【東映】大杉勝男【ヤクルト】
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>>279
監督:大杉
投手:松岡&安田
打撃:若松(外野守備兼任?)
内野守備:水谷
バッテリー:大矢(ヘッド兼任?)
う〜ん、妄想とはいえ楽しいメンツだ。 子供の頃母親に近所の沼に心中目的で連れられて行き…
「月に向かって打て」で打撃開眼し(若干脚色あり)…
黒人ボレスを一発で仕留め…
オールスターで売り出し中の江夏からHRを放ち、投げキッスのファンサービス…
主力打者なのにヤクルトにおん出され…
そのヤクルトで復活し…
巨人との乱闘劇ではかのミスターをぶん殴り…
日本シリーズでは疑惑のHRで前代未聞の抗議劇を演出し…
今度は正真正銘のHRを放ち…
「こいつは石ころじゃ」と野次った達川にゲンコを食らわし…
引退試合で王から貰ったバットで臨もうとして審判に拒否され…
引退スピーチで「セリーグ残りの1本はファンの皆様の夢の中で」と名言を吐き…
大洋コーチ時代には暴れる外人相手に全く怯まず…
プロ野球ニュースではその訃報で大矢を泣かしに泣かせ…
橋本忍は「私は貝になりたい」なんて書いてる場合じゃなかった。 海外の富豪向けの日本人女性カタログが出回っているようです。
(全裸画像なので閲覧注意)
http://hosyusoku.com/trading.html 終戦を約半年後に控えた1945年3月5日。
大杉は、岡山県山間部にある勝田郡奈義町で生を受ける。
小さい頃はいたずら好きなやんちゃ坊主。
甲子園に出場しベスト4に残る活躍をした4つ上の兄・正二郎に憧れ、大杉自身もまた
野球への道を志し始める。
関西高校野球部に入部すると、新入部員130人の中から最初にレギュラーの座を獲得。
1年生でありながら主力として活躍する。
だが、天は大杉家の男に天命を与えなかった。
大杉が高校2年の時、兄・正二郎は白血病により僅か20歳の若さでこの世を去る。
その4ヶ月後には、肝臓を患っていた父・二三五郎(ふさごろう)も後を追うように逝去。
硬式野球を続けるにはそれ相応の金がかかることから、母の負担を考え
軟式部に転部。甲子園への夢は断たれてしまうこととなった。 しかし大杉は諦めない。
それならばと、本格的にプロへの道を志すようになる。
そんな大杉を支えたのは、亡くなる直前に兄・正二郎と父・二三五郎がそれぞれ遺した
2通の手紙であった。
兄は大杉の名前になぞらえ、弟に夢を託した。
『勝男、勝つ男。良い名前です。お前なら、人生に勝てます』
そして父は、親として最期の戒めと激励をしたためた。
『人生に於いて失意の時の苦しみをぢっと忍ぶ事、その苦しみを味わっている時が、最大の成長期だ。
大杉勝男は野球屋になるのではない。野球の達人になるのだぞ』 高校卒業後に入部した丸井の社会人野球部は、僅か1年で解散。
しかし高校の先輩であり、後に西武の二軍監督となる指揮官・岡田悦哉のツテで
東映フライヤ―ズのキャンプにテスト生として参加させてもらえることとなる。
大杉は打撃練習でその力を大いに発揮。
軟式と硬式の差も何のその、打球を遠くへ飛ばしまくり、首脳陣へ大きくアピールする。
アピールは大成功し、大杉の打撃力を東映の首脳陣は大きく評価した。
中でも監督を務めていた水原茂は、その才能に惚れ込んだ。
この時、東映フライヤ―ズは既に新人を獲る予定は無かった。
つまり当初は形だけのもので結果は決まっていたテストだったのだが、大杉は実力で
それを覆したのである。
遂に飛び込むことのできたプロ野球の世界。
実力に自信があった大杉は、自分が活躍することを信じて疑わなかった。
一日でも早く4番を打ちたいと、夢を大きく膨らませていた。 だが、当時チームの4番を打っていたのはあの男である。
後にプロ野球歴代1位の安打を放ち、唯一の3000本安打を達成する張本勲である。
3割打って当たり前、出塁率は毎年のように4割を超える伝説的打者は、打線の中心に
堂々と君臨していた。 その張本の打撃に圧倒された大杉は、自信を失ってしまう。
サードのレギュラーとして起用されるものの、打率.192、本塁打1本、13打点と
期待に応えられず、ルーキーイヤーは惨憺たる結果であった。
2年目にはプロの球にも慣れ、ある程度対応できるようにはなっていたものの、
それでも自身の打撃内容には不満が残った。
練習では遠くに飛ばせるボールが、試合になるとなかなか飛んでいかない。
焦りが焦りを生み、なかなか持ち前の長打力を発揮できない日々が続いた。
そうして3年目、後楽園球場でのナイターの試合。
ついにその日が訪れる。
打席に向かおうとしていた大杉は、この年から打撃コーチに就任していた飯島滋弥に
呼び止められる。 飯島は左中間のスタンド上空に浮かぶ月を指さすと、こう訊いてきた。
「大杉、左中間スタンドの向こうに月が浮かんでいるだろう
あそこに打つにはどうしたらいい?」
「え?
そりゃあ‥‥‥」 「ボールを思いっきり掬ってやりゃあ、
あの方向に飛んでいくんじゃないですかね」
夜空を見上げながら、大杉はおもむろに呟いた。 「そう、それでいい!
そうやって打ってみろ!!」
「‥‥はあ、分かりました」 話はこれで終わった。
この時は、飯島コーチの言いたいことが何なのかよく分からず終いだった。
だが試合が終わり寝床についても、大杉はこのやりとりが
頭から離れなかった。
後に球史に残る名台詞となる、「月に向かって打て」。
若き日の大杉を開眼させた、有名なエピソードである。
それからの大杉は、文字通り月に向かって打ち始める。
今まで思い悩んでいたのがウソだったかのように打球は遠くに飛び、ホームランを量産。
順調に活躍を重ね、この年オールスターに初出場を果たす。第3戦では江夏豊から満塁ホームランを放ち、
いきなりMVPを獲得する活躍を見せるのである。
月に向かって打つためには、アッパースイングで角度をつけて打ち返さなければならない。
当時主流になり始めていたダウンスイング理論とは真っ向から対立する理論ではあったが、
大杉にはこれがハマった。
飯島のアドバイスは抽象的なものではあったが、ロマンチックな気質を持つ大杉には
「月に向かって打つ」というフレーズが、心に大きく響いたのである。
大杉は後年、「あの言葉でホームランを打つコツを掴んだ」と語っている。 4年目、5年目も順調のホームラン数を伸ばし、通算100号本塁打を達成。
この頃になると大杉は張本に代わって4番の座に座るようになっていた。
率が残せる張本を3番に据え、長打のある大杉を4番に据えた方が収まりが良かったのである。
この2人の3番4番コンビは非常に凶悪な並びであり、他球団を震え上がらせ、ファンからも大きな
人気を得る。
無骨な外見とは裏腹に、生来のロマンチスト。
ホームランを放ちダイヤモンドを一周すれば、投げキッスをしてぺこりと頭を下げて声援に応える。
全身で喜びを表現するどこかコミカルなその仕草は、ファンの心を掴みとっていた。
そして70年、大杉は例年以上に力を発揮し、タイトル争いにも参戦する。
大杉と熾烈なホームラン王争いを繰り広げたのは、この年南海ホークスのプレーイングマネージャーに
就任したばかりの野村克也である。
捕手でありながら68年まで8年連続ホームラン王、67年まで6年連続打点王に輝いたパリーグの最強打者。
前年怪我で大きく成績を落とした戦後初の三冠王の心には、タイトルを獲って復活を果たしたいと
期する思いがあった。 打点王のタイトルこそ事前に大杉がほぼ手中におさめ、趨勢は決していたが、ホームラン王争いは
最後まで熾烈だった。
抜きつ抜かれつを繰り返し、シーズン最終戦を残した段階で2人のホームランは42本と全く同じ。
しかしお互いに、共にタイトルを分け合おうという思いは微塵もなかった。
若い力とベテランのプライドが激突する。
そしてその結末は‥‥ “若き力”である、大杉に軍配が上がった。
最終戦で2本のホームランを放ち、最後の最後で野村を突き放し、単独でタイトルを獲得する。
初タイトルでありながらいきなりの二冠王という大活躍。
この時、大杉25歳であった。
翌年にも2年連続でホームラン王、2年後にも打点王に輝き、まさしくリーグを代表する打者に成長する。
ちなみに二冠王に輝いた年のアベレージも.339と非常に高いものであり、そういう意味では
三冠王を獲得してもおかしくない成績だった。
それを阻んだのは、他ならぬチームメイトの張本である。
大杉と野村は野手としてだけでなく、打者と捕手としてもライバル関係だった。
リーグを代表する選手同士の間柄でありながら、この2人には真剣勝負で中で生まれた、
どことなく喜劇じみたやりとりが残っている。 野村と言えば打者がバッターボックスに立った時に色々と囁き集中力を削ぐ、
「ささやき戦術」の使い手である。
他にもこの手の戦術を使う捕手はいたが、野村の場合は恫喝、独り言、雑談、プライベートなものまで
内容が多岐に渡り、野村自身、対戦選手ごとに通用しそうなネタをメモに書き残していたという。
野村の囁きには、無視しろと指導しても、それを徹底できないほどの巧さと狡猾さがあったのである。
当然、主力打者である大杉もそのターゲットとなった。
大杉に対しては、審判と雑談に興じて集中力を乱すというものだったのであり、この時も
主審の田川豊に話しかけていたのだが‥‥
邪魔をするなと言わんばかりに、大杉は10歳も年上である野村を「うるせえ!」と怒鳴り飛ばしたのである。
縦社会であるプロ野球において、世代が下の選手が上の選手を怒鳴るということはまったく異例の
出来事であった。 その打席は三振に打ち取ったものの、野村にはこれが余程強く印象に残ったのだろう。
当時から40年以上経った今でも、このエピソードを自著にて頻繁に紹介している。
ちなみに後日談では・・・
大杉「ノムさん、うるせえなんていってませんよ。
あの時、ワシはうるさいっていったんですよ
先輩にそんな失礼な口利くわけないじゃないですか」
野村「俺が怒ってんのは
そこじゃねぇ!!」
当人達は真剣そのものだったのだが、今では完全に笑い話である。 また野村がプレーイングマネージャーに就任して数年経った頃、オフに大杉からとてつもない量の
高級牛肉を贈られたことがあった。
野村と大杉は同じタイプのバットを使っていたため、せがまれて何本か譲ったこともあったが
その返礼にしては過大な上に、時期がずれ過ぎている。
大杉の意図がよく分からなかった。
OP戦で顔を合わせた際、その真意を尋ねると‥‥ 大杉「ノムさんが監督になった後、『南海は十分に肉も食べられない』という記事を見たんです」
大杉「ノムさんはワシが尊敬する先輩でホームラン王争いをするライバルです」
大杉「そういう人が肉に不自由してるなんていけないと思ったんです」
大杉「そんなんでワシがホームラン王を獲ってもフェアじゃないですよ」
正々堂々と戦った上で、ライバルである野村に勝ちたいからこその気遣いであった。
豪快でありながら、人間味溢れる大杉の人柄を表しているエピソードである。 しかしそんな大杉も、フロントからは評価は高いものでは無かった。
張本と共にチームを牽引していたものの、大杉がレギュラー定着以降
肝心のチーム成績は低空飛行を続け、Bクラスが常であった。
その責任は、中心打者である大杉にもあると見られていたのだ。
打撃の求道者といえば聞こえはいいが、張本共々チームバッティングに徹する気持ちは
頭になく、狙うのは常にホームラン。
71年には5者連続ホームランの大記録に一役買うなど、相変わらずファンからの人気は
絶大であったが、「チーム打撃を怠る者は制裁」と罰金制度を設けられても意に介さない。
首脳陣からもその性格は、扱い辛いものがあった。 73年オフに親会社が日本ハムへと変わり、代表取締役兼球団社長として魔術師・三原脩が就任。
三原は東映時代の粗っぽい野球から脱却しようと、トレードによる選手の入れ替えを積極的に行うようになる。
迎えた翌74年、日本ハムはこの年もBクラス、しかも最下位に沈んでしまう。
新たな船出を飾れず、泥船での出港となったファイターズの姿に、三原は危機感を募らせた。
そして、その年のオフ‥‥ 大杉は、電話越しにヤクルトスワローズへのトレードを通告される。
球団正式発表の僅か1時間前のことであり、大杉ほどの主力選手にに直接会ってではなく
電話で伝えるというのは、異例なことであった。 そこには三原と大杉の折り合いの悪さもあったが、それだけが理由では無い。
この年の大杉はホームランと打点はそれなりの数字を残していたものの、打率が.240を割り込み
期待を大きく裏切ったシーズンであった。
守備と走塁に元々難がある選手が、打撃でも結果を残せないのでは‥‥と、三原は放出に
踏み切ったのである。
東映〜日拓〜日本ハムに在籍した10年間で1171本のヒット、287本のアーチを掛けた打者は、
トレードという形でチームを去ることとなったのである。 移籍した75年も、大杉の打棒は復活しなかった。
ヤクルトでの徹底したダウンスイング指導は大杉の打撃スタイルには合わず、
前年以上に成績を落としてしまう。
だが、この男はどこまでも求道者だった。
練習以外にこの低迷の脱却は無いと結論付けると、一心不乱にバットを振り続けた。
秋季キャンプからオフの間まで、毎日1000スイング以上の打撃練習を敢行。
とり憑かれた様にバットを振り続ける姿には、チームメイトも恐れ慄くほどであったという。 おちんちんびろ〜〜〜ん
まで読んだ
おちんちんびろ〜〜〜ん
まで読んだ しかし翌年開幕すると、病気に倒れた母親の看病のために出遅れ代打での出場が
メインとなる。
調整不足を懸念した首脳陣の判断であったが、レギュラーを外されたと感じた大杉は
大いに不満と怒りを抱えていた。
そしてここからが、男・大杉の真骨頂であった。 3打席連続で代打ホームランを放つなど、東映時代全盛期を彷彿とさせる豪快な当たりを連発し、
間もなくレギュラーの座に返り咲く。
トレードで放出され、レギュラーも外された悔しさをバネに、大杉はこの年輝きを取り戻すのである。
5年ぶりに打率を3割に乗せると、本塁打29本、93打点と前年の倍以上、また倍近い数字を記録。
ヤクルトに移ってからは5番を打つことがほとんどだったが、シーズン終盤には4番の座を奪還。
翌年にも打率.329、31本、104打点と堂々たる成績を残す。 ところで、大杉を語る上でもう一つ、欠かせないエピソードがある。
腕っぷしが強く、暴れん坊でもあった大杉は「球界一喧嘩が強い」という噂があった。
東映時代の70年、2塁ベース上で西鉄ライオンズの暴れん坊外国人カール・ボレスと交錯した時に
小競り合いとなってしまい、右ストレートをボレスの顔面にぶち込み一撃でKOしてしまう。
本来なら一発退場ものの行為であったが、この時のパンチはあまりにも速く、傍にいた2塁塁審は
「殴っているかどうか見えなかった。見えなかったのに退場を宣告するわけにはいかない」と、
お咎めなしの裁定を下している。
(ちなみに、後日にはちゃんとボレスに謝罪している)
ヤクルト時代の78年には、自軍の投手である鈴木康二朗が巨人のシピンに死球を当ててしまい
乱闘沙汰となるが、大杉はこの時鈴木に突進するシピンの前に立ちはだかり、豪快に投げ飛ばしている。
ちなみにこの時、勢いのあまりあのミスターこと長嶋茂雄を殴り飛ばしており、大杉はプロ野球史上唯一、
「公式の場で長嶋茂雄を殴った男」でもある。
(なお、大杉は長嶋を殴ったことは覚えていない模様)
他にも「死球を当てられたら、そのボールを拾い全力で投手に向かって投げつける」
「同じく死球を当てられ、バットを持ったまま投手を追いかけまわす」「ファンに心ないヤジを飛ばされると、
ヤジが飛んだ方へ行き、フェンスを登って威嚇し返す」など、この手のエピソードにも事欠かない。
普段は心優しい性格であったが、試合となると豹変するのが大杉の特徴の一つでもあった。 そんな奔放な大杉も、77年にヘッドコーチであった広岡達郎が監督に就任すると、
変化が表れるようになる。
当時のプロ野球選手にとってやって当たり前だった麻雀、ゴルフ、花札の禁止。飲酒、喫煙の制限。
更に森祇晶をヘッドコーチとして招聘し選手を監視させるなど、「管理野球」の徹底化を図る。
家族主義であり、自由さが売りでもあったヤクルトにあってこの方針は選手の反発も招いたが、
大杉にとっては広岡の理論は、大いに納得させられることであった
大杉の体調管理のために、食事のメニューに気を遣う妻の姿を見てきたからである。
若い頃には、自分の好きなメニューを妻が出さないと怒り狂い、その力でホームランを打ったりもしたが、
30半ばを迎えつつあっても身体のキレが落ちない理由は、妻の協力があってこそだと気付いていた。
決して馴れ合おうとせず、自身の野球理論に絶対の自信を持った新しい指揮官に、大杉は好感を抱いた。
広岡からは「走れない、守れない選手」とあまり高い評価を得られなかったものの、大杉は広岡のことを
「サムライ」と評し、終生慕い続けるのである。 そして78年、チームは快進撃を見せる。
勝利のための意識改革に成功した広岡率いるヤクルトスワローズは巨人との優勝争いを制し、
球団創立29年目で初のリーグ優勝を果たす。
開幕から129試合連続得点の新記録という、おまけつきであった。
大杉も主軸として打率.327、30本、97打点の成績を残し、チームの勝利に貢献。
この年の大杉はこれまでとは違い、追い込まれればヒットを、ランナーがいれば右打ちを狙うという
チームバッティングにも徹した。もちろんこれは、広岡の野球理論に触れたことによる産物であった。
その結果、チームも自身も初の優勝に美酒に酔うという、最高の瞬間を迎えることが出来たのだ。
15年の歳月をかけて初めての優勝経験、感無量の思いであった。 続く日本シリーズの相手は、上田利治率いる阪急ブレーブス。
前年まで3年連続日本一を達成している、当時12球団最強を誇った勇者軍団である。
下馬評は阪急圧倒的有利の予想であったが、初のリーグ優勝に続いて日本一の栄冠も目指す
ヤクルトは、底力を発揮し懸命に追いすがった。
戦績は3勝3敗と五分のまま、最終戦である第7戦を迎えることとなる。 そして大詰めを迎えた日本シリーズ最終戦の6回裏1アウトランナー無し。
1点リードした場面で、大杉がバッターボックスに入る。
足立光宏が投じたシュートを弾き返すと、打球はそのままレフトポール際へ軌跡を描き、
スタンドに突き刺さる。
レフトの線審が腕を大きく回し今の打球がホームランだと認定すると、スタジアムは大きく沸き上がり、
大杉も飛び跳ねながら喜びを露わにした。 しかしこの判定に、阪急の監督である上田が猛抗議を始める。
確かにレフトポールを巻いたか巻かないか、非常に微妙な当たりであり、そういう意味では上田の抗議は
当然と言えた。上田の「ポールの外側を通過した」という主張と、審判団の「ポールの真上を通過した」という
主張が真っ向からぶつかり合う。
しかし、日本シリーズ最終戦、この試合で1年間戦ってきた勝者が決まるという大一番という背景が、
普段以上に「しょうがない」「仕方ない」では済まされない空気を作り出してしまっていた。
審判団は頑として判定は間違っていないと主張したが、上田はなかなか引き下がらない。
それならばと上田は、せめてレフトの線審を変えるよう要望を出すが、審判団がルール上病気や負傷など
やむを得ない場合以外審判の交代はできないという野球規約の説明を行うと、上田は態度を再び硬化。
話は平行線をたどる。
当時コミッショナーであった金子鋭が見かねてグラウンドに降り、試合を再開するよう頭を下げる事態にまで
発展するが、上田はこれをも撥ね退けたという。
結局コミッショナー権限により、ホームランは認定され試合は再開されるが、この間の中断時間は1時間19分。
シリーズ史上最長中断時間として今も記録が残っており、球史に残る大事件であった。 この事態をただ見つめることしか出来なかった大杉は、ひたすら怒りを抱えていた。
大杉からすれば、自分のホームランにアヤをつけられたとしか思えなかった。
彼の中であの当たりは手に残った感触も含め完全無欠のホームランであり、文句を言われる筋合いは
無かったのである。
そしてこの球史に残る“大事件”は、大杉の手によって完結する。 8回裏、マウンドには前の回から登板している山田久志。
再びランナーなしの場面で、大杉に打席が回ってくる。
山田久志が渾身の力を込めて投じたストレート。
大杉はそれを待っていた。 打ち返した打球は、レフトスタンド中段に突き刺さる。
次の打席で、打ち直しだと言わんばかりの、今度こそ文句なしのホームラン。
男・大杉、意地の一振りだった。
このまま試合に勝利しヤクルトは紙吹雪が咲き乱れる中、球団初の日本一の栄冠を手にする。
広岡は就任2年目にして、28年間優勝に縁が無かったチームを栄光の先へと導いたのである。
そしてシリーズMVPを獲得したのは当然、この試合含め4本のホームランをかっ飛ばした大杉だった。
その場所が「月に向かって打て」という名言が生まれた後楽園球場であったのも、奇妙な縁であった。
後年、大杉と上田はこの時のホームランを題材に対談を行っている。
お互いに笑顔を湛え、終始和やかな雰囲気であったが、肝心のホームランの判定の部分に関しては、
これまたお互いに頑として譲らないのであった。 大杉はその後も、リーグを代表する打者としてその力を発揮し続ける。
優勝翌年にスランプに見舞われ調子を落とすと、妻は調子を崩し入院、娘もそれが理由で
いじめに遭うなど家族でトラブルに見舞われるが、その次の年には.301、21本、82打点の
数字を残し再び復活。
嬉しくて一人で笑い、嬉しくて一人で泣いた、そんな復活劇であった。
82年5月17日には、家族を球場に招き、その家族の目の前で通算450号ホームランを放ち、
共に歓喜の涙にくれた。
ここからの大杉は、記録ラッシュでもあった。
83年6月には史上初のセパ両リーグ1000本安打、その2ヶ月後には通算1500打点を達成し、
男はやがて伝説の強打者となっていく。 そしてその記録を達成した83年を最後に現役引退を表明。
不整脈を抱えるようになった身体、広岡がいなくなり再び巻き起こした上層部との対立、
そしてこの時妻が2度目の入院をしており、何より家族と共に時間を過ごしたいと、
大杉はバットを置く決意を固めた。
引退試合は翌84年の3月24日、本拠地神宮球場での巨人とのオープン戦であった。
最後の打席に向かう大打者に、ファンはおろか巨人ベンチも全員がスタンディングオベーションと
拍手で迎える。 パリーグで287本、セリーグで199本のアーチをかけてきた男の、最後の華舞台。
最終打席はサードへの併殺打。誰も成し遂げたことのない両リーグ200本塁打まで、結局あと1本
届かないままの引退となった。 『 さりし夢 神宮の杜に かすみ草 』。
引退会見で大杉が、自身のプロ野球生活を振り返り詠んだ一句である。 『体力的に、ヤクルトスワローズの4番の重責を
担うことをできないと知り、引退を決意致しました』
偉大な選手でありながら、これまでに達成した偉大な記録がことごとく他の話題の前に霞んでしまい、
目立って取り上げられることはなかった。史上初の両リーグ1000本安打も、同じ日に福本豊が盗塁数の
世界記録を樹立し、紙面のトップを飾ることはなかった。 『良き人との巡り合いに支えられ、ファンの皆様方の温かい声援に
後押しされた19年間だったと感謝致しております』
その不遇さを、かつてのライバル野村克也が己を月見草と表現したのにあやかり、
大杉もまた己をかすみ草と表現したのだ。
そんなかすみ草の花言葉は、「無邪気、魅力、夢見心地」である。 『最後に、我儘、気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました、
両リーグ200号本塁打』
通算成績2235試合、打率.287、486本塁打、1507打点。
ホームラン王2回、打点王2回、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞1回、
日本シリーズMVP1回、オールスターMVP1回。 2ちゃんの雑談スレで度を越した連続投稿は止めとけや >>329
「200号本塁打」、一番大事なそのあとの名言が抜けてるんだが 『この1本を、ファンの皆様の、夢の中で打たせていただきますれば、
これにすぐる喜びは、ございません』
引退セレモニーで最後に言い放った大杉の言葉は、今でも語り草となっている。 そして引退から8年後の1992年、4月30日。肝臓がんにより、大杉は47歳の若さでこの世を去る。
球界関係者にとっては突然の訃報であったが、4年4ヶ月間の闘病生活の末であったという。
闘病中の大杉の手記に残された、「無駄死にはしたくない。もう俺一人の人生じゃない」という走り書き。
引退してから増えた家族とともに映った記念写真。そしてそれを収めた大杉家のアルバムが、
その言葉を証明している。 あの78年以来、優勝から遠ざかっていたヤクルトスワローズは、この年再び輝きを取り戻す。
大杉の命日となったその日、正捕手である古田敦也は、豪快なホームランを放ち、偉大なる先輩に
弔砲を送り届けた。
そしてセリーグ史上屈指の激戦となったこの年のペナントレースを14年ぶりに制し、
ナインは歓喜の輪に包まれる。
その時、チームを率い歓喜の輪の中心にいたのは、あの大杉が最大のライバルと見定め、
尊敬していた野村克也であった。
そしてヤクルトの黄金時代は、ここから始まっていくこととなるのである。 大杉勝男。
誰よりも豪快で、誰よりもロマンチストだった生来のホームランアーティスト。
神宮の夜空には、その偉大なる打者の再来を待ち構えるように、今もなお月がこうこうと輝いている―――― 何がドヤ顔で
〜終〜
だよボケナス
指摘されてから書いてんじゃねーよ 本の受け売りをドヤ顔で連投する迷惑オナニー行為は止めましょうね 初記録
初出場:1965年4月20日、対南海ホークス1回戦(後楽園球場)、10回裏に坂崎一彦の代打として出場[要出典]
初安打:1965年5月9日、対阪急ブレーブス5回戦(後楽園球場)、9回裏に米田哲也から単打[要出典]
初打点:1965年5月13日、対西鉄ライオンズ4回戦(後楽園球場)、4回裏に井上善夫から[要出典]
初先発出場:1965年5月23日、対阪急ブレーブス8回戦(阪急西宮球場)、1番・右翼手として先発出場[要出典]
初本塁打:1965年9月11日、対東京オリオンズ22回戦(東京スタジアム)、2回表に迫田七郎からソロ[要出典]
節目の記録
100本塁打:1969年9月23日、対南海ホークス17回戦(大阪球場)、2回表に皆川睦雄からソロ ※史上54人目
150本塁打:1970年10月19日、対阪急ブレーブス25回戦(阪急西宮球場)、8回表に米田哲也から左越3ラン ※史上28人目
200本塁打:1972年5月13日、対ロッテオリオンズ4回戦(後楽園球場)、4回裏に木樽正明から左中間へソロ ※史上18人目
1000試合出場:1973年6月23日、対阪急ブレーブス前期11回戦(阪急西宮球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上166人目
1000本安打:1973年8月2日、対阪急ブレーブス後期3回戦(阪急西宮球場)、1回表に米田哲也から左越先制2ラン ※史上83人目
250本塁打:1973年8月9日、対南海ホークス後期3回戦(大阪球場)、8回表に村上雅則から左越3ラン ※史上10人目
300本塁打:1975年10月11日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)、7回表に佐伯和司から先制ソロ ※史上9人目
1000打点:1977年6月5日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、4回表に松本幸行から右前2点適時打 ※史上11人目
1500試合出場:1977年6月22日、対中日ドラゴンズ10回戦(明治神宮野球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上55人目
350本塁打:1977年8月11日、対大洋ホエールズ17回戦(明治神宮野球場)、1回裏に間柴茂有から左越3ラン ※史上8人目
1500本安打:1977年8月25日、対阪神タイガース21回戦(岡山県野球場)、1回表に益山性旭から左前適時打 ※史上33人目
3000塁打:1978年7月28日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤ球場)、8回表に松本幸行からソロ ※史上14人目
400本塁打:1979年7月28日、対中日ドラゴンズ14回戦(明治神宮野球場)、1回表に星野仙一から右越2ラン ※史上6人目
3500塁打:1980年10月19日、対中日ドラゴンズ23回戦(草薙球場)、5回裏に佐藤政夫から単打 ※史上10人目
1000三振:1981年5月2日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、8回表に小川邦和から ※史上7人目
2000本安打:1981年7月21日、対中日ドラゴンズ16回戦(ナゴヤ球場)、1回表に小松辰雄から左中間へ先制適時二塁打 ※史上14人目
2000試合出場:1981年7月31日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上16人目
450本塁打:1982年5月11日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(横浜スタジアム)、6回表に遠藤一彦から左越逆転決勝3ラン ※史上5人目
300二塁打:1982年8月19日、対中日ドラゴンズ16回戦(明治神宮野球場)、3回裏に中田宗男から左翼線二塁打 ※史上22人目
4000塁打:1983年8月4日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、3回表に津田恒実から左中間へ2ラン ※史上7人目
1500打点:1983年8月21日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、6回裏に池谷公二郎から左越2ラン ※史上5人目
その他の記録
オールスターゲーム出場:8回 (1967年、1969年、1970年、1972年 - 1974年、1977年、1981年) ※但し選出は9回(1980年は風邪のため辞退)
オールスターゲームで満塁本塁打(1967年第3戦)※史上2人目
6試合連続本塁打:1973年10月2日 - 10月9日 ※パ・リーグタイ記録
5試合連続本塁打:1969年6月20日 - 6月26日
月間本塁打15本:1972年5月
シーズンサヨナラ安打:5 (1969年) ※プロ野球タイ記録
シーズンサヨナラ本塁打:3 (1969年) ※パ・リーグタイ記録
シーズン最多犠飛:15 (1970年)※プロ野球記録
日本シリーズ4本塁打:1978年 ※シリーズタイ記録
日本シリーズ10打点:1978年 ※シリーズ記録
40本塁打3回(3年連続)
30本塁打8回(6年連続)
100打点4回(3年連続)
80打点12回(8年連続)
セ・パ両リーグ1000本安打:1983年6月3日 、対中日ドラゴンズ19回戦(明治神宮野球場)、4回裏に鈴木孝政から左前安打 ※史上初
セ・パ両リーグ1000試合出場:1983年 ※史上初
セ・パ両リーグ2試合5本塁打:1970年8月6日阪急戦3本・8日南海戦2本、1983年6月17日阪神戦2本・18日阪神戦3本
890試合連続出場:1968年9月21日 - 1975年8月20日 露骨な他サイトの宣伝も止めましょうね
宣伝には対価が発生しますよ ^
大杉の
日本シリーズのホームラン
あれは絶対ファウルやで
上田利治 >>347
上田さん
我が家のビデオでは
ホームランだ
大杉勝男 数年前、Youtubeに大杉が亡くなった日(?)のプロ野球ニュースがうpされてて
司会の中井美穂と大矢が号泣してたんだが、誰かもう一回うpして 張本・山崎・清原、ドンとかかってらっしゃい!
日本人プロ野球選手「喧嘩最強」のタイトルを5年連続で
取れる程腕っぷしには自信があった男が大杉だった。
あれはファールだろう。。。 「1に張本、2に大杉。
ブービーメーカー白仁天!」
by大杉勝男 >>349 引退時に出演したプロ野球ニュースにて
佐々木「打った瞬間はどうだったんですか?」
大杉「ポールに向かっていくボールが、ゴルフで言うフックボールに見えたんですね」
佐々木「左に切れていくと。それで?」
大杉「で、僕はポールを巻いたというふうに、ボックスの中から見たんですけどね」
佐々木「ポールを巻いたと…」
佐々木「これですね、これこれ!」
(VTRに流れる不鮮明なポール付近の映像)
大杉「(一段と大きな声で)巻いてますね!!」
佐々木「う〜ん(沈黙)…、審判が決めることですからねぇ」 川上ジャイアンツしか達成してない
4年連続日本一がかかってたんだから、抗議するわな 大砲・大杉勝男が中距離打者という話 「悪いけど笑ってしまう」
昨日、コメントでもありましたが
日本プロ野球屈指の大砲 大杉勝男氏が
「中距離のイメージ」 という内容。
オレはかつて、こういう記事を書いたと思います。
http://ameblo.jp/miumalovely/entry-11887345251.html
日本プロ野球80年の歴史で
7000打数以上を消化しながら、本塁打率16未満を維持した打者は
たったの7人しか存在していません。
王、野村、清原、落合、大杉、門田、山本(順不同)
・・・中距離(らしい)大杉氏も入っています。
本塁打率ってのは
「ホームラン1本打つために何打数必要か」
のペース(能力)を調べたものです。
上の打者7人は、130試合制の打者たちです。
単純に、1試合4打数あるとして
130試合フル出場したとすれば、打数は520打数。
15打数に1本打てるので
520/15=35
大方、40発近く打てる力がある打者ということになります。 130試合制で40発近く打てる打者を
中距離って言うか????
打数を上げるために、メジャーリーグの162試合で考えて見ましょうか???
162試合・4=648打数
648/15=43.2
メジャーリーグの162試合換算だと
本塁打率15の打者は、43本打てるということになります。
今、メジャーリーグで40発以上打てる打者ってどれくらいいるの??
印象ってのは確かに誰しも持つものだと思いますが
こういう大杉氏のような大砲を中距離の印象で持つってのは余程のこと。
どこで大杉氏をそういう印象で持ってしまったのか
持った人の行動(過程)に興味がある(悪い意味で)
まあ、おそらく、以前にも書いたと思うが
ヤクルト時代の移籍時のスランプと
30本台が2回しかない という表面上の印象が強い
というものだと思いますが。
http://ameblo.jp/miumalovely/entry-11922783496.html 外国人選手で例えば中日のパウエルなんてえのは本塁打率だけを見れば中距離打者だが、
いざフルスイングで本塁打を打ったときはバカみたいに飛ばしてた。
一方本塁打王2回の山内は「とにかくフェンスを超えればいい」って発想。
落合に言わせりゃ王だって「本塁打の打てる中距離打者」。
長距離・中距離で打者の優劣を決めるのはいかがなものかと。 >>350
大矢は目が真っ赤だったけど、中井は全然泣いてないし、
目も赤くなってなかったぞ。泣き顔を作って原稿読んでただけ。
徳光がよくやる「嘘泣き」でした。 日本三大嘘泣き名人
・松田聖子
・中井美穂
・徳光和夫
「一滴も目から水分を出さず、顔を歪めるだけ」
まさに名人芸 打てば併殺走れば鈍足守ればどよめきが上がる、そんな程度の選手 東映時代、張本もいたのになぜ優勝と縁が無かったのかと思ったが
記録を見ると当時の東映って張本・大杉・白のクリーンアップ以外は
とにかく打てない選手ばっか並んでるのな。 >>366お前はどんなに時代に恵まれようが、最高の環境が整おうが何ひとつ成し遂げられない駄目人間だな。その証拠にお前の顔と名前を晒したとしても誰もお前のことなんか知らないだろ(正真正銘の動かせない真実)。 >>365
打線だけなら阪急やロッテの方が巨力だし
投手力は近鉄がずば抜けてる たしかに凄い選手だけど長らく2chで高評価を得てるのはなぜなんだ
王すらをも越える最強打者という話をよく聞いたぞ なんか気持ち悪い断定で否定されたわw
客観的に物事見れない奴はこれだからやだねぇ。キャリアを見返して、現在より条件がいいか悪いかくらいよくよく考えなさい。
最強打者?上に貼ってある低レベルブログが唱えてるくらいで他に見ねーよ。まぁそいつを否定する意味で時代に恵まれたと書いてるだけだけどな 大杉が両リーグでのベストナインを獲っていないのが意外と言えば意外。選ばれても不思議で無い数字ながら、王と首位打者の谷沢、藤田に阻まれた。 王よりも明らかに成績のよかった大島が
ベストナインを獲れなかった年もあったんだからね! >>369
どこで大杉が王をも越える最強打者という話をよく聞いたんだ?
2chに無理やりの高評価をレスしていた無職のおっさん、打点糞が一人で喚いていただけだぞ
その打点糞はコイツな→http://goo.gl/MtGNjb >>369
若くして亡くなった有名人が過大評価されるのはどこの世界にもよくあること NPO誇大広告ハローワーク指導員バイトレベル
NOPハローワーク指導員(40代千本ノック)
NOPハローワーク指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題) この人は愛妻家のイメージがあるな〜
いかにも昭和のお母さんっていう感じの奥さんって元気なんかね?
あとこの人と言えばキッスね。 ホームランバッターはスタンドインさせる技術を持っている説
もちろんパワーも必要だが、それ以上にパワーを生かす技術が必要なんじゃね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています