数学を理解するのに証明をなぜ読む必要があるのか?
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証明は読まずに結果だけ受け入れるという方法は通じないのでしょうか? >>17
昔のイタリア学派のレベルは異常なまでに高いぞ
念のため >>23
今では多く間違いがあったことが分かっているし、
そもそも証明できてない時点でレベルは一段落ちる もう一度書くけどイタリア学派が今いたら確実にリジェクトされまくる
それでレベル高いは無理だろう 間違いがあるからレベルが低いって松阪君並みの知性だな >間違いがあるから
間違いがあってそもそも証明もできてないし今ならリジェクトもされる、と書いてる
>レベルが低いって
低いとは一言も書いてない >>15
学校のテストで十分な点数を稼げているのなら、証明を読み理解することの必要性に疑問を感じる内容の書き込みも頷けます。文系に進むのなら無理に読む必要がはないかと思います
しかし、進路を理数系にするのなら証明を読むだけでなく、書けて、理解する必要があります。さらに、数学的見方、考え方といった数学的思考を身に付けるのであれば必要といえます >>30
数学者にならない、数学は使うだけ、というなら
無理に読ませることないんじゃね?
頭悪くて理解できないって降参してんだから 自分の尊敬する先生は、1日に1つは証明を読むと
おっしゃっていた。優れた証明を見ると感動する
とのことだった。やられたっ、というような感じ
らしい。そして、その感動した部分を身につけて、
自分の論文に活かすのだ。証明を読む、すなわち、
論文を読むのが、数学ができるようになる基本だ。
証明を読まない人に証明を書くのは難しいと思う。 証明を読まずに結果だけ受け入れる、というスタイルでも定理の使い方にさえ習熟していれば数学者としてやっていけるんじゃないか
むしろ真面目に証明を読んでるやつに比べてかなり高速に先の方まで進むことができる可能性もある
ただそれは数学をやっていると言えるのか?
「この定理は真である」と言って「じゃあ真であることを証明してください」と言われてもできないなんて むしろ、証明を読まずに使いこなせるようになるのにはどうすればいいか分からん
例えばリーマンロッホの定理を使いこなせる人は、そもそも標準因子の定義とか性質もきちんと理解していて、それだったら結局リーマンロッホの定理の証明も苦労なく理解できるんじゃないか?(俺はどちらも出来ないが) ウィッテンはそのやり方でフィールズ賞を獲った
証明を丁寧に追う方が感覚で良い結果を出すより容易だから証明を読む 欲しい結果のために既存の定理Aを使おうとしたけど微妙に適用範囲外で、
定理Aの証明を読んで障害となっている部分を特定して証明ごと改良したら
欲しい結果に到達できた(当然ながらこの過程で定理Aが少し拡張できている)、
・・・という経験はある。
証明を読まず結果だけ受け入れるスタイルだったら、
「定理Aは適用できない」で終わってしまい、先に進めなかったはず。少なくとも、
「定理Aの証明を読んで理解すれば定理Aの拡張のチャンスにありつけた」
という機会を自ら放棄していたことになる。 >>37
大抵の場合、別の文献にその拡張された結果が載っている。 >>38
拡張された結果が既に存在していて車輪の再発明に過ぎなかったのだとしても、
話の本質は変わらない。
初めてその拡張に到達した人間は、定理Aの証明を読んで理解した上で拡張に到達したわけで、
人類全員が証明を読まず結果だけ受け入れるスタイルだったら、「定理Aは適用できない」で
全滅してしまい、未だに定理Aは誰も拡張してなかったということになる。
その場合、他の人を出し抜いて定理Aの証明を読んで理解した人間が初めて定理Aの拡張にありつける。
つまり、証明を読まず結果だけ受け入れるスタイルだったら、
結局は「拡張のチャンスにありつけた」という機会を自ら放棄することになる。
「大抵の場合は車輪の再発明だから、証明など気にせず定理のユーザーに徹していればよい」
などと思っていると、将来的に訪れるかもしれない本当のチャンスまで失ってしまう。 >>39
数学の研究をしてるレベルの話ではないでしょ 念のため言っておくと、本を書くとき定理を最も一般的な条件で述べるより、読者に配慮して条件を狭めた形で述べることが多い。 >>37
数学科の学生でも
A君「したがって定理Xから、このようなことが示せます。」
先生「A君、その定理Xの証明ってどうやるの?」
A君「え・・・・」
みたいなことはあるよな。
ID:yMHTp3H6氏は>>41で「数学の研究をしてるレベルの話ではないでしょ」
と書いているが、少なくとも>>36を見る限り、数学の研究ベースの話だと
思われても仕方がないかな。 定理の証明を自作しなければならない人は、他人が定理の証明をどのようにして
作っているのかを知ってそれを学ぶことが有益であり、ほぼ必須だ。
定理を利用するだけの人であれば、定理の前提を正しく知って他人の証明を信じて
それを適用すること自体はOKだが、自分用に定理をカスタマイズして利用しようと
すると、前提が違えば正しくない結論になるかもしれないから、証明の中身を調べて
前提を変えた時にいつ結果が正しくないか、あるいは結果をどう修正して適用
すれば良いかを考えなければならなくなるだろう。
Pythonで書かれたライブラリやモジュールを便利にブラックボックスとして
使っていて、中身が正しいかどうかは知らずとも自分の望むような結果が
出たら、普通の人はその正しさを証明することもなくその結果を受け入れる。
しかし、意図した結果が得られなかったときには、ライブラリやモジュール
の利用上の前提を満たしていない場合でないかどうかを調べたり、
場合によってはライブラリ・モジュールの中にバグがあるかもしれないと
思って、他のライブラリや言語に手を出すか、あるいは真面目に
ライブラリのソースを読むことが必要になるかもしれない。
もちろんライブラリやモジュールが完全に正しく書かれていても、
計算機システムのハード・ソフトは欠陥がさまざまなところに含まれうるものだ。
数学だって、積み上げた証明の中にバグがある可能性は皆無ではないだろう。 >>1の「数学を理解するのに証明を追う必要があるか」という問いだが
以下のように考える
文系および「数学科を除いた」理系の人は「証明を追う必要はない」だね。
ただし、数学を専攻する学生であれば、以下のように考えるね。
数百ページにもわたるような証明なら、「証明を追わないでで結果だけ」
というのもわからないではない。
しかし、引用もなく数行で終わるような証明であれば、とっとと理解して
しまった方がいいのでは、数学科の学部生がやるようなレベルの定理って、
「その定理を理解できるだけの力があるのかどうが」が試されているのだから。
少なくとも「この定理の証明はどうやるの?」と突っ込まれた時の対策は
しておいた方がいいと思う。 自動車を乗り回すだけの人は、エンジンの構造、動力伝達系、制御システム、
などを知る必要は無い。如何に自動車を操縦するか、その操縦法や操縦による
自動車の動作についてだけ判れば良い。
そういう観点からすると、現在の普通に流通している数学書は、
内部に拘りすぎていて、数学者になる人のためあるいは、かなり数学の中身に
関わりを必要とすると考える人の為の本ばかりだ。
構築された理論や定理を単に知ってあるいは使って、何か数学自身じゃない
ことをしようとする人向けには、まったく違う書き方をされた書物が
あるべきではなかろうか? つまり理論の筋道の解説と、そこで必要となる
定理の前提と結果を並べたような本で、もしも証明が必要ならXXXをみよとか
あるいはWebでURLをアクセスすると読めるみたいな。
とくに、通常の数学書のように、目的・目標や動機を一切語らずに
いきなり用語と定義が持ち出されて、命題(定理や補題)を
論理を繫いでいって、これこれの結果が得られるといって示す。
しかしその定理や補題も何のために持ち出したのかが読者には不明。
それがどんどんと続いて、本の終わりまでそれで進む。
結局何をしようとしているのか、何のためにやっているのか、
そういう真の動機や目的を隠して、ひたすら厳密であることだけを目指して、
演じている。そうして既に出来あがっているスタイル・流儀、型を守る
一種の古典芸能(能や歌舞伎のような) の演目のような性格を帯びて
いるのが今の数学書だろう。数学者が数学者養成の為に書く本なら
それでもいいだろうが、それ以外の分野や大衆向けには、違うアプローチが
あって良いと思うのだ。オーケストラの音楽を聴くほとんどの人は
使われている楽器のほとんどを演奏などできないし、譜面すら読めないのが
普通だろう。日常会話を獲得した小学生は文法を知らずに喋り、聞き、理解して
いる。もちろん文法的には正しくない発話を平気でしているが、概ねよしだ。
一言たりとも間違いがあってはならないといったとたんに、喋る行為は
思いとどまられてしまい、会話は死ぬね。 >>46
>まったく違う書き方をされた書物があるべきではなかろうか?
全く現実に即していないと思うが。
普通の書店で売られている数学書は、むしろ数学の専門書と違う観点のもの方が
圧倒的に多い。むしろ数学者の専門家向けの本の方が圧倒的に少ない。
数学的に厳密に書かれた本なぞ、数学の専門家か一部数学マニア以外の
需要はないからな。 以前は丸善や紀伊国屋には
SpringerのGrundlehreが並んでいたものだが >>46
ブルバキ数学史をOEDみたく参照できない程度の実務能力しか感じられない。 証明を書いた本がどこかにあることを知っているだけでなく
その気になればいつでも読める証明が手近にあるということが
数学を考える上で必要ではないか まぁ科学ってのは誰がやっても同じ結果になるべきだからそれが理想だよな
実際には読んでも頭がいいやつしか理解できない証明があちこちにある ハーツホーンなんて、証明を理解する本じゃなくて演習問題に慣れる本と言っても過言ではない 証明が読めたからと言って
理解できたことにはならない。
当たり前だ。
しかし、証明が読めないなら論外。
話にならない。 >>56
いまいち既存の証明が読み取れないから
自分で別証明つけてみた
というタイプがいちばん研究には才能がある
ただし教育に向いてるかは別。 代数幾何学者はハーツホーンに載ってる命題の証明を理解しているかというと、実はそうでもない気もする 一体どのくらいの人がπの超越性の証明を読んだことあるんでしょうか
有限単純群の分類に至っては最初から最後まで証明をフォローした人は果たして一人でもいるんでしょうかね 一般のケーリーハミルトン定理証明の難解さ、やばいな。 >>59
証明を読んでみようという気になるかどうか
実際に読んだら「なんだそんなことか」という感じになると思うよ 公式は証明できるようにしろ!の方針で勉強し直した。中学数学の円周角の定理も自力公式証明できてなかった。 >>63
選択公理による整列定理の証明がそんな感じだった Xを集合とする.Xが整列可能である事を示す.
順序数λで,¬|λ|≦|X| となるものを取る.
選択公理を A := P(X)\{ ∅ } に適用して,
選択関数 f: A→X を得る.Xに含まれない元 ∞ ∉ X を用意して,
f( ∅ ) := ∞ と定義することで f を f: P(X)→X∪{∞} に拡張しておく.
写像 g:λ→X∪{∞} を
g(α ) := f( X\{g(β)|β<α} )
で定義する.α, β<λに対して,g(α)=g(β)≠∞ならば,α=βである.
β<αであるとする.g(α)≠∞だから,選択関数 f の性質より
g(α) = f(X\{g(β)|β<α}) ∈ X\{g(β)|β<α} となる.
即ち g(α) ∉ { g(β) | β<α } だから g(α)≠g(β) である.
よって,もし g(α) = ∞ となるα<λが存在しなければ,
g:λ→X は単射となる.これは ¬|λ|≦|X| に矛盾する.
故に g(α) = ∞ となる α<λ は存在する.
そこで γ := min{ α<λ | g(α)=∞ }と置く.
このときg|γ:γ→X は全単射である. Xを集合とする.Xが整列可能である事を示す.
順序数λで,¬|λ|≦|X| となるものを取る.
選択公理を A := P(X)\{ ∅ } に適用して,
選択関数 f: A→X を得る.Xに含まれない元 ∞ ∉ X を用意して,
f( ∅ ) := ∞ と定義することで f を f: P(X)→X∪{∞} に拡張しておく.
写像 g:λ→X∪{∞} を
g(α ) := f( X\{g(β)|β<α} )
で定義する.α, β<λに対して,g(α)=g(β)≠∞ならば,α=βである.
β<αであるとする.g(α)≠∞だから,選択関数 f の性質より
g(α) = f(X\{g(β)|β<α}) ∈ X\{g(β)|β<α} となる.
即ち g(α) ∉ { g(β) | β<α } だから g(α)≠g(β) である.
続く よって,もし g(α) = ∞ となるα<λが存在しなければ,g:λ→X は単射となる.
これは ¬|λ|≦|X| に矛盾する.故に g(α) = ∞ となる α<λ は存在する.
そこで γ := min{ α<λ | g(α)=∞ }と置く.このときg|γ:γ→X は全単射である.
∞ = g(γ) = f( X\{g(β)|β<γ} )だから,X\{g(β)|β<γ} = ∅,つまりg|γは全射でなければならない.単射性は先に示したことから明らか.
よってこれによりXを整列する事ができる. 今朝読んだ定理は
証明法は昔の論文の焼き直しであろうと
想像がついたが
結論の式が複雑だったので
簡単な場合に計算してみた。
するとその式が非常に正確であることが確認できたので
定理の内容がやっとわかったような気がした。 「Xに含まれない元 ∞ ∉ X を用意して,
f( ∅ ) := ∞ と定義することで f を f: P(X)→X∪{∞} に拡張しておく.」
これで読む気なくした
関数や写像の意味を理解してないだろ
書籍化されてるのがマジ不思議 「書籍化されてる」と書いたが個人出版か
なるほど色々察した 「Xに含まれない元 ∞ ∉ X を用意して,
f( ∅ ) := ∞ と定義することで f を f: P(X)→X∪{∞} に拡張しておく.」
これにケチをつける余地がどこにあるか 空写像と空集合を何かに対応させる写像との違いがわかってないんだろう
ただそうすると空集合と空集合からなる一点集合の違いもわかってなさそう 定義域の部分集合Aの像をf(A)と書く場合のf({})={}とごっちゃにしたか. 順序数に絶対値記号を付けてるの馬鹿丸出し
ちっとは真面目に勉強しろw 定理の言明が「これは何だ!」と言う形をしていて
その証明が「それはそうだろう」という平凡な補題から
論理と計算を積み上げて成り立っているものだと
確認できたとき
数学を勉強したという実感を覚える ケーリーハミルトンの定理をもっともエレガントに証明するのはどうやるの? >>1
インジャね?
ただ突っ込まれたとき答えられないのはさすがに・・・・ 歴史的には化学は原子、せいぜい原子核と電子までの存在だけを理解し仮定すれば
それでよくて、それよりも下側の階層である原子核の内部構造とか陽子や中性子や
素粒子の理論そのものについてはあまり考えずに議論ができる。
流体や弾性体の力学も原子以下のことを考える必要はないだろう。
それと同じように、数学もある階層から下側の論理や証明は考えなくても、
ある階層から上側が満たす性質だけを知って、議論や展開をするような
わけに行かないものだろうか。つまりカプセル化、遮蔽だな。
数学基礎論とそれ以外の数学の関係がそのようなものなのかもしれないが。 物理・天文学とかではステファンボルツマンの法則のように観測結果から関係性を見つけることができれば、物理学者は仕事を果たしたということになる。
なぜエネルギー・恒星温度が絶対温度の4乗に比例するのかが、わからなくても温度から恒星光度等を推定できれば、めでたしめでたし。
なぜ?を解明するのは数学者数理物理学者の仕事。無論wikiによると熱力学から理論的に解明されているが。 積の微分公式証明は、ライプニッツの方式がわかりやすいな。教科書的な証明は同じものを足して引くとか、思いつきようがないし。もっとも、その手順自体ライプニッツ方式から後付けしたんだろうけど。 複素関数は4次元見えないから公式の本質わからなよな。もっとも複素数自体イメージしにくいが。 >>94
>>複素関数は4次元見えないから公式の本質わからなよな。
視覚が感覚のすべてだったらその通りかもしれない
>>もっとも複素数自体イメージしにくいが。
実数ならイメージできている? >>96
>>複素関数は4次元見えないから公式の本質わからなよな。
>>もっとも複素数自体イメージしにくいが。
つまらない難癖だということを納得させる必要がある。 多くの専門家が受け入れられない証明を
信用せよというPRIMSの偏執部 そういうときには
ショルツでなくショルツェと呼ばれるだろう 機体トラブルで酸欠状態に
僅か10分しかなく、必死で家族が待つ地球へ戻ろうとする様を描いています。
想像してみてください。//youtu.be/oWs3yvVADVg f(x)とg(x)が非可換であるとき、
それらの積であるf(x)g(x)の微分の公式を導きなさい(配点5点)。
f(x)とg(x)とh(x)が可換でなく、結合的でもないとき、
それらの積であるf(x)g(x)h(x)の微分の公式を導きなさい。(配点5点) 結合的でないのにf(x)g(x)h(x)と書くのがダメ 微分環の話ならライプニッツ則は導くものではなく定義そのものだしね 式が工夫してあって
短い計算で読めるようになっている論文は
実は曲者 フェセンコ・加藤の記者会見は
新聞でどう報道されたのだろうか 初等集合論とか図に書いて理解したほうがいいな。論理式暗記では記号論理が暗記的になるし。 自分が書く論文で使う過去の結果の証明を仮に読まないとして
その正しさはどうやって担保するのという疑問があるんだけど
偉い先生が出したかどうかなんて何の説得力もないわけだし
直感的に明らかそうにみえて実は違ったなんてことになったら
全てが瓦解するわけだし 自分が論文を書くときは
使う定理の証明は基本的には全部読んでいる
だから
広中の特異点解消定理はなるべく使わない 証明が分かるためには
論文の一部を読むだけで
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