元ロッテのマイナーな選手を懐かしむ その2
欠端って何気にバッティングも良かったよな。
1軍でも何本かホームラン打ってるはず。 関取といえば、元関取の選手もいたな
すぐクビになったけど市場だっけ >>305
弟が2人いて、一人が関取りで、もう一人が野球選手で甲子園にも出た、って意味だな
その書き方だったら関取りと野球選手の二足の草鞋を履いていたように見える 甲子園に出たうえにプロから指名されたってことで
ちょっとしたヒーローになっていた
球はそんなに速くないけどなぜか打てないみたいな評価が新聞に出ていた >>305
>>308
スレ違いになるが一応。
欠端弟も市場も十両に上がってないので関取ではなく「取的」だね。
欠端弟は最高位が幕下10枚目だから惜しかった。
市場は元相撲取りでゴツイ身体の割に非力で、打球が全然飛ばなかったと聞いた事がある。 >>312
それは昔パリーグに在阪3球団が集中してた時代に言われてたね
阪神-阪急-南海-近鉄であればどこに所属しても引っ越さなくていいと。 外ヶ浜、だったかな?欠端弟のしこ名。
あとちょっとで十両だったのは新聞見てても分かった。
(映像は見たこと無いが)
そのあと10枚の壁が高いんだろうね・・・ いやいや、甲子園に出ただけでも凄いと思うよ。
兄は名門福岡高校、弟は一関商工(現一関学院)で甲子園の土を踏んだ。 丹波という野手がいた
ものすごいニキビ面だったことだけ覚えてる 社会人の強打者がそのままプロで通用した験しがないことを
改めて証明した人 >>322
多分身体のバランスが悪かっただろうな
腕だけ鍛えたとか >>326
キャッチャーが5人必要、とまで言われたんだってな >>318
台湾籍だったから、養子縁組で日本国籍取らせたけど結局戦力化せず、
最後は王さんのいるGへ(希望)トレードって凄い人生だ。 >>329
トレードの相手が山本功児ってのが、今から思えば有意義。 島田とかが日替わり4番だった頃に大豊の弟の大順ってのが4番に座ってホームラン打ったことあったな。 サウスポーで伊藤優っていたな。
アイドルみたいな名前だなって思ったけど。 >>333
兄と同じで豪快というか大雑把というか、
緻密な日本の野球にはあまり合わなかった 打って一塁方向に走る時に白線を踏むのを張本がよく咎めてたなあ >>335
我が郷里の英雄です
少なくとも高校時代は県内無敵だった
それでも甲子園には出られなかったのは彼一人だけが傑出してたから ラインを踏むと死んじゃう病のシコースキーが走ってくるぞw >>339
高校は信州工だったな
この時期野球に力を入れて甲子園に近付いたがあと一歩で果たせず、悲願達成までに実に30年近くを要した
校名も変わってた 小池もここ出身だな
もしかしたら先輩後輩のリレーも見られたかも知れない 明らかに伊藤優は投げ過ぎで潰されたケース。
当時の監督は稲尾。
何か因果めいたものを感じたわ あえてマジレスになるが
小池がもしストレートにロッテ入りしてたとしたらルーキー年の91年が伊藤の最終年で
しかもこの年の伊藤は肩痛で登板不能だった。
信工リレーは無理だってことね 連戦連投OKってのは彼自身がアピールポイントにしてたような。
90年代になると前田がその任を受け継ぐことになるが。 前田は先発中継ぎ抑え全部こなしたのが凄い
マイナーじゃないのでこの辺にしときます >>350
田舎限定どころかその高校の生徒及び卒業生くらいでしか盛り上がらないよ。 てか、何で前田トレード出しちゃったんだか
この頃のロッテは訳のわからんトレードやテスト入団が多すぎた
五十嵐とトレードで来た渡部なんて、このスレの住人以外、覚えてなさそう
仲田とか与田とか終わった選手を毎年かなり入れてたが、役にたったのはいなかった >>356
愛甲もだけど、広岡GMが素行の悪いベテランを放逐してた気がする。 広岡はポンコツばっかり入れたな
バレンタインを追い出して次の年に入れた外人はジャックとスパイクwww
他にも広岡ルートで採ったのはマイク仲田とか誰も役に立たなかった気がする
そういえばクビ寸前の関を救ったのも広岡w ジャック・ドウテイ
>来日時には35歳で、前年も3Aで10試合に出ただけで打率.152、0本塁打に終わる
なんでこんな選手を取ろうと思ったのか。
しかも苗字がドウテイだから登録名をジャックにせざるを得なかった。 水上って今何してるんだろ?
やたら後ろ髪伸ばして逆トレンディとかほざいてたよなw 吉岡知穀
そこそこ使われるようになって、いよいよブレークかって思ってたら
その後は故障か何かで1軍で全く投げなくなって、そのまま引退しちゃったな。 個人的には、袴田後の正捕手がずっと決まらなかったのが印象深い。
福沢を筆頭に、青柳、猪久保、柴原とか、定詰や清水が入ってきても
固定ができずに吉鶴や光山もいたが、やっと里崎で固定できたね。 >>362
柴原、そんな捕手いたっけ?w
桃井とか椎木は覚えているが 柴原は万年二軍で一軍にほとんどいなかっただろw
その頃は山中とか田村みたいなロートルも入れてたな
ディアスがキャッチャーやったこともあった 柴原は西日本短大付で石貫(広島、のちロッテ)とバッテリー組んでた。
新庄の2つ上の先輩になるね。
福沢が練習生上がりで1年目から1軍マスク被ってたのも驚いたが
青柳にしろ、なぜ定着しつつあった若い捕手を使い続けられなかったのか。 福澤定詰 打てない
青柳 (捕手にしては)打てるがリードが単調
猪久保 特徴あったっけ? 猪久保は肩がいいってラジオの解説で聞いた
ハートリーがまだ一軍にいた四月頃にバッテリー組んで勝った試合があって盗塁何回も刺して「今日の勝因は猪久保の肩」ですね、と言われてた それと青柳はリードよりも弱肩がネックだったはず
ヤクルトにいたときにオープン戦で野村に「青柳は酷い弱肩や」 と 叩かれたはず その青柳も今はヤクルト本社の社員。
「引退後も面倒みてくれて感謝」とのこと。
猪久保は最初オリオンズ時代に金田が抜擢してたよね。 ハートリーww
NHKで中継してた試合で清原の頭にデッドボールぶつけたことでインパクト残したな >>369
ノムは青柳を捕手としてじゃなくて代打で使ったくらいだ >>372
ジャックと、スパイクも捨てがたい。
チェンバレンと、ウィットモアはそこそこ。 今凄く調べている投手がいる
荻原勝投手(新聞とかで調べてるけど全然資料がない)
田村登志親投手(東京で少年野球を教えている、米屋やっているっぽい)
いずれもドラフト外。どんな投手だったのか知りたい >>375
チェンバレン 68試合 11HR 38RBI .253
ウイットモア 57試合 12HR 29RBI .266
まあ初芝クラスか (6番打者なら合格、クリーンアップで使ってるならそのチームは終わってる) チェンバレンとウィットモアは来た当初はかなり良かったが、後半はメチャ失速してただろ
このコンビとジャックスパイクコンビは成績も似ててどっちがどこのポジションだったかとか打順とかも
混同して2人で1組みたいな印象 福澤定着後に獲得した鈴木というキャッチャーもすぐに消えたね。
ピッチャーとして入団した佐藤和史が、十数年目で初ヒットという
のがなんか嬉しかったね。結局、次の年に限りで引退して
コーチになったがすぎに消えた。 鈴木は中京高校時代に野中とバッテリー組んでた。親父が当時のホークスでコーチ。
ガタイが良くて、イースタンではDHや一塁になった。その後台湾でもプレー。 >>376
田村登志親の娘さんも野球をしていて、一時期は女子硬式野球日本代表でキャッチャーになりましたよ。 >>359
実は92年の週ベMLB展望号(当時週ベのMLB関係は毎週号に2ページ+パンチョさん連載
それと開幕前の展望号とシーズン終了後の総集編が発刊)
レンジャーズのページ(この年途中までバレンタインが監督だった)にこんな一節が
レフトはレギュラー未定で、昨年大リーグに定着したライマー(後にダイエー、91年頭角を現し20本塁打)と
2年前に巨人入りの噂のあったドアティの争いとなるだろう
このドアティ表記の選手がジャックのこと。
巨人入りの噂も結局マイク・ブラウン入団でレンジャーズに残った90年は125試合340打席で.300をマーク
前年(52試合122打席で.302)に続き3割を打ったがその後は不振だった
というわけでもともと日本球界でも狙ってる球団はあったのかも
ただ93年を最後にMLBから去り94年はAAAで打率.336、OPS.914も47試合のみ、95年はわずか10試合
たとえ往年のシュアな打撃と選球眼が残ってても体力もパンチもなかったろうに・・・ 因みに田村登志親の娘さんも現在は高校の女子野球部の指導者なので、親子揃って野球を指導している、野球一家です。
田村登志親としては、自分は全くプロで通用しなかっただけに、子供をプロ野球選手にしたかったんだろうね。 それで女の子でも野球をやらせたんだと思う。
まあ、女子プロ野球がもう少し早く誕生していたら、田村の娘さんもその道へ進んでいたかもしれないけど。 ダリル・モトリーという外野手いませんでした?
たしか、途中入団で入ってきた外国人
その数年前、阪急の秋季キャンプにひっそりテスト来日してたのを覚えてる >>387
いたね。
確か来日してすぐ4試合連続ホームラン打ったはず。
でもその後はさっぱり。
>>388
初ヒットがサヨナラタイムリーだったな。
次のヒットもそうだったっけ。
智弁和歌山の選手は当時はなかなか活躍できなかったからな。
昔は智弁出身選手は伸びしろがないって言われてた。
また、慶応大学からプロに行ったので成績残したのも
高橋由伸が最後だしな。 >>389
モトリーそのあと故障したからな
マックスヘンゲルモトリ―とどうしょうもない外人補強で暗黒時代>90年前後 安藤学ってのがいたな。選手名鑑の写真写りがブサイクだったから覚えてるw 二塁:酒井
三塁:進藤
遊撃:小坂
の鉄壁内野陣を見たかった。
初芝と福浦で一塁争いして、指名打者に堀が回るのかな? モトリーって確か81年に来日したロイヤルズのメンバーだったな
それから10年以上経って日本に来るとは思わなかった >>381
佐藤和、懐かしいよ
試合数の少ないファームでも異様な登板数の多さで話題になった事もあった
一軍から声がかからなかったのは層が厚かったからか?そうでもないと思うが 泣かず飛ばずだった笠原が
あの巨人をここまで追い詰めるなんて
胸が熱くなるな というかこんな話題で再び名前を聞けるとはな
複雑だ >>396
一応、二人の息子がプロ入りしたわけだから、たまに父の名前も出てたけどね
初勝利挙げたときも「父を超えた」とか答えてたし
しかし親子3人でプロ入り、全員ピッチャーってことは遺伝子はいいんだろうな
永遠の未完の大器的な遺伝子だろうけどw 笠原の父親って、とにかく練習嫌いで有名だった。ところがコーチに就任したのが
シャレが効かない事で有名な木樽コーチ。当時この二人の掛け合いは名物だった。
腹筋やらしたらからっきし、とかいらん一言で練習倍以上とか、なんとなく笑えた。
なんかガキの使いの山崎方正と蝶野の掛け合いみたいだったな。 >>9
これ懐かしいな!
当時小学生だった俺は、マイクロフォン野球はつくり話かと思った >>398
ロッテのドラフト1位Pは伊良部前田幸が入団するまで
ダメダメだったな
愛甲もPとしてはダメだったし >>398
笠原がダイエーをクビになった年、年末のスポーツ新聞でクビになった選手のコメントとか載ってたんだが、
練習はやってたような感じだったんだけどな
かなり昔だからウロ覚えだが、精一杯頑張った、みたいな感じだったと思う オヤジさんの方は新人時代は見るからに純朴な野球青年と言った風情だった
プロの世界でやっていくには少々キビしいかなと 練習嫌いと言うより無名公立校出身だったからきちんとトレーニングしたことなかったんだよ
プロのこともほとんど知らなかったらしい
腕立て伏せもできなかったのを一から指導したのは二軍コーチだった木樽さん
息子が巨に入った時は木樽さん巨の編成だったんだよね・・・
今は銚子に帰ってるらしいが 当時のロッテは著名な選手には来てもらいにくいので、他が指名しない選手を1位にしてた。
甲子園組の愛甲、伊良部、前田はチャンスをものにしたが同じ高卒1位の比嘉、石田はファーム。