元阪神のマイナーな選手を懐かしむスレ その3
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なかなか、これだけの残念オンパレードにゃならんわなw
阪神の首脳陣って、単なる給料泥棒?ww ○○二世とちやほやする→いきなり後援会やらタニマチが甘やかす→将来性豊かな〜→コーチが手柄にいじる→怪我→批判→自信なくす→放置
ダメ虎は闇が深すぎる 秋田経法大附から入団した中川
高校一年生のときに伸びきってしまってプロでは全く芽が出なかった
残念な選手。 そもそもプロの器じゃなかったろw
スカウトがアホw >>157
船木は初年度は結構素質を感じさせるピッチングして6勝したし、他球団ならもっと活躍できたかも。
杉山も9勝した事あったし右のエースになりかけた事もあったが、他はひでえな。
まぁ山村や太陽は移籍して活躍できた時期もあったからこの中でもまだマシな部類。 まぁ、スカウトに見る目がないのか、育成体制の問題なのかは微妙だが…。
しかし、こんなにまで失敗が度重なると、両方とも問題だとしか言いようがないわなw いまの広さの甲子園で投げてそこそこは少し割り増しされてるね >>154-155
安達は松井のハズレ1位だよね? 秋田の中川はちょっと球の出所が見え辛い癖のあるフォームだったから初対戦だと打者は困惑されて凡退することが多かった。
でも甲子園で注目されてから徹底的に研究されて次の年にも甲子園に出るには出たがもう一年生の時のように打者を躱すことは叶わなかったね。
それに登板過多で故障もあったようだし。
プロ入り後研鑽する機会はあったと思うが、一軍で投げてないところを見ると
特にスタイルを変えずそのまま消えてしまったようだな。 中川
決め球は何だったんだろうな?
ネットで調べるとスクリューを投げていたという記述があるが印象にない。
愛称が「東北のバンビ」。当時からさらに10年ほど前(1977年)の
東邦・坂本投手の愛称に因んでいるが、これももう知らない世代の方が増えてしまったね(苦笑 2年の時の春に甲子園に出たときの中継がyoutubeに出ているが、
たしかにバンビと呼ばれるだけの雰囲気はあるようだ。
でもこのとき既に肩を痛めていたらしく、1年生の夏に見せた快腕はすっかり
影を潜めていた。 球速ないし、コントロールがあるわけでもない。
なんで入団させたんだろ。 荒木大輔くらいの人気があればそれもありだけど、
中川は2年の時にはもう落ち目だったでしょ。 >>171
村野工の安達もそういうトーンで記事にされてたな。
中川は4位だが、安達は1位だったからなあ。 >>173
阪神のやることだぞw
まともに考えるだけ無駄w あまり当時のことをよく記憶してないのだが
中川って客寄せできるくらいに人気があったのかい? あんた、甲子園の1年生アイドルをなめたらあかんわw 甲子園でのアイドル人気を維持したままでプロ入り、だと良かったんだけど。
学年が上がるに連れて人気も落ちて行ったようだし。 いやいや、良くはないってw
そもそもプロレベルにない高校生を入れたこと自体、罪だわなw 球団は違うが太田幸司や定岡正二や荒木大輔といったところも
当初はプロレベルかどうかは疑問符だったが
コーチ陣の指導やもちろん本人の努力もあって
どうにか一軍で数字を残せるようにはなったのとは対照的だね。
太田の指名なんて明らかに近鉄は客寄せパンダを狙ってたわけでしょ。 太田も2桁勝利したシーズンも数回あったし、育成次第では伸びる素材だったんじゃね?
客寄せパンダとして取ったのは間違いないだろうけど。 今日のYTV「そこまで言って委員会」で、ゲスト出演のノムさんが
「田中秀太ごときでスポーツ紙の一面になれるんですよ!阪神は甘すぎます!」と
固有名詞まであげて阪神選手の甘えの体質を批判してました。
そういえば田中秀太って選手がいたことを思い出しましたw
>>181
甲子園を沸かせた度合で言うと、
悪いけど中川は太田・定岡・荒木の足元にも及ばないと思うね。 >>181
太田、定岡、荒木らは、人気とともに素材的にも期待されたからこそのドラフト1位。
中川は、どう見ても高校野球の好投手どまり。
しかも早熟w 4位だからね・・
他球団ではリストアップさえされてなかったかも知れない。
あれほど選手に好意的なサンテレビでさえ
フューチャーされたことがなかった(はず)。 ザラテとかいう黒人ピッチャー、一軍初出場も簡単に打ち込まれ
アナ「点は取られれましたが、150キロ出てましたね」
解説「早い事は早いけどねえ〜」
もう見る機会がなさそうだ、若手及び外人嫌いの監督だし てことは、田中秀太を実力では評価してなかったんだな
のむさんは >>189
少なくとも昨日のテレビではそういうニュアンスでしたね。
ついでに、マイナーじゃないけど今岡のこともケチョンケチョンにこき下ろしてました。
「何も考えてない」「ヒットを打って外野が返球に手間取ってるのに一塁ベース上でボーっと突っ立てる」
等々、今岡批判はとどまるところを知りませんでした。共演者も大爆笑の渦。
のむさん、よっぽど溜め込んでいたんだな。
録画しておけばよかったw >>189
F1セブンに入れなかったのも故意だったりしてな バンビだか何だか知らんがやっぱり秋田の中川では客は呼べんわ。 そもそもトラファンは
アイドル要素を選手に求めてないと思う。 キャッチャー 山川
木戸の入団があと何年か遅かったら正捕手の座をつかめてたかも 打つ方はまあまあでも、肩がダメだったでしょ。
他球団なら野手に転向させられてたかも。 肩がだめって・・・野手でもしんどいのでは?
致命的だよ。
生き残るとしたらパリーグでDHしかない。 阪神がクソすぎてスレ検索してたらこんなスレがあったのか!
96からのファンです、これから住ませていただきます
>>188
まあとりあえずジャン2世って感じだったな
リベラになることはできるか
和田も『マイナーなタイガース歴代監督スレ』とかに挙げられないよう、何とか意地を見せないとだな。 >198
守れない、走れない、
なのにDH、というのも80年代にはあった。
暗黒期の南海とか。
DHが8番打ってるってどうよw
だから山川は南海に行けばよかったのだ、と妄想。 >>200
2登板連続でボーク。次、矯正できるかどうか 若菜が退団してから木戸が成長するまでの数年間は正捕手無しの時代だったね。
たしか笠間と山川が争っていたんだっけね。
でもどっちも決め手がないままに年が過ぎて行った。
どっちかが、かつての古田や今の阿部みたいなしっかりした要になっていれば
もう少しはましな成績になってたのかもね。
吉田監督が著作で言ってたよ。
笠間がいるとどうしても使いたくなる。
頼りたくなる。
若手を育てられなくなる。
頭を下げて頼んで引退してもらった、とww >>205-206
まさに阪神の弱点を如実に物語ってるよな。
結局、笹本、続木、渡辺長、月山ら生え抜き捕手の育成は何れも大失敗に終わり、笠間、山川のトレード組で辛うじてパッチあて。
そもそも、この2人に期待してる時点で話にならんよなw そうか、二人とも他所から獲ってきた選手だったんだね。 現在の阪神と同じ状況。
とにかくキャッチャーは自分とこで育てなきゃ、チームは強くならんわなw 続木や渡辺に至っては端から壁役(ブルペン捕手)でもいいやみたいな雰囲気があったよ。
育成の方針など終ぞ立てられた事など無かったのでは。
本当なら、田淵で10年はキャッチャー安泰の青写真だっただけにな。
しかし、ドラフト2位でカベを獲っちゃいかんわなwww 自前のキャッチャーなんて、数年以上レギュラーだったのは
木戸以降はそれこそ暗黒時代の山田くらいしかいないと思うが。 木戸ってあそこまで固定するほどだったかね?
嶋田でも別によかったような。 しかし、ここまで捕手を育てられないチームも珍しいなw
逆に広島あたりは、外様のレギュラー捕手は過去に西山ひとりだけ。 以前の近鉄が、ありなしコンビ(有田&梨田)を投手によって使い分けていたように、
正捕手として一人に固定しておくことが絶対、というわけでもない。
そりゃ古田くらいに打撃で貢献できれば言うことなしだけれども。
>>213にも出てたような、木戸&嶋田兄の併用を首脳陣が模索してた時期もあったんではないかな。
で、嶋田兄といえば思い出したのが嶋田弟だが、彼もまた、D1としてはちょっと物足りない成績だった。
暗黒時代に一期だけ野手転向でそこそこ働けたことがあったのがせめてもの救い? >>214
そういえば、現在檻にいる北川も逆指名までして入った捕手だったけど、結局育てられずに終わったんだよな。
しかも、移籍した近鉄では優勝を決めるホームランを打つほどの大ブレークをしたくらいだったし。 捕手の育成はバッテリーコーチの職掌になるのかな?・・・・
もしそうだったら無理。
歴代の阪神のバッテリーコーチの顔ぶれ見たら分かる。
まともな育成されずに選手生活を終えた人が後進を育成できるはすがない。 嶋田宗彦は石井毅とのバッテリーで甲子園春夏連覇。
ノンプロでも日本一になったのに、
揃いも揃ってプロでは今一つだった。 まぁ阪神の場合、異常な!?人気球団だけに、フロントもとにかく目先の試合に「勝つ」ことしか頭にないんだよな。
だから、そもそも若手を我慢して使い続ける土壌なんてありゃしない。
ホント、広島の堂林の育成起用を見倣って欲しいね。
しかし今や、まともな生え抜きレギュラーは鳥谷だけか…w 石井はあの球速でプロは厳しかったでしょ。
当時球界一の編成力を擁していたあの西武が入団させたのが不思議なくらい。
嶋田はここ一番の勝負強さみたいなのは持っていた。
球団が真剣に育成しなかったからほどほどの選手で終わってしまった感じがする。 ところで昨日中日の稲葉2軍投手コーチが急逝したけど、この人って現役最後の年(83年)は何気に阪神にいたんだよな。
しかも一軍登板なしという、その後の山沖のような終わり方だった。
阪神は編成ポリシーも何もなく、とりあえず獲れるものは何でも獲るからなw >>221
嶋田兄は打つ方はともかくリード面が・・・
それ言っちゃうと大昔から阪神の捕手は田淵も含めて全員落第なんだけど。
リードでしっかりした評価をしてもらえたのは矢野が初めてじゃなかったっけ?
あ、矢野も外様だったなw ノムさんでさえ現役時代は投手のリードよりも自分の打撃の研鑽に注力してたらしいから、
リードを評価する空気が球団、否、球界に全然なかったのでしょう。
ノムさんがヤクルト監督時代に古田という逸材に巡り合って、
初めて確立されたんじゃないですかねえ? まぁ、藤井だ今成だなんて言ってるうちは、阪神の外様マンセー体質は変わりようがないなw
私がプロ野球を見始めた、1976年
その当時のエース谷村って印象に残ってないんだよな〜。
上田、江本、古沢、安仁屋はおぼえてるのに >>228
谷村は、そのメンバーの中では一番インパクトのあるピッチングフォームだったけどなw
まぁ、76年当時はもう大人しいフォームになってたかな。 月山はケガばかりでプロ生活を終わったような。
これも>>210で言うところのカベ候補として獲得したのかな。 月山も続木も、高校時代の甲子園での輝きがあるだけに、余計に甲子園をフランチャイズとする阪神での現実が哀しかったな。 しかしなんで、1976年って優勝できなかたんだ?
2ケタ勝利投手が5人いて
打線も 中村、藤田、ラインバック、田淵、ブリーデン
あと掛布、池辺ガ居たのに
因みにラインバックのHR数23、田淵が39、ブリーデンが40
掛布が27 >>228
谷村はエースだったとはいえ、なぜか阪急のイメージの方が強いんだよな。
そして安仁屋もイメージとしては明らかに広島だし。
(上田、江本、古沢はパのチームにもいたけど谷村や安仁屋ほどではなかった) エースで生涯阪神って村山ぐらい
4番も掛布くらいしか思いつかないし
その前って藤村くらいまでもどらないといけないのかw >>231
月山は確かに甲子園で輝いていたが、続木は輝いていたのかな?
中軸を打っていたのは知っているが特に強打の印象がない・・・
と思って資料見たら甲子園では5割近い打率残してたんだな。
御見逸れしました。
しかし一度も一軍に出ていないのに引退後一貫して球団に残り続けられてるのが凄いわ。
何か持ってるんだろうか。 続木が甲子園に出た年(昭和50年夏)は打高投低の大会で、
投手といえば岡山東商の寒川くらいしか居なかった。
その寒川も初戦で消えたし。
続木の打撃成績は掛け値ありと見ておいた方がいいね。 やっぱり印象深いのは、ローテの谷間で先発好投するが打線に見放されて
敗戦処理や2軍が中心で一軍未勝利で終わった福家
ずっと次期エースと呼ばれていた 70年代後半というと池内と深沢も居ましたね
深沢はロッテのイメージが強いが 福家雅明か あのメガネの。
阪神に一時期いた江坂政明もスカイAにいるね。 池内って脚の上げ方とテークバックが独特な変則フォームだったよね。
二段モーション気味だったのか? 細かいところまで覚えてないけど。
滑らかさに欠けるスリークォーターというか…。古沢みたいな力感もなかったし。
その頃では藤原仁が好きだったな。
崇徳高時代から不敵な面構えの好左腕で、キャラが対照的なライバル、広商のアイドル・佃の敵役的な存在だった。
阪神では、同い年の巨人・江川と投げ合って勝った試合が印象的だな。 藤原は松村邦洋が特に好きな選手のひとりに挙げてたな 藤原は故障が残念だったな。
特に、計算できる投手になってきた矢先だっただけに…。 エグサ
バレーの全日本チームのチビおばさんに略奪婚おめ! 藤原の故障って左腕の骨折だったっけ?
あのニュースを聞いた当時、プロの投手が利き腕を骨折って
どうなんって思った。 >>247
安藤政権時代で左の先発候補として藤原と益山が構想されてたが
益山が一向に成長しないのに対して藤原は着実に力を付けつつあったんだよね。
当初は背番号47だったが、将来の飛躍を期待してもっと若い番号に変える話もあったんだよなあ。 藤原はとにかく度胸がいい上に、カーブのキレが素晴らしかった。
ただ、アマチュア時代は広商の壁に苦しみ続け、日本楽器時代も都市対抗の晴れ舞台で、宿敵・金光(広商→法大→三菱広島)に決め球のカーブを狙われ、試合を決める一発を食らったな。
プロでも、広島・達川との対戦には、特別な思いがあったはずだw なんで藤原は広陵か広商に進まなかったんだろう?
崇徳は黒田の時だけの一年草でそれ以外の時代は
甲子園にも縁のないチームなのに。 藤原らより前から、崇徳は野球部の強化に力を入れ始めてて、着々と地力をつけてたからね。
藤原の1年先輩には、橋戸賞投手の黒紙がいて、その代は夏も優勝候補筆頭。
藤原もエースになれたのは、黒紙が引退した2年生の秋からだった。
広陵は郊外移転が決定してたから、有望中学生からは敬遠されてたしな。 >>245
藤原と佃(広商)のライバル関係は凄かったな。
甲子園に直結しない春の県大会だけは崇徳が勝ち、中国大会まで楽々制しているから、レベルの高い争いだった。
夏の県決勝も藤原が投げ勝っていれば、広商が成し遂げた全国制覇は、崇徳のものだったかもな。 藤原がエースだったころの崇徳の監督は、久保さんだったんですか? >>256
久保さんじゃないよ。
久保さんが復帰したのは、選抜優勝の前年、新チームのスタートから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています