元近鉄のマイナーな選手を懐かしむスレ その3
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武藤の応援歌の最後のハモる所が、なんか好きだった。 元は大島(近鉄→オリ)の応援歌なんだっけ?その前は誰かいた? >>292
自分でコケて金田監督の蹴りだしたスパイクにゴン!
あれは蹴られたんでなく自分から顔を当てに行った感じだわな >>299
息子が上宮太子のレフトで甲子園に出てるな、巨人亀井の1年後輩で。
箸尾谷、口脇、記と変わった名字が何人かいたのを覚えてる。 阪神でF1セブンの一員となり、その後ロッテに行った平下
ファン感で福袋買ったらユニフォーム入ってたけどその数日後にトレードw 白滝は近鉄に来て少しずつ出番が増えてきてたのに急に辞めちゃったね。
資料を見たら最終年は打席数に比して安打数が極端に少ない。
中日時代には打撃が売り物で二軍で2回もホームラン王とったのに
近鉄での最終年の急な落ち込みが謎だ。 やる気無くしてたんじゃない?
この人も奈良県出身だったんだな。 >>304
プロ7年目で初ホームラン。
まあ市橋みたいに12年目で初ホームランもあるから
白滝のケースは記録的には珍しくもないけど
近鉄が活躍してない選手を長く雇い続ける球団であることだけは
よく分かる逸話だ。 球団社長はタニマチ感覚で選手を囲い込んでいたんじゃないか? >>304
フォーム改造とかやっちゃったんじゃないの? なんか柳原やら光井やら白滝やら
二軍では元気が良いけど一軍ではサッパリって選手が多いのね 一軍との実力差が大きかったんじゃないの
当時のウエスタンは。 デーゲーム終わったら、伊丹まで急いでいって高知で夜遊びとか名神とばして金沢で遊ぶとか、
その手の余力がない人間しか一軍で活躍できなかったんじゃないの。
金沢までの運転手は基本若手だったって金村も言ってたし。
自分が主力になった時にあまりにも翌日に影響があって若手がかわいそうだから、タクシーにかえたってラジオで言ってた。 >312
実力差はあったかも知れんが、年収の差はそれほどなかった。
一軍バリバリの選手でも3000万円くらいで頭打ちだったからね。 今の支配下選手登録の最低年俸って440万?480万?で一軍最低年俸は1500万だな
80年代頃の二軍選手だと年俸500万の選手もいただろうが最低ラインはもっと低いはず 昔、小学館の入門百科シリーズみたいなので、
プロ野球選手の給料ってのがあって、
王(月給600万)、掛布(月給100万)、大卒新人(月給25万)、大卒サラリーマン(月給15万)ってのがあったような気がする。
小学生の頃でインパクトがあったから今でも覚えている、70年代後半ぐらい。 超俊足のメジャーバリバリというふれこみだったマイク・エドワードってのも
期待はずれだったよね?来日時には脚を痛めてたそうだけど。 スター選手は球団からの年俸以外にも収入源がたくさんあるからね。
新聞に書かれてる金額以上に一軍と二軍の収入格差はあったはず。 今日はこのスレ的には
前川と一緒に間違えたのに、
すっかり忘れられている中濱の記念日かな。 元近鉄で楽天のスカウトだった 吹石、武藤、石山が解雇になった。
石山は韓国二軍監督になるけど、この3人はマイナーかな? 世間一般的にはマイナーになるんだろうな
吹石はバイプレイヤーとしての一軍暦が長かったし、武藤は実働実質4年だが大半がレギュラーとして出てた
石山は最終打席初ホームランとコーチ暦が長かった。3人とも近鉄ファン的にはマイナーにならない 吹石はもう還暦過ぎてるだろうから別のチームから声がかかることは期待できないかもね
娘がガッツリ稼いでるからもう老後は安心かな 吹石は何と言っても10.19の第2試合に放ったホームランだな。
あれで勝てたと思ったんだけどなあ。
一歩一歩踏みしめるようにダイヤモンド一周してホームインした時は涙したよ。 三田学園から捕手で入った金沢信彦
この人も一軍に上がれるまでに凄い年数かかってる。 石山は当て馬ばかりでプレーした姿が記憶にない。
わざわざ偵察要員をベンチに入れるくらいなら、前日先発で上がりの投手を当て馬にすればよかったのに。
当時は上がりという概念がなかったのだろうか。 ベンチ入り登録してあったら使えるだろそりゃ
DHだと打席に最低1回は立たなきゃいけなくなるが そうそう、DHだったら出なきゃいけなかったんだね。 記憶違いかもしれんけど、助っ人外国人を当て馬に使ったこともなかったっけ? http://npbstk.web.fc2.com/order/1977buffaloes.html
この年のバディ・ブラッドフォードが顕著な例かな 怪我してたらしいけど
ちなみに指名打者の偵察メンバーは1981年までOKだった 怪我の他に簡単に二軍に落とせない契約とか、当時は抹消から再登録まで二週間かかるという事情があったのではないだろうか。 >>333
へぇ。そんなこともあったのか。
贅沢な起用法だな。 日生球場のスコアボードの選手名表示でほとんどがゴシックできっちり書かれてるのに
ハンプトンだけは文字数が多過ぎたのか手書きだった時期があって何となくさびしく思ったものだ
日生ってそんな金もないのかってw 藤井寺のナイター設備がもっと早くできていたら・・・ 亀ですまぬが
>>303
平下は現在女子プロ野球・大阪ブレイビーハニーズのコーチ
しかし本人が愛着あるのは阪神(就任直後の背番号は阪神時代と同じ45だった)w
>>324
フッキーパパは来年還暦(1953年生まれ)だね >>324
中日の高木監督やクビになったが権藤投手コーチは古希を過ぎてからの就任だった。
しかもこの人らはベンチで選手の面前も構わず作戦や選手起用を巡ってしょっちゅう喧嘩してたらしい。
気持ちだけは若いんだな。野球人には歳なんてカンケーないってこと。
まだまだ一線でやっていってほしいよ。 権藤さんって仰木内閣の時に投手コーチやってたよね。
阿波野や吉井を鍛えて主力投手にブラッシュアップしたが、
88、89年西武とのデッドヒートで後先考えない過酷な投手起用を
厭わなかった仰木と衝突して辞任したといわれている。
自らが酷使されて投手生活が短命に終わった経験から
投手を守る立場で監督に「モノ申す」スタンスでいるのは
投手コーチという職責に対して誠実だと思う。
ただ、ベンチで噛み合うのはダメだけど。 吉井も育て方を間違えてたらこのスレで取り上げられる選手になりかねないところだった。 確か 権藤コーチを途中でクビにできないから、腹心って言われてた石山ブルペンコーチを
解任してスカウトになったって本で読んだ。 スレチになるけど、野手で、ほぼ偵察要員専門で現役を終えた選手が
パリーグのどこかにいたはず(阪急だったかな?) >>349
南海の渡会純男
165試合連続アテ馬出場 >>328あて馬要員の石山か。1980年の確か日本シリーズで最後併殺打になったな。
現役時代はそのイメージしかない。 渡会は野村が全盛時の頃の控え捕手で、戦力としてはほとんど計算に入ってなかった。
梨田有田の2枚看板がいた時の石山とほぼ同じ立場。 一線級の捕手だった有・梨が揃って戦線離脱することはありえないのに
石山を後生大事に雇い続けたんだね。 ブルペンとベンチの取次や、味方攻撃時のピッチャーのキャッチボール相手とか、いろいろある。
ある意味、代打や守備固めに備えて試合に集中している第二捕手よりも忙しいいんじゃない。
偵察に使われて、試合に出ることのない第三捕手。 エース鈴木から「同じ性が2人いてややこしいので登録名変えろ」と文句がでていた。
どこかから移籍してきた鈴木投手 >>358
「王に756号を打たせてやった鈴木」が良かったのかな?
>>359
まぁヤクルトでローテ投手だし、近鉄でもリリーフで
活躍してるからマイナーじゃないわな。 でも結局登録名は草が「鈴木啓」、ヤクルトから来たのが「鈴木康」に落ち着いたんだよね。 >>360
当時のセとパの露出度が違いすぎるんだよね
世間一般での知名度で言うなら、ヤクルトでローテ投手何年も勤めて2桁勝利3回やり、
王に756号打たれた鈴木康二朗をマイナーというなら当時の近鉄の「主力選手」の半数はマイナーになると思う >>357
卯津羅は正選手だったような。
壁は普通は正選手でない人が担うと思ってたけど、違うの? 平野光泰はこの板的にはそこそこメジャーになるのかな…
俺36だけど、周りで知ってるの誰もおらん メジャーですよ。
引退後もしばらく解説者としてメディアに出ていましたし。 >>345
首脳陣の組閣なんてどこもええ加減でしょ。
実際一緒に仕事して「あ、やっぱりコイツとは合わねーなあ」と感じることって
よくあるじゃん。 権藤さんは投手育成に定評がある。
同じ時代に打撃コーチにいた中西太もやはり多くの好打者を育てた。
88年〜の仰木内閣はレベル高かったんだよ。 阪神監督の時は江本にアホ呼ばわりされるなど散々だったけどw 中西は教えるのが上手いのでコーチには適任だったが、監督の器ではなかったね
阪神の話は・・・中西を監督にした阪神フロントもアホだよ思うよ(ハムもだけど)
黒い霧事件を防げず、選手管理能力のなさが過去に証明されている人をよく監督として招聘したものだ 中西はブレイザーが政権投げ出しで帰国してしまったためにショートリリーフのつもりで
監督になったんじゃなかったっけ。 自分に監督としての適性がないと自覚してるなら
辞退すればよかったのに。 それは草魂に言ってあげなよ。
名選手必ずしも名監督に非ずの典型。
あの時の中西氏は後任を決められなかった球団の不始末を押し付けられる形で
中継ぎ役として半ば強引に監督就任を受諾させられた。
阪神生え抜きでもなんでもなく、しかもスター選手が本社の幹部のお抱えを楯に服従せず、
さぞかしやり難かっただろうと思われる。
そこへ江本の造反劇が起って、管理能力なしのレッテルを貼られて事実上の解任なんて、
中西氏こそ「フロントがアホやから・・」と言いたかったことだろう。 板東英二の本には、中西は見かけと違って気が小さいと書いてあった。 見かけと違わないじゃん。
スポーツ選手にしてはややデブってるというだけで。 中西コーチが仰木時代に育てた打者といえば石井浩くらいか。 権藤や中西に目をかけてもらえなかった選手たちが
このスレの主役になるわけだね。 >>364
平野は何が売りだったのかな
足が速かったわけでなく、守備が上手かったわけでなく
長打があったわけでなく・・・・・・・・・・・ >>376
極度のアッパースイングで球が全然当たらなかったブライアントをレベルスイングに矯正したのは中西じゃね。
後、本人のインタビューなんかでよく出てくるのは真喜志。
太っさんいわく、3割打てるバッターを3割2分打てるバッターにするのは至難の業だが、
1割台のバッターを2割台打てるようにするのは簡単って例で出てくる。
守備の人で9番打つのだから最低限でいいとフォームちょっといじったら2割そこそこ打てるようになって、
どうにか一軍のスタメンレベルにしたって。
タイトルとったり派手な活躍する選手を育てるだけがバッティングコーチの仕事じゃないって例で、本人が好んで使っている、真喜志のエピ。 そうだった、ブライアントは中西の功績だね。
89年10月の所沢決戦の4打数連続本塁打は今も忘れられない。
中西に巡り合ってなかったらとうの昔に忘れ去られてたポンコツ外国人に
終わっていたことだろう。 中日の二軍で燻ぶっていたブライアントを獲ってくるように進言したのも
中西じゃなかったっけ? 進言まではしてないと思う。
一軍コーチが他軍の二軍選手の情報を聞きつける機会は少ないと思われ。
編成が動いたのでしょう。
wikiではオファーを受けた中日もブライアントの将来性を考えて譲渡には消極的だったとの
記事も出ている。 中日は、あんな極端なアッパースイングの選手をよく引っ張ってきたもんだ。 >>379
切り込み隊長と呼ばれたくらいに物怖じしないガッツマン。
足も速かったし、いい選手だったよ。
でも大石が台頭すると一気に出番が減ってしまったけどね。
余談だが、ヨメさんがキレイだった。サンスポがよく取り上げていた。 >>385
前年、怪我で100試合も出られなかったゲイリーの保険だからね。
取り敢えず身体能力と金の安さだけで決めたんじゃない。
二軍のコーチ陣も一軍に昇格する可能性が極めて低い外国人バッターよりも
若手や不調・怪我で調整中の選手の指導に力を注いだろうし。
中日の二軍コーチも馬鹿じゃないだろうから、
郭源治やゲイリーが怪我とか絶不調で一軍昇格の可能性が出てきたらスイングの矯正はしたんじゃないかな。
成否はわからないが。 >>357
確かに壁役だったけど、「壁」って酷いネーミングだと思わない? >>386
大石がコツコツ堅実に積み上げるタイプで
平野はどっちかっていうと勢いでプレーするタイプ。
成績にムラが合って、印象に残るけども記録には残らない、みたいな選手。 羽田の年度別成績のガッカリ感は異常
通算225本塁打818打点と聞いて勝手に強打者のイメージを持っていたので… 平野は実に昭和テイストだったパーマヘアも印象的だったなw
パーマ+ちょっとクセのあるヤンキーな顔立ちは
在大阪のタレントやバラエティー畑の関西アナみたいな感じね。
とても明星高校卒とは思えなかった。浪商か大鉄、北陽っぽい。
引退後は解説者のかたわら心斎橋でスナックをやってたらしいけど
まさにドンピシャなイメージ。ムード歌謡とか歌わせたいタイプw 連投スマソ
高校時代、大阪学院の江夏は明星の平野の対戦して
ヒットを打たれたと何かに記事で語っていたな。
それがあの'79−'80の日シリで再び対決となる。
平野がレギュラーに定着したのが77年だから
南海時代の江夏とも対戦したことはあるんだろうけど。
平野はエースとして春夏連続で甲子園に出てるけど
いずれも初戦敗退だったとか。 >>340
裁判になっていたくらいだからね、それは叶わぬ願望というもの。
甲子園や西宮球場も周りに住宅が普通に立地している(いた)が、
藤井寺みたいに揉め事になったという話は聞かない。
最初に球場ができて、あとから周りに住宅が建っていった経過は同じなのに
この違いは何だろう・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています