日本一になったのが印象深い…
ただあの年は伊東の前任者の伊原が指揮したチームがどん底だっただけに皮肉感は
否めなかったが14年もやらかしかけたし… そういや2010年代になって西武は優勝なかったんだな 8月31日か9月1日のどちらかは忘れましたが中日vsヤクルト、
負けたヤクルトの野村監督が試合後に「龍の顎に蟻」というコメントを残したのですが、
談話に居合わせた記者たちはこの意味がわからず困惑したそうで(当然、自分もわかりませんでした)。
ベンチレポーターも意味深な一言という感じで伝えていました。 >>565
それだけに、今年が最大のチャンスなんだよね
あとはソフトバンクさえ余計なことをしなければいいw 松井以上にマスコミとの癒着振りがすごい選手は思いつかない 田淵一年目もボロボロだったがこの年は違う方向にボロボロだったな
難波でやってたライトは福岡ドームを見てどう思ったやら そして、この年のオフに秋山らを獲得したのを皮切りに
次々と選手を補強し、チームは6年後に日本一に パウエルこの年はホームラン27本なんだな、しかも97試合出場で
もし全試合出ていたらホームラン王の可能性も、てか96年しか全試合出場してないんだな どん詰まりヒットのイメージが強いが身体から離れた所はめちゃめちゃ飛ばしたな ダイエー田淵は球団の意向か田淵の意向かは分からんが
他球団の元主力だったロートルばかり集めてた印象がある >>103
改めてコラムさんのレス見たけど
もう一つ致命的だったのは
お盆から勝ちだした事で
巨人を優勝戦線から脱落させて
巨人に松井を使わせる
チャンスを与えたのもね…
この年は11本だったが翌年から化けた 中日がシーズン後半、阪神に勝てなくなった原因は何なのでしょうね。 広島VS阪神のバカ試合
やっぱり旧市民球場って狭かったんだな この年の最下位はカープとホークス
この両チームが25年後に日本シリーズで顔を合わせるとは
誰が想像しただろう そもそも25年も先のことなんて誰も考えない
それ言えば暗黒期の阪神とロッテの誰が2005年に日本シリーズで戦うと思っただろうかと一緒だ 25年もたてば
どう変わっても不思議じゃねーわなw それこそ、2043年には中日とか楽天の黄金時代を迎えている
ということも有り得るしね >>583
1985年も最下位が30年後に対戦した (*^◯^*)『横浜ベイスターズ』が誕生したんだ! >>515
梨田監督が辞めるシーズンは巨人が3位な上に
巨人関係でいい話題があまりない
11は清武の乱もあって
18は選手でよくない騒動が続出した >>590
こうした血の入れ替えを行った結果、5年後(1998年)に日本一に輝く
しかし、その輝きも束の間だった… ブライアントもそうだけどウインタースと清原も
前のシーズンより三振数が急増しているのはなぜだろうか >>595
1993年に監督を務めてた人物がまた…
大沢、土井、根本、中村も既に鬼籍か… 健在は長嶋、野村、高木、山本浩、森、鈴木、八木沢か 平成も終わろうとしてるが、平成元年の監督も半分以上亡くなってるのか 今日の銀次を見ると高木豊コースには
ならなさそう… 高木
屋鋪
山崎
新生ベイスターズは開幕戦に2ケタ安打を放ちながら打線がチグハグで敗れたが
それぞれヒットを打った新スーパーカートリオが
3人とも解雇とは思わなかった。 プロ野球の視聴率がJリーグに負けた最初で最後の年?
翌年もJリーグは凄かったが、10.8巨人×西武シリーズがあったから。 小倉シジマール前園城
ビスマルク永井藤吉高木
95Jリーグ=2004プロ野球かな
移籍ばっかで興醒めしてチームの顔が居なくなった 新庄が復帰33試合で11発。
その後色物になったのはこのあと
打撃が伸び悩んだからだと思う。 今年オフの阪神がこの年の横浜みたいな事をするのか? 結局この年はJリーグの最高視聴率超えることはできなかった。32%。ヴェルディ×マリノス。
代表はドーハで48%。テレ東で。BSもあって。 巨人
チーム打撃
打率 238(リーグ・12球団最下位、5位の横浜は249)
本塁打 105(リーグ4位)
得点 1014(リーグ最下位)
盗塁 39(リーグ5位、最下位は中日の29) >>610
ドーハより10.8の方が高かったんだよね
その後、フランスで抜かれたけど この年のヴェルディのスタメンの平均年俸が巨人のスタメンの平均年俸より高かった。 J-POPとか言ってる奴の方がどう考えても低学歴だろ 93年はヤクルトと巨人の抗争だろ
もっと言えば古田対巨人の死球と乱闘の繰り返し 話題は多いが野村ヤクルトと長嶋巨人が優勝を争った年はなかったな。
93年は7月まで巨人が2位につけていたが8月以降は大きく負け越し。 いざ競り合いになると妙に巨人が負けるんだよな
中日広島が操作する疑惑が出たりするが >>625
そのパターンが78、92、01、15なのねw 劇空間プロ野球エンディング「果てしない夢を」
ZYYG,ZARD,WNDS,
FEETURING長嶋茂雄
シゲオも歌っていた、まじで。 >>629
どんだけ擦られてる話だと思ってるんだよ 直近でも>>604あたりでネタにされているだろうにね >>597
今年そこから2人消えました。
危うく3人になりそうでしたが。 >>616
この年の12月に40歳だから、衰えも見え始めたんだろう 森さん、黄泉の国からプロ野球を見守って下さい
合掌 果てしない夢をには
お蔵入りになった茂雄単独歌唱ver.がある。
死後発売されたらミリオン必至だな。 茂雄の歌は、最初笑っていたが、
段々本当に熱い感じがして泣けて来た
最近の口先だけで歌ってる歌手より熱い物が籠っていると気付いた
レコーディング風景で、ZARDの坂井泉水ちゃんがミスターの傍に寄り添って居たのが
印象的だった
「回転ドアを〜」のトップバッターはWANDSで、野球少年で気合入ってたんだなて感じだった
後は、この歌は覚えてない >>635
それじゃ、森さんも亡くなったみたいな表記じゃないか 日本シリーズでなんで視聴率一桁出したのだろうか
それが翌年以降のナイター開催に繋がったからな >>643
前の年までずっと20超えてたからな
俺はやはりJリーグの影響は大きいと思うよ
それと前年と同じカードだったから
話題性に乏しかったのもある
同じ4-3だったけど
前年に比べると熱気がなかったんだよな
観客の入りもガラガラだったし 2年連続同じカードの日本シリーズは2年目があまり盛り上がらないことは
れっきとした事実になっているよな 93年の日本シリーズも盛り上がったと思うんだけどね そもそも平日の日本シリーズをデーゲームでやってた事は
子供心にずっと不満だったな >>646
ただ前年のシリーズに比べたら盛り上がりが少し少なかったのも言えるからな >>646
西武側からすれば凡ミスが目立ったかもしれないが
ヤクルト側からすれば3-1から最終戦までもつれ、
その最終戦も広沢の3ランで先制したのにすぐ清原の2ランで追撃されたし
勝つまではハラハラしたと思う。
だが平日神宮がかなり空席あったんだよね… 広沢のボサーっとした顔がえらく頼もしく見えたもんだ 石毛が受けたデッドボールを境に、流れが完全にヤクルトに行った この年の今日、神宮球場で”伝説の馬鹿試合”があった ヤクルト17×−16広島 (延長14回)
広島 0 1 4 2 1 1 1 6 0 0 0 0 0 0 16
ヤクルト 2 0 11 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 1x 17 この試合で広島って弱くなったなあと感じた
それまでは少なくとも投手陣だけは強い手堅い野球のチームだと思っていたが
この敗戦でもまだ16勝13敗と貯金を持っていたが
この年自分が野球見始めてから初めて広島が最下位になった
次の三村の代はなんとか打線の力でそこそこ戦えていたが
以後はノムケンまで一気に暗黒時代に >>659
達川が前年で引退したのが地味に影響していると思う >>658
ニュースステーション(10時半頃)で上空からヘリ中継していたのを覚えている
Jリーグ開幕直後で、当日隣の国立競技場で試合やってて、
その抱き合わせ中継みたいな感じだった 佐々岡が5勝17敗だったか。
暗黒阪神でも個人で-10超えはちょっと記憶にない。
マイク仲田は3勝12敗。プロは3つアウト取るのが
こんなに大変なんだと思った。
佐々岡と違い輝きは戻らなかった。 うん、だからそれとルーキー野田浩司の
3勝13敗くらいかな。それ以下はない。
湯舟、川尻も最悪-9やな。 97年 前田幸長 25登板 18先発 2勝13敗 5.06
リリーフで負けがついたかは不明 1980年の藤沢公也
1勝15敗
負け越しで記憶があるのはコレ ttps://twitter.com/ryokn_10/status/588342211122569220
メッツのアンソニー・ヤング
92年2勝14敗4.17
93年1勝16敗3.77
当時日本でも話題になっていて、
流石に大リーグはスケールが違うと思った記憶
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 佐々岡ってこの年がなければ通算で勝ち越してたよな
って書こうかと思ったけどこの年がなくても通算負け越しだったのね メジャーもアリなら
1996年のジム・アボット
2勝18敗… やっぱり津田さんの逝去がカープの人たちにショックだったんじゃないかな、と思う。オールスターの日に訃報を聴いたが、その時点ではまだAクラスとBクラスの境くらいだったと思う。
5月にオープンしたばかりの福岡ドームに行って、夜中洲の辺りで「福岡済生会病院」を見掛けたが、よもやそこに津田さんが入院されていて亡くなるとは。 上にもあるが高木豊がファーストで 2割6分 3本
しかもほとんど3番固定 当時の横浜って選手いなさすぎ 80年代の大洋セカンドつったら、
当時のファンは高木を思い浮かべるだろうけど、
末期はファーストだったんか まるでイメージが湧かんw
でも調べ返したらローズが来た年だったのね
そして翌年の駒田獲得につながる訳か
5年後の日本一につながったのだから、
血の入れ替えという意味で実を結んだ感じだ 高木は前年から肩がダメになってて、ならばと強肩二塁手のローズを獲って三塁に回して、遊撃を前年レギュラーを勝ち取った進藤と、前年三塁を守った石井琢朗で
競わせる腹積もりだったけど、最早高木の肩は三塁からの送球も苦しいくらい弱り切ってて、結局、石井琢朗を三塁に、高木を一塁に回さざるを得なかったんよね。
ちなみに高木が三塁定着した際の一塁は長内、畠山、佐伯辺りを想定していたみたいだが。
シーズン中、近藤昭仁監督が「"一塁を除いて"リーグ最高の守備力」と公言した内野陣の更なる強化との名目で一塁守備なら日本一と称されながらも、巨人では
中畑コーチとの確執等が噂されていた駒田をFAで獲得し、FA資金を捻出する為に屋鋪等と一緒に解雇されたという。 長打のないロートルの一塁切って浮いた金で強打者補強
理に叶ったやり方に見えるが長年見てきた当時のファンはどう思ったやら 駒田が強打者といえるのか微妙だな
5番に1ランク上の打者がいれば連覇できたかもしれん 高木切っただけじゃなく屋舗、山崎、大門、市川、欠端ら生え抜きベテラン総解雇のうえ
解雇じゃないがヒゲ斎藤もこの年引退で大洋色一掃だったから長年のファンは悲しかったんじゃない? 外人ピッチャーも記憶にない
ロースだけで他3枠何に使ってたんだ
やり方上手ければもっと勝てた >>678
禍根を大きく残しそうな補強ではあったが結果的には大成功だったな >>681
ブラックスもいたんだけどね
その2人が打線の中軸にいるうちに優勝してほしかった オールブラッグス
9人のブラッグスが試合前に整列してハカを踊る >>680
阪神のお家騒動はもはや「お家芸」レベルだけど、横浜も大概だよね 大洋横浜は監督より選手の発言力の方が強かったという点で前時代的な体質だった
マシンガン全盛期もリーダーだった石井が音頭を取って監督批判をすればフロントが動き、
それを察知した権藤は逃げ出し、森も実態は解任なのに辞任という体で辞めさせられる
そんな有様だった >>686
そんな石井も、衰えが目立った晩年にはチームを追放される憂き目にw >>687
その村では横浜がシリーズに出るとシリーズがNHKのBSかラジオ中継しか受信できないな >>664
エースが1人で借金12だから、チームが最下位というのも致し方ない… 阪神に霞んでいたが実は横浜も暗黒時代だったんだぞ… 当時の広島は二年連続で阪神より順位が下になり、大洋と仲良く暗黒席にまたもどるのかという絶望だった
史実は阪神が暗黒に戻り、広島横浜仲良し暗黒はそっから10年あたりしたらはじまり、15年ぐらいこんな状態になった >>672
その津田氏が亡くなられたのは、この年の今日のこと
オールスター中継の中で津田氏の訃報が報じられたのは衝撃だった >>676
優勝のためなら、背に腹は代えられないと思っている
ファンもいたことだろう >>681
まず93年まで一軍登録の外国人枠が2な
94年に枠が3に拡大されようやく投手も獲得するようになったが
そうそうたるハズレ外国人投手の山を築く
そもそも大洋時代から外国人投手の獲得がほとんどなく
名スカウトとして名高い牛込氏も投手獲得に感しては素人同然と言って良いだろう 大洋時代の外国人投手なんて元南海のスタンカくらいしか知らん この年は横浜がヤクルトに4勝22敗と記録的な負け越しを喫したのだが、
1991〜94年にかけて9勝17敗→14勝12敗→4勝22敗→15勝11敗と、隔年でここまで顕著に相性が変わるのも不思議だ。
普通、4勝22敗で徹底的に苦手意識が染みつくはずなのに翌年は勝ち越す(15勝11敗)のも不思議だ。 日本ハムのユニフォームが変わったけど
オープン戦までは前のユニフォームだったはず
大沢監督とオレンジ&白帽子の組み合わせはその時期しか見られなかった >>703
オープン戦までは旧ユニフォーム→公式戦では新ユニフォーム
これ、星野氏が中日監督1年目に使った手法だな >>700
翌年のヤクルトが池山古田飯田伊藤など主力の故障者続出は関係あるかもな >>704
今だとユニフォームが売れなくなるから絶対に認められない方法だ >>705
特に古田の場合は、チームの根幹を成していたから、
故障するしないでチーム成績の差が顕著だからね ヤクルト黄金期は野村が監督だったことも大きいが、古田がいなければ優勝なんて一回も出来なかっただろうな 野村の優勝もヤクルト時代の97年が最後だからね
その点は三原に近い 00年代の横浜暗黒時代はオフの駒田獲得の為に大洋組を大量リストラした罰 >>710
単に木庭スカウト時代の選手が峠を越えたのと大魔神・白薔薇の退団が低迷の原因、あと西武時代の成績が自分の実力と勘違いした岐阜の貯金箱の監督就任も。 長嶋は私の履歴書、5年前ぐらいのサンスポの連載でこの年4番を固定できない、
貧打(12球団最下位の打率)で3位になったことで落合が本当欲しかったというを
事を強調してた。槇原のFA引き止めと完全試合、駒田の移籍は私の履歴書には書いてたが
サンスポには未記載 結果的に成功だったとは言え93年の落合を熱心に取りに行くというのもよくわからんな 結果的にそうだったのかも知れんけど、
松井の良き師匠を期待したとかないのかな 93年の巨人は記録的貧打だったからねぇ
レギュラーで250以上打ったのが川相くらいしかいなかった 当時のダイエーの資金力なら松永じゃなくて落合を獲れたはず
駒田はオリックス、松永は巨人に行くべきだった シーズンオフ、落合選手が巨人にFA移籍した事についてコメントを求められた王貞治氏が
「彼も最後は優等生で終わりたいのでしょう」と話していたのが印象的でした。 原シンパ(俺もだけど)とかは反対してたかも
でも落ち着いて考えれば、この年の貧弱打線を見ると、
普通に妥当な補強だった。
何より松井がその背中を追って立派な四番になったのだから
数字以上のものがあった。 長嶋が監督だったから、そんな発想が出てきたんだろうな 広島が19年ぶりの最下位だった。
このシーズンが暗黒落ち最初の予兆 >>723
達川の引退と津田の逝去がねぇ・・・・。 達川の引退理由がいまだにわからん
肩も衰えてなかったし その達川といえば、91年にも一部で引退報道が流されていたよな
どこから流されたのかも分からないし、日刊スポーツでは一言も触れられていなかったが 達川があと2年ぐらい現役でいたなら、少なくとも佐々岡の5勝17敗という成績は無かったと思う この年の日シリで西武が負けてからパリーグは日シリで2002年までの間に2回しか勝てず苦しむことになる
今では考えられないことだが何があった そらFAと逆指名よ
当時はまだセパの人気格差が大きかったし >>716
記憶違いかもしれないけど、この年のジャイアンツって開幕前ぐらいには
「史上最高打線」とか銘打っていなかったっけ? >>731
世間で期待されてたかは知らんけど、
俺が個人的に期待してた
記録的大外れだったがw やっぱり野球はネットの整備途中だった90年代が最高だな
今はユニフォームが洗練され過ぎて、選手も似たり寄ったりの優等生ばっかでスターオーラ0だから刺激が無い 未だに10代の頃の顔を維持しているのだから、ある意味若い 当時から老け顔だった松井や古田なんて、今でも見た目や体型が当時と大きく変わらないから今は若く見える 古田は若く見えるけど松井は年齢不詳って感じだな
顔がでかすぎて判断に困る 岩隈は2001年の時はイケメンだったけど今は随分老けた 上原や松中も20年ほぼ変わらないから若いよな
宣銅烈なんて中日入団時の34で凄い貫禄があった 松中昨日のスポーツ番組出てたけど浮腫みすぎでヤバかった 大橋穣のウィキでこんなのを見付けた。
1993年からヤクルトでコーチを務めた際には、上田阪急の御家芸であった走塁戦術「ギャンブルスタート」を伝授した。上田は1970年代後半に、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分ける戦術を考案して実行し一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった[6][7][8]。
ヤクルトは、大橋がコーチに就任する直前の西武ライオンズとの1992年の日本シリーズ第7戦、7回裏一死満塁、1-1の同点の場面で、代打杉浦享のセカンドゴロの間に三塁走者の広沢克己が本塁で封殺されてこの回を無得点に終わると、延長10回表にエースの岡林洋一が力尽きて犠飛により1点を失い、1-2で敗れて日本一を逃した。ヤクルトの敗因としてこの広沢の走塁死がクローズアップされたため、監督の野村克也は大橋から「ウエ(上田)がやっていたあれは、どういうケースで(打者、走者が)どういう条件でやるんだ?」と聞き出し[2]、キャンプでは大橋の指導の下、その走塁戦術を練習させた。同じ顔合わせとなった1993年の日本シリーズ第7戦、8回表一死三塁、3-2とヤクルト1点リードの場面で、三塁走者の古田敦也が三塁ベースコーチの大橋に「行きますから」と小声で伝えて「当たり・ゴー」で本塁に突入し、広沢のショートゴロの間に生還して追加点を挙げ、ヤクルトは4-2でこの試合に勝利して15年ぶりの日本一を達成した。 今の選手は真面目過ぎてキャラが立ってない
90年代まではレコード出したり、オフのかくし芸に出たりと漫画や珍プレーで茶化されるぐらい個性的だった
その反面、監督はチー牛主体からフレッシュに若々しく様変わりしてるが その頃とは時代が違うんだよ
いつまで昔を思い出してウットリしてんだジジイ 松永も今じゃ鹿児島で幼稚園児相手に体育を教えたり、水泳大会のゲスト解説に呼ばれたりする 今は真面目じゃないと
マスゴミに叩かれるからな
キモい時代だよガキ 松永は幼稚園児に砂遊びを教えてるんじゃなかったのかW 小宮山が開幕6連勝くらいしてたけど結局負け越してた ハドラーの方が優良外人だったのか(´・ω・`)
17-16以外、あまり記憶にないが しかも8番打者ながら打率.300を達成
シーズン2回のサヨナラ打
得点圏打率はリーグトップという勝負強さを見せた >>757
当時のヤクルトのれっきとした主力だったんだけど 終盤の練習中に山本昌広が松井達とかいう雑魚の打球鎖骨に受けて骨折、20勝と防御率1点台とドラゴンズの優勝が消し飛ぶ
延長15回、無死満塁からクリーンナップが内藤に3者連続三振…
今思い出しても悔しすぎる、絶対ドラゴンズ優勝してたよなあ
ついてなさすぎだろ >>763
7イニング、スコア7-1で山本昌投手を降板させたものの9回に8失点してチームは逆転負け、
山本投手の16勝目が消えてから3日後の出来事でしたね。
この試合が余程堪えたのか、翌年の10月6日は山本昌投手先発で
7回終了時点でスコア9-0であるにも関わらず完投させ、
その結果、いわゆる10.8では山本投手はブルペンに入りはしたものの、
事実上登板不可という状況に。 >>757
後年、その内藤が中日に移籍したんだけど、その際はどう思ったんだろうか 阪神佐藤53打席連続無安打のおかげで
トーベの存在を思い出した まさか、こんなところでトーベの名を聞くことになるとは 前年のトーベは打率2位だった。この年同様100試合弱の出場だったけど ワールドカップが怪しい
ヤクルト優勝しそう
宏池会の総理逆風なまま選挙へ
株が下落
来年冬五輪
大河ドラマが途中からになる >>773
そのうち、ヤクルトはリーグ優勝を達成
また、自民党は議席こそ多少減らしたものの、公明と組んで
絶対安定多数をゲット >>763
そして、翌年は讀賣との「10.8」に敗れてしまう
高木監督が持ってない人だったのか、それとも… ヤクルト戦、15回裏無死満塁からパウエル、落合、彦野の三者三振
阪神戦、9回裏種田の代走酒井が自動スタートできるフルカウントから立浪の右中間二塁打で生還できず幻の同点
阪神戦、9回表種田の守備固めの酒井がフライ落球、さらに併殺コースの打球をはじき大逆転負け
中日は9月12勝6敗だったとは言え
この3試合で一気に意気消沈したかな >>781
5年以上前に>>424で同じ事書いてたわ、俺… 酒井って選手は全く知らんが、2chがあったらネタキングだなぁ その試合
https://2689web.com/1993/DT/DT21.html
ここには詳細は書かれてないが9回表先頭打者の遊飛を落球、
さらに7-3となって無死一、二塁から遊ゴロをはじいて傷口を広げた
酒井の守備成績
https://2689web.com/ind/1990034.html
3000足らずの守備機会で62失策はどうなんだろう… 中日もこの後7連勝するが同時期にヤクルト8連勝で追い付けず
さらに9月末からのヤクルト11連勝で一気にマジック1に 谷口が三本柱に次ぐエースとして大成していたら上原は獲って無かったな この年のオフからFA制度が導入
これにより、球界のマネーバランスが崩壊することに… >>117
中村は、まあ阪神のお家騒動に巻き込まれていたから、半々くらいだったけど、高木はね。復帰とはいえ、ここが初めて監督になったのと殆ど変わらんかった(前回は山内一弘の途中退任による監督代行だったから)。ただ、ツテが徳武・井手・井上弘昭くらいしか無いし、一枝・島野と言った頭脳派が抜けて作戦面でも前年よりも落ちた感じ。
それに、最近の長嶋清幸のコラムに書いてあった内容も解り、余計印象が悪くなった感じ。それに、仙一派の福田が一軍にいた、93.94が順位良くて、二軍の92.95はほぼ最下位争い。
まあ、95は星野禅譲予定が、前年の10.8で予定が変わり、凄い拗れた人事になった。星野が使う予定の無い人は解任、ある人は2軍といったものが色濃く、木俣とか谷木などのその後呼ばれること無い人や、投手コーチが現役当時の勝数2人合わせて10勝くらいという悲惨さだったのは、同情的意見はあったけど。 特に第5戦で桑田から打った1本目はかなり飛んでたな >>798
そりゃバカスカ打ってたもんな
優勝してたらMVPやったろう
桑田とオールスターみたいに遊んでた様な気がしないでもないが 1993年
MVP票数 セ・リーグ
(1位に5点、2位に3点、3位に1点のポイントが振り分けられる)
146 17. 6 計787 古田敦也
. 10 57 24 計245 広沢克己
8 32 39 計175 ハウエル
3 28 34 計133 伊東昭光
3 14 30 計 .87 今中慎二
5 11 .7 計 .65 山本昌広
-. 2. 6 計 .12 高津臣吾
- .1 .3 計 6 ローズ
-. 1. 1 計 4 池山隆寛
-. 1. - 計 3 ハドラー
- .- .3 計 3 江藤智
-. -. 1 計 1 伊藤智仁
- .- .1 計 1 前田智徳
MVP票数 パ・リーグ
53 34 32 計399 工藤公康
43 49 20 計382 辻発彦
31 32 36 計287 石毛宏典
. 1 . 3 . 9 計 .23 野田浩司
. - . 5 . 1 計 .16 ブライアント
. 1 . - . 4 計 9 野茂英雄
. -. 2. 1 計 7 鹿取義隆
. -. -. 4 計 4 潮崎哲也
. - . - . 4 計 4 広瀬哲朗
. - . 1 . - 計 3 シュー
. - . - . 3 計 3 ウインタース
. -. -. 1 計 1 石井丈裕
. -. -. 1 計 1 杉山賢人
. -. -. 1 計 1 伊東勤
. -. -. 1 計 1 清原和博
. -. -. 1 計 1 秋山幸二
. -. 3 10 計 .19 白票 サヨナラホームラン5本のハウエル
1993.5.15
1993.5.28
1993.6.22
1993.7.4
1993.7.14 93年はウインタースもシューもそこそこ打ったじゃないか
この時代はむしろ外国人打者への依存度が高すぎたのが問題だ この年はメディーナ、トレンティーノ、シューと名前からしてネタ助っ人が多過ぎ
当たりだったのはローズ、ブラッグス、ホールぐらいか >>820
ハドラー、タイゲイニーは当たりに入れてもいいかも。
シューはヤクルト入団を希望していたと、雑誌か何かで見た記憶がある。 >>820
この年のブラッグスは7月14日を最後にケガで出場していないが
ケガがなく全試合出ていればホームラン王だったかもしれない なにわ男子の藤原って阪急どころかイチロー渡米前の90sオリも知らないだろうな 福岡ドームのデカさにビビった。今の新しい球場と比較してもそれは変わらない。 あれだけの広さがあるのにあんな高いフェンスはどう考えても必要なかったよな そりゃあんた 初の開閉式だし一回に数百万円かかるとかいうデマもあったし 東京はメトロドーム、福岡はスカイドームがモデルだけど
札幌、ナゴヤ、大阪のデザインはほぼオリジナルだよね >>835
後の3つはとにかく寒々しくてひとつも楽しくなかったので一回しか行ってない 日米共にプロ野球がプロ野球してた最後の年だと思う
今は客が呼べない選手ばかりでユニフォームもダサい
そのせいかXゲームに負けるマイナースポーツに成り下がったよ 日本一の胴上げで、野村のピンクのトランクスが露わになっていた。
誰かがズボンを引っつかんでたな。 選手個々人で「客を呼べる、呼べない」云々を言ってもなぁ。
それなら昔の巨人の選手は客を呼べる選手で
山田や福本や村田兆治は客を呼べない選手ということになる。 >>829
ホームランテラスとかいうものを作って、狭くしている 福岡ドームは広さよりフェンスの高さが異常
なぜ十分な広さがあるのにあんな要塞みたいにする必要があったのか? 東京ドームの逆方向にHR打てるだけで凄い凄いと言われてた時代に
福岡ドームの逆方向にHR打った西武清原には度肝を抜かれた 東京スタジアムでも福岡ドームでも公式戦出場している杉浦享というレジェンド >>844
横浜スタジアムが元祖だと思いますが、
野球場設計の初期の計画において
長方形のフィールドも作れるようにすべく内野スタンドの一部を可動とする場合は、
(可動内野スタンドの)最後部と外野スタンド最前部の高さを揃えるために
外野フェンスを高くせざるを得ないのですね。
福岡ドームはテラスを設けたりして、今後内野席を動かす事はなさそうですが。
ナゴヤドームもHPを見る限りでは、内野席を動かさないようなのでテラスを作ってもいいと思うのですが・・・ 長嶋監督が復帰して注目を浴びた巨人は余りにも打線が
打てなさ過ぎてAクラスに成るのがやっと。ベストナインに
誰も選ばれなかった。その中で8月末頃から1軍に復帰して
HRを打ちまくって球団初の高卒1年目で二桁HRを達成した
松井が唯一の救いだった。 バーフィールドとか絶対40発打つとか思ってたわ(´・ω・`)
初HRはたしかドームで見てた 史上最強打線とかいう触れ込みじゃなかったか?
最後は「自称最強打線」などと揶揄されていたけどw 93年でそんな触れ込みあったかな
ローズやペタジーニのいた2004年と勘違いしてないか まあでも開幕前の段階ではかなり期待できる陣容ではあったよ
原駒田モスビー吉村デーブに松井とバーフィールドが加わって
これで貧打に苦しむなんて誰だって予想できるわけがない その連中が額面通りの働きをすれば、他球団の投手は震えるんだろうけどね 親父のコネで取った一茂も、
謎の勢いで15本くらい打っちゃうんじゃね?とか期待してたわw 実際オープン戦ではめっちゃ好調だった
シーズン入ったら本来の姿に戻ったけど >>430はTOTOのMoodido (The Match)だった >>855
これに脇を固める岡崎、緒方、元木、村田真一がいたんだから
貧打に苦しむのなんて開幕前は想像できなかった この1993年のプロ野球の話題ではオフの西武とダイエーとの
大型交換トレードだな。この年西武は日シリでヤクルトに
敗れたのでテコ入れでやったのかも知れない。因みにこの
トレードの件は当時週刊少年ジャンプに連載されていた
「ペナントレース・やまだたいちの奇跡」でも書かれて
いたがこの漫画では1993年も西武が日本一に成っている。
もし1993年現実に西武が日本一に成っていたらこの大型
トレードは無かった、と今でも思っているのだが、どうよ? この年の今日、津田恒実氏(元広島)が死去
早いもんで、あれからもう30年か 日本ハム万波がプロ野球史上2人目の快挙!1試合で先頭打者弾とサヨナラ弾 93年の中日パウエル以来
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d5931005c3a023663e74a7f3d64456736e9ae63
1番で出場した日本ハム・万波がプロ野球史上2人目の快挙を成し遂げた。
1試合で先頭打者アーチとサヨナラ弾をマークするのは、93年10月13日ヤクルト戦でのパウエル(中日)以来。
試合後、歓喜のお立ち台に上がった万波は「本当に最高です。自分も鳥肌が立ちながら、びりびりしながらダイヤモンドを回ってました。1番で使ってもらっているので、何とか打ちたかった。うれしいです」と喜んだ。
パウエルはチーム6得点のうち3打点だったが、万波はチームの全3打点をマーク。さらに22本塁打はトップのポランコ(ロッテ)に2本差と、初タイトルも射程圏だ。 >>865
あの時のパウエルはえらいど迫力だったな。
ブライアントの様な一発強打の打者になると思ったんだが。 30年前のどんでんはこの年で阪神を去り
今年阪神タイガースで日本一監督になる >>866
今のビシエドと同じで来日してから年々飛距離が落ちていってたな 1993年5月11日に、当時38歳の佐藤義則が延長12回を1人で投げ切り、218球で完投勝利を挙げている
工エエェェ(´д`)ェェエエ工 >>870
CSがもし実施されてたら巨人は間違いなく袋叩きの目に遭ってたな >>871
2013年も+4のソフトバンクが4位でCS逃してしまったおかげで
-3の3位でCS進出した広島は結構白い目で見られてたよね セ・リーグは1970年度生まれの選手の個人タイトル初受賞が多かった印象
今中(中、最多勝)、石毛博(巨、最優秀救援)、石井琢(横、盗塁王)、江藤(広、本塁打王) 「野茂は太りすぎや」「キミはエースじゃない」監督も球団幹部も苦言…なぜ野茂英雄は近鉄と決裂した? 野茂が怒った“あるコーチの退団”
https://news.yahoo.co.jp/articles/71325f6f1a2a8ebb3d1e0bb228af4bbcdcc3e960?page=2
それでも、野茂は心折れず後半戦に驚異の巻き返しをみせる。
10月1日のロッテ戦で打球を右側頭部に受け頭蓋骨骨折の診断を受けるも、その8日後に144球を投げて勝利投手となる超人的なタフさをアピールし、
次の中4日の登板では182球で16勝目、さらに中2日で上がった西武戦では177球の熱投で17勝目と、近代野球では異例の鬼気迫る投げっぷりで4年連続の最多勝を手中に収めるのだ。
プロ5年目の94年、7月1日の西武戦でプロ野球ワースト記録の1試合16四球を出しながら、3失点完投勝利。なんと191球を投げた。
投げすぎw